Wednesday, August 16, 2006

ヒンドゥークシ 2

カブールから北に向かって行くと、サラン峠を越えてマザリ・シャリフに到達する。サラン峠はヒンドゥークシ山脈の一部だ。ヒンドゥークシは和訳す ると「イ ンド人殺し」となるのだが、なぜそんな名前が付いたかについて読んだ記憶があるのだが、その内容も、どの本に書いてあったのかも忘れてしまった。無念。










100キロ不発弾発見!



帰路につく、といっても、同じ風景なのだけど。

Sunday, August 13, 2006

ヒンドゥークシ

まだ、やってたんか、と思うでしょうね、こんなに間があくと。
アホみたいなことでアホみたいに忙しくて、と書きかけて、ブログを書かないからといって言い訳する必要もないのだと思ったので、突然話を変えようと思ったけど、ブログだけでなく、かなりたくさんメールの返答も書いていないということが頭をよぎってしまった。メールの返答というのは書く必要はないと開き直るわけにいかなくて苦しいものがある。

溜まりに溜まって、5,292本というのが現在の未読メールの数。いかんかも。マルマルさんは一日に一万本くらいメールが来るから、自動的に付く署名以外あり得ないというようなことを言ってるのをなんかの記事で読んだ記憶があるけど、有名人になるとメールというのはほとんど連絡手段として機能しなくなるんじゃないだろうか。

僕の場合は、有名人の苦悩とはまったく関係なくて、単に仕事のメールが溜まっていて、プライベートのメールというのは悲しいくらいに少ないのだけど(ほんとに少なくなった。めったに来ないと言っても過言ではないくらい少ない。普通の人間関係が極限にまで減ってしまった)、それだけに問題もある。来て直ぐに返答しなければ、怒涛のように押しよせる仕事メールの中で砂場に落としたコンタクトレンズ状態になって、そういうメールはほぼ永久に浮かばれない人生を送ることになる。

かといって、直ぐに返答が書けるメールばかりでないので、つい「後で」書こうと思ってしまう。「後で」はいつか来るはずなのだけど、恐ろしいことに、三年くらいその「後で」を待っているメールもあるではないか。こわい、こわい。

直ぐに書けない、というか書かない理由はいろいろあると思うけど、絶望的に「後で」が永久化する傾向にあるのは、回答するには全三巻の巻物にでもなりそうな論文試験的質問メールだ。そういう質問メールはたいてい真面目な質問なので、茶化して逃げるわけにも行かず、これは「後で」書こうということになってしまう。

意外と返答が書けないメールのカテゴリーに、近況報告メールというのもある。向こうが近況を知らせてくれているのだから、こちらも近況を書けばいいだけだと思うかもしれないが、近況などという茫漠としたテーマは実はとても書きにくい。いったい自分の生活のどの部分を切り取ればいいのか、近況の「近」をどの範囲にするか、詳しさの程度はどのへんに設定するか、全体のトーンはどうするか、などなど決定事項が多すぎて、これも「後で」書こうに陥りがちなのだ。

結局、一読速攻で返事が書けるのは、短答試験的質問メールということになる。こういう質問メールはさっと返答することができるので、生存率はかなり高いはずだ。

とごちゃごちゃ言うよりも、極限的に少ない仕事以外メールにこうも返信できないのは、一日の生活時間に占める、ものを考える時間が少な過ぎるということに尽きると思う。ほとんどの時間が仕事の作業か、仕事上で考えることに費やされてしまう。かといって、脳が全般的に活発に活動しているわけではなく、脳の機能のごく限られた部分だけを異様に酷使して、それ以外のほとんどの部分は寝ているような状態ではないかと思う。これは痴呆化の王道ではないだろうか。「痴呆になっても友達でいてくれますか」的テーマがちょっと映画界で流行ってたように思うが、それが現実になりそうだ。一気に痴呆に突っ走ることはなくても、確実に精神の貧困が起きていると思う。なんせ、仕事上で頭を使ってるのは、なんの役にも立たない懸賞クイズをやっきになって解いているようなもんで、ほとんど何も考えてないのと同じなのだから。

それで突然思い出したけど、「健全な肉体には健全な精神が宿る」と訳されている格言があるけど、実はこの解釈は誤解だそうだ。オリジナルは古代ギリシアか古代ローマの言葉で(どっちか忘れた)、本来の意味は「あぁ、健全な肉体にも健全な精神が宿ればいいのに!」ということだったらしい。現代風に言うと、野球バカとかサッカーバカとかいう、運動神経抜群の体育会系の人を完璧な運動音痴の生徒会系の人が嫉妬にもだえてもらす言葉と同じようなものかもしれない。しかし、こういう言葉を聞くと、貧困な精神は運動音痴・生徒会・嫉妬系の人の方に宿っていると見えてしまうのは皮肉なことだ。「こんな貧困な精神でもつきあってもらえますか」的テーマの映画を作ると、最高に陰湿なものができあがるかもしれない。

しかし、それならどうして5,292本も仕事メールが溜まるのかと不審に思われるかもしれない。それは全部開けても無駄だから開けないだけ。一つのサブジェクトに関するメールは何人もの関係者にコピーされているから、その何人もが返信して、ちょっと見ない間に同じサブジェクトに関するメールがすぐに10本くらいになる。そういう場合は、一番最後のメールだけ開く。この業界では、メールに返信する時に前のメールを決して削除しないので、最後のメールを開ければ、それまでのやりとりが全部載っている。だから、もう前のメールを開ける必要がなくなる、というわけです。それは一例だけど、いかに多くのメールを読まずに仕事が停滞しないかを探求してるわけです。そうでなければ、一日中メールのやりとりだけで終わってしまう。それが仕事だと思っている人もいないわけではないですが・・・。

メールで一番重要なのは、いかに読まないかということだけでなく、どんどん入ってくるメールをいかにオーガナイズするかだと思う。いろんなメールソフトを使ってみたけど、どれもこれもオーガナイズするという点では不満が残る、と思っていたら、Gmail。Gmail のメール・オーガナイズ機能は画期的だと思う。きっと僕と同じような不満を持っていた人が開発関係者の中にいたのではないだろうか。

フォルダーと自動振り分け機能というのは、便利なようでいて、実は自殺行為に近いものがある。自分でいろんなフォルダーを作り、受信メールを次々にフォルダーに分類して入れていけば、インボックスはきれいさっぱり、一見いかにも整理整頓が行き届いたように見えるけど、それは人生最後の日にやる後片付けのようなものだ。

分類というのは決して完璧にはできない。一つのメールがいくつものトピックに関わっているのだから、その中の一つだけトピックを選んで、そのトピックに分類してとりあえずお茶を濁すということになる。とりあえずの暫定的処理にも関わらず、何万本ものメールが何十かの分類フォルダーに振り分けられてしまうと、後でフォルダー名とはまったくことなるトピックですべてを見渡したいなんて、ふと思った日には発狂するしかない。整然と整理されてメール群を前にして、墓を掘り起こすような気分になってしまう。

その点をGmail はうまくやらかした。Gmailでは、メールにトピック別のラベルをつけることによって、そのラベル名のフォルダーが勝手にできる。だから、一見トピック別フォルダーを作って、そこにメールを入れたようにも見える。実際、そのラベル・フォルダーを開くと、そのトピック・ラベルのついたメールだけが現れる。ところが、ミソは実際にはメールはまったく移動していないという点だ。inbox にすべてのメールは入ったままで、フォルダーに移動しているように見せかけているだけなのだ。だから、まったく今まで考えていなかった観点でメールを再集合させようと思うと、それをinbox の中で簡単にすることができる。素晴らしい!と思った。残念ながら、Gmail のこの機能はウェブ上のことなので、PCにメールをダウンロードしてしまうと、使用しているメールソフトの機能に拘束されるので意味がない。Gmailのようなメールソフトが欲しい。どこかにないですか?開発してください。できれば、今使ってるThunderbird の改良版を作ってもらえたら、とても助かるんですけど。

というようなことを書く気はまったくなくて、久しぶりに写真を撮ったのでアップしようと思ったのだが、ここまで来たらもう消せない。写真もせっかくだから、ちょろ出し。