Monday, September 29, 2003

アイ・ラブ・ピースのために~

アイ・ラブ・ピースのために~

10年前、私はアフガニスタンとの国境に近いクエッタという街に住んでいた。アフガン人とソ連との10年に渡る戦闘はその数年前に終わり、ソ連がアフガニスタンから撤退した後であった。しかし、アフガン人同士の内戦は激しく、我々のような援助関係者はアフガニスタンの外に拠点を置いて活動することを余儀なくなれていた。タリバンが登場する前のことである。

内戦は凄惨を極めた。今から思えば、それは、その正邪、善悪はともかく、ソ連支配とタリバン支配という二つの「秩序」と「秩序」の間に現れた完全な無政府状態であった。また、これも今から思えばの話だが、このアフガン内戦は、東側の自滅のような崩壊によって冷戦が終結し、その後、旧共産圏で顕著になり始めた民族紛争の一つでもあった。これもやはり東側の鉄の「秩序」の消滅が引き金になっていた。

20世紀最後の10年、日本はバブル経済の夢の後、不況から脱出できず、自己改革にもつまずき、それを自己嘲笑的に、もしくは自己弁護的に「失われた10年」と呼ぶのが慣行になったようだ。しかし、その10年、世界は「民族紛争」に震え続け、国際社会は取り返しのつかない失敗と後悔に苛まれ、「失われた10年」は日本だけのものではなかったのだ。

そして、21世紀、我々はまた新たな戦争を目撃し続けている。それがテロ撲滅のためなのか、経済的利権のためなのか、あるいはまったく別の目的を達成する陰謀のためなのか、理由は何であれ、一国だけになった超大国が先導する戦争が始まった。最初の標的はもちろんアフガニスタンであった。

私は今「もちろん」という言葉を使ったが、それは世界の政治的文脈とはまったく関係なしに私の頭に出てきた、むしろ情緒的な言葉である。「冷戦」では西側ブロックの期待を一身に背負う華やかな戦場になり、それが終わると、国際社会の圧倒的な無関心の中で「冷戦後の民族紛争」の凄惨な戦場になったアフガニスタンである。そのアフガニスタンが今また新しい戦争の舞台にならない訳がどこにある?!

そんなシニカルな気持ちを抑え切れず、私は「もちろん」と言ってしまう。

* * *

10年前、クエッタ。

砂漠と土色の山に囲まれるクエッタでは、夏は摂氏40度を越え、冬は零下10度以下になる。先進国の都会育ちであるということが笑いの種や知ったかぶりの皮肉に使えるだけでなく、致命的な欠点であることを知るにはそれほど時間はかからなかった。住み始めて3ヶ月で私は13キロ失った。

そんなある日、私はアフガン難民にフィジオセラピーを施しているフランスのNGO事務所を訪れた。そのNGOは戦争で身体の一部を失ったアフガン人のために義肢を作り、日常生活に復帰するための訓練などを行っていた。フィジオセラピーは固くなった筋肉をほぐし、痛みを和らげるために訓練プログラムの一部として組み込まれていた。

私は連日の下痢、嘔吐に加え、全身の痛みに疲れ果てていた。手に入るあらゆる薬を飲んでみたが、私の体重は減り続けていた。自分の身体がここの風土に耐えられるまで強化されない限り、もうこの苦痛から解放されることはないのだろうと私は思い始めていた。しかし、一時でもこの全身の痛みから解放されたい、マッサージが欲しい、私がこのNGOを訪れたのはそれが理由であった。フィジオセラピーと聞いて、私が思い浮かべたのは単にマッサージだったのだ。

NGOの事務所には義肢製作の工程に従って様々な作業をするための部屋があった。すべての部屋を通り抜けた後、遊園地のような庭に出た。遊園地。確かに私はそう思った。つかの間のアウト・ドアータイプの活動を楽しむ遊園地が日本にもある。丸太やロープで作られた様々な遊具が自然の地形を利用して作られている遊園地だ。私がNGOの庭で見たのはそのような「遊具」と手足の欠けたアフガン人たちであった。

ここで何をしているのだ、という私の愚昧な質問にフランス人の友人は丁寧に答えてくれた。「義肢をつけて、ここでいろんな動きができるようにトレーニングするんだ。階段を昇ったり降りたりね、ほら、地面に丸太の切り株がいっぱい埋めてあるだろう、あの切り株の上をあっちからこっちへと移動したり、いろんな運動をやるんだ。普通に生活できるようになるにはいろんな動きが必要だからね」。そんな回答だっただろう。

そこへマッサージを求めて、のこのこやって来る先進国の外国人。しかも、彼はそもそもアフガン人を援助(?!)するために、この国に来た。常に戦争を外からこの国に持ち込む大国の指導者と彼との間にどれほどの違いがあっただろう?

* * *

フランス人の彼が結婚しないと言っていたのを思い出す。「こんな世界に子どもが生まれてくるのがいいことだと思うか?こんな世界に僕は自分の子供に生まれてきて欲しくないんだ」というのがその理由だった。しかし、義肢を作り、フィジオセラピーを施し、歩行訓練を行い続けている彼や彼の仲間たちは、戦争で身体を欠損した人たちの「こんな世界」を着実に少しずつ変えていたのだ。

『アイ・ラブ・ピース』のエンディングにアフガン人の子供がたくさん映っている。小さな男の子が肩に丸太を渡し、その両端に水の入ったバケツをぶら下げ、まるでその重さに突き飛ばされるように歩いている。アフガニスタンで私はそんな光景を何度も見てきた。それでも、その一瞬の映像を見て、あんな小さな身体で、あんな重労働を・・・あれが私の息子だったら・・・などと考えこむ。

あれから10年。私には二人の男の子がいる。フランス人の彼が本当に言いたかったのは、子どもをこの世に連れてくるなら「こんな世界」を変える努力をしろというメッセージだったのかもしれない。


(映画『アイ・ラブ・ピース』パンフレット所収
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山本芳幸(名古屋大学大学院助教授、元UNHCRカブール事務所長)