Saturday, July 26, 2008

日本の映画もたまには

明日は休み、家族はいない、仕事はしないようにしようと決めていたので、夜中にテレビを見ていたら、日本の映画が出てきた。日本のテレビと同じでこっちの映画はデンマーク語に吹き替えして放映していることが多いのだけど、しばらく見ていたら字幕はデンマーク語で日本語のまま続いている。

やたら中学生が人を殺しまくる。キタノタケシが演じる登場人物の台詞のあちらこちらに日本人しから分からないような日本社会のパロディが現れている。ストーリーがあまりに荒唐無稽なので、よくこんなものを映画にしたなと思うが、解釈のしようによっては、めちゃくちゃな設定の中に日本を表現しようとしているのかもしれないとも思う。

徹底的にある一つの固有の国の映画だと思う。この映画は日本人でないといいも悪いも評価のしようもないのではないだろうか。それが悪いというわけではなく、日本という文脈を思い出す機会になった。ゲイシャもフジヤマも関係なく、日本人には、あー日本だなと分かるが、日本の外では説明するのが異様に難しいか不可能なものがある。

アメリカ映画やインド映画でもアメリカ人やインド人のみがしみじみと理解できる映画と、最初から国境を越えたaudience を想定している映画に分かれていると思う。前者の映画は日本人の僕にはとうてい理解できないものだろう。

それにしても、この映画のタイトルはなんていうのか気になったので最後まで見た。やっと最後に「バトル・ロワイアル」と出てきた。はっ!これが「バトル・ロワイアル」か、とちょっと驚いた。見たことはないが、この映画にはちょっとだけ縁があった。評判が良かったのか、ただ単に評判になっただけなのか全然知らないが、「バトル・ロワイアルII」の最後のシーンにカブール・ノートの一節を使わせて欲しいという依頼が来たことがあった。2002年か2003年だっと思う。猛烈に忙しかった上に、知らない人から毎日山ほどメールが来ていた頃だ。たぶん5%も返信できなかっただろうと思う。映画の内容も知らずにOKと返事したのは覚えてる。出来上がったらビデオくらい送ってくるかと思っていたら何も送ってこなかった。やがて、そのまま忘れてしまったのだった。

どういう映画に使われたのかが今になってやっと分かった。ウェブを見てみると、オリジナルは良かったがII は駄作という意見が多い。深作欣二監督が途中で亡くなられ、息子の深作健太が監督代行になったことを原因にあげている意見もあるが、そういうのは僕には判断のしようがない。たたし、一作目を見ただけで言うなら、「カブール・ノート」はたとえどこを切っても絶対に「バトル・ロワイアル」には合わないはずだ。バトル・ロワイアルの良さはそこにある。しかし、そういう無理な組合せをするところに監督の途中交代による映画作りの混乱が出てしまったのかもしれない。

でも、いつか機会があればII を見てみようと思った。

Monday, July 21, 2008

"You can get food out of it."

2週間経ったら、全部枯れているんじゃないだろうかと思いながら、家の中にある植物の鉢に水を大いめにやってから2週間前家を出たのだが、帰ってきてみると、みんな弱っていたがちゃんと生きていた。すぐに全部に水をやり始めたが、全部で11個の鉢に水をやるのは結構面倒なものだ。

コペンハーゲンに帰ってきてから二日目、鉢を見てみると見違えるように植物がピンとしている。土を触ってみると、もう乾いている。昨日やった水はきっと吸いきったのだろう。また11個に鉢に水をやることにした。

実はこれ以外にも三つ鉢がある。鉢というかプラスチックのコップなのだが。
前回カブールから帰ってきた時だから、6月のことだが、キッチンに行くと三分の一くらいの深さまで土を入れた、小さなプラスチックのコップからちょろちょろっと植物の芽が出ているではないか。5歳になったばかりの次男がそのコップの中に土とありとあらゆる種を入れていたのは母親から聞いていたから知っていたが、それが芽を出していたのだ。こういう生命の誕生を見ると、なぜか興奮するものだ。たまたまキッチンのイスに腰掛けてミルクを飲んでいた次男に、おいっ、見たか、植物の芽が出てきたぞっ!と興奮を隠し切れず話しかけると、次男は、軽くうなずいて、

"You can get food out of it."

と一言。
うん?それで食べ物が取れるよと言ったのだが、そういう見方をしていたのだ、次男は。

この次男はあらゆるものの根源を知りたがって、すべて質問するのだ。これは何でできているのか、どうやってできたのか、自動車から野菜から果物から家具から視界に入ったものはすべてきいたのではないだろうか。この質問に答えるのは実に難しい。科学技術が進めば進むほどすべてのものがブラックボックス化していくという未来学者が何十年も前にいたが我々を囲む世界は実際その通りだ。テレビはどうやってできているかとか、冷蔵庫はどうやってできているかなんて説明できる人はほとんどいないだろう。しかし、次男の質問はすべてそういうブラックボックスの中身に迫る質問なのだ。

次男のこれまでの、そういう経緯を考えると、なるほど土から芽が出てくるという現象を前にしての、次男のこの落ち着きは納得できる。彼は今一つの謎---ある種の食べ物がどうやってこの世に出現するかという---の解を実際に自分の目で見て、確認して、落ち着きを得た満足にひたっていたのではないだろうか。

「分かる」とか「知る」ということの本質を大人は忘れてしまっているが、子どもにはまだその本質しかない。子どもの会話することによって、大人は、あれっ?という立ち止まりと共にようやく本質に引き寄せられる。そして、自分の世界に戻ると、いかにうわべだけで中味のない生活に終始しているかということに思いがいたりぞっとする。

プラスチックのコップから出ていた芽はあまりにも弱っていた。もう茶色くなっているものもある。土もからからにひび割れしている。もうダメだろう、コップごと捨てよう、と一時は思った。しかし、どうしたものか、次男が帰ってきた時に現実を見せる方がいいのではないだろうか。そして、ほんの少しだ、生き返る可能性もある。別の種が芽を出し始めることもあるかもしれない。

結局、三つのプラスチックのコップにも水をやって捨てないことにした。

Saturday, July 19, 2008

混沌というか・・・

今日、イスラマバードからコペンハーゲンに帰ってきた。
イスラマバード空港でチェックインしようとすると、パスポートのコピーを出せと言う。ホンモノのパスポートを見せているのに、おかしなことを言う奴だと思って「そんなもの必要だなんてきいたことない」と言うと、チェックイン・カウンターの男は「20年間そういうシステムが続いているのだ」と真面目な顔して言う。思わず笑ってしまった。「その20年間にこの空港に100回はチェックインしているが、パスポートのコピーなんて一度も出せと言われたことない」と一応言ったが、どうも笑えてきて、本気で言い返す気力が出てこない。しかし、向こうは他の乗客のパスポートのコピーの束を出してきて、勝ち誇ったような顔をしている。本気で20年話を押し通そうとしているらしい。

実にバカバカしいのだが、実にパキスタン的でその束を見てまた笑ってしまった。そして、なんと、いつの間にかちゃんとパスポートコピー専門コーナーみたいなものがチェックイン・ロビーに出来ているではないか。そこに言ってコピーをしてこいと言う。20年話のプライドを傷つけても何も得るものはない。そっとしておくことにして、さっさとコピーをとってくることにした。

こういう第三世界の空港に行ったことがないと想像し難いと思うが、だいたい何も問題がなくても空港そのものが混沌の極地なので、プライオリティは、あるべき世界像(あるいは真でも善でも美でもよいが)を求めることではなく、モノゴトを進めるということに集中するべきなのだ。こんなところで目くじらを立てている人はだいたい第二、第三のもっと本格的なやっかいごとに巻き込まれる。

おそらく最近パスポートコピーという専門職を手にしたばかりであろう若いパキスタン人の男は誇りに満ちた顔をしていた。それもそのはずだ。値段をきくと35ルピーだという。1ドルが70ルピーくらいなので、ほとんど判読不能なコピーが1枚50円以上することになる。パキスタンでは法外な値段だ。特殊なスキルが要求される職として認知せざるを得ない。

混沌も使い方しだいでは役に立つ。イスラマバード滞在中のある日ふと思い立って、いつも日本の医者にもらう睡眠薬が手に入らないだろうかと考え始めた。睡眠薬でも2週間分しか出してくれないものと、2ヶ月分だったか3か月分だったか忘れたが、一回でかなりたくさん出してくれるものがある。日本の医者に行くたびに両方を限度まで出してもらうのだが、とっくに全部なくなっていた。それからはNYに行くたびに32錠入りの市販のもの(Unisom とかそれの類似品)を5箱ずつくらい買っていたが、これがあんまり効かない。こういうのは抗ヒスタミン剤の眠くなる効果を利用しているらしい。風邪薬みたいなものだ。

日本でもらっていた薬の商品名を外国で言っても分からないだろうから、外国での商品名をまず発見しないといけない。ネットでいろいろ調べてみると、日本でかなりたくさん出してくれる睡眠薬の成分はどうやら Zopiclone とか Zolpidem というものらしいということが分かった。各国、各地域で異なる、それらを含むいろんな商品名(Amoban, Ambien,Hypnogen, Myslee, Nimadorm, Nitrest, Sanval, Stilnoct, Stilnox, Zoldem, Zolfresh, Zolt)も出てきた。

これらの知識で武装して(ノートの切れ端にメモしただけですけど)、薬局に行ってみた。日本の薬局はどちらかというと静かなイメージがあるが、パキスタンの薬局はなぜかわいわいとにぎわってる。みんな薬が好きらしい。他の客をかきわけてやっとカウンターにいる一人のニーちゃんにいろいろと薬の名前を言ってみるが、なさそうな雰囲気。ちょっと待て、と言って、カウンター係りの元締めみたいなオヤジにききに言った。

ひょっとしてとんでもない薬の名前を口に出したのではないだろうか。この場で逮捕されたりしないだろうか、などと考えて少し動揺しそうになる。このニーちゃんを一人で行かすのは危険だと思い、元締めの近辺までついていった。

すると、この元締めはこんなことも分からないのかとでも言いそうな形相で若いニーちゃんをジロッと見返して、カウンターの中の壁にぎっしり張り付いているような数々の薬の一つを顎だけで指示した。よくそれだけで特定できるものだ。若いニーちゃんをさっそくそれを取って、その箱を見せてくれる。薬の名前は Xolnox と書いてある。こんな名前はなかった。成分を見ると、Zelpidem Hemitartrate と書いてあるではないか。どうやら類似品には違いない。

しかし、問題は医者の処方箋がないことだ。うん、これはなかなか良さそうだと言う顔をして、一ついくら?ときいた。一箱に20錠入って、190ルピーだという。300円くらいだ。やすっ!さて、何錠必要というか。一箱だとすぐになくなってしまう。三ヶ月分くらいは欲しいところだ。しかし、そんなに売ってくれるだろうか。おどおどしてると怪しまれるので、思い切って5箱と言ってみた。950ルピーと即座に返答された。あれっ?何にもきかないのかな、と思っているうちにさっさと5箱を紙袋に入れて手渡してくれた。あっけない。そんなんでいいのか。薬害の心配とか考えないのか、ひどいものだ、と思ったが、いまさらどうしようもない。いや、内心うきうきしてスキップして帰りそうになった。

これに味をしめて、出発の前日また今度は前行った薬局の隣の薬局に行って、同じものを5箱頼んでみたが、やはりあっさりとくれた。というわけで全部で200錠も買って帰ってきた。もっと買おうかと思ったが、調子にのって飲みすぎるといけないのでやめた。

その後、Vanguard Book Store に行って、"Murder in Samarkand - A British Ambassador's Controversial Defiance of Tyranny in the War on Terror", Craig Murray を探したがなかった。ずっと以前に書評を読んでいつか読もうと思っていた"Osama: The Making of a Terrorist", Jonathan Randal があったので買った。コペンハーゲンまでの機内で読み始めると、これがおもしろくてやめられない。オサマ・ビン・ラディンについて調べたのはもう10年も前のことだ。その当時に調べたようなこと-「カブール・ノート」や「イスラム・コラム」に書いた-がこの本でも出てくる。オサマという名前の商店の名前や子どもの名前が増えた当時の様子や、オサマをアフガニスタンから追い出すか、追い出さないか、タリバン内部の葛藤。おそろしく月日が経つのが速い・・・。

Wednesday, July 16, 2008

Books and Movies

記録を見ると、4月23日から5月1日までがニューヨーク出張になってる。その時に買った The Bottom Billion: Why the Poorest Countries Are Failing and What Can Be Done About It , Paul Collier, 2008.をカブールで読もうと思っていて持って行くのを忘れたのはここで書いたかもしれない。カブール出張は5月23日から6月8日までになってるので、それからまた一ヶ月以上経っていることになる。今度こそイスラマバードで読もうと思って持ってきた。が、なかなか手をつけられない。

2週間の休みをとって来たはずなのだが、結局休みにならない。誰が休みを取ろうがそんなこと関係なく、膨大な量のメールが延々と入ってくるし、誰かが処理しなければならない仕事は常にあるのだがら、その処理をしろと言う人がいないと結局仕事がすすまなくなるので、ほっとくわけにもいかない。どこから電話がかかってくるかも分からないし、どこにかける必要が出てくるかも分からない。こっちに来てからロンドン、コペンハーゲン、ニューヨーク、東京、カブールから電話がしばしばかかってくる。コントラクタとの新規契約の許可申請をしたり、予算改定したり、もうずるずるだね。

しかし、そういうことだけが The Bottom Billion に入り込めてない理由ではない。休みならではの理由もある。まずイスラマバードに来て早々本を買ってしまった。当然、僕の頭の中の焦点がそっちにいってしまい、それをぱらぱらと開き始めると、もうそっちの方に関心がしゅーっと行ってしまう。

買った本。
Descent into Chaos, Ahmed Rashid, 2008.まだ読んでない。最初の数ページだけ読んでみたが、この人の文章はやはりジャーナリストの文章だ。内容がジャーナリスティックだと批判しているのではなく、そのスタイル。プロのライターと言った方がイメージが沸きやすいかな。彼の『タリバン』の翻訳書は読んだことないが、日本語になると、そんなスタイルはろ過されてしまうかもしれない。内容とは別に、学者には書けない文章のリズム、子気味良さがある。それが世界で何百万部も売れた理由の一つだろう。

と書いてThe Bottom Billion の方を思い出したが、正真正銘の学者、Paul Collier の文章はものすごくcrisp なのだ。内容の深刻さとは対照的に爽快感のあるスタイル。だから、学者の本と言えども、一般人も引き込まれてしまうのだろう。

FORGOTTEN WARS - The End of Britains's Asian Empire, Christopher Bayly, and Tim Harper
まだ読んでない。サイード・ブックストアで見つけて、パラっと開いてみてどうしても読みたくなった。裏表紙にこんなことが書いてある。
---The Second World War ended officially in 1945, yet for Asia the conflict was far from over. Britain's Asian Empire was engulfed in a new series of diverse, intense and bloody wars, which raged throughout Indonesia, India, Burma, Malaya and Vietnam as an unstoppable wave of nationalism swept the old colonial ways aside. This is the story of the struggles of military commanders and revolutionary leaders, but also of orginary people caught up in the insurgency, rioting and turmoil that heralded the birth of a new Asia---

日本の文脈で出てくる「日本はアジアを西洋の植民地支配から解放して日本は感謝された」論を、イギリスの視点から見たらどうなんだという興味もあるが、そんなことよりも、戦争でいったん機能不全に陥った国が再び機能し始めるまでの道程をこういう具体的に歴史で見てみるのは実に興味深いと思う。かなり前BBCだった思うが、アフガニスタンの復興事業の数々をとりあげて、例えば税関の制度とか、警察制度とか、そういうものがいったい他の国では成立して機能するまでにどれくらいの年月がかかったかというのを比較して、映像として紹介してるプログラムがあった。いわゆる国際社会の、Nationa-buildingやら State-buildingやら Peacebuilding の勇ましいスローガンがいかに幼稚な絵空事に過ぎないかをあぶりだすようなプログラムだった。目次だけで中味のない本のようなものだ。その基礎にあるのは、人類が何百万年にも渡って蓄積してきたであろう社会の成立のためのありとあらゆる知恵に対する圧倒的な過小評価と無知があるのだろう。それは、たとえば民主主義なんて一言に還元できるものであるわけがない。

Occupational Hazards, Rory Stewart, 2007.
一気読みした。躊躇なく★★★★★★★
やっぱりOccupational Hazards については感想をいつか書こう。








さて、パキスタンといえばDVD.買いましたよ。

SUPERHIRO MOVIE:
ゴミですね、これは。

Lions For Lambs:★★★
これは会話、上院議員とジャーナリストの会話は素晴らしい出来だった。トム・クルーズとメリル・ストリーブが演じるのだが、彼らの会話をする時の演技は実に素晴らしかった。これは日本では『大いなる陰謀』という邦題になったそうだが、いまいちずれてる。この会話を字幕で追いかけるのは不可能だろう。大学教授と学生の間の会話、これも一つの柱だったのだが、これもいい。実にいいシナリオライターがいて、こういう台詞の言い回しを作ることができたのだろう。映画としての出来には不平もでるかもしれないが、この会話だけでも十分価値のある映画だった。ある意味で、これが21世紀のイージーライダーなのかもしれないと思った。

RENDITION:★★★
上記の映画もこれも結局、9・11以後の同時代を描こうとしているのだが、一個の映画としてまとまりよく成立しているのはこっちの方だろう。

Blood Diamond:★★★★★
強烈。しかし、現実はもっとはるかに陰惨で強烈で救いがないのだろう。しかも映画のような結末もない。構成やカメラやシナリオどれをとってもSuperb。そしてデカプリオの演技がすごく良かった。南アフリカ訛りをすごくうまく出していた。
現在も20万人のチャイルド・ソルジャーがいるそうだ。後藤健二の『ダイヤモンドより平和がほしい - 子ども兵士・ムリアの告白』を合わせて読むと分かりやすいかも。

Saturday, July 12, 2008

川遊び

昨日イスラマバードから北の方へ向った。マリを越えてナティア・ガリに行って、そこで一泊してイスラマバードに戻るというだけの小旅行。この地域はヒマラヤ山系のふもとにあたり、標高が高いのでインド・パキスタンがイギリスの植民地だった頃、the Chief Commissioner の夏の本部が置かれていた。今でも、パキスタン軍の施設がたくさんある。

マリにはパキスタンでもっとも由緒正しいLawrence Collegeがある。19世紀、戦死した英軍兵士の子ども達のための施設としてつくられたそうだが、パキスタンが独立してからも存続し、パキスタンでもっとも優秀な子ども達が集まる学校になっている。広大な緑の敷地に伝統的イギリス風の建物が並ぶ。ケンブリッジ大学の一画のようなものを想像すればいいかもしれない。

ナティア・ガリは緑が美しく、濃い霧に包まれて神秘的な雰囲気をもっている。そして、寒い。標高2500メートルくらいらしい。ジャケットを持って行こうと考えていて、イスラマバードを出てくる時に忘れた。半袖のシャツ一枚で富士山に登るようなものだ。

イスラマバードから北へ続く道の西側はカシミールだ。妻の姉・妹もいっしょに行ったのだが、姉の方はカシミールで1年ほど地震被害の救援・復興の仕事していたので、その状況がいかに凄まじかったかを語っていた。アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットに会ったか、ときこうかと思ったがやめた。

北から南を目指してイスラマバードへ帰る途中、川沿いに車をとめて昼食をとることにした。そこにマスの唐揚げのようなものを名物にしてるお店がある。客が来ると合成樹脂のイスとテーブルを川の中に持ち出してくる。せいぜい20センチくらいの深さのところに置くのだが、靴をぬいではだしで足元だけ水の中ということになる。水の流れはかなり速く、しかもかなり冷たい。しかし、10分もすると何も感じなくなった。

子ども達は大はしゃぎしてる。特別にここに何かがあるわけでないが、早い流れの川の浅瀬で遊ぶのは楽しいに違いない。暑い地域から来たパキスタン人家族が他にもたくさんいた。大人も子どももおそろしく無邪気に水遊びをしている。水着などを着ている人は一人もいない。みんな服のまま川の中にどっぷりつかって、流れと格闘して大騒ぎしている。マンゴーをプラスチックの籠に入れて、その籠にひもをつけて川の流れの中でのんびり冷やしているお父さんらしき人もいた。小さい頃、キャンプに行った時、両親が同じようにスイカを川の中で冷やしていたのを思い出した。

洋風の服を着ているパキスタン人もいるし、あごひげボウボウで小さい円形の敷物のような帽子風のものを頭にのせているいかにも厳格イスラム教徒っぽいオヤジもいる。ほぼ全身黒づくめで目の部分しか見えないような女の人もやっぱり川遊びをしてる。

川の対岸にカシミールが見える。タバコをすいながら、プラスチックのイスにすわり足を川の中につけて、イスラム教徒たちの無邪気な川遊びを眺めていたら、ふと、みんなで川遊びすればどうだろう、と思った。パキスタン人とインド人とアフガン人とイラン人とイラク人とユダヤ人とアメリカ人とイギリス人と・・・等など。

イスラマバードに戻って、こっちに来て三日ほど前に買った"Occupational Hazards", Rory Stewart を読み終わった。思わず、その通りだっ、と一人でうなる場所が多々ある。レビューを一つだけ載せておこう。

This review is from: Occupational Hazards: My Time Governing in Iraq (Paperback)
In the absence of an index, I can't easily verify whether Al Qaeda get only one solitary mention (and that as just one of a list of suspects) in all the 400-odd pages of this book. They are conspicuous by their absence throughout, and that strikes me as being one of the most significant aspects of the story. To this day I am hearing about the need to defeat Al Qaeda in Iraq, and to this day I am puzzled as to what makes that so important. If we want to find their local operatives who actually plan the bombings in America and Europe we ought to be searching in Europe; and if we want to find their main leadership we should look in Afghanistan or Pakistan. However if the Al Qaeda presence in Iraq is as insignificant as it might seem from Stewart's narrative then it adds to the sense of confusion regarding the coalition's objectives.

Stewart served for a year as Deputy Governorate Coordinator in two provinces, often being left in effective charge. He was no more than a freelance contractor, but his previous experience ensured that his job-application was gratefully snapped up by HM Foreign Office, doubtless short of volunteers from within its own ranks. He restricts his narrative to what he saw at first-hand. He took up his post in a genuine attempt to make the ostensible coalition objective of a democratic and peaceful Iraq work, and he does not analyse or evaluate that and the other supposed objectives. However his direct involvement included reporting periodically to Bremer in Baghdad, and anyone able to put 2 and 2 together in such a manner as to make 4 and not 22 can easily read between the lines. Imagine the following pronouncement from the colonel in charge of strategic planning, for instance. 'What we are hoping to do is to lay out some philosophical underpinnings of a plan...to begin a journey of discovery for building a more cohesive implementation of plans and policies in the five core areas.' A fine time to be getting round to that in April 2004, Stewart seems to say. Elsewhere he notes Bremer's MBA from Harvard and it's not hard to read into what he says his exasperation at the know-all fatuity of Bremer's 7-point plans for privatisation and such like and at the ghastly gobbledegook ('best practice gaps analysis' etc) in which language seems to function not as a vehicle for thought but as a substitute for thought.

Back at the ranch Stewart was having to confront the realities of the situation. There were, he says and I believe him, some genuine successes before and independent of Gen Petraeus. The trouble was -- few if any Iraqis believed in the successes; or if they did it was not for long. Any seeds of improvement the coalition was sowing had roots too shallow to have much hope of permanence. Stewart's own despairing conclusion comes in his last sentence - however bad the native Iraqi movers and shakers might be, local loyalties always revert to one or other of these, and foreign-imposed improvements, some of them real others just speculative and hopeful, do not stand a chance in this culture. He was trying to make order out of chaos, but they preferred the chaos. He was trying to win hearts and minds, but the minds never stayed with him for long because the various men of power and influence had their own fluid and shifting agendas and alliances, and whether anyone's heart was ever with him is anyone's guess.

It stands to elementary reason that Stewart was in no way opposed to the occupation of Iraq. He went there at all because he believed that some good could come of it. As I read his account, he sees no prospect of success for it now, although he is not explicit about whether a totally different approach might have fared better. He was battling with bureaucracy, incompetence, ignorance, infighting, grandstanding and pretence from Bremer's outfit in Baghdad, opposition to his own role from his own coalition military let alone from the populace he was trying to help, and near-ludicrous ineptitude from the Italian component of such military day in and day out. He was improvising most of the time, and while he has no illusions that his snap decisions were always or even mainly right, the real truth of the matter seems to me to have been that in most cases he didn't rightly know whether he had been right or wrong, because there was no real criterion for judging of that.

The book has been put together from such notes as the author managed to take and retain, but in conditions of such pressure some of the material depends on his memory. I have no reason to suppose that any of these are unreliable, and mental honesty is shiningly apparent throughout, not least in his candour about the minor lies he felt he had better tell from time to time. Whether his own bravery was apparent to him I can't tell, but it's apparent to me. There is much quiet tongue-in-cheek humour, and the tongue comes right out of the cheek in his account of the exploits of the Italians, who were, in the homely Lancashire phrase, as much use as a one-legged man in an arse-kicking competition. His particular angle on the events is one that we don't often see recorded, let alone recorded as well as this. It does not purport to give the wider picture, but he is free of the temptation to blow his own trumpet, and I expect future historians will derive more solid benefit from Stewart than from, say, the memoirs of Gen Franks. He stayed his year's course, he had nothing more to stay for, and he leaves me wondering what the rest of them, even the admirable Gen Petraeus, can possibly hope to achieve. There were successes before and independent of him, they put down no roots, and it looks as if lasting successes will require divine intervention rather than human generalship.