Wednesday, October 31, 2007

慰安旅行

かなり小さい頃、小学校の低学年の頃だったと思うが、父の会社の慰安旅行というものに1回か2回くらいついていったことがある。日本が先進国になる前の時代、会社が村落共同体であった頃の話だ。今はもうそんなものはなくなっただろう。

観光バスに乗って缶ビールを飲む大人の男の人たち、日本海側のどこかの民宿の畳、ほんの少ししか記憶に残っていないが、僕と同じように父親の慰安旅行についてきた、ちょっと年上の数人の少年達がヤドカリをたくさんとってくれたのは非常に鮮明に覚えている。ヤドカリというものを見たのはその時が初めてだった。

国連はよくRetreat というものをやる。文字通り解釈すれば、日々の喧騒からちょっと後ろへ下がってみて、頭を冷やして考え直す会みたいなことだと思うが、同業者が集まってしまえば、そういうのは現実的でないように思う。頭を冷やすどころか、カッカしてしまう論争になるか、もう遊ぶ場だと諦めてしまうかどちらかではないだろうか。

ロングアイランドにあるMontauk Yacht Club というところで、二泊三日のRetreat があった。マンハッタンから同業者みんなで観光バスにのって3時間ほどかけてやってきたのだが、なんでこの場所にしたのか、何をしに来たのか、みんなよく分からない。これはRetreat ということだけはみんな知っている。

Facilitator の人が外部から雇われて、いろんな話をする、というか参加者にさせる。まだ数日しか経っていないが、覚えてるのはemotional space の話だけだ。同業者といえども、ふだんはほとんど話もしない人たちはたくさんいる。そういう人たちと話す機会になったのは、それなりによかったと思う。しかし、みんな仕事のことが気になってしかたない。90分くらいのセッションの合間に15分くらいの休憩があるのだけど、その間にもラップトップにかじりつく人が多い。そういう気持ちはよく分かる。どうしても、追いかけておかないといけないケースがあるのだろう。

意外なことに、あまり知らない人たちの話を聞いているのはそれほど退屈ではなかった。それよりも、退屈を通り越して苦痛だったのは、夜の飲み会だった。夕食からだらだらと飲み続けるのだが、同じ種類のジョーク、同じ世界の話、それだけがぐるぐる回り続けている。何がおもしろいのか全然分からない。その時に、これは慰安旅行なんだなと思った。こういう飲み会も仲間であることを確認し合う儀式なのだろう。村落共同体はこうやって形を変えていろんなところに残っているのだと思う。

* * *

慰安旅行最後の日、夜8時35分発の便でロンドンまで飛んで、そこからコペンハーゲンへ戻る予定だった。JFKに着いたのは7時半くらいだった。やっと間に合ったと思ったら、出発が3時間も遅れた。

ロンドンでの乗り継ぎの時間は2時間しかなかったので、もうJFKを発つ時点でコペンハーゲンへ行く便には乗り遅れることが分かってしまった。中途半端にぎりぎりに着いてヒースロー空港で走り回るはめになるよりも、気が楽になった。

ヒースローに着いて、British Airways のカウンターに行き、乗り遅れた!と宣言すると、カウンターのおばさんが「American Airlines が次の便にあなたの席を予約している」と言って、すぐに新しい搭乗券を用意してくれた。American Airlines のせいで遅れたのだから、そんなことをするのは当たり前かもしれないけど、全然期待しない習慣が深く身についているのでちょっと感心した。

コペンハーゲンに着くと、ほぼ100%あきらめていたバッグまでちゃんと出てきたので、幸運に恵まれている気がした。旅行者や関係者の投票でヒースロー空港は世界最悪の空港として君臨している。チェックインした荷物が行方不明になる確率はチューリッヒと同じくらい高い。ましてや、土壇場で乗り継ぎ便が変わったらほぼ絶望するのが正気というものだろう。

コペンハーゲンの空港ビルの外に出てタバコを吸うとふらっとして倒れそうになった。近くのベンチに腰かけて、ひんやりした空気の中でblue grey の空を見ていると、home という気分がした。

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30 OCT 07 AA 104: 20:35-07:40 JFK LHR+1
31 OCT 07 BA 815: 09:40-12:30 LHR-CPH → BA 816: 12:00-14:50 LHR-CPH

Monday, October 29, 2007

秋刀魚の棒寿司

朝・昼・晩とか週日・週末とか、そんな区切りのない生活を延々と続けていたので、「あー、やっと土曜日っ♪」なんて感慨を持つことはなかったものだけど、昨日はそれを感じた。それを感じたことに少し驚いた。

今週(10月21日-28日)はマンハッタンのホテルがことこどく満室で、到着日の一泊しかホテルが取れなかった。翌日からは僕がNYに来るのと入れ替わりにバンコクに出張に行くカレンの部屋を借りることになった。それが分かったのも、自分が乗る飛行機が分かったのも、コペンハーゲンを出る直前の金曜日(10月19日)だった。こういうことをするために雇われている人がいるのに、相変わらずどうにもこうにもかったるい。

カレンの部屋はルーズベルト島の素敵なコンドミニアムだった。カレンらしく、きれいに整理整頓されている。ルーズベルト島にはマンハッタンからケーブルカー(ここの人はトラムと呼ぶけど)に乗って渡る。最初はいちいち面倒くさいなあと思ったが、乗ってみるとあっという間に着いてしまうし、イーストリバーの上を渡るケーブルカーからの夜景がとてもきれいなことに気づいた。一瞬だけ、観光旅行をしている気分になる。

今日は昼くらいまでだるくてベッドの上でごろごろしていた。立ち上がる力がなかなか出てこない。やっと休みなんだから、このままずっとボーッとしていたいと思うが、夜中にカレンがバンコクから帰ってくるので、部屋を出なければならない。今日だけ8月に2週間止まっていた42丁目のHelmsley Hotel に泊まる。メアリーがマンハッタン中のありとあらゆるホテルに電話してやっと土曜日の一泊分をここに確保してくれた。値段は8月の約2倍だった。出張費より100ドルほど高い。アメリカ人のメアリーはNYのホテル事情をcrazy, madness と何度も口走っていたがどうしようもない。

* * * 

ホテルにチェックインしたら、もう午後3時くらいだった。一日が早く終わってしまう。フロントの女性が8月にチェックインした時と同じ女性だった。この人は日本でも2年ほど仕事をしていたことがあると言っていたのを思い出した。日本語を少し喋るので重宝されてそうだ。日本人のお客さんが次から次にチェックインしにくる。

登録されている住所をデンマークに変えてもらったら、デンマークにも仕事で行ったことがあるらしく、しばらくたわいのない話を続けていた。これはいい部屋よと言ってカードキーを渡してくれた。前回、喫煙の部屋が一階のあまりよくない部屋にしかなくて、どうするか迷っていたことを彼女は覚えていた。今回は 38階の部屋だった。

その日はまだ何も食べていなかったので、チェックインしてすぐに、めんちゃんこ亭に遅い朝兼昼ごはんを食べに行った。ここの皿うどん(硬焼きソバ)がおいしいので、NYにいる間に何度も食べる。それから、Best Buy に行ってMS Office Standard 07 を買った。先月アフリカからの帰りにアムステルダムの空港で家族用にVaio を買ってかえったのだが、それに入っていたお試し版のOffice が変な動きをするので、NYでまともなのを買おうと思っていたのだった。

それだけですぐに帰ろうと思っていたが、DVDが安いのでぶらぶらと見て歩いたら、「ROME」というDVDを見つけた。エミー賞の8部門にノミネートされたとかいてある。テレビのシリーズだったのだろうか。全部で11枚ある。塩野七生の『ローマ人の物語』の映像版みたいなことを想像して、全部買うことにした。それから、永久保存版にしておきたいと思っていた「V For Vendetta」と「crash」も買った。

その後で、Barnes & Noble に子どもの本を買いに行った。二人とも本が好きなので、いつも本をおもちゃと同じように持ち歩いてる。8歳の長男は絶対読めないような難しい本を学校から借りてくる。4歳の次男は僕が長男の宿題を見ている間ずっと自分の本を脇にかかえて自分の番が来るのを待っている。同じ本を何度も何度も読んでいる。なんかかわいそうなので新しい本を買って帰ろうと思っていた。それにしても、長男の勉強を見ていると学校の勉強のシステムにちゃんとのってないのがよく分かる。そんなものどうせすぐにできるようになるから心配しなくていいと思うのだけど、宿題くらいはできないと学校で片身が狭いだろう。やり方くらいは家で見ないといけないのかもしれないと思う。

Barnes & Noble は、本屋さんというコンセプト、そこで一日中を本を見て回る、そんな時代の化石のような本屋さんだ。時間があれば、自分の興味のある本を見て回りたいが、もう疲れていたのでホテルに戻った。またうとうとし始めた。寝れる時に寝ようと思って、まだ夕方だったがそのまま寝た。

* * *

当然、妙な時間に目がさめた。当然、お腹もすいていた。せっかくの休みなので、このままボーとしていたいが、やがて空腹に耐え切れなくなるだろう。ZENGO のタクさんに前の日連れてきてもらった蘭(LAN)というお店がとても気に入っていたので、そこに一人で行くことにした。店員の人たちも板前さんもとても感じいい。肉料理がおいしくて、寿司もおいしいので、便利な店だと思う。

問題は客だけかもしれない。寿司のカウンターに座ったのだけど、すぐに隣の席に日本人女とアメリカン人(らしい)男のカップルが入ってきた。この男は日本語を流暢に話す。しかし、この女の日本語はいったいどこで習ったのだろう?突拍子もない抑揚であまりにまぬけなやりとりを右耳のすぐ横でやられて、頭がガンガンしてきた。こういう会話はメモしておいて、ライバル店でサクラ客にやらせたら営業妨害に使えるだろう。アメリカン人(らしい)男の方は懸命に爆発を抑えようとしているように見える。ちらっと横を見ると、この男と目が合ってしまった。ご愁傷さまですと、目で合図を送ったら、彼も、これが地球の最後ですと目で合図を返してきた。

焼酎を二杯飲んだら、もう酔っ払ってしまった。なんとなく明け方にまた目が覚めてお腹がすくような気がしたので、秋刀魚の棒寿司をお土産に頼んだ。店員の人が感じいいので、棒寿司を待っている間に焼酎をまた一杯頼んでしまった。

店を出ると、マンハッタンはもうハロウィーン騒ぎの真っ最中だった。

Sunday, October 21, 2007

NYへ

21 OCT 07 AA 6532: 0750 0900 CPH LHR
21 OCT 07 AA 105: 1155 1435 LHR JFK

Saturday, October 06, 2007

帰ってきた

昨日の夜中に帰ってきた。
エチオピアとエリトリアの国境紛争はもう終わったものだと思っていたら、全然終わってなかった。なんか元の木阿弥になりそうな気配があるではないか。なかなか険悪であった。

ソマリアは「ブラック・ホーク・ダウン」以上のことは知らなかったけど、なんとこれもまたえらいことになってる。いったい誰と誰がもめているのかなかなか把握できない。いろんなドキュメントを読んだけど、結局エチオピア・エリトリアの停戦監視団のおっさんに話を聞くのが一番早かった。彼は全体像を把握していた。

そもそも一国ずつ理解しようとするのが間違っていた。スーダン・ケニア・エチオピア・ソマリア・ジブチ・エリトリア、それぞれが微妙にからまりあっているのがようやく見えてきた。知れば知るほど実にややこしい。

これが世に言う Horn of Africa の問題なのかと、エリトリアからエチオピアに向う国連機の窓から美しい海岸線を見ながら考えていた。エリトリアの首都アスマラからエチオピアの首都アディズ・アベバまでは国境を越えてまっすぐ行けば50分もかからない。

ところが国連の飛行機・ヘリコプターが国境地域を飛ぶことをエリトリアが禁止してしまっているので、アスマラからいったん東へとんでジブチのあたりからソマリアまでの海岸線にそって南下していかなければならない。そして、エリトリアの国境より南部になったら、エチオピア国内に入ってくる。ものすごい遠回りだ。4時間半はたっぷりかかる。

飛行機からでも判別できような透明で美しい、エンドレスと思えるようなビーチを見て、エチオピアの緑の生い茂るプラトー(高台になった平地)を見ながらのフライトは僕のような Horn of Africa の素人にはとても勉強になるし、興味深くてよいのだが、これはオペレーションにとっては最悪だ。国境線で仕事をしている人が負傷したりした時の evacuation を考えると、アスマラに負傷者を車で4時間かけていったん運んでから、そこからまた大迂回のフライトに乗せることになる。これはなんかしないといけないでしょ。

だんだん理解してくると、その背後に Yemen や Saudi Arabia の影がちらほら見えてくる。そして、当然アメリカ。これもまた、9・11以降始まったアメリカのGlobal War on Terror の枠組みの中のepisode の一つに過ぎないようだ。

いやはや、どこまで GWOT は世間をひっくり返し続けるのだろう。
次回、といっても11月だけど、その時までは、もう少し書類を読んで理解していきたい。

ほな、

引越し先のリンクがおかしいらしいので書き換えたけど、どうかな。