Saturday, December 31, 2005

あと一周

歩いて3分のところに住んでいる両親のところへ家族で晩飯を食べに行った。カニをどこかから送ってきたのでそれを食べに来いという口実だった。プライドとK-1を見ながら食べることになった。どちらも当初の生々しさがなくなって実につまらない。他にたいした番組もないので救われているのだろうと思う。

年が明けてから、家に帰ることにした。近所にある神社に行ってみようということで親子四人で歩いていった。これも家から歩いて3分くらいのところにあるのだが、少し奥まったところにあるので、家族も両親も誰も知らなかった。僕は夜明けに一人で散歩がてら、近所をかなり探検していてこの界隈の地理には結構詳しくなっている。

神社には焚き火をしているじいさん・ばあさんがいて、参拝する人にお神酒とおつまみを配っていた。息子二人に小銭を渡してお賽銭箱に入れることを教えた。こういうところに来るのは妻も子どもも始めてだったのでまったく要領が分からずきょとんとしていた。なんでお酒をくれるの?なんでお菓子をくれるの?なんでお祈りするの?・・・・・・・

焚き火と神社の建物が興味深いらしく、上の息子はしばらく観察した後、忍者が住んでいたところかと訊く。忍者とか侍がいた頃からあった建物だと言うと、かなり満足気な顔をしていた。神社の由来を書いたものがあったので、読んでみると起源は13世紀まで遡るらしい。それを説明すると、妻も感嘆して、これは絶対におじいちゃんとおばあちゃんにも教えなければいけないと、言っていた。まあ、こんなものどこにでもあるんだけど、とはもちろん言わなかった。

家に帰って年越しそばを作ったら、もう何も食べれないくらいお腹一杯だったはずの子ども二人がまたちゃんと食べきったので驚いた。慣れない夜更かしをするとお腹がすくのだろうか。今年は戌年か。あと一周で還暦だ。なんと凡庸な一生なことかと思うと戦慄が走る。夢もロマンも必要なくなったが、せめて子どもが高校を卒業するまでは生き延びたいものだ。

Friday, December 30, 2005

冬のバーベキュー

二人の息子を連れて100円ショップへ行った。テレビのお絵かき番組でやってた押し絵とやらを上の子がやりたいというので画用紙と絵の具などを買いに行ったのだ。ついでに紙ねんども買った。家に帰ると、いきなり紙ねんどでの遊びが始まり、絵の具と画用紙のことは忘れたみたいだ。なんとか遊び場を一箇所に集中させようとしたが、その努力もむなしく半時間もすれば家中、紙ねんどだらけになっていた。案の定、妻は怒り狂う。夕方にアナ・カリナ母子が遊びに来るので朝の間に掃除したところだったのだ。怒るのもやむなしか。

その後、下の子が昼寝を始めたので、上の子と二人で今晩のバーベキューの材料を買いに業務スーパーへ買い物に行った。このくそ寒い冬にバーベキューは成立するのかという懸念もあったが、アナはここのバルコニーでするバーベキューが好きだと妻が言うので、そういうことになった。

業務スーパーというところは、卸売り市場のようなところなので、大量に食料品を買う人にとっては、格安でよいのだが、少量しか必要のない一般家庭の人には無駄な買い物になってしまいかねない店だ。「漬物」とか「冷凍焼き鳥」とか「つぶあん」とかなんでも1キロ単位で売っている。安いのだが、普通の核家族なら全部食べる前にダメになってしまうだろう。

バーベキューにする牛肉もスライスした手ごろな量のものがなかったので、1キロのかたまりを買った。必要な分だけ家でスライスして残れば冷凍にしておこうと思ったのだ。野菜はほとんど家にあったので、中国産のしいたけだけ買った。これも1キロだ。もやしキムチも1キロ買った。子ども用のソーセージ、自分用のトリ皮なども買った。

6時頃にアナとカリナがやってきて、バーベキュー・スタンドを暖めようとして、なんと火のつきにくい木炭しかないことを発見。なんとか火をつけようと30 分ほど頑張ったがダメだった。食材の用意は妻にバトンタッチし、アナの運転でマッチで火がつく炭をコーナンまで買いに行った。

じっとしていると寒いが、バーベキューというのは結構忙しいので、それほど寒さは感じなかった。アナのだんなさんは仕事が忙しくてほとんど家にいないこと(今も中国に出張中)、カリナはロシア語、日本語、英語のトリリンガル環境で成長せざるを得ないこと、など我が家と共通点があるので、そういう泣き笑い人生が話の端々に挿入される。

走り回って遊んでいるカリナと上の子に負けじと下の子もついて走り回る。当然歳の違いなどというコンセプトはまだないだろう。自分では同じ仲間だと思って一緒に遊んでいるのだ。年齢や国籍や言語や宗教などあらゆる違いが子どもには何の影響も及ぼさない。何歳くらいまで、こういうふうに生きていけるのだろうか。

Thursday, December 29, 2005

ラーメン

「希望軒」のラーメンとギョーザはむちゃおいしい。
雑誌に載ったり、テレビに出たりしないで、地道にやっていってほしい。
行列ができるようなラーメン屋だけにはなってほしくない。
食い物屋に行列ができるようになると、もう味は終わってしまう。

今晩はアナとカリナと我が家の6人で「希望軒」に行った。
べラルース人母子には、ごまだれとんこつチャーシューメンを頼んだ。
彼女たちももやはりおいしいと感激していた。

今晩はウメ一族が焼き鳥屋に行こうと言っていたのだが、ラーメンを食べるともうお腹いっぱいで行く気がなくなった。電話すると、ウメ一族も焼き鳥を食い終わったみたいなので、こっちに来ないかと誘うと、焼酎とワインをもってやってきた。

ウメ一族に誰がいるのか聞いていなかったのだが、総勢5人の酔っ払いがインターフォンのカメラに現れて、妻もアナも驚いていた。アキヨ、カーコ、ノリコ、アリさん、ウメの5人でみんな僕の高校の同級生だ。ウメは相変わらずスーツにネクタイをしてやってきた。他に服がないらしい。

というわけで、大人8人、子ども3人の11人が我が家にたむろすることになった。いつも一番うるさい下の子が慣れない状況のせいか妙に静かだ。日本語の嵐で戸惑っているのかもしれない。

こういう時は、(自称)英語の成績が一番良かったというアリさんがここぞとばかり英語をしゃべるので、日本の英語教育の欠陥が見事に証明される。「チェリーブロッサム・シュリンプ」がなんとかかんとか言っているが誰もなんのことか分からない。アリさんとしては「桜エビ」のことを言いたかったらしい。これはもう笑うしかない。

上の子は日本人の大群を見て日本語をしゃべろうとしている。日本人がしゃべっているつもりの英語が英語に聞こえないのだろう。しかし、本人は最近、全然日本語を使ってないので、アクセントや単語の選択が微妙にずれている。コミュニケーションは難しい。


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Wednesday, December 28, 2005

掃除

今日は下の子のアトピーの医者と妻の乳がん検査の予約が重なってしまった。もし悪かった場合の緊急性を考えて妻の検査の方に行くことにした。マモグラフィーとかエコーとかいろいろ検査したが、決定的に悪い知らせはなかった。それでも念のため注射器のようなものを乳房にさして中味を少し抜き取って検査するということだ。結果は来年の1月11日に分かるというので、それでは遅すぎると言うと6日にしてくれた。

アトピーはほんとに可哀相だ。痒くて痒くて眠れないのだ。痒いところをかきむしるので傷がついて、そこにばい菌が入り、化膿したりする。どういうわけか、顔だけきれいに直ったのが幸いだ。アトピーは見かけによる精神的な影響もかなり大きいのだ。それにしても、イライラせずによくもいつも陽気に走り回っていてくれると思う。自分がアトピーなら、癇癪起こしまくっていたのではないだろうか。

兄弟はみかけはそっくりなのだが、性質が全然違うのがおもしろい。上の子はまったく手がかからず赤ちゃんの優等生のようなものだったが、下の子は病気につぐ病気で大変だった。何よりも本人が一番大変だっただろうと思う。こういう子どもの場合、回りの大人、つまり親がイライラしてしまうので、そのとばっちり、という逆境にも遭遇する。そのせいかどうか分からないが、下の子はとてもセンシティブに育ってきたようだ。

僕と妻が少し声を荒げて何か言い合いをしかけると、下の子はすぐに「アーッ!」と言って止めに入る。上の子が親に怒られていると、お兄さんを守ろうとしてゲンコツをふりあげて親に対して攻撃にくる。そして、自分が仲間に入れられていない状況が発生すると、なんとしてでも仲間に入ろうとしてくる。2歳7ヶ月でも、ちゃんと自分の自我がある。妻もあの子は自分で自分の世界を切り開いてきたと言っていた。

ソファーに寝そべって、うつらうつらとテレビを見るでもなく見ていたある晩、下の子が目の前をチョロチョロと動いていることに気がついた。少し寝たような気がして、また目を開けると、下の子がおもちゃを持ってそれをどこにおこうかと見回しているところだった。テレビのある部屋がきれいになっている。いったい何をしているのか?さっきから、彼は掃除(!)をしていたのだ。

子どものいる人なら分かるだろうが、幼児というのはありとあらゆるものを家中散らかして1日の終わりには家の中は大変なことになっている。いちいちかたづけていてもきりがないので、かたずけるのは一日の最後に一回ということになる。だから、もうこんなものだと思って、ちらかりまくった部屋のソファーで僕はぐったりしていたのだ。

しかし、この2歳7ヶ月の子は、床に散らばったおもちゃやお皿やコーヒーカップやスプーンや絵本を拾ってはあるべき場所を探しては移動させていたのだった。不思議だなあと思って、妻に訊いてみた。掃除しろと言ったのか、あるいは掃除を教えたことがあるのかと。そんなことは全然していないが、母がやってることをただまねしているということだった。

Tuesday, December 27, 2005

エイリアン

今日は、妻のエイリアン・カードの更新に行った。滞在許可(ヴィザ)を更新したので、エイリアン・カードも更新することになる。あの悪名高き「外国人登録証」というやつだ。エイリアンねえ。

あっ、そこでくびをかしげている方、日本人と結婚しても、日本国籍は即とれないのだ。でもって、人口減ってやんの。バカじゃないの、この国。

「日本人には外人を自分たちと同等の人間として受け入れない差別体質がある。日本人の血をもつ人間だけが日本人であり、その他の人間はすべて「外人」というわけだ。日本人は純血のみを絶対とする民族です」(皆が同じでなくてはならないという日本人の排他思想を、アメリカのジャーナリストに、イサムが説明した言葉)

あらゆる努力をして、イサムを日本人として育てようとしたイサムのお母さんは11年後、挫折した。13歳のイサムは一人でアメリカに帰った。偉大な才能をこうやって日本は失い続けてきたのだろうなと思った。もっとも美しい日本人を戦争でまっさきに殺し、もっとも優れた才能は受け入れられず、残っているのはカスだけ?

業務報告
1.気がついた方もいるかと思いますが、ブログのリンクを三つ左横につけました。三者三様の逆上あり。

2.どうも僕へ出したメールから返事が来ない、おかしいなあと思っている方は、もう一度出してみてください。僕が読む前に削除されているケースが発覚したので、念のため。

3.Windows On The World は、イベント時でなければ、そんなに高くないです。なんか恐慌に陥ったようなメールが来たので。ランチビュッフェなんかはお母さん集団でいっぱいのようです・・・。

Monday, December 26, 2005

クリスマスの後

予約時間に30分遅れたが、今日の「さかもとクリニック」は土曜日ほど混んでいなかった。

「どうですか、元気ですか」
「まだ大丈夫です」

という、いつもと同じやりとりで始まり、血を採って、僕が欲しい薬を言う。あれ出しときましょか、これもいっときましょか、みたいな八百屋で買い物をしているようなやりとりだ。

その後、焼きたてのパンがいつも食べ放題というファミリーレストランに毛が生えたような「バケット」という名の店でハンバーグを食べながら、ショーコさんがおもしろいと言っていた『イサム・ノグチ』を読んで少し時間を潰した。この本を昨日読み始めてから、ずっと引き込まれっぱなしだ。

* * *

「この冬は寒すぎて、気鬱な毎日でした。イサムは風邪ばかりひき、その看病に明け暮れました。また私は”田舎”へのホームシックにかかっています。日本でもアメリカでもどこでもいい、広々とひろがる土地と住んだ大気の田舎で暮らしたい。この手で大地を掘りおこしたい。可哀相に、イサムもいま、小さなシャベルを手に下駄をはいてうろついています。”何をしているの?”と尋ねたら、”何もない、ママ、どこも掘るとこない”と答えました。ああ、私たち母子はこの東京に閉じ込められて一生を終わるのでしょうか。でも、すでに梅が咲いています。もうすぐ日本の美しい春です」(イサムの母からアメリカの友人への手紙。イサム3歳の頃)

「ついに自分を受け入れてくれる人々のなかにいる、という意識がはっきりとあった。ぼくのような混血でも、自分たちとすこしも違わない仲間としてあたたかく迎えてくれた。森村学園ではフリーク扱いされなかった」(イサム、6歳4ヶ月の時の回想)

「子どもというのは正直なものだ。隠すことなく差別意識をあらわにしてみせる。アイノコのぼくは、彼にとって、まぎれもないフリークだった」(イサム、1年2学期に茅ヶ崎の尋常小学校へ転校後の回想)

* * * 

「バケット」のハンバーグはあまりおいしくなかった。僕はチープな食べ物、ジャンクフードにはうるさいのだ。ハンバーグはサンタの缶詰が一番おいしいと頑なに信じている。そんなもの、もう売ってないかもしれないが。

味は別にどうでもいいが、週日の昼間にこんな店に来ると、小さい子どもを連れたお母さんグループに必ず会う。こういう時はいつも、みんなが僕から視線を外すような気がする。社会のはぐれものは可哀相だし、いつ逆上するか分からないから、目が合わないようにしましょうというお触れが出ているのではないかと思う。そういう居心地の悪さは、大学教師をしている義弟も話していたことがあった。真っ昼間という、まっとうな社会人にとってはとんでもない時間に自宅のあるマンション界隈をうろうろしていると、やはり胡散臭い光線を感じるようだ。

しかし、子どもがうるさい。したい放題、叫び放題だ。お店のウェイトレスの表情もかなり険しくなっているが何も言わない。お母さんたちは自分たちの話に没頭している。だんだん腹が立ってくる。こういう時は腹なんか立てずにさっさと席を立って注意をしに行くべきなのだろうか。しかし、他人に注意されて聞くようなお母さんなら最初からこんな状態を放置しないだろう。

聞きたくもないがお母さんたちの話の内容まで腹が立ってくる。もう少し他に考えることはないのか。まるで新聞のテレビ番組欄を見た時と同じような絶望感に襲われる。なんなのだろう、このアホらしさかげんは。イサム・ノグチのお母さんはこんなに苦労してイサムを育てたんだぞ、分かってるのか、そのへんのとこ、えっ?どうや?

このままではホントに逆上する社会のはぐれものになりそうだったので、店を出ることにした。まだ、2時35分まで少し時間があるので、本屋に入った。また、記憶にない買おうと思った本を探すということになった。

しかし、なんなんだ、この本屋は。三分の一がコミック、三分の一が実用本、残り三分の一が中途半端な品揃えの文庫本だ。これを本屋と呼んでよいのだろうか。しかし、それでもほんの少しだが”文芸”という一画もあった。こういう本屋とも呼べなさそうな本屋でも置いている文芸書とはいかなるものであるか、ということに少し前向きに興味を持って見てみることにした。

が、文芸という概念をこの本屋は間違えて使っているのではないかと思わざるを得なくなった。期待していたわけではなかったが、ここまで行くとたいしたものだ。本という概念さえ、もう壊れているのかもしれない。

それでも『半島を出よ』はちゃんと置いてある。これが売れる本というものか。たいしたもんだ。

ようやく2時半になったので、僕は映画館に急いだ。『男たちの大和』を見るためだ。チケットを買う時、「男たちのダイワ」と言ってしまわないか、ちょっと緊張した。僕は時々そういう間違いをして、顔が爆発しそうになることがある。

5人くらいしか見ていないのではないかと思ったが、館内は三分の二がうまっていた。へぇーっと思いながら、当然回りに誰も座っていない前から三列目の真ん中の席に僕は座った。メガネを忘れたので、そんな前の席を買ったのだった。

こらえる間もなく、あっという間に涙がこぼれ落ちていた。そんなことが上映中何度も繰り返された。すすり泣く音、鼻水をずり上げる音が回りからも聞こえる。これを涙なしに見る人はいるのだろうか。どうにもこうにも泣けてしまう映画だ。

ずーっと昔のことだが、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を読んだ時、その美しさに打たれたものだが、その時、この美しさを映画にできないものだろうかと思ったことがあった。だから、今回『男たちの大和』という映画の存在を知った時、すぐに見に行こうと思ったのだ。原作は異なるが、あの大和が映画になるということでは、僕の頭の中で同じことになっていた。

泣き暮れた映画だが、終わってみるとどうしようもなく怒りが蓄積している。どうして、こんな日本にしてしまったんだ、ああやって死んでしまった日本人にどういう言い訳をするのだ・・・どうもはぐれものの逆上が本格化しそうになってきた。

一応書いておくけど、戦争を美化したいわけでも、日本はえらかったとか、昔は良かったとかそんなことを言いたいわけでも毛頭ない。戦争当事者間に道徳的な善側と悪側があるような歴史観は、歴史から何にも学ばないというのと同義であるとは思っている。良い殺人と悪い殺人、良い強姦と悪い強姦、良い拷問と悪い拷問・・・そんなものあるか?

『ALWAYS 三丁目の夕日』は昭和33年(僕が生まれた年)を舞台にしているらしいではないか。カブールに帰る前にはどうしても見ておきたい。

『Mr.&Mrs.スミス』は妻が、『キングコング』は上の子が、見に行きたいと言っているので、なんとか行きたい。

『スタンドアップ』『博士の愛した数式』『七人のマッハ!!!!!!! 』も行きたいが、これは始まるのが出国してからだ。

Sunday, December 25, 2005

クリスマス

急いでインターネットでクリスマス・ディナーを検索してみるが、当日なので当たり前だが予約状況は厳しいようだ。そもそも、この歳になるまで、わざわざ人まみれでゴミゴミして、割増料金で、かつ1年で一番質が落ちるようなクリスマス時に外食をするなんてバカげていると思っていた。

とは思うものの、若い頃、僕はクリスマスにいつも何をしていたんだろう?クリスマスを節目化せずに毎晩連続して飲んだくれていたので特に記憶がないのだろうと思う。一度だけ覚えているのは、1991年のクリスマスだ。ロンドンから東京に向かうバージン・アトランティックに僕は一人で乗っていた。着いたら、日付は変わってクリスマスは終わっていた。あれ?クリスマスがなくなった、と思ったのをなぜか覚えている。モラトリアムはその年に終わってしまった。

クリスマス・イヴに上の子の学校の友達のお母さんたちでディナーに行くという話があったそうだ。だんなさん達は忙しくてそれどころじゃない日本社会の生活に我慢がならず外国人妻たちが叛乱の火の手をあげるという勢い、だったのかもしれない。

参加者はベラルーシのアナ、ドイツのルード、もう一人ブラジルの名前は知らないお母さん、そして僕の妻の四人であった。しかし、僕の妻は僕の予定が分からず確約を当日まで先延ばしにしていて、結局、他の3人はもう一人別の人を探して4人を確保してしまっていた。

心遣いが小泉八雲的なアナは、僕の妻に25日に再度他のところへ行こうと誘ったらしい。アナのだんなさんは中国に出張中で子どものカリナと二人だけで日本に残っているのだった。彼女も可愛そうな気がするが、クリスマス・イヴもクリスマスもお母さんだけどこかに出かけるというのは、子どものカリナが可愛そうな気がする。

というわけで、クリスマスは僕が妻をどこかに連れて行き、アナとカリナを大晦日に家に招いてバルコニーでバーベキューをしよう(寒すぎてできないような気もするが)ということになった。

ディナーに行くといっても、子どもを二人とも置いていくというのは初めての経験なので、おばあちゃんとおじいちゃんが見てくれるとはいえ、やや心配でもある。老夫婦よりも6歳の息子の方がすでにしっかりしているようなこともあるのだ。4人の幼児を置き去りにするようなものではないか。

しかし、一度、妻をディナーに連れて行かねばならんとはずっと思っていた。帰国するたびにオーストラリア人のお母さん、プルーデンス婦人(と呼びたくなる)がジェニファーをどこかに連れて行ってあげなさいよ、なんてことを小泉八雲の世界的に、ものすごく控えめに言うので気にはなっていた。

今年の4月、バンコクで買い物をしていた時、何が気に障ったか、妻が突然、どこにもおしゃれなんかしていく場所がない、そんな機会がないと言って、怒り出したことがあった。僕と二人の息子は途方に暮れて嵐が過ぎ去るのをショッピングモールの外のベンチに座ってただ黙って待っていたのだった。だから、おしゃれできるところを探さねばならんともずっと思っていたのだった。

クリスマス・ディナーっぽいところ、おしゃれができるところ、早い時刻に短時間で終えられるところ、という条件を総合すると、選べるレストランはホテルくらいになった。ウェスティン・ホテルは三部制になっていて、早い時間を選べるのだが、ほとんどの店が満席になっている。空いている店はいまいちだ。ヒルトン・ホテルの店は二部制になっているが、予約状況が分からない。35階にあるWindows On The World というたわけた名前のレストランなら条件をすべて満たすだろうと思い、電話してみたら、壁側(窓側)の席はないが、内側ならまだ空いているという。一度行ったことがあったので、内側でも景色はたいして変わらないのを知っていた。

今日、妻は朝から髪を染めたりして、なんかいろいろ準備をしていたので、着ていく服はあるのだろうかとちょっと心配になってきた。何を着ていくのか訊いたら、バンコクで買ったブルーのやつという。そんなの買ったか?全然思い出せないが追求するとややこしいことになりそうなので、ああそうとだけ言った。

Windows On The World は、天井が高く、ガラスでできた壁一面に夜景が広がり、実にすがすがしい。妻は料理をとてもおいしそうに食べている。こんなの初めてだを何回も連発していて、そうかこういうのは知らなかったのかと思うと若干自責の念にかられた。

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http://hiltonjapan.ehotel-reserve.com/Japan/HiltonOsaka/RestaurantAndBar/restaurants_skylounge.asp

飲み物は何にするかと訊かれても、とりあえずシャンペンを楽しむかないでしょうという雰囲気なので、シャンペンのメニューを見たが、1種類しかない。グラス1杯3700円。ケッ、と思ったが、飲んでみるとおいしかった。母の買ったシャンメリーとはかなり違う。良い葡萄ができた時しか作らず、これは1997 年もので、007の第三作目からずっと使われているシャンペンです、とシャンペン屋さんが言うのでそれを全部訳した。

カニの前菜のあと、帆立貝と伊勢海老のカルパッチョが出てきた。うーむ、これはいかんかも。妻は生ものを食べないのだ。しかし、おいしいと言ってペロッと全部食べてしまった。帆立貝にキャビアをのせたら、確かにおいしいが、それなら今までの寿司嫌いはなんだったんだとも思う。

シャンペンはあっという間になくなり、他の飲み物を頼まなければならない状況が迫ってきた。もう僕はやけくそになっていたので、ソムリエっぽい人の講釈を素直に聞いて、数万円の赤ワインを1本頼んだのであった。1万円以下のものが一つもなかっただけなのだが。

蕎麦粉で作ったラビオリが3枚にフォアグラとトリュフが併せて出てきた。えっ?ラビオリっ?と思ったが、一応イタリアン・ディナーと名称がついていたのを思い出した。妻は蕎麦粉のラビオリの味に妙に関心している。これがおいしいと思うなら、どうして蕎麦は食べないんだと思ったが、やはり黙っておくことにした。

フォアグラは軽く表面が焼いてあり、日本の焼肉屋でいうと、刺身にするもち肝を焙ったかんじに出来上がっている。こういうまったりしたものはあまり好きじゃない僕もこれはおいしいと思った。妻は元々こういう味が好きなのは知っている。トリュフが何か知らないというので、ブタが発見するキノコだと言うと、話は聞いたことがあったようだった。

その次に小さなワイングラスに入ったシャーベットに星型のチョコレートがのっかったものが出てきて、そこにウェイターがシャンペンをぶっかけにやってきた。いきなりデザートが出てきたのではなく、お口直しだという。フォアグラやラビオリがこってりしていたので、確かにちょうど良いと思った。

最後はフィレステーキにまたトリュフをのせて出てきた。こんどのトリュフは生で、追加のトリュフはいかがですかとトリュフと小さなおろし金のようなものをもってウェイターが回ってきた。1グラム1200円だそうだ。追加料理というよりも、こういうのもアトラクションの一つなのだろう。

インテリアにしろ、料理の一つ一つにしろ、いろんな人が知恵を絞ってる様子が分かる。レストラン業界の競争を勝ち抜くのも大変なんだろう。グローバリズムの毒には納得せざるを得ないことが多いのだけど、資本主義の健全さはこういう民間レベルに現れるんだなと思う。これが役所システムではこいう細かい点で努力するというインセンティヴが存在しない。その結果、総体としてろくでもないことになる。いや、自分の職場の話なんですが。

チェックを見て笑ってしまった。妻も笑っている。今日のディナーの料金は我が家のほぼ一か月分の食費と同じだったのだ。1年が13ヶ月と思えばいいではないか。

二人の息子を引き取りに行くと、泣かずに遊んでいた。下の子はさすがに時々思い出しては、ママ、ママと探していたそうだが。

Saturday, December 24, 2005

クリスマス・イヴ

いつも行く「さかもとクリニック」は土曜日は午前中のみなので、11時半頃に行ったが、子どもが20人くらい待っていて、今日は諦めた。風邪はほとんどよくなったし、血の定期検査をして薬の追加をもらうだけなので、年内に一度行けたらよいのだ。善玉コレステロールを増やして、中性脂肪を減らして、尿酸を減らさないといけないのだが、なかなかうまく行かない。

さかもと先生はかなり大変なことなってますよと言うし、僕もデータを見せられると異論はないし、他の医者にも何年も前から言われていることなので、なんとかしなければと思うが、なんともならないまま時間が過ぎていく。

僕の心電図は小さい頃からおかしいので、そういうものだと思わざるをえないのだが、始めて見た医者は心筋梗塞だと言う。MSFのりっつぁんにどういうことなのかきくと、心筋梗塞ならえらいことだし、そんな生活できないはずだみたいなことを言われたことがあるので、やはり元々変な心電図が現れることになっているのだろうかと思うのだが、それに追い討ちをかけて、本格的な心筋梗塞にみまわれる可能性を考えた方がいいとは思っている。

たまたま夜中につけたテレビで心筋梗塞の特集みたいなことをやっていた。
その中で「危険因子」というのが五つあげられていた。
1.喫煙
2.生活習慣病
3.中性脂肪
4.肥満
5.運動不足
の五つなのだが、自分に全部当てはまる。

そして「ひきがね」が四つあげられていて、
1.過度の疲労
2.睡眠不足
3.激務
4.ストレス
の四つだった。これもかなりいけてると思う。

「対策」として考えられるのは、
1.運動
2.食生活の改善
3.薬
の三つなのだが、1と2が欠けて、3に頼る結果になっているのだった。この状況は歳をとるにつれて、ますますひどくなっているようだ。なんとかせねばならん。

しかし、今日は家族全員+おばあちゃんもいっしょだったので、医者はあっさり諦めてみんなで買い物に突入することになった。「さかもとクリニック」もカルフールもヴィソラにあるので、その界隈で全部済ませることにした。

昨日、テレビを買ったのだが、たまに日本で買い物をすると一般的な値段の感覚がずれてしまっているので、高いのか安いのかの判断がつきにくい。もうほとんどのテレビが薄い液晶とかプラズマになっていて、こういうのを買うしかなくなったのだなと思うが、この値段があまりに差があるのでびっくりした。

飛行機の中で読んだ雑誌には売れ線は40インチと書いてあったのだが、店頭に一番多くならんでいるのは37インチのものだった。販売台数が大きいほど価格の効率もよくなっているだろうと思い、37インチのを見て回ったが、同じ37インチのもので、10万円くらいの差があるではないか。何が違うかはまったく分からないので、店員に訊いてみたが、スペックを調べた結果、彼も分からないと言う。単にデザインが違うとか、要するにモデルチェンジの問題のようなのだ。

どれもこれも同じに見えるなら、安い方でいいではないかという意見を念のために妻に打診してみると、あっさり当たり前じゃないかという返答だったので、いわば型落ちで10万円安くなっているのを買った。

まるで何にもチェックしていないように思えるかもしれないが、それでも一点だけ慎重にチェックしていた。それは下の子が触れる範囲にスイッチ類がいっさい付いていないということだった。スイッチというものを見ると、すべて触りたくなる歳頃なので、いくらやめろと言っても無駄なのだ。

前のテレビが潰れたのはそのせいかどうかホントのところは分からないが、 下の子がon and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off.....を毎日、100回は繰り返しつぶやきながら、テレビのスイッチを酷使していたという重い事実があった。

また、次回テレビが潰れても下の子に疑惑がかからないようにするためにもスイッチ類はどこにもついていないにこしたことはない。幸い、ほとんとのテレビのスイッチ類は見えないところに付くようになっていたので、この問題はあっさり解決した。

さて、今日はおばあちゃんはわけの分からない、細かいものを非常に真剣に吟味して、結果的にどうして「買う」という決断に至ったのか分からないものを買い物かごに入れていく。おばあちゃんも妻もワインを飲みたいというのだが、結局二人ともワインとは似ても似つかぬものを一本ずつ選んでいた。「それ、ワインとちゃうで、炭酸の入ったシャンペンもどきのジュースみたいなもんやで」と言ってもきかない。「店員さんがワインやと言うた、試飲したらおいしかった、飲んでみ」とおばあちゃんは言って僕にも勧める。「おいしいと思うならそれでええやん」と言って抵抗しないことにした。

妻はピンク色のボトルを選んでいる。It's not wine, it's just like juice mixed with peach and white wine. と一応言ってみたが、妻は、This is my drink. と言ってボトルを握っている。もうどうでもいいから、この訳の分からないおばあちゃんと妻の選んだ二本のボトルをかごに入れて、次の現場へ移動することにした。ワインの講釈を垂れる人間が家族にいたりしたら、ぞっとする。

食料品売り場でもうカート二つが山盛りになり、これ以上運べないだろうと思われる状態でやや呆然としていると、おばあちゃんがニコニコしながら、安い和牛のステーキがあったよと言いながら、呼びに来る。見に行くと、確かにおいしそうな牛肉だった。しかし、これをどうして安いと思ったのかが分からない。1枚当たりの値段が店頭には書いてあるのだが、それをグラム数で割ると、100グラム当たり千円弱だった。これを安いと思うような生活はしていないはずだが、200グラム前後を1枚にして売っているから安く見えたのだろうか。

人数分買うとこれだけで、1万円くらいになるということは分かっていないだろう。しかし、何を言っても通じるとは思えないので、今日ステーキが食べたいのかと訊くと、「簡単やからステーキがいいやろ」と言う。なんのこっちゃわからんがな。ただ安いと思っただけなら、それは間違いだと言えるが、食べたいなら、この歳になって、その価値に見合う値段かどうかなんてことはもうどうでもいいだろう。そうか、食べたいなら、そうしようと思い、それを5枚買うことにした。

注文するとトイレに行きたいといい、僕にいろいろ買ったからと言い、5千円札を一枚渡して消えていった。別にいらないと言おうと思ったが、その額を見て噴出しそうになって、もらっておくことにした。今日の買い物だけで、すでに6万円は超えているのだが、きっとそういう計算にはいたっていないだろう。

いつ使うか分からないようなもの、すでに家にありあまるほどあるようなもの、いつ食べるか分からないようなものをさんざん買った後に、最後の最後に店を出るところで「あっ、忘れていた」といいながら、おばあちゃんは発砲スチロールの箱に入って山積みになっているクリスマス・ケーキを一つ買った。寒いのにアイスクリームのケーキを食べたいのかと思ったが、面倒くさいので何も言わなかった。

家に帰って、おじいちゃんも合流し、老夫婦はこのお肉はおいしいなあといいながら、ぱくっと食べ尽くし、その後、発砲スチロールの箱からアイスクリーム・ケーキを取り出すと、おばあちゃんも妻も、アイスクリーム?!と言って驚いていた。当たり前じゃないか、わざわざ溶けないように発砲スチロールの箱に入れて売ってるんだから、想像つくでしょと言ったが、はあぁぁぁと言って、母も妻もまだ驚きが収まらないようだった。主婦というのは、いったい何を見て買い物しているんだろうと思う。子どもはどっちにしろ嬉しいのでどうでもいいのだが。

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Friday, December 23, 2005

クリスマス・ソング

毎年おんなじクリスマス・ソング・ベストばかりで飽きたから、なんか違うの買って来て欲しいと言われて困ってるお父さん、
80年代以降クリスマス・ソングの定番になったワムの「ラスト・クリスマス」を、実はビートルズが1966年にハンブルグで録音していた、と言われても思わず信じてしまいそうなこのCDはいかがでしょうか。

"XMAS !" The Beatmas
1.「Please Please Me」かと思ったら、「ジングルベル・ロック」
2.「Eight Days A Week」かと思ったら、「サンタが街にやってくる」
3.「I Saw Her Standing There」かと思ったら、「ロッキン・アラウンド・ザ・クリスマス・ツリー」
4.「Please Mr. Postman」かと思ったら、「ラスト・クリスマス」
5.「No Reply」かと思ったら、「フェリス・ナヴィダ」
6.「All My Loving」かと思ったら、「ママがサンタにキスをした」
7.「Love Me Do」かと思ったら、「ジングルベル」
8.「Taxman」かと思ったら、「赤鼻のトナカイ」
9.「Nowhere Man」かと思ったら、「聖なる御子」
10.「Ticket To Ride」かと思ったら、「ホワイト・クリスマス」
11.「Lucy In The Sky With Diamonds」かと思ったら、「聖しこの夜」
12.「A Day In The Life」及び「All You Need Is Love」かと思ったら、「ア・ベアーン・イズ・ボーン・イン・ビートルホーム」

ビートルズを聴いて育ったおじさんもきっと楽しめます。もう10年以上前に発売されたんだけど、2003年に再発売されたのでまだ手に入りますよ。

Thursday, December 22, 2005

昨日は気分が悪くて眠れなかった。吐き気がするのだが、吐けない中途半端なsick で、ベッドの上でのた打ち回っていた。朝5時くらいに少しましになってきたが、結局寝るのは諦めて、昨日もらった『フォーサイト』を読むことにした。そのまま寝ずにチェックアウトして、帰国したらいつも行く赤坂見付の『長寿庵』に行った。「もりそば」と「しめじそば」を頼んだ。いつもはあっさり食べれるのに、今日は途中でしんどくなってきた。胃が抵抗している。

やはり帰国したらいつも行く『スカイ』に散髪をしに行ったら、「ああ、やばいよ、3時までびっちり」と僕が「怪力女」と呼んでいるマッサージ担当に言われた。「じゃあ、来年来る」と言うと、「今年はどうもお世話になりました。来年もよろしく、アハハ」と景気よく笑っていた。忙しくてハイになってる感じだった。そうか、こういう業種は年末稼ぎ時なんだなと思い出した。

飛行機にするか新幹線にするか考えながら、ホテルへの道を歩いていると、本屋があったので、バンコクからの飛行機の中で日本の新聞に載っていた書評を読んで何冊かの書名をメモしていたことを思い出した。でも、今メモはない。本を見れば思い出すかもしれないと思って店に入ったが、ほとんど思い出せなかった。結局メモとは関係なく『新リア王(上・下)』高村薫(新潮社)と『国家の品格』藤原正彦(新潮新書)を買った。

どうも今日本は雪がたくさん降ったり、停電だったりするらしいので、飛行機はやめることにした。飛行機はちょっとしたことで数時間遅れたりする。

東京駅に行くと人がたくさんいた。新幹線が混んでいる。年末だからこれくらいなのか、みんな飛行機を敬遠してこうなるのか分からないが、すぐに乗れる「のぞみ」の普通車はもういっぱいだった。グリーン車にしたが、これも窓側は満席だと自動券売機が表示している。別に窓でも廊下でもいいので、これに乗ることにした。

東京駅を出る前に僕はもう寝ていたみたいだ。目が覚めると名古屋駅を出るところだった。ふと窓の外を見ると、雪で真っ白の景色が続いている。新大阪に着くのは30分から40分遅れるというアナウンスをしている。雪国へ行くような気分になってきた。

新大阪駅に着いてタクシーに乗って、「箕面の方へ向かってください」というと、少し間があって、運転手さんはどのへんですかと訊く。新御堂筋を北に向かって、171号線で京都方面へ、右に曲がって、しばらく行ってから山の方へ入るんですけど、と言うと、どれくらい入りますかと訊く。150メートルくらいかなと言うと、やっと「ああ、それなら行けるわ」と言う。変なことを言う。「えっ?なんで?」と訊くと、道路が凍結していて、箕面方面はやばいということだった。朝は吹雪で大阪市内に10センチの雪が積もって、新御堂筋も北の方が凍結していて、走れなかったそうだ。今夜も9時頃くらいまでしか走れないやろなと言っていた。

実際、新御堂筋を北に向かうとどんどん残った雪が増え始めた。家の近くの歩道は雪が凍っていて、人々はとても慎重に下を見ながら歩いていた。家の前にあるロータリーふうの車寄せは完全に凍っていて、タクシーの運転手は時速1キロくらいに落としてそろそろと近づいていった。すごいことになっていたんだな。家族の誰かが道でこけて怪我とかしてないかなとちょっと心配になってきた。去年は母が凍った道でこけて手を骨折した。

ドアを開けると、2歳7ヶ月の下の子がパパァ!と言いながら、洟を垂らしながら走ってきた。6歳5ヶ月の上の子は手を後ろに組みながらニコニコしながら、下の子のはしゃぎぶりを見ている。ほんの少し前までは上の子がこうやって走ってきたものだが、大きくなったなと思う。

二人にバンコクで買ったおもちゃをあげると、やはり反応の違いがもうはっきりしてきた。下の子は未来車ミニカーの10台セットを持って「Car! Car! Car !」と叫びながら転げまわるという様子だが、上の子はバットマンの乗っているバイクの構造を解明しようとしている。上の子にレーシングスーツのようなジャケットを買ったのだが、「Cool !」と言って、むしろそちらの方に興奮していた。下の子はなぜかバスが好きなので、バスのアップリケが付いたジャケットを買ってきたのだが、上の子がジャケットを着ると、やはり自分も自分のジャケットを着て「Cool !」と言っている。なんでも同じようにしないと気がすまない時期なのだ。奥さんにはジーンズとTシャツを買ってきたのだが、さっそくそれを着てやはり「Wowoo, Cool ! How did you find my size ?!」と言っている。みんな同じか。

着替えに自分の部屋に入ると、上の子の書いた手紙が5通、机の上にあった。

Dyer Papa it cood be windy in Afganistan But you hafto be very cerfool.
Love Yoshiya

Deyr Papa...
I haev a presint for you bicos I bot it for you and I em weting for you to cam bak
Love Papa 2006

Dyer Papa
I'm missing you Bicos you ere going to cam ane 'til Cerismies
Love Papa

子どもはスペルを覚えるのではなく、音に文字を当てはめることによって、自然に書くことを覚え始める。幸い、この子の行っている学校は、こういう時期にスペルを厳格に教え込むようなバカげたことをしないのでありがたい。あと二通には絵が描いてあった。

カブールから電話をしたある日、上の子が手紙の出し方が分からないと言っていたことを思い出した。今度、カブールに戻るまでに、eメールの出し方を教えようと思った。

Wednesday, December 21, 2005

見た、来た、治った

バンコク発が午後11時40分で、成田着が午前7時半なので、チェックインが早くなるという連絡を入れておいたのだが、ホテルのチェックインカウンターの女性は「はあっ?」て顔をあからさまに見せてくれた。飛行機の中でまったく寝ずに本を読んでいたので、頭がボーっとしていて、何も言う気にならず、「はあっ」女のなすがままになっていた。

前回も別のホテルで同じことが起きた。こういう時、自分も日本人なのを忘れて、日本人は案外いじわるだと思ったりする。外国で何か嫌な目に合うと、とりあえずそこの国民すべてが悪いと思うことによってカタルシスを得ようとする心理と同じだ。

結局、恩着せがましく「今回は部屋がありましたので」という枕詞とともに、部屋をあてがわれた。部屋まで案内してくれた別の女性に、インターネットすぐに繫げられますかと念のためにきいたら、ラインチェンジャーをお貸しさしあげますだって。

まったく「はあっ?」でしょ、それは。今どき、この自称先進国でダイヤルアップなんて使ってる人いるのか?僕のコンピュータにはそもそも電話線を突っ込む穴さえ付いていないことを約1年前に発見したのだ。

しかし、ミス・りんごのような、この女性に何も罪はないので、チェックイン時の不愉快さは残っていたが、丁寧さに全力投球して、すんません、LANはないですか?と訊いてみた。

「ああ、高速ネットワークですね。この部屋にはありませんが、ある部屋もありますので、お部屋を交換いたしましょうか?」だと。そうかチェックインの時にちゃんと言わなかった僕が悪かったのだ、みんな僕が悪いに決まってる、で、どうしてそういうこと最初に訊いてくれないかななんて微塵も思ってはいけない、ここは日本なんだ、アフガニスタンや、パキスタンや、UAEや、タイと違って、融通なんてコンセプトは江戸時代に朱子学を導入してから消滅したんだと思うことにした。もうすぐ赤穂浪士もやってくるではないか。

ミス・りんご(かなり可愛い)は、部屋からフロントに電話して高速ネット部屋がないか訊いてくれているが、どうやら相手はごねているようだ。電話を僕に代われと言っているらしい。けっ、もったいつけやがって、なんて思わずに、また最後の力をふりしぼって、丁寧に喋ろうとしてみた。

あいにく高速ネットのある部屋は全部うまっていて、12時まで待たないと空かないということだった。待っている間にネットに繋ぐ必要があれば、ラインチェンジャーを・・・とまた言い出す。うるさいよ、てめえと思いながら、その、僕のコンピュータは古くて性能が悪くて融通がきかないもんで、ダイヤルアップの接続ができないんだって、みたいなことを言おうと思ったが、もうどうでもいいから、12時までこの部屋で待っているから、部屋が空いたら連絡してくれるように頼んだ。もう早くベッドに倒れこみたいだけで、インターネットなんて話題を持ち出す僕が悪かったに決まってるんだから。

ミス・りんごが帰って、服を脱いで横になろうとしたら、もう電話がかかってきた。部屋が空きましただって。なんじゃ、それ?ひょっとして、大阪で言う「値打ちこき」?

3時間ほど寝て、『フォーサイト』のショーコさんに電話した。連載の予定について話をつけなくてはいけないのだった。1時間後、ホテル内のお店でショーコさんに会い、僕はコーヒーとサンドウィッチを頼んだ。今思い出したが、前回もショーコさんと話をした時(別のホテルだったが)、僕はコーヒーとサンドウィッチを頼んだのだった。僕はどうやらサンドウィッチが好きなのだな。

毎月一回の自分の原稿に、こんなんでいいんだろうかという疑問が日増しに高まっていたので、ショーコさんに思い切って打ち明けてみることにした。俳句のようにもっと魂が入ったものを書かなくてはいけないのではないかとか、月刊と言えども一貫した思想を追求する姿勢が必要なのではないだろうかとか、考え出すときりがないのだ。

しかし、そういうこととは関係なく、今日はふとショーコさんって若いんだなと思ったので、そう言ってみた。高尚な文学論になるはずが、間の抜けた出だしで始まってしまった。その時はうかつなことに思いつかなかったが、ショーコさんは結婚目前で、そういう時期の女性はどうも光り方が違うと前々から思っていたが、そういうせいかもしれない。そう言えば、外務省をやめて国連に行ったコダマさんという女性はそういうこととは全然関係なく、年中結婚間近っぽいハッピー系の人相をしていて、まぎらわしい人であったのを思い出した。

肝心の話の内容は大して進展もなかったが、ショーコさん自身の文章がとても優れものなので、おまかせコースでいいじゃないかという気分になった。編集者の役割というのはおもしろいものだと思う。励ましたり、持ち上げたり、厳しく叱ったり、またなだめてみたりと、いろいろやることが多いのだろうなと思う。

その後、1時間ほどして、higashiuraと落ち合い、寿司清に行った。今日はおいしいイカがあった。こりこりっとした小さいイカが僕は好きなのだ。大きいイカの場合は、ミミの部分がやはりこりこりしていて好きだ。飲食店内でお客さんがタバコをすいまくってる風景が新鮮だった。8日間タバコをすってなかったが、今日から復活した。

その後、タンテに久しぶりに行った。タンテはだんだんたくさん立派なウイスキーを仕入れるバーになってきたけど、なぜか今日は焼酎が飲みたくなって、ないと思ったけど、訊いてみたら、かなり立派気な焼酎が一本あったので焼酎を飲むことにした。

リューちゃんは酒を飲まなくなったそうだ。昔々は、バケツで行水をするような飲み方をしていたが、パタッと飲むのを止めたらしい。僕もそうなので、その感じはよく分かる。そもそもお酒なんておいしいと思って飲んでいなかったと思う。たくさん飲むからといって好きとは限らないではないか。

かなり飲んでから、higashiura はテツとか本位田とかに電話しているが、もちろん誰も出ない。今頃子供をお風呂に入れているんだとか言ってる。最後にhigashiura はウメに電話した。ウメは電話に出た。今、家に帰ってきたところらしい。相変わらず遅くまで仕事して、遅くまで飲んでるのかね。

ゴトー・ケンジが12時過ぎに来ると言っていたが、もう1時を過ぎていた。最後に飲んだミント・ジュレップが効いてきて、なんか頭がくらくらしてきたので、そろそろ帰ることにした。「もう1時過ぎてるで」とhigashiura に言うと、「えっ?電車ないやん。10時くらいやと思ってた」やと。なんとのんきな。どうやら、本気でテツとか本位田が子供をお風呂に入れる時間やと思っていたらしい。

時には、ショーコさんやhigashiura のように、まったく自分と異なる業界の人と話をするのは精神の健康に必要なことだと思った。

ところで、ゴトー・ケンジ、どこ行った?

Monday, December 19, 2005

プルン

ホテルの部屋のテレビにNHKが入ってたので、つけてみると、ものすごーく懐かしいスタイルの語り口の司会者がパッとしないステージの上で素人っぽい人になんかしゃべっている。どうやら、この素人っぽい人が歌をうたうようなのだけど、すべての雰囲気が例えば「戦後」とか「復興」みたいな言葉を連想させて、どうも今ではないように見える。

これはドラムの一場面なのだろうかとしばらく見ていたが、どうもそうではないらしい。古い録画を放映しているのだろうかとも思ったがそうでもなさそうだ。やがて「のど自慢」という文字が目に入った。のど自慢?ものごころついた頃にはすでにやっていたと思うが、あののど自慢?あれからずーっとやっていたのか?どこかまったく知らない町の公民館のようなところでやっているらしい。ずーっと同じことを五十年くらいやっていたのだろうか。時間のひずみに落ちてしまったような気分だ。

それが終わると、書評みたいなものが始まった。今日はミステリーものを紹介する日だそうだ。二人の文芸評論家という人が出てきて、この二人が野球の打順に合わせて(?)、9冊の本を選ぶという趣向だ。なぜ野球の打順なのか、それがミステリーとどう関係あるのかはまったく分からない。クリーンアップを打つ三冊の本について二人の文芸評論家がしきりに議論している。日本は本格的にどうかしちゃったのだろうか?のど自慢の後に、本の打順?頭おかしくなりそうだ。

ちなみにこんな本(↓)が出てきた。本には罪はないだろう。まったく知らない分野だけど、何冊か読んでみようと思った。この番組の効果ありか。

「暗礁」黒川 博行
「隠蔽捜査」今野 敏
「シャングリ・ラ」池上 永一
「容疑者Xの献身」東野 圭吾
「オルタード・カーボン」リチャード モーガン
「暗く聖なる夜」マイクル コナリー
「耽溺者(ジャンキー) 」グレッグ ルッカ
「魔力の女」グレッグ アイルズ
「灰色の北壁」真保 裕一
「ユージニア」恩田 陸

テレビの有料放送で"XXX2 - The Next Stage "を見た。こういうのを見て、戦場に行く若者はやはりムチャクチャしてしまうしかないんじゃないだろうか。残念ながら、そういう若者が登場するルポ、 "Generation Kill" は翻訳されないようだけど、あれを読んでからこういう映画を見てもコンピュータゲームで育つ狂気よりも哀しみの方をどうも先に見てしまう。

主人公のIce Cubeのセリフに"I was born looking guilty." ってのがあったけど、うまい表現だな。僕も実は、I was born looking #$%& って思うことが多々ある。

"Batman Begins" の中で、"What I do defines me" というセリフが出てくるんだけど、これは『蒼き狼』(井上靖)で描かれてるジンギス・カンの生き方に現れている思想と同じだ。

「ほんとの私は?」という問いは、人生で最も言い訳がましい時期である思春期に誰もが通過するものだと思うけど、僕は『蒼き狼』を読んで、この問いが果てしなく無効であることに納得したもんだ。だから、バットマンがWhat I do defines me と言ってるのを見た時も、Ice Cube が屁みたいな顔をしてI was born looking guilty と言っているのを見た時も、みんな苦労して大人になったんだなあと頭の中でものすごい大飛躍が働いて思った。これを読んでいる人はなんのことかさっぱり分からない可能性大ですね。

まだ咳が続く。時々、ゲポッとのどの奥からカタマリが出てくる。太った芋虫のような形だ。やわらかく弾力があるが、形は崩れない程度に固体化している。おすとプルンとゆれる。まるで一個の生物みたいだ。黄色い地に赤がまだらに入っている。痰に血が混じっているのだ。これを食べると病気になるだろうなと思うが、元々自分の体内から出てきたことを思い出して一人笑ってしまう。しばらく眺めてからティッシュでくるんで、もう一度念のためギュッと押してみたが、かなり固形的抵抗を示した。なかなかやるなと思いながら、ゴミ箱に捨てた。そろそろ頭のもやが晴れてきそうだ。

Sunday, December 18, 2005

ワニ

あんのじょう、今回のフライトは坊主の武者修行みたいなことになってしまった。ぷるぷるとふるえながら、けな気にも静かに痛みをこらえている、のどや鼻の弱った粘膜を思うと、なぜか因幡の白兎を思い出した。蒲(ガマ)の穂は効くんか?日本の海にはワニがおったんか?ととりとめもないことがボケた頭の中をまわる。

機内の乾燥した空気と低い目の気圧は、ジョディ・フォスターの「フライト・プラン」ですでに使われていたような、超巨大二階建て旅客機が実用化された暁には解決するそうだけど、なんで巨大化するまでまたんとあかんのかね?面の皮が厚くても、体内粘膜のかよわい僕としては、飛行機に乗るたびに受けるダメージにはかなり困ってるんですけど。

ついでに「フライトプラン」日本では公開前みたいだし、商売の邪魔したくないけど、それでもやっぱりストーリーもうちょっとなんとかならんかったかなあ。ジョディ・フォスターは相変わらず優等生の演技でしたが。

バンコクには1時間遅れで朝7時半くらいに到着。ホテルに頼んでおいた向かえの車が今回はなんか見慣れない新しい車になっていた。BMWの新車だそうだ。まあ、僕にはほとんど猫に小判なのだけど、素人目にも美しいと思わせる形であった。

ホテルに着くと、中二階のレストランに朝食人がたくさん入ってる。今お腹すいているか?と自問してみたがよく分からない。そう言えば、この1週間ほど食欲があるのかないのか分からなかったのだった。

こんな朝っぱらにチェックインする人はそんなにいないので、すぐに部屋に入った。僕の部屋は14階で、高さではこのホテルのちょうど真ん中辺りなのだけど、窓から外の景色を見ると地震が起きたら絶対助からないだろうと思う。

さて、何をしよう?まず、バスタブにお湯をためた。そして、浸かった。おーっと思う。全身に感動が走る。何かこれだけでスーパーマン化するような気分。凄まじきお湯の威力。

次に、やはり何か食べるべきだと決意した。でも、外に出る気はしないので、ルームサービスで、カオパッド・ガイとトム・ヤム・クンを頼んだ。日本風に言うと、焼き飯とスープかな。

食べ始めてから食欲がわいてくるような気分が盛り上がってきた。タイめし効果かもしれない。めしの後に、タイマッサージ2時間で20%割引のちらしが室内にあったので電話した。15分ほどで日本で言えば薬局屋さんのユニフォームのようなものを着た小柄な女の人が現れた。最初の10分くらいは意識があったが、もう後は時々体勢を変える時に起こされて一瞬目が覚めるが、ほとんど起きていられなかった。いつの間にか2時間経って、終わったことを告げられたが、もう目を開けるのも立ち上がるのも面倒くさく、サイドテーブルの上にいくらかタイ・バーツを置いていたので、なんとかそこに手を延ばして200バーツをとって彼女にチップにあげて、また寝た。しばらくするとバタンというドアの閉まる音が聞こえた。僕はそのまま寝てしまった。

目が覚めたのは夕方の5時過ぎだった。とてもつもなく深い海に潜っていて、今戻ったばかりというような疲労感のある目覚めだった。でも、確実にもわーっとした状態から抜け出しつつあるのを感じる。ようやく先に明かりが見えてきたのかもしれない。

Thursday, December 15, 2005

とても Hung Up

な気分だなあ。なんもかも中途半端なまま、怒涛の闘病生活、というほどでもないけど、うだうだするだけで生産性皆無の生活を続けるうちに、もう何が中途半端だったのかさえ忘れ始めた。

今日はもういいかげんにすっきりしているかなと期待していたが、目が覚めてみると、いまいちだった。咳は減った。鼻水も減った。涙目も減った。のどの痛みはほぼ壊滅。しかし、全身の微妙な震え感がしぶとく残っている。脳みそがわなわなしてる感じが一番嫌だ。目に入ってくるものにちっとも現実感がない。ひょっとして頭の病気?

約束通り、旅行代理店の人がイスラマバード・バンコク・成田の往復チケットをもってきてくれた。64,800ルピーだった。米ドルに直すと、1,080ドルだが、百ドル紙幣しかもってなかったので、1,100ドル払った。なんか勘違いして頭の中では120ルピーのお釣りだと思って、お釣りいらないよと言ってしまっていた。後で考えたら、20ドルのお釣りだから、1,200ルピーもあげたことになる。ああ、バカじゃないか!

その後、歯医者に行った。常に2週間前からびっちり予約が入っているカリスマ歯医者なので、予約時間に遅れるとみてもらえない。今日も受付の女の子は愛想がいい。この国では愛想のよい若い女性というのはほとんど語義矛盾、つまり、あってはいけないことなので、この歯医者に入って彼女を見た瞬間、違う国に来たような気がする。女は笑顔一つで世界を変革する、とかってレーニンとかチェ・ゲバラとかカストロとか毛沢東とかジョン・レノンは言わなかったかもしれないが、『すべての男は消耗品である』には書いてありそうな気がする。

毎回、麻酔を打ちまくって治療をするので、今はいろんな薬をのんでることを一応伝えた方がいいのかなとも思ったが、たかが風邪薬だし、それに「それじゃあ、今日は治療なし」なんてことにはなって欲しくないので、風邪引いて調子悪いとは言ったが、薬のことは何も言わなかった。

相変わらず歯医者ジュネは手際よく治療を始めた。3人の若い女性がアシスタント役をやっているのだけど、分業がすごくうまくいっていて、ジュネの心が読めるようにてきぱきと動いている。ああ、それにくらべて、うちのオフィスときたら、ったく、とふと思うが忘れることにする。

あれっ?胃のあたりに盛り上がり感がある。なんか、これは吐きそう・・・。まずい、吐くのでは・・・。でも口をあけたままで治療は続いているし、何にも言えない。どうしたものか。この状態で嘔吐が始まると悲惨なことになりそうだ。痛い時は手をあげろとか言ってたから、手をあげたら気づいてくれるか。しかし、もう少し我慢してみようかな。終わるまで持ちこたえるかもしれないし。やっぱり麻酔と風邪薬の食い合わせが悪かったか??

吐き気を我慢して、目をつぶっているとやがて口を開けているのもしんどくなった。もうギブアップしようと思ったら、歯医者ジュネのOKという声が聞こえた。終わったらしい。歯医者に向けての逆噴嘔吐というおぞましい事態は避けられた。

いつものように、ジュネはまるで「今日の試合を振りかえって」みたいな De-briefing をしてくれている。こういうのがとてもジュネ先生らしい。治療方針、なぜそういう方針にするのか、そのための現実的なオプションは何か、それぞれのリスクは何か、そして今日はどこまで進んだか、要するに、決して患者を暗闇に放置しないという方針なのだ。見方を変えれば、まるで良いプロジェクト・マネジメントの見本のようだ。

歯医者を出てから、少し歩くことにした。四日間もごろごろしているので筋肉が衰えてしまってる。わなわな感もそれに関係しているのだろう。そう思って、昨日の夜は1キロほど離れたマーケットまで歩いて行き、ケンタッキーのフライドチキンを食べたのだった。注文する時に、「辛いのか、普通のか」って訊くから、辛いのをバーガーに、普通のを単品で頼んだが、食べてみると全部辛かった。とてもパキスタンらしい。帰りに、Radio City というCD/DVD屋さんで、マドンナの"Confessions on A Dance Floor" を買った。1曲目の "Hung Up" の懐かしい音色が聞きたかった。同じ歳で最も偉大な人はマドンナかもしれないなあ。

鳥風邪?

久しぶりに強烈な風邪をひいた。腰が痛くなってきたのが日曜日。翌日は朝からだるかったが、それでも元気ではあった。銀行に行き、パキスタン大使館にヴィザを取りにいった。この時、寒風吹き荒ぶ中、約半時間は外で立っていたと思う。これが効いたのだろう。その後、オフィスに行ったが、急激にだるくなってきて、座ってられなくなった。PCもバッグもそのまま全部オフィスにおいて、ゲストハウスに帰った。少し横になればましになるだろうとその時は思っていた。ところが、どんどんしんどくなる。のどが痛い。熱い。関節が痛い。ああ、風邪引いたと思う。あわてて、日本からもってきた薬を探す。こんな時用セットとしてもらった、フラベリック錠20mg、ペレックス顆粒、ムコダイン錠500mg、クラリス錠200、なるものをのむ。ついでに熱っぽく、あちこち痛いのでロキソニン60mgものんだ。

もうオフィスに帰るのはあきらめた。近所に住むミゲナに、帰ってくる時にバッグとPCをもってきてくれるように頼んだ。それにしても、このクソ忙しい時にと思うと、むしょうに腹が立つ。あれもこれもと頭の中はやるべきこと洪水状態で爆発しそうになる。夕方、所長が電話してくる。しんどい時はオフィスに来るなという話。2週間ほど前も同じようにダウンしかけたが、その時は体力の方が勝利して、大事には至らなかった。その時も結局、オフィスとゲストハウスの間を行ったり来たりして完全休暇はとらなかった。電話の向こうの所長の声は「ほれ見たことか」に満ちていた。

火曜日の朝。のどの痛みが悪化していなことを発見。やや安心するが、咳がひどい。鼻汁と涙が垂れ流し状態。頭はボーっとしている。身体全体が宙に浮いているような感じがする。無理だ、これは。一日じっとしている決心をした。うつらうつらしていると、バラモンから電話がかかってくる。あまりにマヌケな質問に地獄に落ちろと叫びたくなった。もっとまっとうな質問が山ほどあるはずの自分の部下からは電話がない。邪魔しないように気にしているのだ。それを考えると、バラモンのバカさかげんによけいむかつく。

水曜日になってしまった。咳き込んで苦しくなるようなことはなくなったが、鼻汁と涙は相変わらずだ。頭もボーっとしている。翌日の木曜日ははイスラマバードへ行って、金曜日に歯医者に行って、土曜の夜中にバンコクへ向かう予定だったが、この調子ではきついなあ。

寝ているかどうか、今電話してもいいかどうかという質問を、アミールが携帯のメールで送ってくる。なんというバラモンとの違い。イエスと返信すると、すぐに電話がかかってきた。電話でアミールと話してみて、声が出にくいことに気がついた。この二日間は実に声を出すことが少なかった。だから、自分の声の状態を認識していなかった。夕方にアミール+二人が僕のゲストハウスにやってくるということになったが、こののどの状態で無理に声を出すとまたぶり返しそうな気がして、静かに話そうと決意する。お見舞いに来るわけじゃない。この二日間にたまった質問をクリアにすることと、翌日からの予定と仕事の手順について話す。

彼らからブリーフィングを受ける。相変わらずバカバカしい事態もあちらこちらで起こっているが、すべて予想の範囲内で大して興奮するようなこともなかった。この年末に処理しないといけないことは多いが、なんとかなるだろう。

そして、とうとう木曜日になってしまった。イスラマバードへ行く便は午後なので、その前にオフィスに少しでも顔を出そうと思っていたが、どうにもこうにも調子よくない。昨日よりは改善していると思うのだが、全身が微妙に震えているような気がする。のどは特にわなわなしている。自分の声が自分の耳にストレートに入ってこない。宙に浮いた感があって、平衡感覚がにぶってる。

空港へ直行するというメールを携帯電話で自分の部下に送って、オフィスには行かず、空港へ向かった。空港の待合室でフブにばったり会った。How are you ? なんて言われてもねえ。あんまり良くないってこたえると、ひどい顔してるとフブは僕の顔をまじまじ見ながら言ってくれた。朝、鏡で自分を見て、ほんとひどい顔してると自分でも思った。

カブールからイスラマバードまでは1時間くらいだが、離陸する前から僕は眠り始めたようだ。着陸の直前になって目が覚めた。ものすごく長い時間寝ていたような感覚が残ってる。イスラマバード空港から市内までの車の中でも、またすぐに眠りに入っていた。何時間も 寝ていたような感じなのだが、実際は30分くらいだ。

この四日間、タバコをまったくすってない。タバコもすえないほど不健康になったということか。

Saturday, December 10, 2005

孝行息子は3カ衝撃を乗り越えなければならない

アミールは結婚していないが二歳の息子がいて産みの親である元彼女がボスニアで育てているが、本人はカブールで別の彼女と住んでいる。それがどうした?アミールは息子思いで、かつ孝行息子でもあるのだ。

休暇になるとアミールはボスニアに帰って息子と過ごす時間に最大のプライオリティを置いている。たまたまそこには元彼女である息子の母がいるのだろうけど、それがどうした?息子との失われた時間に対するなんとも言えず痛い感じはよく分かる。失われてしまった時間は、もう戻ってこないのだ、みたいなことを年中怒り狂ってる僕とは正反対にとてもマチュアで情緒のバランスが良いアミールがポツンと言ったことがあって、その時はちょっとドキッとした。

でも、彼は今、ジレンマ中でもある。両親をどこか外国に連れて行きたいと思ってもいるのだが、そうすると息子との時間が減少してしまうからだ。休暇一回分は確実に消滅するだろう。内戦中はスイスに逃れたり、戻ったりしていたそうだが、あまり詳しいことは知らない。「で、戦ったのか?えっ?どう?」なんて下品な訊き方になりそうで、どうにも話のもっていきようがなく、その辺の話は戦争があった、で、戦争が終わった、で通り過ぎる。

で、戦争が終わって、アミールの両親は息子二人(彼には弟が一人いる)に何か残さなければいけないと思い、なけなしのお金をはたいて、巨大な家を買ったそうだ。親というのは世界中どこでも子供に何か残さなければいけないと思うものなのだろうか。僕の親もよくそんなことを言っていた。僕も妹も何にもいらないというのに頑張って、結局借金だけ残してくれたが。

アミールの親が買った巨大な家というのは完成品ではなく、壊れた家だった。戦争があったのだから、なにもかも修理が必要だったとすれば、それも珍しいことではなかったのかもしれない。その壊れた家をお父さんは少しずつ修理しているそうだ。いずれ、息子二人がそこに住むことを夢見て。

「問題は」とアミールは言う。「まず、巨大過ぎて、おそらく全部修理するのは不可能か、可能としてもこの先何十年かかるか分からないということ。次に弟と二人で住むという可能性はまったくない。そして、どちらか一方がボスニアの片田舎に帰ってきて、その家で生活するということも考えれない。そんなところに仕事がないのだから、不可能なのだ」ということらしい。

アミールが両親にそう説明しても、「さあ、次はあそこのドアをつけよう」ってな具合で話にならないらしい。そんなこと聞きたくもないのだろう。もういいではないか、それが生きがいなら、そうやっていたら、と僕が言うと、アミールももうそう思うと言っていた。

そんな親にアミールがどこか行きたいところはないかと訊いたことがあるらしい。無口で黙々と家の修理をしている、彼のお父さんは普段何も要求するとか頼むとか好みを言ってうるさいとかそういうことがない人なのでまた何も答えないだろうとアミールは思っていた。ところが、お父さんは、一言恥ずかしげに、

「ピラミッド。」

と言ったらしい。何がなんだかさっぱり分からないが、ふだん何にも言わない父親がそんなことを密かに思っていたなら実現したいと思うだろう。よく出来た息子であるアミールは「なんで?」なんて野暮なことは訊き返さずに、両親をピラミッドに連れて行こうと思った。

僕も興奮して絶対連れて行ってあげるべきだと強行に主張した。僕の父親は入退院を繰り返して、酸素ボンベをつけて寝るらしいので、もう飛行機には乗れないだろう。そんなことにいつなるか分からないと思うと、ひとの親の話なのについ断固おせっかいになった。

しかし、いきなりカイロに突入するわけか。かなりの困難も予想される。カイロ、カラチ、カルカッタ、俗に言う「3カ・ショック」の街だからなあ。僕の第三世界体験はカラチで開始したのだけど、あれはホントにすごかった。あれほど呆然自失という言葉がぴったり当てはめる瞬間もそんなにはないだろうと思う。

しかも、年老いた親というのはまったく予測不可能な動きをするものだ。いやはや大変だろうけど、ここはアミールが奮闘するしかないだろう。

Friday, December 09, 2005

壊れた・・・

年末になると、恒例の決算という一大行事でてんやわんやになるのはもうなじみ深くなってるけど、いまさらアホではないかと思わざるを得ないこと続出で、怒るべきなのか笑うべきなのかもう分からなくなってきた。

ずーっと深酒をしていなかったけど、ボスニア人のアミールが故郷からもってきた手製のラキア(焼酎みたいなもの)がおいしくて、彼にちょっと飲まないかと勧められると、一杯だけのつもりで始めて、もう途中で何もかもどうでもよくなって、門限もへったくれもあるか状態で、アミールも僕も舌が回らなくて何を言ってるかさっぱり分からないはずだが、へべれけになりながらもなんか話していて、最後はカラシニコフをぶらぶら下げて、つま楊枝をいつも口に入れてる警備兵に護衛してもらいながら、ふらふらと自分の家まで歩いて帰るということが最近何回かあった。

みんな荒れている。
アミールは、ここの毎日は映画になると怒りをかみ締め笑いながら言ってたけど、ほんとにそうだと思うと、僕も笑いが止まらなくなった。よくもここまで奇想天外なことが毎日起こるものだ。もう腹も立たず、ただ笑いで腹筋が痛いだけになってきた。

すごーく久しぶりに、UNICAという国連のゲストハウスに行った。昔々は国連の人はそこにしか住めなかったので、僕もかつてそこに2年くらい住んでいたから、すごく懐かしいので行ってみようかなとは何度も思っていたのだが、今の状況を聞くにつけ行きたいという気持ちが失せていた。遊び場所みたいなのが何にもないので、夜な夜なUNICAにわんさと外国人がつめかけて、ガールハント・ボーイハント用の、いわば漁場みたいなことになって、「えらいことなってまっせ」という話だけ聞いていたのだ。

ある晩ふとビリヤードをやりたいと思い立って、迷いをふりきり、逡巡する身体に鞭打って、アミールを誘いUNICAに行くことにした。行ってみると、外見はかなりそのままで安心した。が、肝心のビリヤード台は壊れていた。なんか意気消沈。晩飯を食う気にもならず、サンドウィッチとかなんか簡単なものを作ってくれないかなときいたが、今は晩飯用ビュッフェの準備で忙しいからと断られた。

しょうがないから、バーにちょっと寄ってみようかと思っていると、アフガン人の男がタッタッタと寄って来た。視力が思いっきり落ちたので、2メートル離れているともう誰か僕は分からないのだ。

ミスターヨシ!
と言う。おおおお、ハミドではないか。彼はずーっとここのバーテンダーをやっているのだ。どれくらいずーっとかというと、国連がここをゲストハウスにするよりもずっと前、ソ連の社交界がカブールにあって、社交の場の一つとしてここが使われていた頃からずーっとなのだ。生き延びていたのだなあ。

バーに行ってカウンターにつくと、ハミドは昔は良かった、みたいな話をポツポツとし始めた。今はクレージーになってしまって・・・バカな西洋の若造が酔って暴れる・・・ビリヤード台を壊したのもあいつらだ・・・。彼は僕が毎晩ビリヤードをしていたのを知っている。ビリヤード台が壊れたのは彼のせいではないのに、なんか申し訳なさそうな顔をしていた。ビリヤードなんか全然やりたくなかったふうに見せようとちょっと努力してみた。

僕はかつてキッチンとバーのマネージャーをしていたので(当時、UNICAの住人で責任分担していた)、キッチンに行ってみたくなった。それに何かつまみになるものを作りたいとも思ったので、みんな忙しいのなら自分で作ろうと思ったのだ。

そこに住んでいた頃、片目のシェフがいて、彼に僕は中華風の料理をかなり真剣に教えようとしていた。彼は英語はいまいちなのだが、フランスで仕事をしていたことがあって、フランス語は得意だった。それでも英語の料理本を20冊くらいパキスタンで買ってきて、彼にあげて、いろいろ試していたのだった。やっと彼が覚えた中華あんかけ風焼きソバはその頃のカブールではほとんど革命に匹敵した。同じものに150%くらい食傷していた住人にも大好評だった。

キッチンに行って何か作ってこようと言って席を立ちかけると、ハミドの顔が暗くなった。

「死んだよ、あの片目。みんな新しい。行かなくていい・・・。」
と言う。

そうか。もう昔と違うのだな。いろいろ変わって当然なのだ。外国人みんなで寄ってたかって変えようとしているんだから。

なんかずうずうしいことになりそうだから、おとなしくしていることにした。その後で、ハミドはフライド・ポテトとサンドウィッチとサラダをバーのカウンターに持ってきてくれた。

習慣的にアルコールを飲んでいないせいか、すぐに酔っ払ってしまう。何も言わないのに、ハミドは僕のグラスが空になるとすぐに新しいのをついでしまう。結局、どれくらい飲んでいたのか、というか、お金を払った記憶がない。困ったもんだ。

かなりヘロヘロし始めてから、フブがやってきた。ヒューバートというオランダ人の白髪のおじさんなのだが、みんな彼をフブと呼ぶ。

ニコッとアミールと僕に笑顔をみせて片手を軽くあげて、近寄ってきた。そして、「ああ、今日は最悪の日だった」が彼の最初の言葉だった。誰もかれもみんな毎日、最悪の記録を更新しているような気がする。

彼はCapacity-Building の専門家で世界中を回って、現地の民間人や新しい現地政府のキャパビルを設計している人なのだ。言葉ばっかりで、全然現実離れした議論が蔓延している援助業界の中では、彼はとても珍しく、現地の状況を反映して、現実的でものすごく緻密な仕事をする人なのだ。彼と話をするのはとても楽しい。

ところが、彼のやってることを全然理解しない人も少なくなく、日々彼が絶望と落胆にめげず戦っているところを見ると、凄惨な拷問でも見ているような気分になる。年末になってバタバタと痴呆のように走り回るはめになるのは、彼のようにちゃんと現状を分析して、その対応策を長期的に設計しないからなのに、そんなことは微塵も考えず、目の前1.5メートルくらいのことしか考えず、ギャーギャー言ってる連中がこの世では常に多数派なのだろうか。

フブはフォト・ジャーナリストという側面もあり、美しいものに敏感で、かつ哲学にも若い頃、相当はまっていたようで、写真や文学や哲学の話をまるで学生に戻ったような気分ですることができて、とてもおもしろい。

でも、彼もいつか完全に切れてしまうのではないだろうか、とハラハラする。僕は自分はもう完全に精神衛生を壊していると思うが、もし専門の精神科医がここに来たら、そんな人はゴロゴロ見つかるだろう。

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壊れたか、フブ?(オフィスの敷地内で。バックに見えるは有名な土嚢)