Monday, July 21, 2008

"You can get food out of it."

2週間経ったら、全部枯れているんじゃないだろうかと思いながら、家の中にある植物の鉢に水を大いめにやってから2週間前家を出たのだが、帰ってきてみると、みんな弱っていたがちゃんと生きていた。すぐに全部に水をやり始めたが、全部で11個の鉢に水をやるのは結構面倒なものだ。

コペンハーゲンに帰ってきてから二日目、鉢を見てみると見違えるように植物がピンとしている。土を触ってみると、もう乾いている。昨日やった水はきっと吸いきったのだろう。また11個に鉢に水をやることにした。

実はこれ以外にも三つ鉢がある。鉢というかプラスチックのコップなのだが。
前回カブールから帰ってきた時だから、6月のことだが、キッチンに行くと三分の一くらいの深さまで土を入れた、小さなプラスチックのコップからちょろちょろっと植物の芽が出ているではないか。5歳になったばかりの次男がそのコップの中に土とありとあらゆる種を入れていたのは母親から聞いていたから知っていたが、それが芽を出していたのだ。こういう生命の誕生を見ると、なぜか興奮するものだ。たまたまキッチンのイスに腰掛けてミルクを飲んでいた次男に、おいっ、見たか、植物の芽が出てきたぞっ!と興奮を隠し切れず話しかけると、次男は、軽くうなずいて、

"You can get food out of it."

と一言。
うん?それで食べ物が取れるよと言ったのだが、そういう見方をしていたのだ、次男は。

この次男はあらゆるものの根源を知りたがって、すべて質問するのだ。これは何でできているのか、どうやってできたのか、自動車から野菜から果物から家具から視界に入ったものはすべてきいたのではないだろうか。この質問に答えるのは実に難しい。科学技術が進めば進むほどすべてのものがブラックボックス化していくという未来学者が何十年も前にいたが我々を囲む世界は実際その通りだ。テレビはどうやってできているかとか、冷蔵庫はどうやってできているかなんて説明できる人はほとんどいないだろう。しかし、次男の質問はすべてそういうブラックボックスの中身に迫る質問なのだ。

次男のこれまでの、そういう経緯を考えると、なるほど土から芽が出てくるという現象を前にしての、次男のこの落ち着きは納得できる。彼は今一つの謎---ある種の食べ物がどうやってこの世に出現するかという---の解を実際に自分の目で見て、確認して、落ち着きを得た満足にひたっていたのではないだろうか。

「分かる」とか「知る」ということの本質を大人は忘れてしまっているが、子どもにはまだその本質しかない。子どもの会話することによって、大人は、あれっ?という立ち止まりと共にようやく本質に引き寄せられる。そして、自分の世界に戻ると、いかにうわべだけで中味のない生活に終始しているかということに思いがいたりぞっとする。

プラスチックのコップから出ていた芽はあまりにも弱っていた。もう茶色くなっているものもある。土もからからにひび割れしている。もうダメだろう、コップごと捨てよう、と一時は思った。しかし、どうしたものか、次男が帰ってきた時に現実を見せる方がいいのではないだろうか。そして、ほんの少しだ、生き返る可能性もある。別の種が芽を出し始めることもあるかもしれない。

結局、三つのプラスチックのコップにも水をやって捨てないことにした。

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