Friday, October 22, 1999

イスラム・コラム No.2 「非常事態な日常」

JapanMailMedia 032F号から転載。
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 ■ 特別寄稿               山本芳幸
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No.2 「非常事態な日常」


10月15日(金)

午後6時頃、帰宅してウェブに繋ぐと、龍さんからのメールが届いていた。

> このクーデターを期(?)に、イスラム世界のレポートを、
> ぼくとの交換メールの形で、お願いしようと思っていましたが、
> 非常事態宣言が出て、「交換」では追いつかないので、
> パキスタン情勢が落ち着くまで、
> レポートを連載していただけませんか?

最初、何が書いてあるのか、よく分からなかった。何かよくないことが龍さんの身辺に起こったのだろうか。それとも、突発的な仕事が入って動きがとれなくなっ たのだろうか。少し心配した。信じがたいかもしれないが、この時、僕はまだパキスタンで非常事態宣言が出たことを知らなかった(!)。

もう、これだけ書けば、現地の状況のほとんどは理解できたかもしれない。
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 今朝起きて、まず最初に僕がしたことは銀行に電話を入れることだった。昨夜ウェブを見ると、やはり銀行の外貨取引が停止されたと出ていたからだ。口座の残額をきいて、今日引きおろせるかどうか尋ねた。銀行員の「イエ~ス、ユ~、キャァァ~ン」 という面倒くさそうな声が「お前はタコか」と言っているように聞こえた。みんな(タコ以外)変わりない日常を送っているのだった。しかし、それでも、せこい抜け駆け根性が働き、取り付け騒ぎの気分で、今日中になんとか銀行へ行こうと思った。

 それから、新聞もウェブも見ずに僕はオフィスに行き、銀行に行きそびれ、やっと午後6時頃、帰宅した。そして、龍さんのメール。日本の文脈で言えば、笑ってしまう話だろうけど、今日は帰るのがとても遅く(!)なってしまったのだった。

  金曜日は、イスラム教では安息日だから、本来仕事してはいけない。数年前まで、パキスタンでは金曜日は全国的に休日であった。しかし、やり手ビジネス・マ ンとしてパキスタン経済の立て直しを一身に担って登場したナワズ・シャリフ首相、いや元首相は、金曜日休日制を廃止した。他国経済との取引上、不利である からだという。グローバリズムが国家の休日を変えた例かもしれない。

 それ以後、在パキスタンの国連事務所もそれまでの「木曜半ドン、金・土休日」というイスラム体制から、「金曜半ドン、土・日休日」という世界標準体制に移行することになった。

 信じられない話がもう一つある。今日一日オフィスで「非常事態宣言」を話題に出した人は一人もいなかったということだ。皮肉なことに、みんな、来年の非常事態の値段の計算に没頭していたのだ。これには少し説明がいる。

  このところ毎年年末に、全世界の国連の緊急・人道援助プログラムへの拠出金を求めて、各国連機関が共同で、『グローバル・アピール』というものを出すのが 恒例となっている。世界の各紛争地ごと個別に、しかも各国連機関が別々に、ちまちまと拠出金を加盟国にお願いしても、なかなか金が集まらないから、世界ま るごとみんなで一緒にお願いしようということになったのだ。

 10月15日 は、その『グローバル・アピール』へ載せる予算提出の現地レベルでの締め切り日だった。しかし、よく考えれば、「来年度」の「緊急・人道援助」(英語で は、emergency,humanitarian, relief などの語が使われるが同じカテゴリーの援助を指す)の「予算」とは、訳の分からないコンセプトである。平和な地域で行われる「開発援助」なら、長期的展望 に立って予算をつくることができるが、将来、起こるかもしれない非常事態を予測して予算を立てるなど、厳密に言えば、できるわけがない。

 結局、何をするかと言えば、今ある不幸が継続すると前提して、その対策経費を計算するのだ。来年、起こるかもしれない新しい不幸に関しては、ほとんど博打的な予算だ。起こるかもしれない不幸の値段を計算する。我々は悪魔の手下か。

 つまり、今日我々は、来年のemergency のための予算を立てるために、 state of emergency が宣言されたばかりの空間の中で、仕事という日常に没頭していた。

 「締め切り」という極めて日常的な非常事態は、国家の「非常事態宣言」よりも強力に我々を日常に縛り付けたのだった。現在のemergency と未来の emergency に挟まれて、それでも、強情に日常を生きる・・・
 何を書いているんだろう?
 僕はもう何が日常で、何が非常なのか分からなくなってきた。

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10月16日(土)

 午前10時頃、魚売りの少年が家にやってきた。時々、彼は自転車の荷台に魚を入れた木箱をくくりつけて、はるか北の町から、首都イスラマバードにやってくる。

  外人、汚職官僚、腐敗政治家らの住んでる家を一軒一軒訪れて、北方の川で獲れた魚を売り歩くのだ。木箱をのぞくと、かなりでかい魚が四尾ゴロンと入ってい た。一尾は鯉に似ていたが、よく分からない。あとの三尾は全然名前は知らないが、パキスタンではよく見る魚だった。それを一尾買った。約2キロで、145 ルピー(300円)。

 この魚売りの自転車にはかならず後続車がついてくる。魚のさばき屋だ。客がまんまと魚を買うと、後続の自転車をひく男がすばやく七つ道具を自分の木箱から取り出し、玄関先でさばく。なかなかいい連携だ。

  路上で解体されつつある魚の鱗が秋の日差しに光るのを見ていた。ふと、この二人の若者は「非常事態宣言」を知っているだろうかと思った。あまりに、平和で のどかな風景ではないか。「日常事態宣言」でも出すか。しかし、僕のウルドゥー語で、そんな話をするのは無理なので何もいわなかった。

 様々な香辛料にこの魚を数時間つけて、カリッと揚げて食った。ピリッと辛くクリスピーな皮と柔らかい白身のコントラストが効いて、実に美味い。

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10月17日(日)

 午後8時半に始まったムシャラフの演説を見た。いい人が出てきたな、と思った。単なる直感だ。あてにはならない。しかし、いっしょにテレビを見ていた妻も「He is a good man ! 」と言った。
 少なくとも二人の視聴者が好感を持った演説であった。

  もっと具体的な日程の発表などを期待していた人達は落胆したかもしれない。そのような形式を整える演説を作るのは簡単だし、早くも「軍政」にプレッシャー をかけ始めている国際社会に対してもその方がウケがよかったはずだ。しかし、それをあえてしなかったところに誠実さが現れていると見た。腐敗構造を本気で 一掃する覚悟だと僕は解釈した。期待し過ぎか。

 「デモクラシーの一刻も早 い復帰を」とか、「憲法の回復の早期実現を」とか、各国の声明を見ていると、マニュアル通りにしか喋らないファーストフードレストランのお姉さんを思い出 す。「クーデター→非難すべき→デモクラシー復帰すべし→憲法尊重」という教科書(マニュアル)で覚えた回路を繰り返すのが仕事なんだろか。としたら、 ファーストフードと政治の意外な近似性。

 いったい、どのデモクラシー、ど の憲法に復帰しろといいたいのだろう?首相の権限強化のために憲法を改変し、大統領を飾り物にしてしまい、司法に干渉して最高裁を骨抜きにし、メディアを 弾圧し、親戚一同・仲間うちで政府要職を占め、議席は「遺伝的」に継承され、よってたかって国家の予算を食いつぶし、税金・電気代・水道代・ガス代・電話 代も払わず、経済政策といえば税金を上げることしか知らず、政府批判が高まると関心をそらすために宗派間抗争を煽り、いよいよ足元がグラグラゆれてくると アメリカに助けを求めに行く、そんな政府が好きだった?

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10月19日(火)


 昨日、今日と、地元の新聞を読むのが楽しい。クーデター以来、犯罪率が激減したという記事があった。汚職がバサバサと摘発される。悪代官のように振舞ってきた官僚が次々にクビになる。一般のパキスタン国民は胸のすく思いだろう。

  各政党は世俗的なものからイスラム原理主義的なものまでみんな揃ってムシャラフに大きな期待をかけている。彼等が言っていることを一言でまとめると、どん どん腐敗分子を追放して、また一からゲームをやり直そうということだ。そのためには、しばらくムシャラフさんにいてもらわないとしょうがないという点で彼 等は一致している。

 引退した軍の最高指導者や元大統領なども、こまごまとしたアドバイスをムシャラフに送って応援している。変な奴を側近に選んだら失敗するのだぞ、注意するんだぞ、騙されたらダメだぞ・・・と。

 小学校に入学した息子を送り出すように、心配と期待で熱くなりながら息子を見守っているというようなイメージを持った。なんか泣ける話ではないか。

  今、パキスタン国民はとてもシンプルな目標をもって、上から下まで一致団結している。国を建て直すんだという熱い空気が伝わって来る。ほんの数日前まで、 諦めと停滞だけがこの国を覆い尽くしていたのが、もうウソのようだ。日本にはないことを龍さんが発見した希望がここにはある。そんな国の新聞は読むのが楽 しいものなんだということを発見した。

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  メディア的には劇的なことは何も起こっていない。銃声も流血もない。イスラマバードのマリオット・ホテルに大挙して詰め掛けた日本人ジャーナリストは退屈 してるだろう。映像メディアが権力を握って以来、銃声と流血が事の重大性の尺度になってしまっている。文字メディアも、不幸なことに独自の尺度を利用でき る特権を忘れて、映像メディアと同じ尺度を使う。「メディア的」とはそういう意味で僕は使っている。

 無血の『名誉革命』が今のような状況で起こったなら、歴史の項目は一つ減ったかもしれない。事の重要性を認識して、歴史に位置付けるという作業をする能力は、あくびをしながら銃声と流血を待っているジャーナリストには無縁のものだ。

  『グローバル・アピール』などという田舎政治家がやりそうなパファーマンスを我々がやるはめに陥るのも、原因は同じところにある。世界には悲惨な状況がい くつも同時に並行して存在する。その悲惨は想像力の範囲を越えている。映像はそれを大いに助ける。BBC、CNNで放映されると、視聴者は驚く。政治家は そういうところに手柄のチャンスを見つける。政府が動かされる。お金が集まる。BBCとCNNはメディア的に劇的なところにしか来ない。慢性的に静かに想 像を絶した悲惨がいくら続いても、メディア的にはおもしろくない。

 政治家はそんなところに点数を稼ぐチャンスを見出さない。政府も動かない。お金が集まらない。悲惨はさらに悪化する。そして、ニーズと予算の間に著しい不均衡が起こる。それを是正する努力が必要になる。それが『グローバル・アピール』だ。

 メディア的につまらないパキスタンの現状は非常に興味深いものだ。
 クーデターに対する外国政府からの非難や制裁は、クーデターが憲法を超越 した行為である、すなわち民主主義の破壊行為であるという、形式上、正しい議論に基づいている。しかし、パキスタン国内では、今まで見た限り、すべての論 説がそれに反する議論を展開している。すなわち、シャリフ政権は民主的な手続きを利用して独裁制を作り上げた、もう合法的な手続きでは政権を交代させる道 は閉ざされていた、そして手付かずで残された最後の国家機関、軍をシャリフが独裁政権の支配下に置こうとした段階で、軍はそれを阻止した、だから軍の行っ たことは正しい、という議論だ。立憲民主主義という形式を尊重していると、息の根を止められる、というギリギリのところまで追い込まれたあげくの決断で あったということだ。

 事実、ムシャラフは、二百数十名の一般乗客もろとも墜落する7分前にようやくカラチ空港に着陸することができた。

 民主主義の範囲内で合法的に独裁政権が成立した場合、どのようにして国民はその独裁政権を倒すことができるか。その独裁政権の下で国民は形式的な合法性を尊重して独裁体制に甘んじるべきなのか、あるいは合法性の枠を出てレジスタンスを実行するべきなのか。

 地元新聞のある論説は、ナチズムを例に出していた。ナチズム体制下で、合法的に国家の命令に従った者は、戦後罪あるものとして裁かれ、違法にレジスタン スを展開したものは、戦後ヒーローになった、その裁判をやった同じ国家が今、パキスタンのクーデターを非難する、おかしいではないか、という論旨であっ た。ここには、常に出てくる西洋諸国のダブル・スタンダードに対する批判も重なっている。

  ムシャラフが乗っていたのと同じ機に乗っていた一般乗客の話が報道されていた。その機には、スリランカでの水泳競技に参加した高校生がたくさん乗ってい た。その一人がどうしても喋らせてくれといって話した言葉が載っている。「メディアで知ったんだけど、西洋諸国はデモクラシーをパキスタンに回復しろと 言ってるけど、罪のない一般人の生命を危険に陥れるデモクラシーって、いったいなんなの?」

 ムシャラフは、合法性の問題に18日の演説で触れている。「10月12日、手足を犠牲にして身体を救うか、手足を救って全身を失うかという選択の前に我々は置かれました」というように表現している。身体とはnationのことであり、手足とはconstitution のことである。

 「constitution はnation の一部です。だから、私はnation を救う方を選んだ。しかし、それでもconstitution を犠牲にしないように配慮した。constitutionは一時的に停止されただけである。これは、martial law ではない。デモクラシーに至るもう一つに道に過ぎない。 軍はパキスタンに真のデモクラシーが繁栄するための道を開くために必要である以上の期間、政権に留まる意図を持っていない。」

 身体と手足という比喩が適切かどうか分からないが、彼の意図は国民に十分に伝わり、理解されたようだ。

 nation は人々の集まりを指す。constitution はその人々の集まりがより幸せに暮らせるような枠組み、ルール、構造を定めるものだ。だから、nation みんながそれに従ってもらわないと困る。しかし、constitution を維持するために、nation を苦しめるとしたら、それは本末転倒である。

 constitution で定められた構築物を、state と呼ぶ。あるnation がある種のstateを選び取ることに合意して、nation とstate が幸福な結合を果たすと nation-stateが成立する。これを国民国家と訳すことに何の意味があるのかさっぱり分からないが、社会科の教科書ではそう出ている、あれのことだ。

 しかし、現時点でのパキスタンは、極めて平和である。state を支える constitutionがタイムをとり、西洋近代の信仰では常にセットであるべき 『law and order』の半分が欠損した、非常に危うい状態にあるにもかかわらず、国民(nation )の自発的な意志で秩序は保たれている。

 秩序が、『  and order 』の下で発生している。一種の驚異である。
今から、state を作りなおして、出直すのだという意気込みでnation が一致団結している。おそろしく困難な事業だろうと思う。失敗するかもしれない。しかし、失敗したとしても、他にパキスタン国民に行く場所はないのだ。こ こで頑張って自分達(nation)を幸せにするstate を作り上げるしかない。やはり、これは制裁を与えるのではなく、応援するべきではないだろうか。

 非常事態宣言下のパキスタンで続く日常を今、僕はこう解釈している。パキスタンでは今、驚くべき事態が発生している、と。

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山本芳幸(在イスラマバード)
・UN Coordinator's Office for Afghanistan / Programme Manager
 (国連アフガニスタン調整官事務所 / プログラム・マネージャー)

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山本芳幸氏は友人です。文藝春秋に連載中の『希望の国のエクソダス』のパキ スタン北西辺境州の取材の際にもお世話になりました。氏のレポートは
龍声感冒 http://www.ryu-disease.com/jp/kabul/
でもご覧になれます。
パキスタンのクーデターだけではなく、イスラム世界の現状について、山本氏 のレポートを不定期連載します。わたしのとのメール交換の形になるかも知れ ません。
                                村上龍

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