Sunday, February 25, 2007

Fairy-tale country

とうとうブータンにやってきた。
ここに着いてから、「なんて素敵な国なんだろう!」というセンテンスが一日に何度も頭の中に浮かんでくる。

初めて来た国なのに、懐かしさにハッとすることが何度もある。駄菓子屋さんの古い木戸の前にたたずんで静かに話しをしている、着物のような制服を着た女学生たち。その前を赤ん坊を背負った、やはり着物姿の女の人が通り過ぎていく。こんな場面に出会ったことがある、と思う。それが自分の記憶なのかどうかさえ怪しいのだが、確かに郷愁が胸の中いっぱいにわいてくる。



広場の中に立つ時計塔と広場を囲む、コンクリートではない建物。こんな場所が40年くらい前にはどこかに確かにあったとまた思う。ただそれがどこだったのか思い出せない。だから余計に郷愁が強くなるのかもしれない。

日本の着物とそっくりの服を来た人々が通りを行きかう。僕はその中をジーンズをはいて歩いているのだが、どんなに慣れている国にいても、外国の街を歩く時に感じる無言の圧迫のようなものを微塵も感じない。まるで何十年も住んでいた街にいるようだ。





自然破壊を未然に防ぎ、伝統文化を維持しながら、少しずつ着実に普通の人々の生活を豊かにしようとしている国。開発・近代・民主主義という悪魔の囁きにあっさり溺れることのない賢い人々の国。地球上にたった一つだけだろう、こんな国。

出国の前日、首都のティンプーから空港のあるパロに移動した。川に沿った道を17年前LAで同級生だったブータン人の友人が運転する車で走っていく。途中で通行止めにあった。道が細いので一方通行にしていたのだ。一時間待てばこっちから向こうへ走る車の番になるという。のんびりしたものだ。

車を運転している人も誰もあわてない。イライラしている人も一人もいない。道端にお菓子や飲み物を置いて売っている人がいる。車の中でぼんやりしていると、一人のおばあさんが干した赤唐辛子を売りに来た。ソナムがカブールでいつも使ってるやつだ。いくらか聞くと1キロ分くらいの大きな袋にいっぱいで 200円くらいだという。全部使うのに2年くらいかかりそうだと思ったが、一袋買った。


車の中に座っていても退屈なので、外に出て川のある崖下に向って歩いてみた。川の水が透き通っている。どこにも車が走っていないので聞こえる音は水の音だけだ。きれいな空気に澄んだ水。人間はこの自然に何をやらかしたんだろう、と思う。

オシッコがしたくなったが、どこにしてもいいってものでもないだろう。それなりの決まりがあるかもしれない。崖の上の方で心配そうに僕を見ている友達に「オシッコがしたいんだけど、どこですればいい?」って怒鳴ってみた。手振りで「その辺」と言ってる。

オシッコをしながら、渓谷を流れる川から少し視線を上げれば、遠くの方には頂が白くなった高い山の連なりが見えた。ヒマラヤ山脈の一部なのだろう。その上の空はとても青い。

崖の上にむかって歩き始めると、崖と思っていたものが段々畑状になっているのに気がついた。とてーも細い段々。そこに梅の花が咲いていた。素敵な国だ。

江戸?(↑)


Friday, February 16, 2007

二人の天才少女

NYからやってきたレーコとセヴィルが僕の部屋を基地にして、
いろんなミーティングに行っては帰ってくる。
そのうちの半分くらいは僕もいっしょに行くけど、
行かないのもあるから、そういう時は基地に帰還してきたら、
「ミーティングどうだった?」って訊く。

「うーん、基本的にはバカの激突なんだけどぉ、
またバカを隠そうとする人がいるでしょ、
で、話がややこしくなっちゃって・・・」

レーコらしいと思いながら、僕は笑いながら簡潔な要約を聞く。
やることは死ぬほど膨大にあるんだから、いちいち誰がバカだとか罵ってる暇もない。
だから、へらへら笑って基地で仕事を進めるしかない。
こうやって、まったく何にもすることがない人が95%くらいいて、5%がボロボロになってしまう。
やがて、5%は燃え尽きて辞めていく。そして、国連のクズの吹き溜まり化がいっそう進む。

NYからミッションが来ると普通は仕事の邪魔になってしょうがない。
たいていバカの大名行列みたいなもんだから、話してる時間が思いっきりムダになる。
なんて話をすると、官民問わず、どんな組織の人も深くうなずくので、
これは人類的傾向なのかもしれない。

しかし、今回は100%例外になった。レーコが来るというだけで勝手に心が躍ってるわけでなくて、
ミッションが発信する内容のレベル・スケール、こっちが発する情報に対する受信感度が今回は全然違う。

だから、一日一日の進展・停滞が雨雲が晴れていくようにかなり顕わになる。
普通のミッションでは、何を言いたいのか分からないバカ殿とか、
空想の世界の話を現実と思い込んで延々と話続けるドン・キホーテを相手にしなければいけないので、
最終日の頃にはフラストレーションが極点に達して、もう人類を救うという崇高な目的のために、
こういうバカ殿には自爆テロでも仕掛けるしかないのかという衝動でいっぱいになってくる。

セヴィルには初めて会ったけど、これはすごいかもしれないと思った。
旧ソ連下で英才教育の恩恵を受けるために死ぬほど勉強した元天才少女というイメージができあがった。
娘さんも13歳でSATを受けると言ってたから、天才の血筋なのかもしれない。
レーコと二人合わせると、IQは400くらいになってしまいそうだ。
僕のオフィスは400人全部合わせて、IQ200くらいだろうと思う。
まあ、IQがすべてじゃないんですけど、とりあえず普通に仕事の話ができる程度に揃えてくれるとありがたいとよく思う。

まったく基本原理の異なった二つの予算フォーマットを、
田舎っぽいエクセルを通してコンバートできるようにする話を、
前回NYからやってきたミッションにしたのだけど、全然理解せず、
あげくのはてにトンチンカンなまとめを一人でやって帰ってしまった後だったから、
セヴィルがあっさり理解して、
「じゃあ、その変形はあたしがやっておきます、三日あればできます」なんて言ってしまった時は、
僕もアミールもおしっこをちびる権利があると思ったものだ。
最終的にはオラクルに外注して、カッコイイソフトにしてしまう予定なので、
その前に早く基本構造を決めてしまいたいらしい。

マネジメントに必要なのものはいっぱいあるけど、やっぱり最後はartistic creativity じゃないのかって疑いがこのところ日々深まっていた。
近所にはMBAとかPh.Dとかもってる人はゴロゴロいるし、喋らせたら、いくらでも喋るし、
いろんなスキルも持ってるのに、仕事をするとなると、もうメチャクチャという人がものすごくたくさんいる。
いったいこれはどうしてなんだろうって、よく考えていたのだけど、最終的に行き着いたところは、
「あの人たちはみんなセンスが悪い」ということだった。
おしゃれとかそういうことを言っているのではなくて、だったらなんと言えばいいか分からないのだけど、
一度会えばもう隠しようもなく十分に出てくるもの。その発言とか振る舞いの端々に現れてしまうもの。

レーコがスーダンでやったことのブリーフィングを受けた後、一人になった時間に、
彼女がスーダンで作ったツールを後で一つずつ見ていて、やっぱり最後は、creativity だと確信した。
よくよく見ていくと、レーコはコンサル会社が何億円もの金額で受注してやってくれるような、
(そしてたいてい失敗するような)組織の根本的改革を1年ちょっとの間に一人でやってしまったことが分かる。

「レーコはirreplaceable」とセヴィルは言っていた。
きっとレーコの理解者は限りなく少ないだろう。
そして、「セヴィルについていける人はNYには一人もいない」とレーコは言っていた。
それは容易に想像がつく。いつかフラストレーションがセヴィルの頭をまるごと吹っ飛ばしてしまうんではないだろうか。

レーコとセヴィル、二人の天才少女が同じオフィスにいてホントによかったと思う。

Saturday, February 10, 2007

2回目の初心者

先週末NSさんが帰ってきたので、今日は(2/10)お昼に寺子屋を再開した。今日のお題はHuman Security 。まず、この概念ができるまでの歴史的背景の話から始めた。日本語の世界で「人間の安全保障」というと、スローガンの連呼のような話ばかりで、実質はどこへ行ってしまったのだろう?と思うことがしばしばある。まるで human security という概念が文脈から引き剥がされて、中味のない器だけがどんどん畸形化していったようでかなりきしょい。そういうわけで、ちょっと遠回りだけど、NSさんをまるごと文脈の中に入れようと思った。

具体的な歴史的背景の話のあとに、いったんHuman Security という概念が独立してからの理論的洗練の過程の話をした。State Security, Human Rights, Human Development などの概念がくんずほぐれつしていく話になるのだが、やはりこれは最初に文脈が見えてないと理解しにくい。彼女の質問は「なぜ・・・なの?」という形のものが多かったので、個々の単語が意味のある繋がりを形成し始めたのだろうと思う。散乱するキャッチフレーズを覚えるだけなら勉強なんかするより、鼻くそをほじくりながらパチンコでもしていた方が充実した人生を送れるだろう。

理論上の現段階の到達点の話はかなり寒いのだが、しみじみとした蓄積も英語圏では続いているので、これは将来もう一度詳しくしようと思った。

最後にHuman Security という概念を現実になんらかの活動として適用する話をした。今のところその入り口にあるのがThe Protection-Empowerment Framework なので、これの話を自分がかつて書いたボスニア・ヘルツェゴビナの調査報告書を元にして説明した。このFramework から具体的な個々の活動を導く過程に必要なツールがまだできあがっていないというのが実態なのだけど、その試みの一つとして自分が考えたことが報告書には書いてある。それと同時にhuman security という概念を明示的に使ってない、現行の様々な活動の中に実態としてhuman security とオーバーラップする考慮がすでに入っている話もした。

制度化するhuman security をめぐる惨憺たるゴシップなども交えて、だいたいそんな話をして終わった。NSさんはこれからプロジェクト形成をしていく人なので、なるべく早く思考の枠組みを手にした方がよいと思って、最初のうちは細かいテクニックの伝授のようなものはやらず、この世界のいろいろな把握の仕方みたいな観点でトピックを選んでいる。1回目はConflict からAssistance にいたるプロセスの話、2回目は援助の様々なターゲット別のNormative Framework とOperational Framework の話。難民とIDP援助に関しては、当然、51 Convention、67 Protocol、OAU Convention, Guiding Principles on IDPなどの基礎的な知識について、非戦闘員援助に関しては、国際人道法が定義するところの人道支援について、つまり4つのジュネーヴ条約の知識について話した。国際人道法上の占領軍の責務と援助団体の関係の話も含めた。3回目は平和構築という概念が形成される歴史と、現段階での実施上の傾向と対策のような話にした。

寺子屋の後、NSさんが日本から持って帰ってきた上善水如をイカの塩辛と松前漬けをあてにして飲むことにした。とてもおいしいので、5時くらいに飲み始めて5時半くらいに全部飲み終わってしまった。二人ともちょっと飲み足りないので、それから、ウォッカを飲むことにした。ブラディ・マリーを大量に飲み始めて、NSさんも僕もかなり酔っ払ってきて、わーわー話が続いていた。

そこにレーコが10時くらいに合流することになった。別のところでディナーをしていたのでその帰りに僕の家に寄ったのだった。5時間飲み続けていた僕と NSさんはもうデロデロになっていたが、レーコはさっと入ってきて、あたかもずっとそこにいたかのように溶け込んだ。11時頃、NSさんはよろめきながらも、ちゃんと自分の二本足で立ち上がって帰っていった。

そして、レーコと二人になっても、当然僕はまた一昨日のように飲み続けていた。今回はレーコもウォッカを飲んでいる。なんかとてもおもしろかったという感覚は残っているし、笑い転げてお腹の筋肉が引きつる思いをした瞬間なんかも覚えているのだが、また何を話していたのかまったく覚えてない。何時まで飲んでいたかも分からない。

ふと目が覚めたら午前6時くらいだった。また酔っ払ったままだった。二日酔いはまだずっと先のようだ。フラフラになりながらトイレに行ったら、猛烈に吐き気が襲ってきて、吐こうとするのだがなかなか出てこない。ロキソニンを飲んでまた寝た。

次に目が覚めたら8時半だった。9時半からミーティングがあるので、なんとかシャワーを浴びてオフィスに行ったが、ヨレヨレで頭が働かない。オフィスの自分の部屋で呆然としていると、リサが入ってきてYou look terrible ! と一言いって去って行った。

今日(2/11)はレーコを歓迎するランチをクロアチアン・レストランでやったのだが、そこでレーコに昨日は午前2時まで飲んでいたという事実を教えられた。つまり昨日の午後5時から数えると、9時間も延々と飲んでいて、それが終わったのが今から10時間前なのだから、全身にアルコールが隈なく滲みこんでいて当然なのだった。

お酒を飲み始めたばかりのティーンエイジャーじゃないんだから、もう少しコントロールできないのかと思うけど、爆飲の20代30代が終わって、ほんのつきあい程度のお酒しか飲まないようになっていた。それがかなり長い期間続いて、また最近ひどい飲み方をするようになってきたので、2回目の初心者のようなものなのかもしれない。そう思えば、人生を二回して得したような気もする。

Thursday, February 08, 2007

レーコがやってきた。

She's arrived と、レーコのヴィザとセキュリティ・クリアランスとフライト・チケットの手配を、普通は軽く1週間以上かかるのに、すべて5時間でやってのけたザビが窓の外の方を親指で示してニコッと笑いながら言った。僕がレーコをずっと待っていることを知っていて、わざわざ僕の部屋まで連絡しに来てくれたのだ。

二階にある僕の部屋の窓から外を見ると、空港から到着したばかりの防弾車から降りるレーコが見えた。すぐに走って階段を下りて外に出て行った。視界の隅に笑っているザビが見えた。思いっきり走って行ったので勢いがあまって、レーコに飛びヒザ蹴りを入れそうになったが、急ブレーキをかけてレーコに抱きついて挨拶した。ついでに隣に立っている、同じ飛行機で帰ってきたアミールにも抱きついた。

二年前の夏、ボロ雑巾のようになってカブールを去った天才少女が、すっきりとした大人の女になって帰ってきた。
ウーム、NYに住むとこうなるのだろうかと僕はちょっと田吾作の顔をして考えてみた。

* * *

ミゲナの家にレーコが泊まるので、僕も夕食はミゲナの家で食べることにした。夕食よりもミゲナがアルバニアから持ってくる地酒、ラキアを飲みたかった。めったに外出しないユカリ嬢も珍しくやってきた。3人の女性達はラキアも他のアルコールも飲んでいなかったが、僕は一人で飲んでいた。他の人にお酌をするというしきたりがないので気楽に一人で延々と飲んでしまう。お酌をされると僕は機嫌が悪くなるので困る。10時半頃にはユカリ嬢は帰ったと思う。11時頃にミゲナは自分の部屋に戻っていったと思う。到着したばかりで一番睡眠不足のレーコは最初半分寝ているような感じだったが、最後まで残っていた。レーコと二人だけになった頃には僕は完全に一人で泥酔していたはずだ。何を話していたのかまったく覚えてない。ハッと気がつくと午前1時だった。もう3時くらいかと思っていたとレーコが言ったのを覚えている。しかし、その後、どうやって帰ったのか全然思い出せない。向かいにある自分の家まで歩く途中の泥でぬかるんだ道の表面とか、家の白い鉄扉の冷たい感触とか、まったく意味のない断片だけが記憶に残っている。

* * *

のどがカラカラになってはりついて、背骨が粉々になって、頭を金属バットで殴り続けられているような気分で目が覚めた。時計を見るとまだ午前5時くらいだった。なんとか起き上がってトイレに行って吐こうとしたが、ゲーッとお腹の中から吐き気が上がってくるだけで、何も出てこない。ゲーっと上がってくるたびに涙が搾り出されてそれが鼻に入ってきた。鏡を見ると目が腫れて鼻水が垂れて、そのままハロウィーンに使えそうな顔になっていた。

今日は朝9時半にセレナホテルのジムに行く約束と、12時にランチの約束と、その後飲む約束があった。アホではないかと思ったがもう遅い。ロキソニンと大量の水を飲んでからアラームを8時に合わしてもう一度寝た。7時頃にまた目が覚めた。ひどいゴミのような気分はまだ続いている。アルカセルツァーとまた大量の水を飲んでベッドに横になったが、もう眠れない。昨日は何を話していたのか思い出そうとしたが、やはり何一つ思い出せない。頭が動くと残像が残る。脳みそにアルコールが滲みこんでいるような気がする。

9時頃にセレナホテルに着いた。ジムに行って走ったりしたら死ぬんではないだろうかと思いながら、NSさんが来るのを待っていた。

Groundtruthing

人々の生活を再建したくて、私はアフガニスタンに行ったの。
でも、意図が善いだけでは十分でないことをひどい思いをして学んだわ・・・
という見出しで始まる記事を読んだ。

"The Road to Helmand"
By Holly Barnes Higgins
Sunday, February 4, 2007; B01, Washington Post

アフガニスタンに限らずだけど、こういう仕事をしている人が現実をありのままに伝えるのはかなり難しいと思う。この記事の中にも、取材をしに来るジャーナリストの話が出てくるけど、そのジャーナリストの書いたものは結局現地に来て取材する必要のないものだったとホリー・バーンズ・ヒギンスさんはちょっと落胆している。

自分の頭の中にある悲惨なアフガニスタン、自分の国の読者が読むことを待ち望んでいるような衝撃のアフガニスタンを、ジャーナリストは求めて探し回る。現実をジャーナリストに見せようとするホリーさんの努力は無駄になる。悲惨とか、ばら色とか、そんな両極端の言葉で要約できる現実なんてどこにもないのに、ジャーナリストにはあいまいな現実なんて必要ない、あるいは記事にならないということなのだろうか。

これとはまったく逆にばら色の成功物語しか語れないこの業界の体質にもホリーさんは苦しむ。彼女はアメリカ政府の援助を現場で実施し、それをPRするという立場にいるので、いっそう苦しいだろう。何もストーリーがないところに、成功物語を捻出して宣伝しなければいけないのだ。

彼女はおもしろい言葉を紹介していた。groundtruthing。
ものすごい造語だと思ったが、Google してみたら、空撮や衛星写真の分野で使われる用語らしい。しかし、もちろんここではまったく異なる意味で使われている。ぴったし相当する日本語は分からないが、「現場の真実を伝える」というような意味でホリーさんは使っていた。

ホリーさんの現場はアフガニスタン南部の地球の果てみたいなところなのだが、彼女と彼女のスタッフ達は時々カブールのアメリカ政府役人に会いに行き、米国の現在の援助方針は現場の実情に合っていないのではないかと疑問をぶつける。そのプロセスを彼女たちはgroundtruthing と呼んでいるのだそうだ。彼女は一貫してとても冷静に書いているのだけど、ホントは米政府役人に向って、あんたたちは現実が何も分かってない!と叫びたいのだろうということは、容易に読み取れる。

まったく同じような思いをしている人は、アメリカの援助に関わる人だけでなく、すべての援助国の出先機関や国際機関に腐るほどいるだろう。アフガニスタンは、groundtruthing に挑戦して打ち破れていった人の屍の山かもしれない。確かに国際協力という業界には「成功」しか存在しないかのような体質がある。これはほぼ完璧な知的破滅ではないか。

ホリーさんは1年後、アメリカに帰っていった。契約を更新しなかったようだ。しかし、1年間あの地獄の一丁目のような場所に住んでいただけで、尊敬するしかない。僕なら三日目に病気になり、一週間後に死ぬと思う。彼女の住んでいた場所は、ラシュ・カルガという。

アフガニスタン最後の日に、彼女はオフィスで一人緑茶を飲む。アフガニスタンではどこへ行ってもこの緑茶を飲むはめになる。さめた出がらしのような緑茶に砂糖を思いっきり入れて飲むのがアフガニスタンの緑茶なのだ。それに比べたら、日本のお茶のおいしさはこの世の奇跡だろう。彼女はお茶を飲みながら思う。

「もし憂鬱に味があるなら、それは生ぬるく、甘さのない緑茶のようなものじゃないかしら・・・」。

絶望を通り越すと、そのようなことは書かないものだと分かるような文章が最後に続く。アフガニスタンの真実を書こうとすると、限界までウソに近づかないと、数時間後に自殺する人の遺書のようになってしまうだろう。ホリーさんの記事を読んで、話せば三分で終わるようなことを「フォーサイト」に書き続けるのがどうしてこんなに苦しいのか分かったような気がした。

自分の仕事に満足できるような結果はどこにもなかったことを彼女は冷静に受け入れる。それでも、もっと何かできたのではないか、という思いにつきまとわれる。そして、この最後の日に一枚の写真を見る。それは、彼女が作った冊子を学校に配った時のものだ。そこに写っているのは目を大きく見開いて冊子の写真に見入る教室いっぱいの子どもたち、その写真を指差し何かを説明している先生、ニコニコしながら冊子を配っている警察官・・・。

と書けば、この写真一枚で愛は地球を救うみたいな結論にもっていくように見えるかもしれないが、もちろん、そんなわけではない。彼女が疲れきっているのは、そんな写真一枚でアフガニスタンをばら色に描いてしまう、この世界のすべてだったのだから。

その写真を見ながら、彼女は言葉と絵が希望と可能性を呼び起こせるものなのだろうかと懐疑する。それでも、最後にそんな写真を見ながら、ほんのかすかな満足を感じることを自分に許そうとして彼女の文章は終わる。

彼女は自己欺瞞に無縁であるのはもちろん、国際社会というものの壮大な欺瞞を拒絶する。が、だからといって部屋の片隅で意固地になってすねているわけでもない。淡々と書き続けられたストレートな文章に好感をもった。

これを読んでいる時、僕はたまたまRachel Yamagata を聴いていた。あまりにぴったり合ってしまう。もう底なしの憂鬱に落ち込み、永久に這い上がって来れないのではないだろうかと思った。ホリーさんに会って話してみたい。

Monday, February 05, 2007

国境を越えて生きるあなたへ

ゲストハウスに帰ると、地下にあるジムから爆音のようなダンス・ミュージックが聞こえてる。ソナムが走ってるのだろう。
とりあえずバッグをベッドルームにおいて着替えてから僕も参加した。
前と同じように、”5分歩いて5分走る” を三回やった。
最後にもう一度5分歩いてクールダウンするので、正確にはたった35分の運動。

また失神しそうになるかと思ったが、今回は宙を浮いているような気分が残ったものの、若干の快楽があった。
たった35分で汗まみれになって、よろよろしながらベッドルームへの階段を上っていった。
すぐにTシャツを脱ごうとしたが、汗ではりついてなかなか脱げない。
靴下まで脱がされることを抵抗する。
この異様な汗は相当に不健康であることの証拠か。

不思議だ。
シャワーを浴びて、ベッドの上に転がってみると、またすぐに走りたくなってきた。
これはいい傾向かもしれない。
身体の中の何かが呼び起こされたのだろうか。
あるいは身体が頼むから止めないでこの身体を修理してくれと叫んでいるのだろうか。
明日もやってみるか。

* * *

もうすぐKKさんが東京からやってくる。知ってる人が来ると、普通に話ができるので楽しみだ。
なんか友遠方より来るみたいな漢詩があったな。なんであれは教科書に載るほどの意義があったんだろう?

おみやげはあんまり頼みたくないものだ。しかし・・・
LOVE PSYCHEDELICO がとても気に入ったので、残りのCDを全部Amazon で買って、
肉体酷使の道を歩むために、iPod Shuffle もインターネットで注文して、
全部お届け先をKKさんのオフィスにしたのでした。
今日電話して事情を話すと、飛脚役を快く引き受けてくれた。感謝、感謝。

* * *

ISAFの指揮権がイギリスからアメリカに替わった。ローテーションなのだ。
これで二種類の軍事活動が両方ともアメリカの指揮の下に入る。
明るい予測をする人がいない。

* * *

ひそかに求道者みたいだなと思っていて、でも面と向って求道者みたいだねと、つい後ろめたさが影響して優しく呼んでしまうNさんももうすぐ帰ってくる。彼女が勉強をしたいというので、かつて使った教材やらシラバスを引っ張り出してきて、一対一の寺子屋みたいなことを先月始めた。KAさんやNSさんも勉強したいらしいので、Nさんが帰ってきたら寺子屋拡大策を検討しよう。

こういう業界で働く日本人には、性格が良くて偏差値が高くてどんな国でも資産になるような人が少なくない。僕のように江戸の遊民が屁をこいたみたいなタイプは極めて異端だと思う。着物の絵を彫っていた父方のおじいさんは実際そんな感じだったみたいだ。やはり血というものか。そんなことはどうでもよくて、僕にとって今の日本がフツーにrepresent されてくるのは、どう考えても、盆踊りや歌舞伎ではなくて、LOVE PSYCHEDELICO や椎名林檎であるように、こういう人たちが僕にとっての日本人なのだけど、日本という国家の中に彼らの位置はほとんどないも同然、他の国ならのどから手が出るほど欲しがるような人材をまったく無駄にしている。

その一方でトドメを刺すかのように、19世紀の植民地行政官みたいに横柄な日本人が日本を代表してしまったりする(信じられないかもしれないが、ほんとに存在するんだから)。出不精だとか、つきあいが悪いとか、パーティ嫌いだとか、引っ込み思案だとか、自閉症だとか、地味だとか言われても、全部その通りなんだけど、それに加えてただ単に誰にも会う気にならないだけなんだけどなあ。

Sunday, February 04, 2007

深海の盲うなぎ

近頃、酔っ払ってゴホゴホ咳をしながらタバコを吸ってることが多い僕を心配したのか、隣のソナムがジムへ行くことをしきりに勧める。四ヶ月毎日ジムで40 分歩いて走り倒して10キロ痩せたと言うので、僕は3ヶ月連続下痢して13キロ痩せたことがあると言い返してやったが、あまりに哀しい目で僕を見つめるでちょっとジムに行ってみた。

”5分歩いて5分走る”を三回繰り返したら、死ぬかと思った。目が回って失神寸前になった。中学校でサッカーの練習をやっていた頃の、陽炎でゆれるくそ熱い運動場を思い出した。よくあんなに走ったもんだ。究極の運動不足がもう四半世紀も続いてるもんな。深海うなぎの目が退化して失明するくらい、僕の全身は退化しているんだろう。

それにしても、この咳なんとかならんかな。絵に描いたような喘息の老人臭くなってきた。そう言えば、小さい頃は小児喘息だったから、歳とるとそういうのが戻ってくるのかもしれない。喘息には水泳がよいと言われ、小学生の頃は毎日死ぬほど泳がされた。中学生になったら運動のやり過ぎで心臓肥大だと言われた。まったく。死ぬほど泳ぐといっても、一日2キロなのだけど、当時はそれでもかなり長く思えたもんだ。今なら、200メートルで確実に溺死だろう。

相変わらず、忙しいけど退屈だ。知的刺激ゼロ。この間に肉体的刺激に明け暮れてみるというのも良いかもしれない。

Friday, February 02, 2007

死に損

8月にカブールを去ったKOさんがこれはいいよって置いていってくれたCDをベッドルームのゴミの山の中から発見した。
すっかり忘れていた。
ボールペンでCDケースに走り書きがしてあった。LOVE PSYCHEDELICO ???
何者か知らないがとりあえずかけてみた。

おー、カッコイイではないか!
サイトも凝ってた。

KOさんに今度会う時は、アリス・クーパーをあげよう。

* * *

アリス・クーパーのYou And Me という曲がきれいなので、歌詞を見てみたら、あのオッサンがこれを歌っているとは、ますます信じがたくなってきた。やはり時代というものだろうか。エルトン・ジョンの「僕の歌は君の歌(Your Song)」と、かぐや姫の「神田川」と同じトーンの歌詞だ。貧乏だけど頑張ろうね・・・てか。70年代初頭の世界はそんな色だったような気もする。が、正確には覚えていない。

You And Me

When I got home from work
I wanna wrap myself around you
I wanna take you and squeeze you
'till the passion starts to rise.

これは恥ずかしくて日本語にできない。

I wanna take you to heaven
that would make my day complete
but you and me ain't movie stars
what we are is what we are
we share a bed some lovin' and t.v. yeah.

「君を天国に連れて行きたい。
そうすれば、僕の一日は完成する。
君と僕は映画スターじゃない。
これが僕たちなんだ」
what we are is what we are は、日本語にしにくいなあ。
「一つのベッドとテレビを二人でつかう。」
普通二ついらないと思うけど。

That's enough for a workin' man
what I am is what I am
and I tell you babe
well that's enough for me.

「でも、それで僕には十分、
僕は僕」
また出てきた。what I am is what I am.

Sometimes when you're asleep and
I'm just starin' at the ceiling
I wanna reach out and touch you
but you just go on dreamin'.

「時々君が寝ている時、僕はただ天井を見つめている
そして・・・」

If I could take you to heaven
that would make my day complete
but you and me ain't movie stars
what we are is what we are
and I tell you babe
well that's enough for me.

You and me ain't no superstars
what we are is what we are
we share a bed some popcorn and t.v. yeah.

「君と僕はスーパースターじゃない、
これが僕たち、
ベッドとポップコーンとテレビを二人で使う」

And that's enough for a workin' man
what I am is what I am
and I tell you babe
well that's enough for me.

When I got home from work
I wanna wrap myself around you
I like to hold you and squeeze you
'till the passion starts to rise.

I wanna take you to heaven
that would make my day complete ...

全部訳そうかと思ったが、こんな日本語とても書けないな。
でも、これ歌ってるオッサン、これ(↓)ですよ。ど、どうですか?
照れるからってニシキヘビくわえる必要もないでしょ。


* * *

先週末のミーティングでISAFの人が、去年1年間に、ISAFが近づく車を攻撃したケースが47件あったと報告していた。自爆テロかもしれないので、自衛のために先に攻撃するってやつです。その47件で21人死んだそうだ。で、結果的にはその中にSuicide bomber は一人もいなかった、とも報告していた。

Thursday, February 01, 2007

虫食い算

昨日、車に酔った。気持ち悪い。吐き気がする。ゲップみたいな、ちょっと違うような、気体の固まりがお腹の中から上がってくる。オフィスで座っていても吐き気がして何もできないので、6時前に帰った。

だるいのでベッドに横たわってると、隣の部屋のSがジムに行こうとさそいに来た。何か返事をしようと思ったが、その前に僕の顔を見て何も言わず引き返して行った。

眠いわけでもないけど、吐きそうなので横になっていたら、うとうとしてきた。
遠くで電話がなってる。手をのばして電話をとったら、切れた。リサからだった。きっと今日締め切りの報告書のことだろうと思ったけど、話す気にならないのでかけるのはやめた。報告書一つで誰かが死ぬわけでも、救えるわけでもない。

電話をベッドの上にほりなげると、すぐにまたかかってきた。今度はNYのJからだった。昨日は3回かけてきたようだけど、全部とりそこねていたので今日はとることにした。

いきなり昨日は自分もCも電話したのに、全然つながらなかったというグチで始まった。Cもそんなことをメールで書いていた。全然気がつかなかったので、鳴っていなかったような気がするんだけど(そんなことはしょっちゅうある)、分からない。

Jはなんかずっと喋ってるがちっとも頭に入ってこない。Mが数日前に送ったメールのことを訊いているようだけど、毎日100本以上来るのに、数日前のメールのことを言われてもすぐに思い出せない。プロジェクト・サポート・コストがどうとか、余ったお金がどうとか、契約更新がどうとか、契約金額の合計がどうとか、延々と喋ってる声がだんだん遠くに消えていくような気がした。

どうして僕に電話してくるんだろう、メールを送った本人に電話すればいいのにと思いながら、お金については何にも変わらないよ、変わらないように契約期間だけを変更するのが目的だったんだからと言ったけど、通じてないような気がした。ちゃんとメールを読んで添付された文書を見て自分で考えれば何もきくことなんてないはずなのに、国連には自分で考える人は一人もいないような気がしてきた。

電話のあと、また横になりながら風邪がぶり返したのかもしれないと考えていたら、いつのまにか寝ていたようだ。また電話が鳴っていたが、とらなかった。明日の苦情の種に残しておこう。

目が覚めると2時間も経っていた。ちょっと気分はよくなっていた。が、立ち上がると、くらくらした。車酔いがこんなに続くのは変な気がする。やっぱり風邪か。何か食べた方がいいような気がするがまったく食欲がない。今日は何を食べただろうかと考えてみたら、お昼にベーコンサンドウィッチを食べただけだった。お腹はすくべき時間だった。

キッチンに行って冷蔵庫をあけたが、何も食べる気がしない。食べ残しのケーキがあったので、それをもってリヴィング・ルームに行ってメールをチェックすることにした。オフィスから早く帰ってきたので、その後のメールが気になっていた。やっぱりJとCのメールが来ていた。JはドナーAの契約について、CはドナーBの予算について。気分がよければ、すぐに終わりそうな仕事だけど、手をつける気がしない。

しばらくPCを見ていたら、また吐き気がしてきた。ケーキは二口ほど食べて、あとは捨てた。食べたのがいけなかったかもしれないと後悔したが、もう遅い。やっぱりベッドルームに退散することにした。バスルームに行って歯をみがこうとしたら、洗面台でとうとう吐いてしまった。やっぱり風邪かなと思ったが、ちょっと楽になった。

アルカセルツァーをのんで、しばらくベッドの上でボーっとしていたが、眠くもないのでラップトップPCを文字通りラップの上にのせてドナーBの予算を作り直した。お客さんの希望に合わせて中味をぐちゃぐちゃに変更して、でもトータルだけは1円も変わらないような作業をしていると、虫食い算を思い出した。

* * *

朝起きたら吐き気はなくなっていた。そのかわり猛烈にお腹がすいていた。