Thursday, November 29, 2001

カブール・ノート II < hard revenge - no. 2 >

___________________________________________________________

 『 カブール・ノート II 』
               < hard revenge - no. 2 >
                                        ●山本芳幸
___________________________________________________________

Dear everyone,

Sorry for my long silence.
I came back in Kabul on 18 Nov. and lost contact with the outside world to a large extent. There have been too much to do here in Kabul in order for us to be fully functional. My Afghan colleagues and I have made all the efforts to recover the communication system first at the full speed. Now we have got the satellite-connected wireless LAN in the office, and the back-up direct connections with satellite, and a radio-e-mail system. It's a big relief. This feeling is somehow similar to breathing.

Please do NOT send any mail to my addresses, particularly HTML mails, images, attachments and any other big mails !!!

It is technically possible to download mails from commercial ISPs through the satellite, but since the assistance agencies here in Kabul are working in a very fragile and tight communication environment, we have to refrain from adding extra-burdens on the satellite network. Already hundreds of journalists have come in Kabul and keep on using the satellite phones ruthlessly, and thus our critically important communication system (, which is the almost sole life-line for us) is badly disturbed. Apparently the satellite phone network cannot cope with hundreds of phones at one small location.

Knowing there are over two hundred mails in my mailbox at the moment, I cannot download them, and therefore I cannot reply. I'm sorry for the inconvenience, but I want to try to reduce the traffic. If the situation improves, I will let you all know.

Kabul is quiet. The night is dark because most of shops and restaurants are closed, and no one is walking at night. Afghan people are not so naive as the international media describes. Every Afghan knows peace would not be falling down miraculously from heaven with bombs. Anybody who has a little brain can see still a long way to go until ordinary Afghans can feel secure. Afghans' prudent patience is a striking contrast to the international media's stupidity.

Kabul is surrounded by different forces, who do never compromise each other. Media people talk about "happiness of Afghans" cheerfully like fools as if they cannot see the fact that there is no way-out from Kabul. It's just stand-off, which can collapse anytime. I don't care, though. As long as we can stay here, we just try to do anything we can for dying people. I don't know what else we can think about.

It's not a few in Afghanistan that are irritated with the paralyzing UN bureaucracy. Perhaps for the people crawling for food, UN seems to be just playing with words, paper and meetings, and the fact remains that people are dying day by day. No wonder I hear some whispering that it is a crime. If I fail to reach out those people, I cannot or should not even try to justify myself being alive in an assistance agency. Then I'm quite sure that I would not be able to fool myself any more.

It is a historical moment now in the sense that, at such high frequency, all kinds of crimes like massacre, looting, etc., are happening in Afghanistan, and the international community is happy about "the progress report" or just close the eyes conveniently. What a laughable notion "civilization" is ! I see "hope" rather only in Afghans than in the international community, which is also laughable notion, by the way.

I'm fine, or much finer now than I was in Japan.
I will continue to live a funny life in Kabul. Let us hope to get something done for Afghans !

Yoshiyuki Yamamoto
in Kabul

29 November 2001
___________________________________________________________

<i-NEXUS 編集部による非公式訳>

皆さん、ご無沙汰しています。11月18日にカブールに戻って以来、すっかり外の世界との接触がなくなってしまっていた。本来の仕事をする前に、やるべきことが膨大にあって、アフガン人の同僚と僕はとにかくまず通信システムを回復させることに全ての力を注いでいたけれど、やっとオフィスに通信衛星を使ったワ イヤレスのLANと衛星との”back-up direct Connections”と無線Eメール・システムが整った。とにかくほっとした。やっと息ができるようになったような感じ。

でもしばらくは、僕のメールアドレスにメール送らないでください。特にHTMLメールや画像などを添付した容量の大きいメールはくれぐれも送らないように!

衛星を通して民間のISPからメールをダウンロードすることも技術的には可能だけれど、カブールの回線は非常に不安定で、かつ飽和状態なため、衛星回線に余 計な負担をかけないようにしなきゃいけない。既に何百人ものジャーナリストがカブールに来ていて、衛星電話をがんがん使いまくっているから、僕らにとって 決定的に重要なコミュニケーションシステム(ほとんど唯一のライフラインといってもいい)がぐじゃぐじゃになっている。衛星電話回線がこんな小さな地域で 何百もの電話を処理できるはずがない。

200通以上のメールがサーバーに溜まっているみたいだけど、今はそれをダウンロードできないし、返事も出せない状況。申し訳ないけど、とにかく僕はこの混乱状況を少しでも緩和したい。改善したら、知らせます。

カブールはとても静かだ。ほとんど店もレストランも閉まっているため、夜になると真っ暗で、誰も外を歩いていない。アフガン人はメディアが言うほどアホ じゃない。爆弾と一緒に天国から奇跡みたいに平和が降ってくるなんて思っちゃいない。ちょっとでも脳ミソがある奴なら誰でも、一般市民が安心できる状態に なるまで、まだ長い時間がかかることを知っている。アフガン人の慎重な忍耐力と国際メディアの軽率さは極めて対象的だと思う。

カブールは今、お互いに永遠に理解しあえないさまざまな勢力に囲まれている。ジャーナリストは、彼らがカブールからもう逃げ場がないからいるだけという事実 にまるで気づかずに、アホみたいに“アフガン人の和平”について楽しそうに語っている。彼らはただ攻撃を避けているだけであって、それがいつまでもつかわ からない。まあメディアなんてどうでもいいけど。とにかく僕はここにいられる限り、死んでいく人たちのためにできることを何でもやる。そのこと以外他に何 が考えられる?

アフガニスタンでは国連の機能不全に苛立っている人が少なく ない。飢えている人にとって、国連は言葉と紙と会議で遊んでいるようにしか見えず、事実毎日毎日人々は死んでいく。これは一つの犯罪だと言う人がいてもお かしくない。窮地に追い込まれた人たちのもとへ確実に近づいてやることができなければ、僕は援助機関で生きていくことを自分に許せないし、許すべきじゃないと思っている。

今は歴史的な瞬間といえるかもしれない。こんなに頻繁に大 虐殺や略奪のような犯罪的行為がアフガニスタンに起きているのに、国際社会は”復興レポート“で一喜一憂し、都合のいい所にだけ目を向ける。文明?まった くばかばかしい。僕は国際社会よりもむしろアフガニスタンにこそ”希望“があると思う。もっともこの考えもばかばかしいと言われるかもしれないけれど。

とにかく僕は元気にやっています。日本に居る時よりもずっとまし。
カブールでヘンテコな人生を続けます。アフガン人に何かできるという希望をもって!

山本芳幸 

11月29日 カブールにて

(注:日本語訳は他にもJMM編集部によるものがあります。)
___________________________________________________________
本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組織の見解とは一切関係ありません。
___________________________________________________________

Saturday, November 17, 2001

カブール・ノート II < hard revenge - no. 1 >

__________________________________________________________

  『 カブール・ノート II』
               < hard revenge - no. 1 >
                                        ●山本芳幸
__________________________________________________________

11月17日土曜日、妻がマーボー豆腐を作るというので、午後3時半、とうふを中国人の家に買いに行く。
中国人の家に向かって運転していたら、3時45分、携帯に電話がかかってくる。
オフィスの無線室からだった。
明日の朝8時に国連人道調整官事務所のフライト・オペレーション部に行くこと、その15分前に車が迎えに行く、という簡単なメッセージ。

やっとカブールへ戻れる。明日ラフマットの席は取れないらしく、彼は一日遅れで続くことになった。
カブール空港が使えないらしく、バグラム空港へ国連機は飛ぶ。
テレビでは、イギリス兵がバグラム空港を整備中、数週間はかかる、と言っている。
明日行くのに、と思う。

国連のプレゼンスをカブールで確保するべきだという国際社会からのプレッシャーが大きいそうだ。
カブール陥落後、48時間以内にカブールに戻るべく、国連の人たちは走り回っていた。
メディアは「権力の空白」という言葉を頻繁に使って、現在のカブールを描写している。
アナーキーな状態へ戻ったり、北部同盟どうしの内乱状態が発生したりする前に、 カブールへ国連人道援助機関が戻って、そういう事態の発生を抑止することが狙いだとか。

すでに北部同盟支配地域での略奪、処刑、北部同盟内での分裂を報告するメディア。アフガン女性の人権を訴えてきたRAWAは早くも北部同盟批判の声明を出している。マザリ・シャリフは三派に分割され互いに小競り合いを続けている。

保険が異様に高くなり、国連機一つ飛ばすのに5万ドルだとか。ほんの10名前後しか乗れない小さな飛行機なので、一人分の負担が大きい。
保険手続きが遅れ、最初に飛ぶはずのセキュリティ調査機の出発が遅れていた。やっと今朝それが飛んだ。
セキュリティ担当官はバグラム空港からカブール市内への30キロほどの道の安全を確認してカブールから電話をすることになっていた。
その確認がとれて、今日の午後、各国連機関のトップを載せた機がカブールに飛んだ。これには象徴的な意味が持たせられているのだろう。国際社会が見ていますから、もう悪いことはできませんよ・・・。
いよいよ明日は各機関の実働部隊がカブールに出発する。

* * *

イスラマバードへ戻った翌週、ペシャワルに行ってカブールで仕事をしていたアフガンNGOの代表たち32人に会った。
ペシャワルからカブールへ物資を陸路で輸送することは可能、治安は安定している、タリバンは協力的、早く国連は動くべきだ、等々、彼らは熱く語った。
なんだ、ペシャワルからなんとかできそうではないか、どうして今まで・・・という疑問が沸き起こる。でも、そんなこと言っていてもしょうがない。
タジキスタンへ行くよりも、ペシャワルから打開の道を探した方が早いとUNHCRの代表に説明した。じゃあ誰がタジキスタンに行くんだという話になってし まった。人が足りない。タジキスタンをよく知っている人はオフィスに誰もいないから、誰がいっても同じだ。カブールを含む中央部も誰かが担当しないといけ ない。それなら、カブール周辺をよく知っている人間をタジキスタンに送るのは損失だということになる。結局、僕はペシャワルへ移動して、そこからカブール を含む中央部へのクロス・ボーダー・オペレーションの準備をすることになった。ジュネーブから応援に来た人がタジキスタンに行った。

ところが、カブールが陥落し、また状況が変わってしまった。今度は一刻も早くカブールへ行かなければならない。ペシャワルにベースを作る作業は中途半端なま まだけど、それは一時中断せざるを得ない。カブールの話しか書いていないが、アフガニスタン全土で毎日、状況が変わっているので、あちらこちらで立てる予 定が次から次に反故になっていく。

* * *

次々にタリバン支配下の街が陥落していく。で、タリバンはどこへ行ったのか、という報道はあまり見ない。山にこもって戦闘を続けるというような話で納得しているのだろうか。
タリバンが去った後、タリバンもいない、北部同盟もいない地域がたくさんある。これも「権力の空白」と表現していいのだろうか。

アフガニスタンから衛星電話をかけてくるスタッフの話はちょっと違う。それぞれの村には長老たちがおり、そのまた上の階層の村々を束ねた区域にも長老たち がいる。そういう伝統的な権力構造は崩れずに残っていた。それが今、機能しているということだ。彼らは自警団を作り、自分達の郷土を略奪や強姦や虐殺やか ら守り、アナーキーな状態にならないように必死に防衛しているそうだ。彼らにとっては、政権を取るのがタリバンであろうがラバニ派であろうがドストム派で あろうがハリリ派であろうがそんなことは今の段階では関係ないことだ。とにかくもう一度アフガニスタン全体に秩序が取り戻されるまで自衛しないといけな い。なんか痛々しい感じをもってしまう。ほんとにアフガン人、打たれても撃たれても討たれても頑張ってるなあとしか言いようがない。

で、 タリバンはどうしてるんだろうと僕も思った。それを聞いた同僚のアフガン人二人がケラケラと笑った。今日からタリバンじゃないと言えば、また村人に戻るだ けさ、元々田舎の村から来たんだから、と言う。そりゃ、そうだ。故郷の村に帰れば、タリバンかどうかなんて分からなくなるし、そんなことはどこそこの村の 何々家出身ほどの意味もはないのだろう。タリバンは砂のように消えてしまった。

外国からタリバンの戦闘に参加していた人はそうは行かないだろう。アラブ人やパキスタン人やチェチェン人はどこまでも追い詰められる。彼らは発見されしだい殺されているそうだ。こういう状況はいつか明らかにされるだろうか。

* * *

タリバンにスパイ容疑で捕まっていた日本人のカメラマンが今日解放された。日本の自衛隊が攻撃してくると聞いたので、彼はそのためのスパイだと思ったとタリバンの大使が言っていた。思わず、吹き出しそうになったが、そんな見方さえ出てくるのは不気味な話だ。

ある会議でアフガニスタンで緊急に必要な援助物資について議論していた時、アフガンNGOの人が、USAのマークの入った物資はダメだと言った。ちょっと質 問の趣旨とは違うのだけど、じゃあ日本のマークはどうだと訊けば、まだ大丈夫だと言う。まだって?と再度訊くと、彼はニタニタして何も言わなかった。

先週の金曜日はイクバルというイスラム詩人の誕生日だか亡くなった日だかで大事な日だったらしい。ジャミアテ・イスラミという原理主義政党が全国的な反米デ モを呼びかけ、ペシャワルにいた僕はイスラマバードへ戻る予定を変更して嵐が通り過ぎるのを待っていた。その間、アフガンNGOの人たちが国境近くの部族 支配地域のある部族長の家に連れて行ってくれた。昼食時に大量のカバブが出てきた。その中に羊の目玉が山盛りになっていた、と僕は思ったのだが、これはシ ンワーリー・カバブというものだと説明してくれた。シンワーリーというのはパシュトゥーン族の一つでパキスタン・アフガニスタン国境地域を支配している強 力な部族だ。

シンワーリー・カバブは羊の油身を直径2センチくらいの固まりに切って、その中に羊の臓物を詰めてある。だから、油が白目、臓物が黒目に見える。食べてみると熱く溶けた油がよい味になって臓物にからまりおいしかった。

部族長は武器と麻薬を売っていた。大麻は10グラム1ドルで売ってるそうだ。ヨーロッパ人の若者がよく来ると言っていた。 壁にはカラシニコフ銃が二本かかっていた。アメリカ人が来たらこれで撃つんだと言ってニコニコしていた。72発連発で撃てるマガジンを自慢気に見せてくれ た。ここではいろんなマガジンを製造しているということだった。そんな話をしながら、カバブをむさぼっているとつけっ放しのテレビから日本の自衛隊がとう とう出動しましたみたいなニュースを流し始めた。自衛隊のイージス艦とやらが画面に映っている。僕をそこへ連れてきたアフガンNGOの人達はニュースが聞 こえないふりをしている。気まずい沈黙になった。同僚のアフガン人は僕をちらっと見てニタっと笑った。部族長がジロッと僕の方を見て、やっと口を開いた。 これを見ろ、と首をふってテレビの方を指す。うわっ、いかん、カラシニコフで撃たれたらどうしよう、もう思いっきりアホになったふりをしてごまかすしかない、と思っていたところへ、部族長は、海で何するんだ?アフガン人は陸にいる、と言った。ほっとした。アホなふりをするまでもなく、アホだと思われている のかもしれない。

* * *

カブールへ行くと当分メールは使えなくなる。当初の企画が早くも挫折してしまった。また、戻ってきたら、何か発信できるでしょう。

(2001年11月17日 イスラマバード)
 
__________________________________________________________

本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組織の見解とは一切関係ありません。
__________________________________________________________

Tuesday, October 30, 2001

カブール・ノート II < hard revenge - no. zero >

__________________________________________________________

  『 カブール・ノート II 』
               < hard revenge - no. zero >
                                        ●山本芳幸
__________________________________________________________

坂本龍一さま

「カブール・ノート」続きを書いていくつもりでしたが、今のところあんな長いのを書く気分じゃないので、もっと短くて速報みたいなのを出して行くことにしました。シリーズタイトルは、「hard revenge」(!)です。

26日早朝イスラマバードに着きました。
やっぱりきつかったです。
幸い息子はいろんな局面で素早く短い睡眠をとってくれたので最後まで元気でした。
僕はトランジットで走り回るはめになって全然眠れず、イスラマバード空港にはボロ布のような状態で着きました。

全行程リコンファームしていったのですが、そういうのがまったく無視されていて、次のフライトのチェックインをしようとするたびに、そんなのブッキングされてないよとあっさり言われる。当然、チェックイン・カウンターは完全にbattlefieldと化していました。

みんなが同じ状況で、みんなが頭に来ていて、みんなが焦っていた。怒号が渦巻く中で、ねちねちと理屈で迫る人や、ひたすら悲しそうな顔をして情緒に訴える人やいろんな戦略でみんな自分の席を確保しようとしていて、結構おもしろかった、と今なら言える。

だだっ広いドバイ空港の中を3時間半動き回っていろいろ考えましたよ。権威的に出る必要がある局面とか、下手に出る必要がある局面とか、フレンドリーに出る 必要がある局面とか、それを見誤ってミスマッチな態度を出してしまうと、絶対ダメだなと思っていろんな演技の使い分けをしていたのでかなり疲れてしまっ た。

もう戦闘放棄って感じでドバイ空港のDepartureの階はあっち こっちの床の上にゴロゴロしてる人がいっぱいいました(いつでもそんな人は何人かいますけど)。もっと若くて一人旅なら僕もこうしていたかもしれないと思 いましたが、今はこうなってはいけないと固く思いつめ、彼らを無機物のように無視している自分を今思い出せます。

ちょっ と違うかもしれないですけど、loserとwinnerという分け方がこういう時にぴったりきそうな気がした。loserになってるヒマがないって固く思 い詰めてる人がwinnerになるのかもしれないって。しかし、それでいったい何に負けて何に勝つんだと考えると、loserとwinnerの立場が逆に 見えたりもするんですが。

ともかく、僕は3つの席をもぎとって、ボロ切れに はなりましたが予定通りイスラマバードに到着しました。こっちへ来て分かったのですが、今パキスタンへ入る便はコンファームもフライト・スケジュールも へったくれもないそうです。しょうがないですね。PIA(パキスタン国際航空)以外はほとんど運休ですから。

最近飛行機に乗った人はもう知っているのでしょうが、機内食のナイフが、ナイフだけがプラスチックに変わっていて、かなりこれは変なかんじでした。フォークとスプーンは金属でナイフだけが白いプラスチックになると味まで分からなくなる。

僕は間抜けなことにあれっ間違えたのかななんて思ったのですが、その瞬間、妻がテロ対策だと言ったので、おっそんなこと考えているのか、すごい!と思った。そういうことを云うと怒るから何も云わなかったけど。

> 今回のことで、島は危険だと分かりました。
> アクセスを全部閉じられたら、どこにも逃げられません。
> 今後、自分が地球のどこに住んだらいいのか、そればかり
> 考えてます。

タイは仏教国だし、食べ物もおいしいし、足つぼマッサージもうまいし、
いいなと思っていたんですけど、3万人のムスリムが反米デモをしていました。
逃げ場のない戦争、これが第三次世界大戦だったのかもしれません。

ところで、僕はビザが取れしだいタジキスタンのドシャンベに行く予定です。そこから、タジキスタンベースの国連、NGOのキャパシティを調べ、アフガニスタンへの救援物資の突破口がないか探るのが仕事です。

まず、2、3週間ほど滞在してまたイスラマバードに戻ってきますが、またタジキスタンに行きます。アフガニスタン北東のファイザバードにベースを作って点を 線につないでいきます。同時にカブールを含む中央地域への援助供給の道をイスラマバードから開く仕事も続けます。かなり人手不足です。

今日の朝、カブールから電話がかかってきたのですが、タリバンのMinistry of Communicationからでした。カブール事務所のスタッフがそこで衛星電話を借りてかけてきました。

ところが、そういう面倒ももうすぐなくなりそうです。タリバンの大親分のオマールは国連から接収した通信機器や車を返せというお触れを出して、今それが戻ってきています。援助業務に協力しろっていうお触れです。

まだカブールに住んでいる人たちに電話で聞いたのですが、アメリカの飛行機はすごい高いところを飛んでいて黒い点としか見えない、だから、変なところにあちこち爆弾落すのだと言ってました。目視に頼るわけじゃないでしょうが、やはりそういうのも関係あるんでしょうかね。

国連やNGOの倉庫をタリバンのコンボイだと思って爆弾落すとか、屋根に大きく赤十字が書いてある国際赤十字委員会の施設が3回も爆弾落されるとか、地雷除 去に使う犬の小屋が洞窟のように丘の側面に並んでいるのですが、そこもたぶんテロリストの洞窟だと思われたのでしょう、爆破されて犬が吹っ飛ばされてし まったり、バカバカしいいことが毎日起こりつづけている、と彼らは憤っています。

タリバン系ラジオ局といわれているRadio Shariatのステーションを爆破したって、だいぶ前に新聞には出ていたけど、彼らはとっくにモバイル化していて、通信機器一式をトラックに積んであちこち移動しながらまだ放送は続いていました。

対空砲なんかもみんなモバイルになっていて、トラックに載せて街の中の木陰とかに止めてるそうです。戦車もあっちこっちに分散して住宅地の木陰にあったりす るそうです。これでは空から何やっても無駄なんじゃないだろうか。アフガニスタン全土を焼き尽くしでもしないかぎり。しかし、それは人類史上最大の虐殺に なるでしょう。

アメリカはいったい何を戦っているのでしょうか。訳の分からない攻撃の合間に全然なんにも関係ない人が死につづけているってのは、どう考えても正当化できない。
「ひどい仕打ち」だと思います。

というわけで、こんな話の羅列みたいなのを速報形式でだそうと思ったのですが、このシリーズタイトルを「hard revenge」にしたいと思ってます。まさにhard revengeだから。坂本さんに一言お断りをしなくてはいけないと思い、長いメールになってしまった。
だいたい言い訳って長くなるんですよね。

山本芳幸

                        (2001年10月30日 イスラマバードにて)


-----------------------------------------------------------------------------------
ryuichi sakamoto "hard revenge", FLCG-3006 made in Japan '94.12.16
ryuichi sakamoto
http://www.sitesakamoto.com/
debris of prayer
http://www.sitesakamoto.com/WTC911/debrisofprayer/
__________________________________________________________
本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組織の見解とは一切関係ありません。
__________________________________________________________

Monday, September 24, 2001

イスラム・コラム No.10 「息子の世界」

JapanMailMedia 133号から転載。

2001年9月25日配信

■ イスラム・コラム No.10 山本 芳幸

「息子の世界」


龍さんへ

お元気ですか。大変ご無沙汰してます。去年の2月からカブールに駐在しており、ほ とんどネットとは縁のない生活を送っていたのですが、たまにはイスラマバードに戻 ります。その時はネットに繋いで日本を探したりするのですが、ウェブだけではなか なか掴めません。逆に言うと、ウェブを通して世界が見えるなんて信仰があるとする と、とんでもない勘違いなんでしょうね。

今年の夏、2歳になった息子は今あらゆるものの名前を知りたがります。英語、現地 語、日本語が混ざると混乱するのではないかと思い、息子に話し掛ける時は今のとこ ろほぼ英語で統一するようにしているのですが(そもそも唯一日本語を話す私がほと んど家にいないせいもあるのですが)、親のそんな小賢しさをあざ笑うように、息子 は言語に関係なくあらゆる音と事物を結び付けていきます。

風船を見たらバルーン(英語)、肉が食べたければゴーシュ(ウルドゥー語)、花は フラワー(英語)で葉はハッパ (日本語)、 頭上に飛行機が飛んでくればヒコーキ (日本語)です。また、わずかな動詞を駆使してなんとか意志を伝えようとします。 アリが死ねばGone、 誰かが出かけてしまうとGone、モノがなくなれば Gone、そして 私が外出しようとするとGoing ? と尋ねる。彼の動詞の使い分けの的確さにはほと んど驚愕しています。人間が先天的にもっている能力というのはおそろしく素晴らし いものなんでしょう。それを我々はなんと無駄にしていることか。

息子のお気に入りはヒコーキです。雑誌が目に入ると片っ端からページをめくりはじ め必ず飛行機の写真を見つけては、ヒコーキ、ヒコーキと連呼しながら歓喜にふるえ て報告しにきます。それを黙ってニコニコ見ていては、いつまで経っても息子の ヒコーキ、ヒコーキ、ヒコーキは終りません。私のそんな反応に納得しないのです。 そう、それはヒコーキだと言ってもまだ不十分です。彼はやがて私の指をつかみ、そ れを写真の上に持っていきます。そして、私がその指をしっかりと飛行機の写真の上 に押し付け、そう、これはヒコーキだと言った瞬間に、彼は納得するのです。ウムと 息子は満足気にうなずき、ヒコーキの連発を終えます。確実に一つのことを伝達し得 たという確認が、彼には必要だったのでしょう。

今回アメリカでテロがあった9月11日の翌日に、私はカブールからイスラマバード に戻ってきたのですが、今日事務所から戻るとその週に出た雑誌を息子は検討してい ました。私を見つけると、やはりヒコーキを連呼しながら雑誌を持ってきます。その ヒコーキはいつものように航空会社の鮮やかな広告ページのものではなく、今まさに 世界貿易センタービルに突入しようとする飛行機でした。

私は確認しました。そう、それはヒコーキだ、と。息子はページをくります。ビルか ら吹き出る炎を指して、This? This? This? とききます。それは、fire だと私は 応える。すると、息子はハッと自分の知識に気が付き、Hot! Hot! Hot! と連呼し ます。そしてまた次のページ。息子は新しい発見を私に報告します。A man! A man! A man!と言いながら、ビルから落下する人を指差しています。そう、それはa man だ と私は確認してやります。すると、息子はその落下する人を指差しながら、 Going, Going, Going! と連呼します。一瞬、falling だと訂正しようかと思いまし たが、やめました。そう、He is going と私は息子に確認してやることにしました。

イスラマバードにいるかぎり、このようにして一日一時間くらいは雑誌や本を前にして私と息子は会話(?)します。コミュニケートするということが大変な喜びを息子 にもたらしているのだろうということは息子の顔の輝きからはっきりと信じられます。 この時間は私にとっても、今もっとも幸福な一瞬です。

しかし、世界貿易センタービルに突入するヒコーキをめぐる会話を継続させるにはか なりのエネルギーを必要としました。息子を失望させたくないので、できるかぎり私 も快活に受け答えをしようとしていたのですが、私があまりのっていないのをおそら く息子は感じ取っていたでしょう。

このテロがあまりに大規模な惨事であったこと、しかも私の仕事にダイレクトに関わ ること、それだけで重い気分を作るには十分でしょうが、このテロへの対応しだいで は、この世界はもう二度と取り返しのつかない地点に踏み込んでしまうかもしれない という思いが、もっとも幸せなはずの瞬間でさえだいなしにしてしまうのです。

私が自由に動き回り、失望と希望の間を行き来した空間は永久に失われるかもしれな い。この世はかつてそんなことが可能であったのだ、という年寄りの思い出話を聞い て悔しい思いをすることだけが息子を待っているとしたら、なんて悲惨なことだろう。


今、私たち、国連機関は今後起こり得るあらゆるシナリオを想定し、それぞれに対応 したコンティンジェンシー・プランを立てるという、重い気分にふさわしくない、極 めてテクニカルな作業に追われている。

いかなるシナリオを想定しても数百万という単位の人々の生命が危機にさらされる。 そんな大袈裟な、と思う人もいるかもしれない。私たちは何度も何度も世界に訴えてきた。数百万単位のアフガン人が餓死の危機に瀕していると。しかし、もちろん、それが日本語のメディアを通して日本に到達したかどうか、日本に住んでいない以上、 私には心細い想像しかできない。

今、アフガニスタンでは、20年に及ぶ戦闘で自分の家を失い、田畑を失い、まったく生活の糧もなく、彷徨い歩き、あるいは土漠に穴を掘り、その上にありったけの布をかぶせ、なんとか生き長らえている人々の数が約100万人になろうとしている。 記録に残るかぎり最悪と言われる旱魃に三年連続して見舞われ、田畑が全滅し、家畜が全滅し、それでもなんとか自分の村に踏みとどまっている人たちが約450万人。 彼らにしても農地からは何も収穫はない。

そのような人々、550万人が援助機関の配給する小麦でなんとか生き延びている。 そして、近づきつつある厳しい冬に備えて、私たちは越冬対策を懸命に準備しているところであった。今のままでは、子供や老人はあっけなく凍え、そして死んでいくだろう。

9月11日のアメリカでのテロの直後、国連もNGOもアフガン人以外の職員は皆アフガニスタンから撤退してしまった。アフガニスタン内に備蓄されている小麦は今後2週間分しかない。2週間後、550万人の人々は何も食べるものがなくなる。私たちは今、食糧をアフガニスタン国内に運ぶあらゆる手段を検討している。アフガニスタンは広い、道は悪い。国境は閉鎖されている。現地職員も自分と家族の生存のために全力を尽くしているところだ。彼らにいったい何を頼めよう?輸送機からの落下も検討してみよう・・・。八方塞がりかもしれない。それでも考え続けるしかない。

しかし、何を考えても私たちが直面しているのは、おそらく大規模な武力による殺人・破壊行為なのだ。アフガニスタンへのアクセスは少なくともある期間、まったく不可能になるであろう。状況しだいでは私たちはパキスタンからも撤退せざるをえなくなるだろう。パキスタンの外、別の国へ国連援助機関のベースを移し、そこからの援助活動ももちろんオプションとして検討している。しかし、それがどこまで現実的な、実効性が伴ったオプションであり得るか。

ソ連侵攻時、イラン及びパキスタンへ逃げ出し難民となった人々の数は600万人に上る。今も400万人近くのアフガン人が難民として二つの隣国に住んでいる。すでにアフガニスタン国内からは、国境へ向かって大規模な人口移動が始まっていると報告されている。国外へ膨大な数の人々が流出してくるだろう・・・。しかし、イラン側もパキスタン側もすでに国境は閉鎖されている。彼らは難民になることもできない。国境近辺には自然発生的なキャンプがいくつも現れるだろう。しかし、そこには水も食物もない。私たちは、なんとかそこへ援助物資を届ける方策を今考え続けている。

数百万の生命が危機にさらされるというのは大袈裟だろうか。戦闘行為の犠牲になって命を落とす人、そして戦闘とはまったく関係なく餓死していく人々、私はそれは非常に現実的な危機と感じている。あらゆるシナリオに対して立てるコンティンジェンシー・プラン、これらの方がどんどん現実的なものから空想に近づいていくように感じる。奇跡的なオペレーションを考え出さないかぎり、この危機は回避できない・・。

この戦争は終らないだろう。ある地域に限定して考えるなら、そこで始まった戦闘行為はやがて終るだろう。私は軍事専門家ではない。どこでどのような戦闘行為が始まり、どのように展開し、終結するか等を議論したり、予想したりする資格はない。私が、この戦争は終らないだろう、と言うのは、原理的に、ということだ。原理的に、この戦争は終らないだろうと私は思う。

私はこれまでいろんな形でその理屈を書こうとしてきたつもりだ。関心のある人は
http://www.i-nexus.org ですべて読めるのでそれを見て欲しい。今、とりあえず、これから始まる可能性の大きい戦争の当事者になるかもしれない国の人に考えて欲しいのは、ある信念を物理的な暴力で破壊することは不可能だ、ということだ。特定の個人を抹殺しても何の意味もない。叩けば叩くほど、それはより強固にさらに広範に増殖していくだろう。そしてそれは、次のテロとして発現してくるだろう。

そもそもアメリカもしくはアメリカが象徴するものに対して、なぜこれほどまでの憎悪が発生したのか、それを解明することに真剣に取り組まず、物理的な報復に訴えれば、我々はテロから永久に逃れられない世界を作ってしまうだろう。私は私の息子にそのような世界を受け渡すわけにはいかない。

日本は今、本当に慎重に進路を決定しなければいけない。一方でとてつもない規模の人を殺す行動、戦争、の準備が進んでいる。他方で上に書いたように膨大な数の人の生命を救うための途方もない仕事がすぐ目の前に押し寄せてきている。私たちはどちらの仕事に従事したいのか。終らない戦争の一方の当事者として、今後生きていきたいのか、あるいはそのような当事者になることを回避したいのか。

今、アメリカが宣言している報復攻撃への対応に日本はもたついているようだ。もっ ともたつけばよいのだ。日本人にとってもっとも利益のある行動を発見するまでもた つき続ければよいのだ、と私は思っている。


山本芳幸
・UNHCR FO Kabul, Officer-in-Charge