Tuesday, September 15, 2009

初めてのスクールバス

  

Hymns About Her (advance) by Steven Dunston
今年の5月に6歳になった次男は9月からニューヨークで小学一年生になった。
日本では小学校入学というと、ちょっとしたイベントだったが、ここでは特に入学式のようなものもなく、何気なく始まった。ランドセルを買ったり、文房具を買いそろえたりという家族内行事もない。

それでも、これまではと少し違うという感覚を次男は持っているようだ。初めての机を買ったのだが、数少ない自分の本をちゃんと机に作り付けの本棚に入れて一人で厳かに体裁を整えている。
初日だけ母親が学校までついていったが、二日目からは黄色いスクールバスに10歳のお兄ちゃんと二人で乗って学校に行き始めた。

「初めてのスクールバス」というのは、職場でも話のネタになっている。それぞれの子供たちの「初めてのスクールバス」体験談を親たちは語って止まない。親にしがみついて離れようとせず、スクールバスに乗れない子、泣き叫ぶ子、滝つぼにとびこむような人相でバスに乗り込む子。よく考えてみれば、ほとんどの子供にとって「初めてのスクールバス」は親からはなれてどこかへ一人で行くという人生最初の体験となるのではないだろうか。

同僚のRは自分の子供が初めてスクールバスに乗って学校に向かう日、自分が泣いてしまったと言っていた。それもよく分かる。

初めてのスクールバスを体験して帰って来た日、次男は母親にスクールバスは嫌いだ、もう乗りたくないと伝えたそうだ。しかし、二回目のスクールバスの後はもう知り合いもでき安心してバスに乗るようになっていた。

しかし、三回目のスクールバスで登校した日、学校に到着してそれほど間もない頃に学校の看護婦さんから僕の携帯に電話がかかってきた。おなかが痛いといって泣いているので迎えにこれないかという。すぐに母親に学校に行ってもらった。

後で事情をきくとおなかは問題なかったようだ。担任の先生によると、教室ですわっている時、突然次男の目から涙が溢れ出て来たらしい。そして、あわてた先生は次男を保健室に連れて行く。そのどこかの時点で次男は長男と遭遇し、長男は次男をなぐさめようとしたらしい。長男によると、次男はその時、I feel lonely.と言っていたそうだ。

初めての国、初めての学校、初めてのスクールバス、そして誰も友達がいない、という状況はかなり重いだろうと思う。三分の二くらいは幼稚園部から進級してきているので、友達のいる子は多い。三分の一くらいが小学校から入って来ているのでうちの次男と同じ状況だが、その半分以上はすでにニューヨークに住んでいた子供たちなので、初めて尽くしというわけでもない。

あとになって知ったのだが、次男はスクールバスで初めて登校した日に、気の合う友達ができてとても喜んでいた。そして三回目のスクールバスにのって学校に行った日、その初めての友達は学校を休んでいた。また、次男は一人ぼっちになったと感じたのだろう。一人で教室にすわり、限界までこらえていたのだろう。そして、とうとう涙があふれてきたというわけだ。

家に戻って来て、思いっきり寝たそうだ。大人でも経験するが、初めてのことというのは何をしてもとても疲れる。忙しくいらいらする親の見えないところで、子供たちも疲れている。子供たちも結局すべてを乗り越えてタフに育っていくしかないのだろう。

四回目のスクールバス、次男はまた機嫌良く出かけて行った。

Tuesday, September 08, 2009

NYに引っ越し

(窓から見える夜景がきれいなのでiPhoneで撮ってみたがやはりいまいち)

引っ越しは実に面倒くさい作業だ。何回やっても面倒くさい。
7月25日に家族そろってコペンハーゲンからアイスランド経由でニューヨークにやってきた。
デンマークのResidence Permitをキャンセルして、アメリカのG4 Visaを取得して、最悪のタイミングで失効したパスポートを延長して、やっとパスポートを取り戻したのは出発前日の午後5時だった。
そして、買ったばかりの新車を売却したのは出発当日の午前9時、と実にジタバタしたもんだ。

出発の前日二日間は運送屋が家にやってきてパッキングをやる中でなんやからかんやらの手続きに走り回ってよれよれになったが、イラク人のモハメッドが実によく働いてくれた。こういう時は想定外の雑用が次から次に発生するものだが、そんな時になんでもやってくれる助っ人がいると実に助かる。モハメッドのいとこもやってきて、車の掃除から、パッキング後の部屋の後片付けやら、冷蔵庫の掃除、銀行へ行ってチェックの換金まで何から何まで実によくやってくれた。アルバイトのつもりで来てもらったのだが、頑なにお金は受け取らなかった。イラク人やアフガン人はそういうものなのだ。こっちがお金を払おうとすることにむしろ彼らは傷つく。しかし、彼らは同時にお金をむしりとる天性の技術も持っている。いつ彼らがその技術を行使し、いつしないかは、たぶん日本人ならつきあっているうちに分かってくる可能性が高いが、分からない人もいるかもしれない。西洋人はどうも日本人よりも、そういうことを理解するのが下手なように見える。

モハメッドと知り合ったのは、2003年の5月バグダッドで仕事をしていた時だ。ドライバーとして雇ったのだが、どういう経緯で雇ったのか全然覚えてない。スタッフの誰かが連れて来たのかもしれない。アンマンから陸路でバグダッドへ向かっていたスタッフの車が魔のスンニー三角地帯でパンクして、パニックコールを送って来た時に立ち上がったのがモハメッドだった。パンクした車に乗っていたスタッフは近辺の米軍に助けを求めたが、相手にしてもらえなかったようだ。軍はお巡りさんじゃないのだから仕方がない。上の上の方からの指令がないかぎり、勝手に動くわけがない。

その頃は戦争終結宣言の直後でまだ国連のほとんど存在しないし、NGOもまだパラパラと入って来ているだけで、活動している外国勢と言えば圧倒的に米軍であった。アンマンの米大使館で人道援助の調整をする部門が置かれていて、イラクに入る時は必ずそこに連絡していって欲しいとアメリカは念を押していたが、そんなことを知らない人もいたし、嫌米が最高に盛り上がっていた当時ではあえてそんなことをしない人たちも多かった。アンマンの米大使館でイラクへ入る人の情報を入手できれば、それをバグダッドの米軍へ送って間違って攻撃してしまう可能性を減らすという、それだけのことだったと思うが、いろいろ勘ぐる人はいるものだ。

バグダッドでは米軍が人道援助機関の合同会議を毎週開いて、いろいろな情報を提供して、なんとか人道援助が始まるようにしようとしていたが、そういう会議もやがて、米軍とは距離を置きたいという組織が離れていき、分裂状態が発生していった。原則の問題だという主張に文句を言ってもしょうがないが、当時情報源は米軍しかないというのが現実だった。その後様々な人道援助機関も自前の情報を蓄積していったと思うが、その圧倒的な差は今も埋まったとは思えない。

話がずれたが、パニックコールがやってきた後、僕はアンマンの米大使館に電話して事情を話して救援に行けないかきいてみた。直ぐにバグダッドの軍に連絡するからGPSで位置を確認して送ってくれということだった。それから、のろのろと徐行しながらバグダッドに向かうスタッフからGPSの位置情報を受け取っては、それを僕がアンマンの米大使館に送るという作業を続けていた。しかし、いったいいつになったら米軍の救援はやってくるのか、だんだんパンクした車に乗っているスタッフのパニック度が高まってくる。その時、その頃まだほとんど英語の話せなかったモハメッドが自分が助けに行くと買って出たのだった。

一人で行かせるわけにも行かないので、助手席に乗って出かけたが、モハメッドは猛烈なスピードで走り始めた。自分はバグダッドの道をすべて知っていると言って、ものすごいカーブの切り方をする。僕はあっという間に吐き気がしてきた。

それがモハメッドだった。その5年後、ひょっこりと僕はモハメッドとコペンハーゲンで出会うことになった。彼は難民認定の申請中であった。バグダッドで人道援助機関で働いていたことを弁護士に説明して欲しいというのでもちろんした。まだ彼の難民認定はまだ審査中だ。