Thursday, November 09, 2006

没。

終了しました。更新はありません。


(注)yoshilog 旧ヴァージョンの最終日。

Friday, October 06, 2006

母と子と国連


1.

子 「母さん、昨日もまた夜中まで仕事だったよ」







2.

母 「あら、でも余分なお金を稼いだわね」
子 「いや、残業手当は出ないんだ」






3.

母 「あら、でも重要な仕事だったんでしょ」
子 「いや、そうでもないんだ」






4.

子 「上司に僕のパワーポイントのスライドを変えろって言われたんだけど、でも、変えたらかえって悪くなった」







5.

母 「あら、でも会議の準備にはなったわね」
子 「いや、会議はキャンセルされたんだ」







6.

子 「でも、いいんだ、どっちみちこのプロジェクトは予算が付いてなかったから」






7.

母 「じゃあ、あなたはそもそもありもしないプロジェクトのための、ありもしない会議のためのプレゼンをさらに悪くするために、遅くまでただ働きしてたってこと?」





8.

母 「あらまあ、あなたはきっと国連で仕事してるのね」







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まさに国連そのまんまではないか。Scott Adams という人はどうしてここまでよく知ってるんだろう?

Sunday, October 01, 2006

「カブール発復興通信」(10)(11)(12)-2006年4月~6月

昨日、寿司パーティなるものがクミ家であった。河内のシチリさんがドバイから生のマグロとタイ持ってきはったのだ。フランス人とイタリア人は今さら寿司ごときで驚くわけはない、というか、アホほど食い倒していた。セルビア人はおいしく食べていそうに見せかけていたけど、なんかやたら言葉が多くて苦手そうに見えた。バルカンは肉王国だしなあ。ネパール人は黒い紙がおいしいといっていた。

昨日の朝は内務省への自爆攻撃があっただけど、仕事は普通にあったし、9月末で一斉に切れるいろんなNGOの契約の更新におおわらわだし、特に気にもとめていなかったけど、FAOは、White City (外出禁止)になっていたらしい。なので、事務所の車が使えないと行って、UNDPの車に便乗させてもらっていた。一応国連のセキュリティは統一されてるはずなのだけど、こういうことはよくある。

酢飯と魚がかなり余った。河内のシチリさんは、9人の参加者のために米を一升炊いたと言っていた。生魚も2,3キロ買ったんだろうか。

今のうちにおにぎりにしとけば、明日食べれると言ったら、クミさんが余った米にふりかけをかけておにぎりを作ってくれた。誰も興味を示さず、僕が全部持って帰った。これで、明日のランチはろくでもないレストランに行かずに済むと思った。

今朝は7時半頃シャワーを浴びて、まだ時間があるので昨日のおにぎりを食べようと思ってキッチンに下りていったが、いつも朝は込み合ってるキッチンに掃除のおばさんしかいない。変だなあと思ったが、とりあえず冷蔵庫でガンガンに冷えているおにぎりを食べながら、ダイニングに行くと、たぶん知っているアメリカ人の中で一番無口なロバートがぽつんと一人ソファーに座ってテレビを見ていた。

お互いにオハヨーみたいことを言ったと思うが覚えてない。僕はまたキッチンに戻って、お茶をいれ、無線室に電話して車を送ってくれるように言うと、White City だという。えっ?なんで?理由は分からないけど、昨日の続きみたいなことだろうか。昨日は動き回れて、今日は外出禁止というのも変な話だ。午前4時に無線で伝えたとか言ってるけど、知らないよ。

僕はまた自分の部屋に戻って服を着替えることにした。ロバートもソナムもカルチュンも知っていたらしい。それでロバート以外の二人はまだ寝ているのだった。しかし、ロバートもボサッとテレビ見てないで朝会った時に一言くらいなんか言わないかねえ。ほんと無口なんだから。

昼くらいにはオフィスに行けるだろうと思って、ごろごろしていたが、いっこうにWhite City は解禁にならない。とうとうそのまんま一日が終わってしまった。NGOの契約切れたなあ、と思うがどうしようもない。

夜7時過ぎに明日もWhite City だという連絡が無線室からあった。といっても、朝7時半までにオフィスに入って、それからオフィスから一歩も出ずに仕事をして3時半になったらコンボイを組んで帰宅ということになったらしい。それにしても、二日続けてWhite City は珍しい。カブールも時間の問題だ。どんどん崩れていくだろうな。Evacuation も近いかもしれない。15キロの’Go-bag’ を点検しておくことにした。

オフィスに行けないので、久しぶりにゲストハウスのPCから送信してみることにした。日本語タイプできないから面倒くさい。


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「カブール発復興通信」(10)

「アフガンの女性は歳をとらないのよ」と、女性問題省のマスーダ・ジャラル大臣が言ったことがある。自慢でも冗談でもない。アフガン人女性の平均寿命は44歳。つまり、歳をとる前に死んでしまうという現実を彼女は話したのだ。

2001年9・11の後、米同盟軍の攻撃によってタリバンが追放され、アフガン女性が解放された、そして彼女たちはブルカを脱ぎ捨てた、というのが、当時の報道が作り上げた典型的なイメージではないかと思うが、そのようなイメージは、対テロ世界戦争のサポートにはなっても、当のアフガン人女性の大多数にとっては何のことだか分からなかっただろう。

女性問題省大臣のマスーダ・ジャラルは、アフガン女性の境遇の改善には長期的なアプローチが必要であると主張している。彼女たちが直面している問題は、短命に終わったタリバンが登場するはるか以前から存在する問題であるし、一つの政権を交代させたら消滅するというような底の浅い問題ではないからだ。

アフガニスタンでは、昔からザール・ザン・ザミン(金・女・土地)が紛争の三大原因だと言われている。「女」が、「金・土地」と並列して語られるという一事で、すでにアフガン女性の置かれている境遇の一端が見えると思う。

女性問題省の文書には、すべての結婚の六割から八割が強制的なものであると記されている。そして、それはしばしばなんらかの紛争の解決のためであったり、借金の返済のためであったりするのだ。

現在のアフガニスタンでは16歳以下の結婚は違法だが、57%の女性が一六歳以下で結婚し、3割以上の女性が18歳未満で出産、15歳未満で出産する女性が1割もいる。そして、アフガン女性が生涯に出産する子の数は平均して6・6人。

しかも、現在、助産婦など専門家が立ち会って行われる出産は全体の14・3%に過ぎない。医療施設での出産となると全体の11%だ。若年の結婚・出産、しかも多産で、かつまともな医療環境が整っていないとなると、どのような結果になるか。

統計に表れている数字では、30分に1人の女性が出産中に死亡している。全体では10人に1人の女性が出産中に死亡する。これが、「アフガンの女性は歳をとらないのよ」の内実なのだ。

アフガニスタン独立人権委員会の報告書は、アフガン女性の5割が不幸な結婚生活を送っていると伝えている。自分の意思とは関係なく、借金返済や紛争の決着のために、老人に嫁がされた少女が幸せであるはずもなく、凄まじい家庭内暴力に傷つき、路上に捨てられ、病院に収容されたというような新聞記事もたまに出ることはある。

そして、暴力と絶望の果てに女性たちは自殺する。去年1年間でアフガニスタン西部のヘラートだけで150人の女性が焼身自殺を図ったと人権委員会は報告しているが、もちろん、我々が知ることができるのは氷山の一角に過ぎないだろう

四半世紀の戦乱でアフガニスタンにはたくさんの未亡人が生まれた。アフガニスタンの伝統によると、未亡人は亡くなった夫の兄弟か、近い親戚とのみ再婚できる。自分の意思とは関係なく、義父の決めた相手と再婚するか、しない場合は子供だけは義父の家に取られて、嫁は追放されることになる。

この前近代的な習慣を破ったのは、皮肉なことにタリバンだった。99年、タリバン総帥のムラー・オマールは、未亡人は望む相手なら誰とでも再婚できるというお触れを出した。しかし、再婚の自由はタリバンの崩壊によって3年ほどで終わる。困ったのは、その3年の間に再婚した女性たちだ。再び、義父の家族が現れ、殺すと脅されて、女性問題省に助けを求めてかけこむ女性が出てきた。

マスーダ大臣が取り組んでいる女性問題は一時的な現象ではないのだ。彼女は、アフガン人すべてが協力して努力すれば、アフガン女性の境遇の改善は数10年で達成されるだろう、しかし、みんなが協力しなければ数世紀かかるだろう、と言う。

メディアが作り上げた華々しく解放されたアフガン女性というイメージは、国際社会がタリバンをひっくり返してあげた、だからアフガン女性は幸せでしょうという押し付けがましいメッセージではあっても、現実にアフガン女性の助けにはならない。アフガン女性たちが戦わなければならない相手は、爆弾で乗り越えることのできない前近代の伝統なのだ。

(『フォーサイト』2006年4月号所収。見出しは「歳をとらないアフガンの女性」。)
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「カブール発復興通信」(11)

ドアを開けると、サジアがさっとショールのようなものを引き上げて髪を覆う。小さな蝶々の形をした髪留めが一瞬見えたが、もう見えない。髪を顕にした方がずっと可愛いのにと思うが、もちろんそんなことは言えない。

私がこのオフィスに着任した18ヵ月前、全アフガン人職員316人のうち女性は2人だけであった。その後、私はアフガン人職員を4人雇ったのだが、そのうち3人がサジアを含め女性であった。

これは単に一番優秀な人から雇った結果に過ぎない。国連には男女雇用機会均等を積極的に推進するという建前があるが、そんなことは選考過程ではまったく念頭になかった。

アフガニスタンでは高等教育を受けた女性が働ける職場というのは非常に限られている。私企業などほんの少ししかないし、官僚制度も今やっと整備し始めたところ。医療機関や教育機関もカブール以外ではまだまだ伝統的医療や寺子屋のようなものが主流で、職場として成立しているわけではない。

女性の働く権利というのは、そもそも可能性としての職場が社会に出現するまで、主張される必要はなかった。その点において、それは極めて近代的な概念だと言える。

我々がイメージするような職場がなくても、人類の登場以来女性は働き続けてきたはずである。現在のアフガニスタンを見ても、農業では男女の分業が確立され、何百年にわたってアフガン女性も男性同様、働き続けてきたのである。性差による分業が成立する農耕社会や遊牧民社会ではわざわざ女性の働く権利という概念を抽出する必要はなかった。

ところがそのような前近代的な農耕社会や遊牧民社会を近代的な視点から見ると、女性の人権は著しく侵害されているように思える。しかし、それは近代化が様々な要因によって阻害され中断されてきたこと、言い換えればいまだ近代的概念としての人権が適用不能状態にあることを確認しているに過ぎない。

ソ連侵略後のカブールではミニスカートをはいている女性もいたということを元に、アフガン女性も昔は自由だった、彼女たちの人権侵害はソ連撤退後、内戦を経てタリバンによって始まった、というような報道が数多くなされ、それが通説になったのかもしれない。それが真実なら今やアフガニスタン中にミニスカートの女性がいるはずだ。だが、実態はまったくそうではない。

国際社会が復興援助や平和構築という名目の下で行なう様々な活動の内部には、隙間なく近代的概念としての人権が組み込まれている。国連のアフガニスタンにおける現在の活動の根拠は2001年11月14日の国連安保理決議1378号にあるのだが、そこには「アフガニスタンを近代化せよ」などとはもちろん書いていない。しかし、すべてのアフガン人を代表し、人権を尊重する政府の樹立を促す、この決議の内容は〝近代化〟を要求している。つまり国際社会が復興援助として行っていることの本質は、「外部からの近代化」なのだ。

これはドン・キホーテ的営みではないだろうか。内部の自発性によるのではなく、近代が外部からやってきたら、それはもはや近代とは呼べないのだから。

「外部からの近代化」に従事しているなどと自覚している援助関係者はほとんどいないだろう。男女雇用機会均等が国連オフィスで実行され、すべての事業内容に近代的概念としての人権が組み込まれ、アフガン人を「指導」することによって、それは静かに浸透していく。

民主主義を自発的な行動によって獲得できす、外部から与えられてしまったことによる、その内実の貧困を「戦後民主主義」という言葉を使って確認してきた日本人としては、戦後アフガニスタンで復興援助や平和構築という形で進められる「外部からの近代化」が本質的な近代化の契機をアフガニスタンから奪うことを懸念してしまう。

(『フォーサイト』2006年5月号所収。見出しは「「外部からの近代化」は近代化なのか」。)
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「カブール発復興通信」(12)
その日からすべてが変わった、そんな一日が歴史にはあるように思える。例えば、2001年9月11日はそんな一日の一つだろう。

5月29日、カブールで2001年のタリバン撤退後、最悪と言われる暴動が起きた。発端は移動中の米軍車列が、カブールの朝の交通渋滞の中に突っ込んだことだった。米軍用トラック一台が一般車12台を一気に破壊してしまい、その場で死傷者が出た。米軍は怒る群集に取り囲まれ、威嚇(?)射撃を行った。米軍の銃弾によって、さらにアフガン人死傷者が出 た。そして、その場の一般アフガン人が米軍に石を投げ始め た。そしてまた米軍が発砲、というのが、当日中に伝わってきた話だった。

この事件は直ぐにカブール中に伝わり「アメリカに死を! カルザイに死を!」と叫ぶデモが市内全域に拡がり、やがて彼らは暴徒化していった。外国人の住居が襲われ、警官の詰所に火がつけられた。既に午前中に国連には移動禁止の指令が出ていたので、この事件の伝わり方とそれに対するアフガン人の反応は非常に速かったと言える。

その頃、国連事務所に近づく群衆を威嚇する警官や国軍の銃声が鳴る中で私たちは撤退の準備を始めていた。後で分かったことだが、その間に、CARE、OXFAMなど大きな国際NGO (非政府組織)の事務所が群集に襲われ、略奪されていた。EU (欧州連合)事務所も群集に取り囲まれ、職員20人はNATO (北大西洋条約機構)指揮下の平和維持軍に救出された。私の同僚5人が住む住居も襲われ、警備兵は逃げ、略奪された後、放火された。

翌日、市内六つの病院でアフガン人14人の死亡、140人の負傷が確認されたが、そのほとんどが銃撃によると報道されている。

これまでも、グアンタナモ基地でのコーランの侮辱的扱い や、デンマークのマホメットの風刺画が発端で、アフガン人による抗議デモが始まり、それが暴動に変質するということがあった。しかし、今回の「交通事故」を発端とする暴動には、何か異質なものを感じる人も少なくない。

これまで暴動が起きるたびに言われていたことは、その発端となる理由が何であれ、暴徒化したアフガン人の裏で、実は政治的不安定を利益とするグループが暴動を扇動しているということだった。これは、国連や米同盟軍やカルザイ政権に対して一般アフガン人が反感を持っているわけではないという解釈とも言える。

しかし、今回の交通事故から暴動までの流れの裏で政治的意図を持った誰かが糸を引いていたと考えるのは無理がある。交通事故は計画されたものではないし、暴徒化したのはたまたまその場にいたアフガン人であ り、意図的に投入された集団ではない。突発的な交通事故を起点に暴動を組織化したとするには、カブール市内に暴動が広がるまでの時間があまりに短い。

そして、何よりも事の発端は「コーランの侮辱的扱い」や「マホメットの風刺画」のように宗教的要素があるものではなかった。BBCのカメラに向かって 米軍やカルザイに対する怒りをぶちまけていたのは、特に政治的でも宗教的でもない、ただそこにいたアフガン人だった。

その日、伝わってきたのは普通のアフガン人の怒りだった。それは誰かに煽動される必要もなく発火した。それが毎日のように起こる自爆攻撃や外国人を狙った攻撃にも無感覚になりつつある私たちに、おやっと思わせたのだろう。

この暴動後、カルザイ大統領はカブール警察の長官を含め幹部30人以上を解雇し、50人近くを左遷した。アフガン政府による調査も事件の5日後に始まった。米軍に説明を要求する議員の声も報道されている。

一方、カブール中のモスクには米軍に対する抗議デモを呼びかける匿名文書が出回り、ヘクマティヤール元首相は暴動に立ち上がったカブール市民を賞賛する声明を発表した。

普通のアフガン人の怒りをなだめることができるのはどちらだろうか。

暴動のあった日の午後、私達は指定された避難場所に撤退した。私はそこで芝生の上に座り、カブール特有の心地よい初夏の風に吹かれながら、敷地の外の乾いた銃声を聞いていた。将来この日をすべてが変わった一日として思い出すのだろうかと考えながら。



(『フォーサイト』2006年6月号所収。見出しは「伝わってきた普通のアフガン人の怒り」。)
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Wednesday, September 27, 2006

「カブール発復興通信」

『フォーサイト』(新潮社)に「カブール発復興通信」という名の連載を2005年の6月(雑誌的には7月号だと思う)から連載していた。まず「復興通信」 というタイトルに引っかかる。カブールに住んで、「復興援助」と呼ばれるものに少しでも触れ、一日にほんの少し正気の時間がある人ならば、誰でもこのタイ トルには引っかかってしまうだろう、という程度に2005年夏の段階ですでにアフガニスタンの状況は混沌としていた。もうその状況をまっこうから否定しよ うとする人は少なくとも現場の関係者にはいなかったと思う。しかし、これを混沌から秩序へという過程としてみる人と、混沌からさらなら混沌への過程として みる人という違いは存在していた。それも読者が判断すればいいのかと思い、「復興」という言葉をタイトルに残すことに僕はそれほど抵抗しなかったと思う。 ただ、ダサいとかなんとか言って、編集者のショーコさんをいじめたかもしれない。今から思えば、『フォーサイト』という雑誌のカラーからすれば、妥当なも のだったのだろう。

各号でとりあげるトピックをショーコさんと相談して、最初に半年分くらいを決めたと思う。それぞれのトピックに関して、ただ単に記憶に頼って書き飛ばすと いうこともできたと思う。しかし、いざ原稿にするとなると、いろいろと気になることが出てくる。数字とか日付とか確認しなければいけないものもある。そし て、いろんなドキュメントをぱらぱらとめくるのだが、それは自分の部屋の掃除をする時とよく似ていて、ついつい手にした本をいきなり読み始めて掃除をほっ たらかしにしてしまうように、ドキュメントの大群の中からなかなか出て来れないようなこともしばしばあった。間違った記憶というのはとても多いものだ。

そのあげくそういう情報に頼った文章を書いてみると、おもしろくもなんともない。エンターテイメントじゃないのだから、おもしろくなくてもいいのだと思う のだけど、しかし、普通に読み飛ばせないような文章がしばしば出来上がる。これはやはり雑誌的には問題だろう。その結果、せっかく、ある特定のトピックに ついて情報の固まりとなってから、それらをすべて放棄して、「さて、それで自分はなんと思っているのか」という、一番最初の段階に戻って考え直すはめにな る。自分の頭で考えて書いているには違いないのだが、字数の厳格な制限、雑誌のスタイル、情報の性質などを考慮していると、かなり自分が普通に書く文章と は印象の違うものができあがる。実際、あんなものは僕が書く文章じゃない、おもしろくもなんともない、みたいな批判ももらったことがある。どうも僕はいつ も日記のような文章を書くと思われているふしがある。しかし、本業ではいろんな文章を書き分けるというのが日常になっている。英語ではあるけれど、目的に 従って僕は毎日かなりスタイルを変えた文章を書いている。毎日、日記を書いているわけではないのだ。

この過程の残り滓のような原稿、それにトピックごとに集めた情報が今僕のPCの中には山となって残っている。捨てるのももったいないと思うのだけど、他に使い道もない。ハードディスクのゴミ箱化が促進される典型例だ。

これで最終校だと思っていたものが、時々「校正さん」というところから、質問が出てくることがある。たいてい事実確認についてなのだけど、それはそれはす ごいものです。僕がうっかり間違った歴史上の日付を書いていたり、共和制であるところを立憲君主制だと書いていたり、ある事故による死者数が間違っていた りしたら、必ず指摘される。原稿の隅から隅まで調べつくしているようだ。「校正さん」というのは出版社の地下にある秘密情報機関のようなものかなと思っ た。

各号には「見出し」のような「タイトル」のようなものがついている。文章のタイトルは、人間で言えば、服のようなものだと思っているので、僕はかなり気に なる。しかし、一つの雑誌の中のたくさんの原稿の中の一つなので、全体の調和ということも出版社は考えざるを得ないだろう。僕がタイトルをつけるとかなり エキセントリックになるのは避けがたい。というわけで、この作業はショーコさんに取られてしまった。僕が気に入ったものもあれば気に入らないものもある が、人生には妥協も必要だと思い、全部まかせきりになった。

2006年に入ってから、資金難が続き、元々忙しかったオフィスがいよいよ大変なことになってきた。僕はしばしば締め切りに遅れた。ショーコさんは忍耐強 く待ち、かつあの手この手で僕が早く仕上げるように仕向けてくれたのだが、何回かは絶対絶命に陥り、すわ今回は欠号かという時もあった。仕事が終わるのが 11時くらいになり、家に帰って何か食べたら、もう夜中になってしまう。最後の最後は徹夜で書いて、日本時間の朝までに送るために、午前4時とか5時にゲ ストハウスのPCから送るなんてことが何回かあった。それも、ほんの一文、ほんの一節、ほんの一語がなかなか決まらなかっただけで、最後に何時間もかかっ たりする。メルマガに書き散らかすのとは、この辺がかなり違うなと思った。結果的にはまったく穴があかずに終わったのは今から思えば信じられない気分だ。

これを続けるのはもう無理だとなんども思っていたが、とにかく約束した1年は続けようと思っていたら、結局1年2ヶ月になった。しかし、この先もう1年と いうのは無理だと思って、終了させてもらうことにした。今、原稿締め切りのない月が二回目になったが、なんか不思議なものだ。月末になって、何も書いてい ないと忘れ物をしたような気分になる。本業が落ちついたら、いつかまた書きたいという気分が沸いてきた。

過去の原稿をHPに載せてもいいということをきいたので、いずれHPに載せようと思っていたが、今カブールで使ってるPCにHPをアップデートするソフトが入っていない。というわけで、ヨシログに順番に載せることにした。でも、もう今日は長いので明日からにしよう。

Tuesday, September 26, 2006

月謝

アフガニスタンでは金・土が休日だが、9月24日の日曜日はラマダンの開始ということで休日になった。サラダオイルがなかったので、近所の何でも屋に歩い て買いに行くことにした。現地の店に行くことは禁止ということになっているのだが、自分の住んでいる地域なので顔見知りは多いし、サラダオイル一つのため に、わざわざオフィスから断食中のドライバーを呼んでデューティ・フリー・ショップまで行くのは、あまりにバカバカしい。

歩き始めると、そこら中の暇を持て余した警備兵たちがカラシニコフをぶら~んと下げて、力なく、もやあっと片手をあげて挨拶する。僕も「やあ」みたいな声 をかける。特に会話はないけど、お互いの顔は知っている。この地域に住んでいるのはほとんどが外人なので、それぞれの家の前には必ず警備兵用の木の箱みた いなものがあり、彼らはそこで寝泊りし、飲食もそこでする。ほんとに退屈だろうと思う。もし、武器を持った何者かが襲ってきたりしたら、絶対に彼らは逃げ るだろうと思うし、逃げるべきだと思う。本気で武器を持って攻撃されたら、彼らがどんなに抵抗をしたところで勝ち目はまったくないのだから。

しばらくすると、少年二人がついて来た。彼らはストリート・チルドレンと呼ばれているが、アフガニスタンのストリート・チルドレンの実態に関する本格的な 調査は見たことが無い。彼らに関わっているNGOとか、彼らに関心を持ったジャーナリストの断片的情報ならいくつかは見たことがあるけれど。

二人の少年と話しながら、お店までの道を歩きながら、ふと気が付いた。彼らとの会話のスムーズなこと、まったくストレスがないこと。すべて英語なのに。
オフィスのアフガンスタッフとのコミュニケーションでは、中途半端な英語で、しばしばストレスがたまる。そんなスタッフより、この少年二人の方がずっとましではないか。

少年は二人とも12歳だった。空港の近くの集落に住んでいる。朝8時から1時間英語を教えてもらうために都心に住む先生のところにやってくる。9時から1 時間自分で勉強する。10時から2時まで現地の学校に行く。2時からこの地域に来て、何か仕事がないか探す。夜家に帰って自分で英語の勉強をする。

空港から都心までは3キロくらいあるだろう。毎朝歩いて通うそうだ。英語の先生というのはおそらく教育のあるアフガン人の内職のようなものだと思う。毎月 の月謝が高いので大変だと少年二人は言っていた。いくらかきくと、月10ドルだった。ノートが欲しいが買えない。1年ほど前、彼らにノートをあげたことが あった。それから何度かもう使い終わったので新しいノートが欲しいと言いに来たことがあったが、その後一度もあげたことがなかった。忙しくて買いに行く時 間が無かったというのが主観的な理由だが、本気で買いに行く気があればいくらでも買えただろう。

店に着いて、僕が買い物をしている間も少年二人は外で待っている。荷物持ちという仕事にありつけるかどうかという瀬戸際なので、少し緊張しているように見 える。しばらくするともう一人別の少年が合流した。買い物中にちょうど断食明けの合図が店にあるテレビから流れてきた。これからまずお祈りをしてみんな一 斉に食べ始めるのだ。この断食明けの食事をローザーという。

少年たちのローザーになるものを何か買おうと思ったが、デーツとかパコーラーとかは、この店には売っていなかった。しょうがないので、ビスケットをおおめに買った。買い物を終わると、少年たちは僕の買い物袋を競って取り上げ、歩き始めた。

ローザーはどうするの?ときいてみた。今日はお金がないから、ない、ということだった。今日はまったく仕事にならない一日だったのだ。どうしたものか。途 中でどこか別のお店によって、もっとローザーに適したものを探して買うか、あるいは荷物持ち料金を払うだけにするか、ごちゃごちゃ考えている間に自分のゲ ストハウスに着いてしまった。道中でいつの間にか、また一人別の少年が合流していた。

もう何も選択肢はない。買い物袋を開けて、ビスケットを一人に一箱ずつあげた。少年たちは、とても普通に、はにかんだ笑顔を見せた。こんな笑顔もあったの だということをカブールの毎日では忘れていることに気がつく。よく考えてみれば、僕はほとんどいつも不機嫌ではないか。また、ノートを仕入れておこうと深 く決心した。が、また忘れるだろうとも思う。

たった10ドルの月謝。一日1時間の授業。過酷な仕事。それで、彼らはここまでちゃんと英語を習得できる。いったい日本の大学生の何人が彼らと普通に話ができるだろう?日本の英語教育は間違っているなんてレベルの話ではない。もう根本的に何かが違い過ぎる。

翌日、リー、ナタネール、ミゲナと4人でレバニーズ・レストランでランチを食べながら、この話をした。結局、我々は、国連は何をしているんだという問にぶ つかり、みんな落ち込んだ。カブールのストリート・チルドレン全員に毎月10ドルの奨学金を出したとしても、毎月1億円もいらないだろう。毎日何億円とい うお金が国際協力という名の下に使われているのに、そんなお金はこの少年たちとはまったく関係ないところに消えてなくなっている。国際社会とやらが小難し い戦略やら政策やら延々と議論して腐るほどペーパーを作って、単純なことが、もはや誰にもできなくなっている。ストリート・チルドレンたちは、そんなこと とは関係なく着実に育っていっている。

レバニーズ・レストランのランチは四人で60ドルだった。あの少年の半年分の月謝が払えるなと思った。

Saturday, September 23, 2006

Commandante

ゲストハウスに転がっていた『Commandante』のDVDを昨夜見た。フィデル・カストロをオリヴァー・ストーンがインタビューし続ける。背景には インタビューの内容に関係するドキュメンタリー・フィルムが重なったりする。○○主義とか△△主義とか、そんなものとは関係ないところで、カストロとオリ ヴァー・ストーンの人間の違いが全面に出てくる。just war を戦ったと信じている人を、自分はunjust warを戦ったのではないかと問い続けている人がインタビューをしている。カストロはいかなるドグマからも、もっとも遠いところにいる人だった。ヴェトナ ムでオリヴァー・ストーンが負った精神の深い傷は癒えることはないのだろうと思った。それが彼の才能の起爆剤なのかもしれないが。
カストロ以後のキューバが安定し続けることを祈る気分になった。

Friday, September 22, 2006

ハドリアヌス

ちょろちょろと読んでいる塩野七生の『ローマ人の物語』、やっとハドリアヌスにたどり着いた。これでようやく、以前モニカにもらった"Memoirs of Hadrian", Marguerite Yourcenar を開く気になれる。

長いこと積読になっていた、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』にとうとう手をつけたら、あっという間に終わってしまった。よくまとまった良い本だと思った。後で、ウェブを見ると、やたらジョン・ダワーを攻撃している人もいるので驚いた。この本に収められている様々なトピックはそれぞれいろんな人がすでに書いているので、少なくとも日本人にはよく知られているのだろうけど、こうやって全部整理してまとめるという作業には敬意を持つ。読んでみると、なんじゃ、こりゃ?という本にあたることも少なくないが、この直前に読んだ"Man Who Would Be King: The First American in Afghanistan", Ben MacIntyreといい、良い本が続いた。今夜は『アレクサンドロス大王東征記』に手をつけようと思ってる。著者のアッリアノスはハドリアヌスに見こまれた人だった。それだけに興味もます。

Wednesday, August 16, 2006

ヒンドゥークシ 2

カブールから北に向かって行くと、サラン峠を越えてマザリ・シャリフに到達する。サラン峠はヒンドゥークシ山脈の一部だ。ヒンドゥークシは和訳す ると「イ ンド人殺し」となるのだが、なぜそんな名前が付いたかについて読んだ記憶があるのだが、その内容も、どの本に書いてあったのかも忘れてしまった。無念。










100キロ不発弾発見!



帰路につく、といっても、同じ風景なのだけど。

Sunday, August 13, 2006

ヒンドゥークシ

まだ、やってたんか、と思うでしょうね、こんなに間があくと。
アホみたいなことでアホみたいに忙しくて、と書きかけて、ブログを書かないからといって言い訳する必要もないのだと思ったので、突然話を変えようと思ったけど、ブログだけでなく、かなりたくさんメールの返答も書いていないということが頭をよぎってしまった。メールの返答というのは書く必要はないと開き直るわけにいかなくて苦しいものがある。

溜まりに溜まって、5,292本というのが現在の未読メールの数。いかんかも。マルマルさんは一日に一万本くらいメールが来るから、自動的に付く署名以外あり得ないというようなことを言ってるのをなんかの記事で読んだ記憶があるけど、有名人になるとメールというのはほとんど連絡手段として機能しなくなるんじゃないだろうか。

僕の場合は、有名人の苦悩とはまったく関係なくて、単に仕事のメールが溜まっていて、プライベートのメールというのは悲しいくらいに少ないのだけど(ほんとに少なくなった。めったに来ないと言っても過言ではないくらい少ない。普通の人間関係が極限にまで減ってしまった)、それだけに問題もある。来て直ぐに返答しなければ、怒涛のように押しよせる仕事メールの中で砂場に落としたコンタクトレンズ状態になって、そういうメールはほぼ永久に浮かばれない人生を送ることになる。

かといって、直ぐに返答が書けるメールばかりでないので、つい「後で」書こうと思ってしまう。「後で」はいつか来るはずなのだけど、恐ろしいことに、三年くらいその「後で」を待っているメールもあるではないか。こわい、こわい。

直ぐに書けない、というか書かない理由はいろいろあると思うけど、絶望的に「後で」が永久化する傾向にあるのは、回答するには全三巻の巻物にでもなりそうな論文試験的質問メールだ。そういう質問メールはたいてい真面目な質問なので、茶化して逃げるわけにも行かず、これは「後で」書こうということになってしまう。

意外と返答が書けないメールのカテゴリーに、近況報告メールというのもある。向こうが近況を知らせてくれているのだから、こちらも近況を書けばいいだけだと思うかもしれないが、近況などという茫漠としたテーマは実はとても書きにくい。いったい自分の生活のどの部分を切り取ればいいのか、近況の「近」をどの範囲にするか、詳しさの程度はどのへんに設定するか、全体のトーンはどうするか、などなど決定事項が多すぎて、これも「後で」書こうに陥りがちなのだ。

結局、一読速攻で返事が書けるのは、短答試験的質問メールということになる。こういう質問メールはさっと返答することができるので、生存率はかなり高いはずだ。

とごちゃごちゃ言うよりも、極限的に少ない仕事以外メールにこうも返信できないのは、一日の生活時間に占める、ものを考える時間が少な過ぎるということに尽きると思う。ほとんどの時間が仕事の作業か、仕事上で考えることに費やされてしまう。かといって、脳が全般的に活発に活動しているわけではなく、脳の機能のごく限られた部分だけを異様に酷使して、それ以外のほとんどの部分は寝ているような状態ではないかと思う。これは痴呆化の王道ではないだろうか。「痴呆になっても友達でいてくれますか」的テーマがちょっと映画界で流行ってたように思うが、それが現実になりそうだ。一気に痴呆に突っ走ることはなくても、確実に精神の貧困が起きていると思う。なんせ、仕事上で頭を使ってるのは、なんの役にも立たない懸賞クイズをやっきになって解いているようなもんで、ほとんど何も考えてないのと同じなのだから。

それで突然思い出したけど、「健全な肉体には健全な精神が宿る」と訳されている格言があるけど、実はこの解釈は誤解だそうだ。オリジナルは古代ギリシアか古代ローマの言葉で(どっちか忘れた)、本来の意味は「あぁ、健全な肉体にも健全な精神が宿ればいいのに!」ということだったらしい。現代風に言うと、野球バカとかサッカーバカとかいう、運動神経抜群の体育会系の人を完璧な運動音痴の生徒会系の人が嫉妬にもだえてもらす言葉と同じようなものかもしれない。しかし、こういう言葉を聞くと、貧困な精神は運動音痴・生徒会・嫉妬系の人の方に宿っていると見えてしまうのは皮肉なことだ。「こんな貧困な精神でもつきあってもらえますか」的テーマの映画を作ると、最高に陰湿なものができあがるかもしれない。

しかし、それならどうして5,292本も仕事メールが溜まるのかと不審に思われるかもしれない。それは全部開けても無駄だから開けないだけ。一つのサブジェクトに関するメールは何人もの関係者にコピーされているから、その何人もが返信して、ちょっと見ない間に同じサブジェクトに関するメールがすぐに10本くらいになる。そういう場合は、一番最後のメールだけ開く。この業界では、メールに返信する時に前のメールを決して削除しないので、最後のメールを開ければ、それまでのやりとりが全部載っている。だから、もう前のメールを開ける必要がなくなる、というわけです。それは一例だけど、いかに多くのメールを読まずに仕事が停滞しないかを探求してるわけです。そうでなければ、一日中メールのやりとりだけで終わってしまう。それが仕事だと思っている人もいないわけではないですが・・・。

メールで一番重要なのは、いかに読まないかということだけでなく、どんどん入ってくるメールをいかにオーガナイズするかだと思う。いろんなメールソフトを使ってみたけど、どれもこれもオーガナイズするという点では不満が残る、と思っていたら、Gmail。Gmail のメール・オーガナイズ機能は画期的だと思う。きっと僕と同じような不満を持っていた人が開発関係者の中にいたのではないだろうか。

フォルダーと自動振り分け機能というのは、便利なようでいて、実は自殺行為に近いものがある。自分でいろんなフォルダーを作り、受信メールを次々にフォルダーに分類して入れていけば、インボックスはきれいさっぱり、一見いかにも整理整頓が行き届いたように見えるけど、それは人生最後の日にやる後片付けのようなものだ。

分類というのは決して完璧にはできない。一つのメールがいくつものトピックに関わっているのだから、その中の一つだけトピックを選んで、そのトピックに分類してとりあえずお茶を濁すということになる。とりあえずの暫定的処理にも関わらず、何万本ものメールが何十かの分類フォルダーに振り分けられてしまうと、後でフォルダー名とはまったくことなるトピックですべてを見渡したいなんて、ふと思った日には発狂するしかない。整然と整理されてメール群を前にして、墓を掘り起こすような気分になってしまう。

その点をGmail はうまくやらかした。Gmailでは、メールにトピック別のラベルをつけることによって、そのラベル名のフォルダーが勝手にできる。だから、一見トピック別フォルダーを作って、そこにメールを入れたようにも見える。実際、そのラベル・フォルダーを開くと、そのトピック・ラベルのついたメールだけが現れる。ところが、ミソは実際にはメールはまったく移動していないという点だ。inbox にすべてのメールは入ったままで、フォルダーに移動しているように見せかけているだけなのだ。だから、まったく今まで考えていなかった観点でメールを再集合させようと思うと、それをinbox の中で簡単にすることができる。素晴らしい!と思った。残念ながら、Gmail のこの機能はウェブ上のことなので、PCにメールをダウンロードしてしまうと、使用しているメールソフトの機能に拘束されるので意味がない。Gmailのようなメールソフトが欲しい。どこかにないですか?開発してください。できれば、今使ってるThunderbird の改良版を作ってもらえたら、とても助かるんですけど。

というようなことを書く気はまったくなくて、久しぶりに写真を撮ったのでアップしようと思ったのだが、ここまで来たらもう消せない。写真もせっかくだから、ちょろ出し。

Tuesday, July 11, 2006

コロンビア優勝!

ワールド・カップは、コロンビアの優勝で終わりましたね。
いや、シャキラのことですけど。



ラテンとアラビアンをミックスして、アメリカン・ポップスで鍛えまくったシャキラが、アフリカンを取り入れて踊ると、もう圧勝するしかないな。フランスとイタリアの負け。コロンビアの勝ち。踊り、ここ(↓)クリックしたらビデオ出てくるはずある。

シャキラ、ワールドカップで踊りまくりのビデオ



頭突きに戻ると、う~む、残念。

悪者になった人のビデオ


悪者にした人のビデオ

Sunday, July 09, 2006

That was insane !

ロックの好きなみなさん、8・8(ハチハチと読む)ロック・フェスティバルの夏がやってきました。覚えてますか?誰も知らないかなあ、毎年8月8日に万博公園野外ステージでやっていたんだけど。今より25キロはスリムで、もちろんまだ禿げの入ってない頭に、肩までとどく長髪で床屋にロバート・プラントの写真を持っていって、こんなふうなパーマを当てて欲しいと頼んだら、欧陽菲菲(おーやんふぃふぃ)のような頭にされて、まあアジア人だからしょうがないかと潔く諦めて、ウッドストックを見て以来ジーンズは洗わないものだと信じ込んでずっと洗わなかったジーンズをはいて、足元はロンドンブーツを買うお金がないので、素足にゲタをはいて、高校生の僕は倉庫のバイトの後、自転車に乗っていそいそと万博公園に通ったものでした。今から思えば、70年代まるだしの風景。

いきなり話が横道に入ってしまった。いつか書いたと思うけど、"Rockstar INXS" の第二弾がとうとう始まりました。

ロックの好きなみなさん、Motley Crue のドラマーTommy Lee と、Metallica のベーシストJason Newsted と、Guns N' Roses のギタリストGilby Clarke が、Supernova とかいうバンドを結成し、そのボーカルをど新人から選ぶというドリーム構想なのですが、ロック的にも商売的にもかなりドリーミーになりそうです。Tommy Lee は"Tommy Lee Goes To College" とかいうお笑い系の番組にも出ていて、ロックなんかしらんという人にも有名になってきてるみたいです。あのBaywatch のパメラ・アンダーソンとの交尾受精ビデオがネット上でとびかい、それでパメラもTommy Lee も大ブレークしたようなところもあるし、ロックスターというよりも、バラエティもののスターと化しつつあるので、ここらで本業でもう一度一花咲かせるのか、あるいは殿様キングス系ヘビメタの道を開拓していくのか、ちょっと見ものです。

ロックはすかんが、サッカーは好きだというみなさん、これはサッカーで言えば、ジーコと、ペレと、ベッケンバウアーと、ヨハン・クライフと、ジョージ・ベストと、プラティニと、ストイコヴィッチと、ジダンと、マラドーナと、ネドベドと、ナカタのそれぞれの全盛期が重なるという奇跡が起こって一つのチームを作るようなものです。あれっ?キーパーいないな。というより、たぶんこれではゲームにならないと思うけど、まあ、そんな感じということです。

もちろん、あのJane's Addiction の伝説ギタリスト、Dave Navaro もコーチ役として健在、司会も下着ファッションモデル No.1 とかいうBrooke Burke が続投。いやあ、見て楽しい聞いて楽しい、いい番組だなあ。

Supernova のボーカルに世界中から2万5千人の応募があったらしい。その中から15人にまで絞られたところで番組はスタート。第一回を見ました。

ぶっとびました。すごいのが出てきました。

出演者の半分くらいが歌い終わったところで、なんか顔のあちこちにピアスがある、Dilana という女性が出てきた。これがえらいことになった。Nirvana のLithium をやったのだけど、序盤の抑えたメロディを歌う時の目つきの鋭さでまずぶっとび1。あれくらいの視線の強さがあれば、やなぎさわもゴールを決められただろうにとふと関係ないことを思い出してしまったのが惜しまれる。そして、Lithium の爆発部分で、完全暴発、場内騒然、ぶっとび2。Supernova のメンバーもDave Navaro も呆気に取られて総立ち。なんなんだ、このDilana という女性の爆発ぶりは!Nirvana を完全に超えている。凄・ま・じ・い・な・あ、と僕はテレビ画面を呆然と見ていた。

そして爆唱が終了して、Dave Navaro の第一声が、"That was insane !!!" だった。まったくその通りだと思った。狂気マニアの僕としてはたまらない。彼はIntensity という言葉を使っていたけど、Dilana のパフォーマンスはとてつもないIntesity の塊だった。すごいなあ、日本代表にこのIntensity さえあればと、またしつこく考えてしまい後悔する。これはスポーツじゃない、音楽なんだと下手に言い聞かせようとして、日本の「スター誕生!」にはこんなの出てこなかった、山口百恵とか森昌子とか桜田淳子とかいるんだけど、ちょっと勝てそうにない、なんてことを考えてしまい、さらに後悔増加。

その後は、もうSupernova のボーカルはDilana 以外には考えられない、絶対に雇って欲しい、あの狂気でロックをぶちかまして欲しい、もうオーディション終了!と思って見ていた。

そして、最後にLucas という男が出てきた。すでに挙動からしてちょっとおかしげ。妖気が漂ってる。ほんとにおかしいかも。狂気系かな、でも、見かけがおかしいだけで、話するとただの平凡な男だったなんてことはよくあるしな、とDilana のことで頭がいっぱいであった僕はやや気を抜いていた。

ところが、Billy Idol のRebel Yell をやりはじめたのだけど、ゲッ!こ、こ、これもすごいIntensity ではないか。Supernova の面々も、Dave Navaro もまた身を乗り出している。そして、爆発部分に入って、案の定、完全暴発。

Dave Navaro はまたもや"That was insane !!!" と言って絶賛。Tommy Lee は一言「ロックを救ってくれるか?」と言って、もう何も言うことはない、まいったというそぶりでマイクをテーブルの上に投げ出し、コップに当たってガシャンとコップが割れた。

この二人のパフォーマンスで久しぶりにロックを聴いた・見た気がする。Dilana とLucas、要注意だ。Supernova のボーカルに選ばれようがどうしようが永遠にロックやってて欲しい。僕が大富豪ならメジチ家のようにロッカーのパトロンになるのになあ。金儲けに鋭意努力してこなかったのが惜しまれる。

ただ単に音楽的に見て、将来性があるというか、音楽業界で生き残って欲しいと思ったのは、Josh Logan という男だった。"She Talks To Angels"(The Black Crowes) をものすごく味わい深くうたっていた。でも、Supernova のボーカルには合わないだろう。一人でやっていって欲しいと思う。

可愛い子ちゃん系もジャニーズ系もいたけど、もう忘れた。

Dilana のパファーマンスがもう一度見たくて、インターネットでまた何度も見た。やはり凄い。翌日は一人目の脱落者決定戦で、Supernova は、まずその前にDilana にアンコールを頼んだ。やっぱりなあ、彼らももう一度見たかったのだ、よく分かります、その気持ち。

脱落者決定戦というのは、前日のパフォーマンスの後、視聴者の投票があって、最下位の三人が翌日もう一度やって、その中から脱落者一人をSupernova が選ぶという仕組みです。こうやって毎週一人ずつ消えていく。

で、脱落したのは不動産会社に6年間勤めていたとかいうジャニーズ系。前日、やわい曲をやって、選曲が大事だ、みんなよく考えるようにとSupernova さんに言われていたのに、脱落決定戦で選んだのが、デュラン・デュラン。刺青まみれのロックスターたちはぽかんとした顔して見ていた。かったるいなあ、早く消えてくれと思っていたら、ほんとに脱落しやがった。歌がうまいだけでロックやるな、と思ったら、サッカーうまいだけで・・・と、なんかまた日本代表思い出しそうになるので、考えないことにした。今夜は決勝かあ。

ロックの好きなみなさん、ここ(↓)で出演者のパフォーマンス見れますよ。
http://rockstar.msn.com/

Friday, July 07, 2006

ノーコメント

No Comment という番組、というか、時間帯が、EuroNews にあるのだけど、これがうるさくなくて僕はかなり気に入ってよくつけっぱなしにしている。うるさくないと言っても、音はちゃんと画面から出てくる。ただ、解説とか音楽とかそんなものが一切入っていないだけで、どこかに備え付けたカメラが回りっぱなしで、その映像とそこの音が延々と流れている。

例えば、バグダッドの街角にカメラはあって、普通に街の通りを行きかう人々や普通に商いを行っているお店の様子などがずーっと流れていたりする。テレビ慣れしている人間にとっては、こんなもの延々と流していていいのかって思う。こういうのはニュース番組を作る時は、きっと編集されてしまって永久に日の目を見ない映像なのだろう。

バーンッ!という音が突如入って、その音の方向にカメラがゆっくり動くと、そこにもくもくと黒い煙が立ち上がるなんてことも時にはある。そして、普通に歩いていた人たちが一斉に何やら喚きたてながら走り回り始める。普通の顔が怒りや嘆きの表情に突然変わる瞬間が、No Commentを通して伝わってくる。

とてもリアルだと思う。

普通のニュース番組に使われているのは、このバーンッ!という音の後の、その局部の映像、ニュース編集者がここがツボだっ!と思って切り取った瞬間なのだろうし、その選択というか編集はとても正確なのだろうと思うけど、結果的にはツボをまとめて10個も20個も毎日見ていると、もう頭の中はツボだらけで、ツボがツボでなくなってしまっている。

爆弾で吹っ飛んだ建物や自動車はもちろん、血まみれの死体さえも、ツボ百万個のうちの一つになって、のっぺりとした白紙の一部になっているのだ。見る方の感覚が鈍っていると言われたら否定はしないけど、見せる方の感覚の鈍り方も負けず劣らず凄まじいのではないかと思う。そこへ、しかめっ面をして、悲惨コトデス、許サレルベキコトデハアリマセン、なんてコメントをしている顔がぬーっとテレビに出てきた日には、へそ曲がりのひねくれ坊主でなくても、ウソ臭く思ってしまうのは、「ツボだけ見せまくり→ツボ消滅」感を持っているからだろうと思う。そういう感覚を持たないコメント業にはまっているエライ人たちのこの圧倒的な鈍重さ、あるいは持っていてもそれを押さえ込んで、あえて人前で悲惨がってみせる厚顔無恥、悲惨が悲惨として見えなくなる悲惨さの感覚の欠如、それが「常識」とか「社会通念」を形成しているとしたら、もうスターリンもサダム・フセインもぶっとぶしかない圧制ではないか。普通の感覚をもって生まれてきた人たちが毎日、毎日、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、それはちがう、って言われ続けたら、よくは知らないけど、ニートやらヒキコモリやらなんやら新しい部族を作るしかないではないか。

No Comment には凄い力があると思う。ツボがツボであったことをもう一度認識させる道具立てとして機能している。但し、1時間熱中して見ていてもツボもなんにもないかもしれない。日常をただ映している映像なのだから。それでも、その後で見る伝統的ツボだけニュースの衝撃度が高まるという効果があります。今はデジタルのテレビチャンネルをかなり安く作ることができるらしいから、誰か日本でこのNo Comment のパクリ版をやって欲しい。

ところで、書こうと思っていたのはこういうことではなかった。先週、日本にほんの少し帰った時読んだ日本の新聞に、イラクの自衛隊の取材が難しいという記者の話が載っていて、ふと思いだしたのが、何ヶ月か前に見たNo Comment の映像だった。

テレビ画面には、何やら怒った顔した、でも普通のイラク人が大人も子供も含めて大勢映っていて、外国の軍用車らしきものに向かってワーワー言いながら石を投げていた。特に珍しくもなんともない映像なので、僕はその画面をチラチラ見ながら、ベッドの上でPCをひざの上においてメールの返信を書いたり、次の原稿のメモを作ったり、資料をスクロールしてみたり、わけの分からないジョークを一人で言って一人で受けているDJのラジオを聴きながら、ちらちらと積読本を開いたり閉じたり、鼻くそをほじくろうと思ってうっかり火のついたタバコを鼻の穴に突っ込みそうになったり、コカコーラを飲むつもりで灰皿を持ち上げていたり、携帯メールに返信したり、まったく何一つ集中しない、いつもの状態にあった。

そして、何度目かのチラッで、あれ?うん?日の丸?と気づき、僕は他のすべての動作を一時中断し、しばらくその映像を眺めることにしたのでした。石を投げられている軍隊は自衛隊だった。僕は何故かホホーッと思ったものの、もちろん解説も何もないので、何が起こったのかは全然分からない。何か特別の事件でもあったのだろうか?それとも一般的な不満が積もり積もって、今、噴出中ということなのだろうか。明日インターネットで調べてみようと思っているうちに、No Comment の映像は別のものに変わった。

イラクにいる外国軍に対して一般イラク人が石を投げるなんて話はもう珍しくもなんともないし、自衛隊も外国軍の一つなのだから、別に大きなニュースでもないんだろうなと思って、インターネットで調べるのも忘れて、この映像そのものをもうその日限り忘れていた。

それを突然、イラクの自衛隊取材がいかに難しかったかを書く記事を読んで思い出した。そして、ふと、あの石投げられ状態の自衛隊は日本に伝わっていたのだろうかと思い始めたら、どうもこれが気になってしかたない。自衛隊はよくやったとか、歓迎されたとか、自衛隊の国際貢献をたたえる記事はちらちらと見たけど、どこの国でも自国の軍隊が海外に出て行けば普通はそうやって称えるものだし、実際何がどうであろうとそういう記事はあって当たり前だろうと思う。しかし、まさか日本の総人口よりも多い範囲で放映されているような、しかも日本が登場するようなニュースがいくらなんでも当の日本でまったく報道されてないなんてことがあるだろうか、と思いつつも、ひょっとしてという疑念が消えず、今に至っていたのでした。どうだったんでしょう?

もし、日本人だけがまったく知らないとしたら、これは非常にまぬけなことになるのではないだろうか。世界中の人が共有知識としていて、日本人だけが知らないなんてことはこれに限ったことではないと言えば、まあそれまでだけど、コメントにあったような「世界の動向にすら乗ることができていないのではないか」とか、「歴史を創っていくことができないんじゃないか」という疑惑にはまったく同感で、他の人たちと状況認識が共有できてなければ、世界も歴史もへったくれもないというか、もう話にも何にもならないと思うのだけど、もしこういうニュースが日本だけで報道されないとすれば、日本は自分で自分の首を絞めるようなことをやっているように思えてしかたない。ま、まさかそんなことはないでしょう。えっ?えっ?ど、どうよ?

(ところで、excite に不満が一箇所あって、あちらこちらうろついた後にたどり着いたblogger なのだけど、どうもblogger の反応が遅いので、しばらく両方をアップデートして様子を見ることにした。)

Thursday, July 06, 2006

引越し決行!

このたび一身上の都合でyoshilogをここ(↓)に引越しすることにしました。
http://yoshilog.blogspot.com/

過去のを全部移そうかと思ったが、どうやったら簡単にできるのか分からないので、ここはしばらくそのまま放置しておきます。

Wednesday, July 05, 2006

日本代表には“酢”が足りない!?

ワールドカップ関連のニュースで一番おもしかったのは、これかも。

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ミツカン「酢の消費量とサッカーの強さに相関関係」【ライブドア・ニュース 07月03日】- サッカー日本代表、ワールドカップ1次リーグ敗退は“酢”が足りなかったから――。ミツカン(愛知県半田市、中埜又左エ門社長)が、同社のプレスリリースの「号外」で、こんな分析を発表した。

 家庭用の酢の消費量が多い上位8カ国のうち5カ国が、2006FIFAワールドカップ ドイツ大会でベスト8に残ったという。同社はワールドカップ開催前の5月31日、「プレー酢タイル分析」と題して、各国でよく使われる酢の特徴をもとに、それぞれのプレースタイルを紹介。その上で、“酢の消費量が多い国はサッカーも強い”という仮説を立て、ワールドカップの順位を予想した。

 ミツカンは、1人あたりの年間消費量が1.91リットルと最も多いドイツと、同1.84リットルでそれに次ぐアルゼンチンが決勝戦を戦うと予想し、6月30日に「号外」を出した時点で、このカードが「事実上の決勝戦といえる」としていた。日本時間1日未明に行われた両国の対戦では、酢の消費量ランキング1位のドイツが延長戦の上、2位のアルゼンチンにPK戦で競り勝った。

 一方で、日本代表の戦いぶりについては「後半戦残り5分の得失点差は出場国全32チーム中で最下位。最後まで力を出し切れないスタミナ不足が敗因」と分析。同社によると、日本の酢の消費量は、1人あたり年間0.64リットルで、ドイツに比べ同1.27リットル少ないという。

 準決勝まで残っているのはドイツ(消費量1位)、フランス(同3位)、イタリア(同7位)、ポルトガル(同9位)の4カ国。果たして、ミツカンの仮説は最後まで当たるのか?【了】
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個人的にはポルトガルを応援してるので、酢は関係ないことを願ってます。

と書いて一夜明けたら、ポルトガルは負けていた。酢的には3位と7位の決勝になったわけだけど、この場合、ミツカン理論はかなり当たるというべきか、あんまり当たらないというべきか。


yoshilog 3号開始!

Friday, June 23, 2006

囁く声

今ネットは、日本一次リーグ敗退の戦犯追求でかなり荒れていますが、最大の戦犯は日本そのものでしょう。もう国力の次元で違うとしか思えない。野球は強いとか、柔道はまだいけるとか、モノ作りはちょっとましとか言ったって、だいたい何やっても弱いんだから。

日本には、ロナウジーニョやネドベドみたいな、ずば抜けた天才がいるわけでもないし、アメリカやオーストラリアのように歩兵部隊が着実に前進するみたいな 組織力もないし、今回の参加国の中で一番ヘタか一番弱いかは知らんけど、相手に一番脅威を感じさせないチームであったのは確実だと思う。

アメリカの歩兵部隊に突撃されて、イマジネーションの腐ってしまったイタリアだったけど、チェコ戦では、まさに華麗に舞い続けるネドベドを抑えるために、 イタリアの才能ありまくりのスター選手たちが一致団結して組織防衛に入っている姿は素晴らしかった。日頃はどれだけイタリアのスターとしてちやほやされて いても、敵の大将ネドベドはとんでもない奴だという意識が伊チーム内で共有されて、古代ローマ軍のように隊列を組みなおして戦うって気概がプロだなあ。そ して、結局勝つわけだから、カエサルが見たら喜ぶだろうな。関係ないか。

ネドベドの姿はほんとに美しかった。彼の疾走する姿から、彼のタッチしたボールから才能がほとばしりでていた。でも、その彼の姿が古代ローマ歩兵軍団に阻 止され続けて、だんだん哀愁を帯び始める。元々それぞれが才能ある歩兵なのだから、ネドベドの敵は史上最強の歩兵軍団なのだ。そして、歩兵に偽装したイタ リアの天才たちは一瞬の隙を逃さず、ネドベドの背後を急襲したのであった。

ネドベドは一次リーグで消えてしまった。とてもつもない天才には哀愁が似合う。神話に出てくる英雄のようなプレーヤーだ。

こんなゲームを見ると、日本がワールド・カップに出ていいのかって思う。一国だけなんか違うことやってるように見えてしょうがない。同じアジア圏の、韓国 だって、サウジアラビアだってすごい迫力で戦ってるっていうのに、日本は迫力どころか、どうしてあんなにおどおどしているように見えるのかね?

* * *

まだ胃腸の調子が悪い。朝、医者に行った。子供の浮き袋を買って帰った。午後も調子が悪いので、昼寝をする次男の横になった。いつの間にか熟睡していた。

耳元で何か囁く声がするので、目をあけた。三歳になったばかりの次男がベッドの横に立って、真剣な顔でなんか言っている。ああ、次男はもう起きていたのか と思う。長男とお母さんは学校に行っていて、家にいるのは二人だけだった。何か伝えたいのだろうが、起こしたら怒られるという恐れもあって、次男はひそひ そ声で語りかけていたらしい。

でも、何を言っているのか分からない。What did you say ?ときくと、やっと普通の声で、A man is waiting there... と言って玄関の方向に指をさしている。えっ?誰かいるのか?!一瞬、危機感が全身に走り、とび起きた。こういう時、あらゆる嫌な事件のニュースが頭に駆け 巡る。寝ぼけた頭を振り切りながら、玄関に行くと、ドアが少し開いていて、その向こうにネズミ色の作業服を着たおっさんが立っていた。次男もうしろに付い て来ている。一瞬カブールのPXで買った金属製警棒のことを思い出したが、もう遅い。

「あのぉ、ガスの点検に来たんですがぁ、ま、ま、また、今度にしましょうか?」と妙にうろたえながら、おっさんは言った。なんじゃ、それ。「今でいいです よ。やってください」と言ったが、「五月に今日の点検の案内は出しまして、それで・・・」とかなんとか別にしなくてもいい言い訳みたいなことを言ってる。 いかにも、なんじゃ、お前!という気配がこっちに漂っていたのかもしれない。

おっさんは家の中に入り作業を始め、僕は落ちついて、次男のことを考えてみた。呼び鈴がまずなって、次男は玄関に行ったのだろう。そして、ドアをあけた ら、お母さんでも長男でもなく、知らないおっさんが立っていた。そして、僕を呼びに来たのだ。作業中のおっさんに、この子が出てきたんですかと訊いてみ た。「そうなんですよ、なんかドアの内側でカサコソ音がしたんで犬でいるのかなとおもたら、この子が出てきましてね、へえ、へへへ」。

自分が家にいても、内側からカギをかけておかないといけないと思った。

Thursday, June 22, 2006

ゲロ

なんてこった。昨晩から胃腸が壊れている。お腹が苦しくて、気分が悪くて、眠れないが、起きていても何もできない。アルコールはまったく飲んでないし、変 なものを食べた覚えもないのだが、日本に帰ると、急にいろんな食物に目がくらみ、食べ過ぎる傾向があるから、胃腸がついていけないのかもしれない。

昨晩はふとんに入って、もがきながら、うつらうつらしていたが、口の中にあふれてくる生暖かいもので、はっと目が覚めた。胃液があがってきたようだった。トイレに駆け込んで吐いた。未消化の食物がいっぱい出てきた。時計を見ると、午前4時過ぎになっていた。

今日は、長男の学校の集まりに行く予定だったが、朝まだ苦しくて起き上がれない。ずっと寝ていた。午後になって、ずっと寝ている僕を見に来た次男が、 You have to put dawai in your mouth. という。dawaiというのはウルドゥー語の薬だ。病気だから、薬を飲めと言いたいのだ。put --- in your mouth という言い方がおもしろい。彼の実体験からそういう表現になったのだろう。薬を嫌がる次男はそうやって、口の中に薬を掘り込まれるからだ。

次男は今日でちょうど3歳と一ヶ月になった。

Tuesday, June 20, 2006

要約から意見へ

やっと家に帰り着くと、『国語総合』という本が届いていた。もう忘れていたが、高校の教科書に「カブール・ノート」の一節を載せるという話が1年ほど前にあった。とうとうあれができたのだ。

開いてみると、現代文と古文と漢文が入っている。今の高校の科目割りがどうなっているか全然分からないのだが、国語総合というのは、どうやらそういう科目のことらしい。

実に丁寧に作られている。自分の文章の荒さが目立つ気がする。現代文編には25個くらいの文章が入っていて、それらが五つの「表現の扉」に配分されてい る。「カブール・ノート」は、「表現の扉2 要約から意見へ」というところの「記録」という場所に収まっていた。「要約から意見へ」というのは、「カブー ル・ノート」に実にぴったりだ。

ちなみに他の扉は、「表現の扉1 メモからの発想」、「表現の扉3 調べて発表する」、「表現の扉4 体験を聞く」、「表現の扉5 話し合いから文章へ」で、最後の5には文が入ってない。ここで、生徒の実践ということになるのだろう。全部読んでみようと思った。

この教科書は30年前の高校生にはまったく想像つかないことだったな。

Monday, June 19, 2006

コイン・ランドリーで「マリ・クレール」を

「あっ寝てた?」
「いやぁ、起きてますけどぉ、ドリュー・バリモアが、すっごくいいこと書いてるから、もう・・・」と言って、ゴトー・ケンジは口ごもった。彼は電話の向こうで泣いていたのだった。

話を聞くと、彼はコイン・ランドリーで洗濯が終わるのを待ちながら、「マリ・クレール」を読んでいたのだが、その中にチャーリーズ・エンジェルのドリュー・バリモアの書いた記事があって、それがとても良くて涙ぐんでいたのだった。

数ヶ月前、バツ2になった男がコイン・ランドリーで一人「マリ・クレール」を読みながら、涙ぐんでいる姿を電話の向こうに想像し、僕は泣きそうになった、というのはウソで、
僕は周りの視線も憚らず、大爆笑した。

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ドリュー・バリモアのナイロビ日記
「私がアフリカで学んだこと」

ハリウッドスターのドリュー・バリモアが憧れの地アフリカを初めて訪れた。国連世界食糧計画(WFP)が支援するナイロビの学校をUS版マリ・クレールの 編集長レスリー・ジェーン・シーモアとともに1週間かけて視察したドリュー。幼いころからスターとしてきらびやかな世界で生きてきた彼女を迎えてくれたの は、幼くしてエイズや飢餓に苦しめられている子供たちの屈託のない笑顔だった。胸に去来する声にならないさまざまな思いをドリューがつづる。
(http://www1.hfm.co.jp/marieclaire/mag/)

Sunday, June 18, 2006

味かげん

アメリカはオーストラリアと何か似ているなあと思った。外交政策とかそんな話ではなくて、サッカーのことなんだけど。アメリカに勝てなかったイタリアはさ ぞかしフラストレーションがたまっただろう。今やウェブ上がサッカー談義で埋まっているので、イタリアの敗因(引き分け因だけど、イタリアの主観では負け たようなもんだろう)について、あらたに付け加えるようなことは何もないと思うけど、勝負とか技術とか関係なく、米伊戦を見ている間、だんだん「イマジ ネーションが腐る」という概念が頭の中で大きくなってきた。アメリカ選手の朴訥なサッカー(というのが僕のイメージ)を前にして、イタリア選手はイマジ ネーションが腐ってしまった、というのが僕の印象でした。

僕はワールドカップを実に情緒的に見ている。世界中の人がサッカー専門家なのだからあきらめないといけないのだろうけど、技術とか戦術とか戦略とかうるさく感じてしょうがない。

スカッとしたり、オーッと思わせてくれたりするゲームがあれば、それだけで十分じゃないのかなあ。これまでのゲームで一番かっこよかったのは(全試合見た わけじゃないけど)、アルゼンチンvsコートジボワールだというのは、どうやら世界中で一致する意見らしい。ああいうのを見ると、他のゲームが平安貴族の 蹴鞠のように見えてしまう。

これまた情緒的なのだけど、強いとか弱いとかうまいとかへたとかそういうこととまったく関係なく、好感をもってしまうチームとそうでないチームというのが 出てくるのがまたおもしろい。これまででは、トリニダード・トバゴが一番感じがいいと思った。理由はよく分からないのだけど、一所懸命さがもろに出てい て、それが貧乏臭く感じさせないのが不思議に感じよかった。一所懸命って普通、貧乏臭いでしょ。それもなんでか説明できず、まったく情緒的なんだけど。

オーストラリアは関西大倉とか北陽とか大阪の高校のチームみたいなサッカーだったな。日本代表はどう考えても、もっと洗練された藤枝東とか清水商業とかの 色が主流だから、オーストラリア相手で苦労するのは分かる気がする。オーストラリアやアメリカのようなチームとやる時は、日本代表関西バージョンを作って 対応しないからダメなんだ、なんて訳の分からないコメントをしている人はたぶんこの世に一人もいないだろうな。

日本の負け方は外国で見る日本とか、あるいは外国における日本のイメージとぴったり合っていたのがまた興味深い。あ~日本だなあ、としみじみ思った。サッ カー選手だけ特別に超日本人になれっていったって、そりゃ過酷でしょう。なんの分野でもいいけど、自分の分野で自分は世界でどうなのかって、サッカー選手 の論評に忙しい人は考えないのかな。無様な日本人の代表度では、サッカー選手よりも、あんたの方がずっと高いと思うけどな。

クロアチア戦で関西風味を少し入れて、ブラジル戦では関東だしで行けば、日本は二勝するでしょう。味かげんに失敗するとまずいのはサッカーも料理もおんなじでしょう。

Wednesday, June 14, 2006

また資金難

やっと12週目になって休暇が取れた。というよりも、延長の限界で出国せざるを得なかっただけで、忙しさはまたもや資金難でピークになってる。残るアミールには気の毒なことになってしまった。6週間に一度出国するという規定はとっくに無視されてる。

いつものように、ぎりぎりまでオフィスでひきつぎのミーティングをアミール、ミゲナ、ウチェンナ、リチャードとして、次にアミールとサンディと対策をねって、最後にメールをNYに送って、カブール空港にかけこんだ。

空港の待合室でさっきNYに送ったばかりのエクセルのシートを頭の中で思いだして考えていたら、気になることが出てきた。アミールに電話した。やっぱり計 算まちがいがあった。土壇場で、次々に変更をしたのだが、何枚ものシートにリンクして張り巡らされている計算式の論理とは異なった原理で減額したプロジェ クトがいくつかあった。その場合は、張り巡らされた論理に乗ってしまわないように、そのプロジェクトに関してはリンクをすべて断ち切らないと、全体の一貫 性が崩れてしまう。それが気になっていたので、一つずつ思い出していたのだった。

で、やっぱり一箇所リンクが残っていた。次回の予算が負になっているところが数百のセルのうちの一箇所に発生していた。つまり、収入になってしまってい る。これを全体予算から引かないといけない。アミールに電話で話すと彼はすぐに理解した。彼は数字の話をしてもすぐに理解するので助かる。というか、彼以 外の人はカブールもNYも含めて、まったく分かってない。すぐに修正版を作るように頼んだ。他のすべてのプロジェクトを少しずつ減額して、全体を現在の収 入に収めるしかない。

搭乗の直前に、アミールから電話がかかってきた。修正案を聞いたが、四半期を通して一律に減額するように修正していたので、時間が経つにつれて傾斜的に減 額が大きくなるような修正に変更するようにもう一度頼んだ。減額というのは、即NGO従業員の解雇に繋がるので、解雇通知の時間を長く取る方が望ましい し、それを後に延ばせば、その間に資金状況も改善し、解雇そのものを回避できる可能性もあるからだ。といって、もうあと二週間ほどで解雇されるはめになる 従業員も何割かは確実に出るわけだけど。

NYでやってる資金のマネージメントと現地でやってるプロジェクト契約のマネージメントがリンクしていないからこんなことになる。もっと簡単にいうと自分 のポケットにいくらお金が入っているか分からず(資金のマネージメント)、買い物(プロジェクト契約)に出かけるようなものだ。単にバカとしか言いようが ない。18ヶ月間、文句を言ってきたが全然改善しようともしない。UNHCRやUNICEFやWFPのような独立した組織なら、こんなことはもうやってな い。NYの事務局はもう改革でも破壊でもなんでもいいから、根本的に鉄槌をくらわすしかないと思う。

イスラマバードに着くと異様に暑く感じる。カブールがやはり高地で涼しいせいだろう。これで空港で数時間うろうろするのはつらいので、市内の知り合いのゲ ストハウスに行って、休憩させてもらうことにした。メールをチェックすると、NYとカブールのエライさんから、最後に送ったメールに返事が来ていた。なん にも分かってない、とんちんかんの極地。アミールから修正案も届いていた。セルからセルへシートからシートへ様々な式で繋がってる論理自体は間違ってない ので、それを崩さず、例外を挿入していくというのはかなり面倒で、アミール以外には頼めない。彼の修正案はちゃんと出きていた。この差はなんなんだ。

予算が紙一枚で見れるものだと思っているような人が何百億円も扱う部署のエライさんになっているのだから、国連にムダがありまくるのも当然だ。毎月何億円 も使う業務では何百枚ものシートが必要だし、シート間の関係を立体的に理解しないと話にならない。しょうがないから、要約を一枚で作ると、それで世界がす べて理解できたと思い込んで、訳の分からない議論を延々とやって、ひとの時間をむだにする。こういうのをごっそりクビにして、民間会社の人と入れ替えた ら、国連改革なんてあっという間にできるのにと思う。

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14 JUN 06 UN Flight KBL ISB 1530 1700
14 JUN 06 TG 510 ISB BKK 2310 0615+1
15 JUN 06 The Davis Bangkok (http://www.davisbangkok.net/)
16 JUN 06 The Davis Bangkok

Monday, May 29, 2006

Being irritated

Kabul has been being irritated today. Let's see how it will go tomorrow. Ciao, ciao.

Irritatingly Catchy

Miss USA 2006 の放映がもうすぐあるらしく、しょっちゅうそのコマーシャルがテレビに現れるのだけど、そのバックにJAMES BLUNT の "You're Beautiful" が使われている。最初にほんの1秒か2秒聞くだけで、ああもうこれは軽く数百万枚突破だなというような曲で、当然売れまくっていると思う。Miss USA 2006 だけでなく、いろんなところから聞こえてくる。

先日、EuroNews でBest Song 賞のニュースをやっていて、やはり"You're Beautiful" も賞をとった曲の一つだった。そのニュースの中で、田舎の信用金庫のエライさんのような禿げちゃびん系のアナウンサー、つまりまったくポップな音楽には縁 もゆかりも興味も関心もございませんって風情のおっさんが、一目見て思わずお前はベートーヴェンか、とつっこみたくなるような、神経質な顔した髪の毛ぼっ さくの、そんなに歳寄りでないが、旧共産圏で製造したとしか思えない背広を着て、ピアノの前に座っている作曲家にインタビューしていた。

この二人の造形美だけで、僕はEuroNew の少なくともこの部分に釘付けになったから、これはディレクターの勝利だろう。ドブネズミ系のスーツが板についているアナウンサーは、いきなり、 「"You're Beautiful" は、Irritatingly catchy だけど、どうなんだい?」と切り出した。おお、鋭いな、このおやじ。ぼっさくベートーヴェンはまったく動じず、ちょっとコード進行を見てみようと言って、 ダーン、ダーン、ダーン、と弾いてみせる。そして、「まあ、ごくありふれたコード進行で、ビートルズもこういう進行の曲をたくさん作ったし、 彼は(JAMES BLUNT)は、これまでのヒット曲をよく研究したんだろうね」と言う。すると、すかさず、禿げは、「もうすべてのトリック、すべてのメロディ、すべての 組み合わせは出尽くしたんじゃないか。まだ、新しい組み合わせは可能なのか」と追求する。共産系ベートーヴェンは、少し苦笑い気味に、ほとんどそう言える かもしれないが、まだ可能性はある、みたいなことを言った。そりゃ、そうだろう。なければ、彼の作曲家という職業はどうなるんだ。

そして、画面はパッと天気予報に変わった。これがニュースかよ。なんかレベル高いことやってんな。それにしても、あの禿げは一般視聴者が思っているようなことをうまく質問してくれたもんだ。アホみたいな絶賛しか知らないアナウンサーとは一味違った。

その後、彼の使ったirritatingly catchy というフレーズが頭の中にこびりついて離れなくなってきた。そう言えば、Miss USA 2006 に出てくる51人の美女のあの笑顔もirritatingly catchy だ。思わずテレビ画面に向かって、どうせ口あけて寝てたって、鼻くそほじくったってキレイなんだから、そんなにニタニタすんなと言いたくなる。日本でも、 スチュワーデスとかキャビン・アテンダントがそのずっと後の女子アナ並に花形職業だった頃、つまり本来の業務とはまったく関係ない部分で評価されていたよ うな頃、ああいう笑顔が蔓延していた。あれがうれしい男と、あれにぞっとする男との割合は、当時は当然前者が高かったから、あういう戦略が有効だったのだ ろう。今はその割合はたぶん逆転しているのではないか。でも、よく分からない。もしそうだとすれば、日本の航空会社も戦略を転換しなくてはいけないだろう けど、どうしたかな。クソ忙しい時に何考えてるんだろう?

で、とりあえず、"You're Beautiful" ダウンロードしてみっか。

Saturday, May 27, 2006

二つ目の17日

ヨシログのページに行って、まとめて読んでみると、なんか誇張し過ぎかもと思って、19日のを少し書き直した。それと、17日に二つ書いたはずだけど、二 つ目どこかにありますか?アップしたはずなんだけど、見つからない。どこにいったんだろう?おかしいなあ、誰か見つけ方、教えてもらえます?とりあえず、 もう一度コピーしておきますが。


^---^

あった。コピー削除。

Saturday, May 20, 2006

ロンドンの雨

昨夜は酔っ払って、ぐっすり眠ったせいか、パチっと目が覚めた。まだ7時過ぎではないか。もっと寝ようかと思ったが、ロンドン最後の日なんだから、起きる ことにした。メールをチェックする。ダッダッダッダッダッダッダッダッダッダっとメールが受信箱の上から下へ動いて行く。気になるものをいくつか開けてみ る。なんてMessyなんだろう。カブールで留守番をしている優秀なアミールは当然孤軍奮闘し、怒りとため息の間でもだえ笑い狂ってるだろう。落ち込む。 遠くでできることは限られている。カブールに帰った時の対策の伏線として、いくつかメールを送った。

今日は、本屋をのぞいてみようと思っていた。ただ、その前に早急に一枚服を買う必要があった。ポロシャツとボタンダウンしかもって来ていなかったので寒くてしょうがなかったのだ。寒いロンドンをこの格好でうろうろするのは限界がある。だから、優先課題は服一枚だった。

9時頃に外に出たが、霧雨が風に舞っている。寒い。とにかくなんでもいいから何か服を買わないと凍ってしまいそうだ。あてもなく歩き始めたが、まだほとん どのお店が開いてないではないか。15分ほど歩いて、露出した僕の腕はもう凍ってきた。もう、だめだ、ホテルに戻るにはちょっと遠くに来過ぎた。どこか飛 び込めるお店はないかとあたりをキョロキョロ精力的に見回しながら、早歩きであてなく歩き続けると、サンドウィッチの「サブウェイ」が開いているのを発見 した。店内に入ったが、お客さんも従業員も誰もいない。まだ準備中なのか。

僕の気配をさっして奥の方から黒人のお姉さんが、ヨーッとか言いながら出てきた。
「もういいかな?」ってきくと、「オーケー」。どこまでも非イギリス的気さくさ。僕はメニューを見ながら、なんでも良かったのだが、「暖かいのはどれ?」ときくと、「全部暖かい」と言う。
イギリスの「サブウェイ」はみんな暖かいのか?まあ、どうでもいい。深く追求せず、イタリアン・クラブというのと、コーヒーを注文した。「寒いからチリをたくさん入れて欲しい」というと、ほんとにてんこ盛りに入れてくれた。

ガラス張りの壁にカウンターがついていたので、そこで僕は外を歩く人を見ながら、サンドウィッチをゆっくり食べた。お客さんは僕一人だ。黒人のお姉さんは また奥に引っ込んでなんか仕事している。誰かお客さんが入ってきたら、黒人のお姉さんに教えてあげないといけないなと思う。臨時店員になった気分で、責任 感に満ちてきた。

じっと外を見ていると、霧雨が風に翻弄されて、ふぁーっとあっちやこっちに方向を変えて舞っているのが良く分かる。やがて霧雨が大粒になり、一人前の雨に なった。もう確固とした意志をもって自分の行く先は自分で決められるとでも主張しているかのように、スパスパと地面を叩き始める。と思ったのもつかのま、 また雨は意志の弱い霧雨と化し、風の翻弄が始まる。

人々は、この変化を微妙につかまえて、霧雨になるとさっさと歩き始め、一人前の雨になると、さっとビルの陰に入ってつかのまの雨宿りをしている。そして、 また霧雨になると、素早く歩き始める。傘を持っている人は実に少ない。ロンドンの人はこうやって年がら年中雨とつきあっているのだろう。

雨になったからといって、一気に絶望する必要もなければ、霧雨になったからといって、小躍りして次回の落胆を増加させる必要もないのだ。ロンドンの雨は何百年にも渡って、心の深いところで人々に影響を与えてきたかもしれない、と思う。

* * *

ロンドン人のように雨の扱いに慣れていない僕は、結局、ずぶ濡れになり、寒さに凍え、あらゆる判断力を失い、今日限り一生着ることはないだろうすごい趣味 のセーターを一枚買って、その頃には本屋に行く気力など完全に失って、ホテルに帰ろうとしたが、もちろん、その頃にはもうどこを歩いているかさっぱり分か らなくなっており、ふとヴァージンが目に入ったので、そうだ、前から買おうと思っていたDaniel PowterのCDを買おう、という口実を捻出して、とりあえず店の中に入ったのだった。

アルファベット順におそろしく古いのから最新のまで差別せず、とりあえずあるもの全部並べてみましたという感じで並んでいるCD群を眺め始めて、いやはや 寒さを忘れて、顔がほころんでくるのを抑えることにしばらく気がつかなかった。僕を見ないふりして見ていた人は、僕のことをずぶ濡れになってCDをながめ てニタニタしている東洋の狂人と思っただろう。それにしても、Peter Green やJ.J. CaleやWet Willie が普通の顔して店頭に並んでるってのも不思議な気がしたが、日本でもヴァージンくらい巨大になるとこういうのは当たり前なのだろうか。

一番まじめに音楽を聞いた中学生の頃に聞いていたようなCDを何枚か買った。
1.1973年に出たByrdsのオリジナルメンバーによる録音の"Byrds"。これは実に名盤だと思う。Gene Clark, Chris Hillman, David Crosby, Roger McGuinn, Michael Clarke がメンバー。"See The Sky About to Rain" を聞くと、今でも中学校の正門から西に向かって田んぼの真ん中をまっすぐに進む道をはっきりと思い出す。サッカーの練習が終わってクタクタの気分と夕暮れ の景色は今日も終わった感に満ちていた。右を見ても左を見ても田んぼがずっと続き、前を見ると長い舗装した道が遠くに見える高層ビル群につながり、うしろ を振り返ると校舎だった。ウォークマンはなかったけど、頭の中では音楽がかかっていて、その時よく流れていたのが"See The Sky About to Rain" だった。その時、映画を作りたいと思ったのを今突然思い出した。

2. Peter Frampton の"Frampton Comes Alive"。二枚組みのライブ盤。ものすごくよく売れたレコードだったと思う。ピーター・フランプトンは泥臭いハンブル・パイというバンドを抜けて、い きなりこのアルバムでソロデビューしてアイドル・ロックシンガーになってしまった。僕はハンブル・パイが好きだったのだけど、そこでピーターなき後、泥臭 さ追求に専念していたスティーヴ・マリオットが、この16、17年後、僕がイギリスに行った時、まだ場末のライブハウスで頑張ってるのを知って驚いた。も ちろんロンドンのどこかへ彼のライブを見に行った。89年から90年だったと思う。彼は91年に亡くなった。

3. Focus "The Best of Hocus Pocus"。特に好きだったわけではないけど、あまりの懐かしさに買ってしまった。フルートがぴ~ひゃら入っていて、当時はプログレ・ロックという範疇 に入れられていたと思うが、今、聞いてみると、これぞポップスという音ではないか。皮肉なことにロックの大衆化でプログレッシヴだったのかもしれない。

4. Crowded House "Recurring Dream The Very Best of Crowded House"。これはそんなに古くない、と思う。20代に入ってから聞き始めたと思う。ただ好きな音で、また聞いてみたくなって買った。

5. Daniel Powter "Daniel Powter" 。彼のデビュー盤。Bad Day が爆発的ヒットになって、いろんなところで使われて、彼のことを知った。American IdolでもBad Day は落選した人のビデオを流す時に使ってる。Crowded House と、Daniel Powter を続けて聞いてみると、なんか似ている気がする。自分の趣味の範囲ということなのか。しかし、音楽の趣味といっても自覚的に説明できるほどのものもない し。

* * *

ヴィクトリア駅までタクシーで行き、そこから電車でガトウィック空港に行った。Swindon からロンドンまでと違って、電車の窓から見える景色が近代資本主義国家的に汚い。でも、隣に二人、前に一人、計三人の若い女性が座り、珍しくみんなそろっ てきれいだったので我慢することにした。ガトウィック空港駅に着き、ロンドン市内のATMで日本の円口座から引き出したポンドがたくさん余っていたので、 それをドルに両替した。少なくとも三つの銀行を数円ずつ儲けさせてしまった。無駄。

チェックインしてから、薬局でアルカセルツァー発見。20個入りのを4箱買った。カブールのPXでは長らく品切れ中で結構苦しんでいたので助かった。レストラン街に回転寿司があった。食べなかったから分からないけど、あまりおしそうには見えない。商売になるのだろうか。

EKのラウンジはとても広い。念のため書いておくと、ワイレスでインターネットに無料で繋がった。

ロンドンからドバイの機内で寝るつもりだったが、映画を三本続けて見てしまった。"Transporter 2"、"Lord of War"、"In Her Shoes"。三本ともこれまた珍しく見がいのある映画だった。ドバイには朝7時に着いたので、カブール行きの国連機の出発まで5時間、空港で人生を無駄 にした。

20 May 06 EK 010 C LGWDXB HK1 2115 0710+1

Friday, May 19, 2006

ソフトシェルクラブ

午前中はまたディスカッション。今後三年間の戦略ペーパーなるものを作っているのだが、サンディとマットと僕の三人で同時に違うところを書き分けて、それ を一つにするという作業を繰り返すので、頓馬なことをするといくつも変形version ができてしまう。事故を避けるために、僕のPCで常にマスターversion を維持することにして、今朝の時点では、Version 4.0 だったのが、それでも何度も右往左往し、正午にはVersion 9.0 に達していた。しかし、完成にはほど遠い。

日曜日にはカブールに着くので、月曜日にカブールで皆の衆を召集してブリーフィングをし、皆の衆のインプットを募り、月末までに完成するという空想を立て ている。たぶん、無理だろう。結局、最後には一人で暗い屋根裏部屋に閉じこもって、何の勝算もない賭けに全財産をつっこむようなペーパーを形だけでも完成 せざるを得ない苦しみにもだえる図が僕の頭の中では着々と完成しつつあった。

最後にDisaster Management Centre 所長のアラスター氏に、この二日間の成果(?)のブリーフィングをし、12時きっかりに終了した。サンディは自分の車で来ていたので、家まで5時間のドラ イブに出発した。僕はSwindon という駅から電車に乗ってロンドンに向かった。昼ごはんを食べてなかったので、Swindon 駅で、バゲットのサンドウィッチとコーヒーを買った。6ポンドほどした。1000円くらいだ。高いなあ。

ロンドンのパディントン駅には1時間ほどで着いた。ハリーポッターを思い出すような、古めかしく大きな駅だ。少し見覚えがある。15年前に通過したのだろ う。そこから黒いタクシーに乗って、インターネットで予約したThe Westbury Mayfair Hotel に向かった。この黒いタクシーはそのまんまだ。15年前も一台欲しいと思ったが、また今も一台欲しいと思った。

ホテルはとてもイギリス的な石壁に内部は質素でダークな色合い。けばけばしさが微塵もない。部屋はこじんまりとしている。これで一泊128ポンド(2万5千円くらい)は高いような気がするが、ロンドンの相場ではこれくらいなのだろう。

今回の出張は、仕事はどうでもよいわけでもないけど、まあ個人の心情的にはどうでもよくて、それよりも、若くしてケンブリッジに学徒出陣したAさん に会うのを僕は楽しみにしていた。ショーコさんと同じ歳だから、かるく二世代くらい年下なのだが、彼が日々重ねているインプットや、それに対する彼自身の リアクションの話は、僕にとってもおもしろい。僕がするひまがなくなったインプットを彼を通してすることもできるというもんだ。

夕方、ホテルを訪れたAさんととりあえず近くのパブへ二人で行った。Aさんは何を気を使ったのか、カブールを発つ前、何通りかの組み合わせの 同行者について打診してきたのだが、今から思うと、日本人ゲストには若い女の子を連れて行くというような気も一応使わないと、なんだ気のつかない男だ!あ いつは仕事ができない!なんて、日本のまっとうな男社会人世界では思われたりしかねないからだったのかもしれない。商社に勤める友人に聞いた、日本からの お客さんを迎える苦労話を思い出した。

パブではビールを一杯だけ飲んで、次にAさんが予約していた『馳走』というお店に行った。そんなに高くない居酒屋のようなところと聞いていたが、 行ってみると、小さいけど、小ぎれいなインテリアに、小ぎれいな日本人ウェイトレスに、小ぎれいなイギリス人の女二人組みが僕とAさんの席の隣にい た。カブールのごつい世界に目が慣れているせいか、みんなどうしてこんなにちっちゃくなっちゃったんだろうとしばらく考えていた。とても華奢な身体つき に、小さな顔に、小さな服を着た女な子たちを見て、小人の世界に入ってきたような気分だった。

メニューを見ると、かなり好きなソフトシェルクラブがあったので、まっさきにそれを注文した。15年前も僕は中華料理屋でソフトシェルクラブだけを注文し、ワインを一本頼んで、一人で本を読むというのが習慣化していたのだった。

今日のメニューは、

ソフトシェルクラブ唐揚
あんこうの肝
寿司特上盛り合わせ
鮭皮巻き
牛肉のたたき
キムチ奴豆腐
豚ばらキムチ
こんにゃく味噌田楽
五目そば
五目うどん
サッポロビール小瓶1本
ミネラルウォーター小1本
焼酎ロック・ダブル無数

10時頃に店を出たのだが、僕はかなり酔っ払っていた。全部で、163.13ポンド(約3万円)。Aさんはあれっ?という顔をしていた。一人当たり 80ポンドを超えたのは初めてだとつぶやいていた。つまり、思ったより高かったらしい。ロンドンの物価事情が分からない僕としては高いのか安いのか分から ない。後でレシートを見ると、

Food: 85.70
Drink: 59.30
Service: 18.13
Total: 163.13

となっているから、食べ物的にはそんなに高くないんだろう。飲みすぎただけじゃないだろうか。何杯飲んだか覚えてないし。

外に出ると、とても寒い。小雨がパラパラと降って、夜の路面が光っている。とてもロンドンだなあと思った。また、この数日間、頭の中に繰り返し出てきた 「石文化は強い」というフレーズが訳もなく出てくる。ホテルの部屋にたどり着くと、僕はびしゃびしゃになった服を脱ぎ捨てて、すぐにベッドに入った。

Thursday, May 18, 2006

美しき村

目が覚めるとまだ午前4時過ぎだった。
もう一度寝ようと思うが、そう簡単に眠れるものでもない。しばらく暗い部屋の中で何か考えることはないか考えていた。ろくでもないことしか頭に浮かんでこ ない。シャワーを浴びる時も部屋の外に出るわけだから、やはりきっちりした服を着て行かなければならないのか、シャワーを浴びた後またすぐに服を着て戻っ てくるのか、近頃髪の毛が茶色くなってきたのは歳のせいか、カブールのシャワー水のせいか、そんなこと。

今日は陽がさして、緑がとてもきれいだ。午前中に今後三年間のコスト計算を済ませて、ランチタイムにマットの運転でサンディと三人で、Defense Academy の敷地の外にサンドウィッチを買いに行った。サンディは休暇でイギリスに戻っていたのだが、その後に続けて、ここで二泊三日の仕事をするためにやってき た。マットはイギリス防衛庁の訓練プログラムを請負う25年契約を落札したばかりの大学の人。サンディは元々軍隊に30年間もいたので、ここは居心地良さ そうだ。ミリタリー経験のない僕とマットは、どうもしっくりいかない感が抜けない。

近所の村の中を通って、サンドウィッチ屋さんに行ったのだが、実にきれいな村だ。16世紀頃に立てられた家がそのまま残っている。そういう家の価値がもの すごく高いのだそうだ。新しい家でもとんでもなく場違いな建物は一軒もないし、道の両側に果てしなく広がる緑の草原や水平線まで黄色くなっている菜の花畑 のどこにも、風景をだいなしにするようなものがない。日本の美しい風景で悲しいのはどこに行っても、まったく場違いな清涼飲料水や家電の広告看板が立って いることだ。美しい一幅の絵に、噛み倒した後のチューインガムをなすり付けるような、あの感覚は訳が分からない。

時々藁葺き屋根の家があるのに気がついた。この藁、もしくは藁葺き屋根全体をthatch というらしい。Thacher 首相は藁葺き職人が先祖だったんだろうか。マットはこういう美しい村の風景がとても好きらしく、ロンドンに住みたくないと言っていた。マットでなくても、 そういう人がたくさんいるから、村に住んで、通勤時間が1時間とか1時間半でも我慢する人が多いのだそうだ。


(↑)Thatch の家。

こうやって地域全体の風景をぶち壊さないことによって得られるものはとても大きいと思う。個々の家の価格が上がることにマットは悲鳴を上げているが、村全 体の価値の上昇率は計り知れないと思う。どうすれば、こういうことが実現するのか?この資本主義の世界では看板立てるなって言っても、ちょろっと土地を貸 してお金になれば立ててしまうだろう。そういうことを制限する法律でもあるのかと訊いたら、サンディとマットは声をそろえて、「ある!」と断言した。景観 を守ることにイギリス人はとても敏感なのだと説明する。しつこくイギリス中どこでもそうなのかと訊くと、二人ともほとんどそうだと言う。ここがイギリスで 特別きれいなところではないかと、さらにしつこく訊いたら、もっときれいなところはいっぱいあると来たもんだ。

僕はだんだん元気がなくなってきた。近代化はイギリスを破壊しなかったんだな、とつぶやくと、サンディがすかさず「しなかった」と答えた。もっとも最初に 近代化を開始した国だからこその知恵なのか?景観をぶち壊すという痛い失敗をすでに繰り返した後なのか?全然分からないが、近代化と景観の関係の研究が あったら、いつか調べてみたいものだと思う。

19世紀末に日本にやってきた西欧人が残している書き物は必ず日本の美しさを絶賛しまくっているので、近代化の過程とそれに伴う資本主義の猛威が日本の景 色をここまで醜くして、日本人の美的感覚を狂わせてしまったのは、ほぼまちがいないと思うのだけど、それは21世紀の今になっても、なんとか近代化の入り 口に手をかけたような国の場合でも共通している。タイでもパキスタンでもアフガニスタンでも景色の美しさなんて巨大なお金の流れの前では吹き飛んでしまう のだ。パキスタン北部の勇壮で美しい山岳地帯にペプシの看板がポツンと立っているだけで、どれだけペプシの売り上げが上がるか知らないが、景色の破壊の大 きさは絶対的に大きい。

今日の食べ物が手に入るかどうか分からないような境遇で、景観がどうのこうの言ってられるかい、というのはよく分かる。それでも、こうやって遅れてやって きた国は、貧乏くじを引かされてるような気がしてならない。グローバリゼーションなんて音頭に乗って、キャッシュを追いかけた末に、少し長期的にやってく るのは、醜くボロボロになった国家じゃないんだろうか。美しい村の土地の価格は、醜い村の土地の価格よりずっと高くなるだろう。国家全体で景観を破壊した ら、その国家の価値はどんどん下がってしまうんじゃないだろうか。そして、それはさらなる貧困の原因とは考えられないのだろうか。貧乏は貧乏を招くしかな いのだろうか。

また日本に戻るけど、村興しなんて言って、どっちみち元の取れない産業振興策に莫大な税金を突っ込むくらいなら、景観を整える法律を作って、すでに醜く歪 んでしまった景色を少しずつ直すことにお金を使った方が、長期的には経済効果は高いんじゃないだろうか。どこか小さい村の村長になってみたいと、また空想 壁が出てきた。

Wednesday, May 17, 2006

臭く餓死する、か。

EK011便の機内に入って、自分の席にすわると、いきなり鋭い郷愁に襲われた。シートに使われているピンク・パープル・ブルーが入り混じった生地を見て突如思い出したのだ、2003年イラク攻撃の騒動を。

あの頃、何度も大阪とアンマンの間を往復していたが、北回りの時もあれば(アムステルダムやパリ経由)、南回りの時もあって、南の時は関空・ドバイ・アン マンというルートが多かった。関空・ドバイ直行便のEK機のシートの生地の柄が、ほぼ三年間まったく思い出したこともなかったが、記憶の底にこびりついて いたらしい。

あれから三年間イラクは出口なし。2002年9月、僕はもう仕事を辞めるつもりで特別無給休暇というのをとって日本に帰ったのだが、いつの間にか、妙な形 でイラク戦争に巻き込まれていく一人になっていた。2002年暮れから、NYやジュネーヴやアンマンで、いつ始まるのか、ほんとに始まるのかどうか、未だ に分からなかった戦争の準備のために調査をしていたのだが、行く先々で、この今の状態を予測する人はとても多かった。そして、その通りになったではない か。戦争の準備と書いてから、おかしな言い方かもしれないと思ったが、やっぱりそのままにしとこう。結局、戦争の表の準備と裏の準備のようなものではない か。

とんでもないことがいっぱいあったが、すぐに思い出すのは、砂のことばかりだ。砂嵐の恐ろしさ、砂を吸い込んだ赤い空気の色、砂漠の息ができないような暑 さ、砂で次々に壊れていくPC。砂はすごい、砂はすごい、という思いが、EK機のシートの生地と同じくらい深く記憶にへばりついている。こんなところで戦 争?バカじゃないのと思ったことを、夜になると驚くほど下がる砂漠の気温、圧倒的な暗黒の中で光たおす星くず、テロリストなわけないでしょって顔をした美 形のパレスチナ人の女性たちとともに思い出す。

映画を見る気にも、音楽を聴く気にも、本を読む気にもならない。ロンドンまで7時間35分かかるらしい。寝ることにした。

* * *

イギリスに来るのはとても久しぶりだ。何年ぶりか考えてみると、約15年経っていた。ちょっと前だと思っていたが、15年間何をしていたんだろうと思うと、死の恐怖のようなものを感じる。

ガトウィック空港は何度か通過しているはずだけど、何を見ても何にも思い出さない。建て替えしたんだろうかと思ってみるが、どこも新しく見えないので、そのまんまなのだろう。ただ完璧に忘れただけか。

通関で「どこに行くのか」と訊かれたが、あれっ、どこに行くのだ?よく分からない。誰かが迎えに来てくれるはずでぇ、その人がぁ、どこかにぃ、連れて行っ てくれてぇ、それでぇ、あれっ?・・・と痴呆まるだしで、もごもご言ってると、生ごみでも見るような顔で「何をしに来たのか」ときかれた。え~っと何しに 来たんだったかな。

なんか形勢不利だ、いかん、イギリスはテロを警戒しまくってるはずだから、ちゃんと答えないと入国できずに強制送還されてしまうかもしれない。でも頭がぼけていて、話せば話すほどややこしくなってくる。

ある大学でぇ、な、なんか研究やっててぇ、そのお手伝いに来てぇ、と言ってると、入国審査官のおねえさんは僕の言葉を無残に遮って「なんで手伝うのだ?」だって。

だからあ、その研究はぁ、国連がぁ、元々頼んだんだけどぉ、でもぉ、頼まれた人だけでぇやってもぉ、ほら、わかんないこともあるでしょお、だからぁ、そのぉ、このぉ、でえぇ、えーっと、何話してたんだっけ?

あ~だめだ、おねえさんの顔はますます険しくなってくる、でも、なんでこの人こんなに美人なんだろう?機嫌がよければもっときれいなんだろうな、なんて考 えてる場合かと思うが考えてしまう。彼女の顔に見とれながら、もう一度最初から詳しく話しをして、やっと納得してもらった。アホまるだし。

さて、外に出ると、迎えの人たちが名前を書いたボードなんかをもって並んでいる。おなじみの風景で少し安心する。で、一通り見てみたが、ない。僕の名前は どこにもない。遅刻したのかな、よくあることだ、少し待てばきっとやってくるに違いない、ここは先進国のイギリスなんだ、奴隷にされて売り飛ばされたりす ることはなかろう、安心すればいいんだ、でも、どうして行き先くらい聞いてこなかったんだろう。万が一誰も現れなかったら、自力でどこか分からないがたど り着かなければいけないじゃないか、どこに行くか知らないとどうしようもない・・・しみじみ心の奥底でまったくの不手際を後悔しながら、もう一度迎え人た ちを一人ずつ検証していくことにした。

・・・あった、僕の名前だ、なんとピシッとしたダークスーツにネクタイ、短い髪、高い背、がっしりした体格。ハンサムなおにいさんが僕の名前を書いた紙を もって静かにたたずんでいるではないか。おお、『トランスポーター』だと僕は思った。『トランスポーター』の主人公そっくりではないか。ヨレヨレのジーン ズをはいて、機内ですっかりくしゃくしゃになったコットンのボタンダウンシャツしか着てない自分をふりかえると、急に可哀相な浮浪者の気分になってきた。 いきなり萎縮してしまう自分に情けなくなり、いっそう浮浪者気分が高まってしまう。

やっと空港ビルを出たあたりで、『トランスポーター』に「どこかでタバコ吸えないだろうか」って訊くと、ちゃんとした英語で「車をとってくるから、そこで 待っててくれ、その間にそこで吸えばいい」と言う。おお、どこで習ったんだ、その英語。ちゃんとし過ぎ、そんな英語しゃべる奴、国連には3人くらいしかい ないぞ、と不必要に心の中でうそをついてみたが、この『トランスポーター』の粗探しはどうも実りそうにない。

タバコを吸いながら、しばらく待っていると、キャー、なに、それ?アウディの新型かよ、それでスーツ着て何?『トランスポーター』そのまんま?まいったな あ、もういいよ、あんたはかっこいいって、分かったから、もう少し手加減した方が恨まれなくていいよって思っていると、さっとドアをあけて、「プリー ズ」ってか、おいおい映画じゃないんだからさ、調子に乗るのもいいかげんにした方がいいよ。そのうち鬱屈した日本人に殴られるよ。あっ、でも『トランス ポーター』は喧嘩強いんだな、これが。

ハイウェイの両側はずーっと緑が続く。どこもかしこも圧倒的に土色の国から来ると、緑がとても贅沢に思える。緑は美しい。緑が豊かさの象徴であると思う。 どれくらいかかるの?って『トランスポーター』に訊くと、「それは道路事情しだいだ。1時間30分から1時間45分の間に着くだろう」だって。そんな細か いこと訊いてねえよ。で、それだけ?もうちょっとなんか、こう軽くくだけた世間話とかしないわけ?無口なんだね。仕事だからね。でも、パキスタンとかドバ イのドライバーはうるさいよ。子供は何人いる?とか、月給いくら?とかそんなことまで訊いてくるもんね、それがプロというもんだろ、えっ違うか?って思っ たけど、絶対不利になるので、黙って寝ることにした。

眠りこけていたら、『トランスポーター』に起こされた。ああ、よく寝た。「あそこでパスをもらわないとここから先は入れない、あなたの名前は分かっている はずだ」とかなんとか、『トランスポーター』が言ってる。そういうのって、あんたの仕事じゃないのかなあ、なんかよく分からないけど、僕は車を降りて、 ゲートに併設されてるビルに入っていった。

ここはどこなんだろう?とまだ寝ぼけながら、「パスがいるって運転手が言ってるんだけど」、バカでしょ、あいつ、お客さんにパスとってこいなんて、まった く近頃の若者はダメだね、なんて顔をして、おばさんに声をかけると、「イエッサー」だって。いやはや、それほどでもないんだけど、で、パスってもらえる の?

「あっ、これですね、ミスター・ヤマモト、あなたの名前は連絡を受けております、キッチュナー・ホールまで行って下さい。ここをまっすぐ行って、あっちま がって、こっちまがって、どうのこうのです。ゲートを通過する時は、これを見せてください。敷地から出る時は必ずこのパスを持って出てください。パスを 持ってないと、戻れなくなりますから。最終日にはゲートにまた返してください」。なんだ、なんだ、厳重だなあ。

「おーい、パスもらったよ、キッチュナー・ホールってとこに行くんだって」と『トランスポーター』に声をかけると、オーケー、それならすぐそこだ、とかなり無愛想に『トランスポーター』は答えて、ゲートに向かって発進した。

軍人がゲートを見張ってる。どこもかしこも最近は軍人が大はやりだなあ、でも、ここはイギリスでしょ、アフガニスタンとかイラクとかそんな物騒なとこじゃ ないのに、どうして軍人がゲートで見張ってるんだ?と、ちらっと思ったが、美しく緑で充満した広大な敷地に息をのんだ。緑と緑の間にレンガ作りの古典的な 建物がポツン、ポツンと建っている。

で、ところどころに異様な物体。戦車、ロケット、などなど・・・なんだ、これは?ここはどこ?ひょっとして、軍事基地?突然気分がそわそわしてきた。『ト ランスポーター』は相変わらず無言で運転しているが、キッチュナー・ホールにはすぐに着いた。そこで、僕をおろすと、『トランスポーター』は、ではここ で、とかなんとか言って、さっと消えてしまった。ここでって、ここで何をすればいいんだよ?まったく。

とりあえず、キッチュナー・ホールとやらの中に入って、受付のようなところに行ってみる。「あのぉ、田吾作田舎ノ介ってぇもんですがぁ、ここに来るように 言われたんだけど、ひょっとして、僕のこと連絡されてたりしますうっ?」と訊くと、この受付のおばさんも、また「イエッサー」だって。不気味なんだよ、そ れ。やめてくんない?と思ってる間もなく「あなたはここに二泊して19日に出発です。417号室があなたの部屋です。これが部屋のカギ、これが建物全体の カード・キー、そしてこのカードがダイニング・ホールのパスです。チェックアウトの時にすべて返却してください」。キッチュナー・ホールって旅館だったの か、それならそうと早く言ってくれたらいいのに、まあ、いいか、まだ眠たいし、とりあえず部屋に行ってみよう。


(↑)部屋の窓から外を撮った写真。この敷地には、こんな緑の景色がこの百倍続いている。

質素な部屋。電話もテレビもLANもなんにもない。ひぇーこんな環境久しぶり。「いらっしゃいませキット」一式のようなものが部屋の机の上にあったので、とりあえず手にとってみる。表紙を見て、えっ?えっ?えっ?と?が連発。

Officer's Mess (将校宿舎)だって?Defence Academy(防衛大学)だって?どういうこと?なんで僕はここにいるの?読み始めると、とんでもないことが書いてある。

ドレス・コード:最低限の基準:常にカラーのあるシャツとズボン。スポーツシャツ・ジャージ・フリース・リクラなどの素材を使ったものは不許可。ジーンズ は全敷地内で一切許可されない。ダイニング・ホール、バーでは、ネクタイとジャケット、もしくは制服を着用しなければいけない・・・

延々と細かな規則が書いてある。困った。ここは正真正銘の軍人の館ではないか。そんなことはどうでもいい。僕はすでに規則を破っているではないか。ジーン ズをはいてのこのこ入ってきたのだ。そして、着替えのズボンはない。つまりジーンズ一つだけでやってきたのだ。ネクタイもジャケットももちろんあるわけな い。困った。どうしよう。ここで二泊三日部屋の中に閉じこもって餓死するべきだろうか。

部屋の中を見渡しても備品のようなものは何もない。うわっ、軍人さんはきっと生活に必要なものはなにもかも一式持ってるんだろうな。僕はタオルさえ持ってない。どうしよう、二泊三日シャワーも浴びれない。どうして、こういうことを前もって連絡してくれないんだ?

ここで途方に暮れていてもしょうがない。僕は善後策を立てるために受付に戻った。まず、軽く「タオルを借りることはできるだろうか?」って訊くと、おばさんはあっさり貸してくれた。次にさらに深刻な問題をとりあげた。

「ジーンズは許可されないって書いてあったんだけど、そうなんですか」
「許可されません」
「アハ、ジーンズしか持ってないんだけど、どうしたもんでしょう?オホ」
「誰かにズボンを借りるか、どこかで買うかしないとしょうがないですね。誰か知り合いの人はいませんか?」
「もう一人来ると思うんだけど、彼は僕より小さいし。あっそうだ、マットって人に会うことになってるんだけど、彼に連絡をする方法はないでしょうか?」

憐れみに満ち溢れた微笑を満面にたたえて、おばさんは電話を貸してくれた。

「マット、着いたよ。今、キッチュナーホールにいる。ジーンズ許可されないんだけど、ジーンズしかないんだよ。ネクタイとジャケットがないと食事もできないらしい。」と言うと、とりあえずこっちまで来ると言って、マットは電話を切った。

結局、僕はその日から三日間、マットのズボンをはいて過ごしたのでした。そして食事はすべて外食。昼はサンドウィッチを買って、きれいな緑の芝生の上で食べて、夜は外に出かけて、一日目はインド料理、二日目はイギリス伝統料理。

美しく広大な敷地に村上春樹みたいに過不足なく整理整頓が行く届いた施設。過剰と欠乏が恋しくなった。僕に軍人は向いてない、死ぬまでヘラヘラしていたい、と思った。

根真面目

ドバイ空港のラウンジでPCを開くと、ワイレスでインターネットに繋がっていた。よく覚えてないが、ウィーンもJFKもトロントも無料で繋がったんではな いだろうか。日本の空港は有料の何社かに繋がる仕組みだったと思うが、これもよく覚えてない。が、とりあえず全世界ワイレス無料にしてください。

栄花均の「札幌から出直します」で、後藤健二も松島倫明もブログをやっていることを知ったので(どうして今まで知らなかったんだ?!)、ちょろっとのぞいてみた。頭がぼやけたままで、ちゃんと文章を読む気がしないのだけど、ぱらぱらぱらぱらぱらぱらっと読んでみた。

いや~驚いたね。二人とも、ものすごくまじめ。今どき、こんな人間がいたのかと思うくらい、冗談一つ言わず、書いてやんの。いや、尊敬します。これはも う、表面はたわけ者であっても、根っこがまじめなのだと思わざるを得ない。ほっといたら、どこまでも崩れて行く自分を知っている僕としては、異部族に遭遇 した気分だ。

それに比べると、栄花均の文章に出てくる感動癖や根っこの朽ちやすさは自分に近いものを感じる。部族的に言えば、またいとこくらいの関係にありそうだ。しかし、彼は文章うまいな。僕が編集者なら彼に目をつけるけどな。

『INDEPENDENT PRESS 』が、後藤健二
http://ipgoto.com/blog.php

『書籍編集者の極私的備忘録(たまに玉の話も)
人生で大切なことは全て撞球場で学んだ。』が、松島倫明(タイトル、長いよ)
http://blog.goo.ne.jp/matsushima-m

* * *

というところで、いきなり切れてしまいましたが、何か異変があったわけではありません。ふと気がつくと、ガトウィック行きEK 011便のラスト・コールをしていたので、あわててPCのふたを閉めて、ゲートに向かったのでした。

EK 011 C 17MAY DXBLGW HK1 0245 0720

Tuesday, May 16, 2006

こっちも今回は全員実名で

笑った。あっ、またトラックバックが付いている。いまだにトラックバックが何か理解していないのだが、とりあえずクリックしたら、「札幌から出直します」 ページが出てきたではないか。トラックバックとはそういうものとすると、驚くのはかなりアホなのだろう。まあ、どうでもいい、僕は一人で笑いころげた。目 から涙がにじみ出てきて、PCのディスプレイがぼやけてしまったくらい笑った。といっても、悲しいわけでも、感動したわけでもない。ただ、あまりにバカバ カしくて、笑いが止まらなくなって、笑いで顔面が歪んだまま、元にもどらず、涙が物理的に目から搾り出されただけなのだ。人が失業して、これからどうやっ て家族を養っていこうかって時に、「パリでバーをやらないか」だって?後藤健二、ほんとバカだよなあ。でも、そういうの好きです。死ぬまで、そのままでい てほしい。素っ頓狂と天才は紙一重だから、後藤健二にもいつか爆発してほしい。

ところで、松島倫明も出張かよ。NYなんか行ってヘラヘラしてるから、離縁されたあげくに、原稿も集まんないだって。ちょっとは、「フォーサイト」の ショーコさんを見習ったらどうだ。原稿集めて、結婚して、もうすぐ一児の母だぞ。とまあ、これも言い訳の一貫で、とっくに企画は没になった後で、いつか松 島倫明が人生のすべてを後悔するような原稿を送りつけてやろうと、しみじみと二日に五分くらいのペースで僕はまだ松島発注の原稿を考え中なのでした。

ああ、眠すぎてハイだ。夜、帰宅した頃はたいてい疲れ果てていて、ベッドにどっと横になる。そのまま寝てしまうのだけど、たいてい30分とか1時間で目が 覚めてしまう。その後が悲劇だ。シャワーを浴びたり、料理をしたり、テレビを見たり、本を読んだり、原稿のことを考えたりするのだが、もう眠れない。

そうやって、もがいているうちに、一昨日はハッと気が付くと、朝の5時半になっていた。もう寝るのは完全に諦めて、僕はキッチンのある階に下りて行き、 朝っぱらからアーティチョークのガーリック炒めを作って、生ハマといっしょにそれをパンではさんでサンドウィッチを作った。これはおいしいぞ。みなさん、 試してみてください。

BBCを呆然と見ながら、サンドウィッチを食べて、7時半頃に車を呼んで、その日はとっととオフィスに行った。僕の顔を見たアミールが、Oh, my God, you didn't sleep、とあっさり言ってのけた。僕の顔はぼけまくっていたらしい。あまりのしんどさにその日昼休みにゲストハウスに帰って、昼寝をした。1時間くら いだけど、これは異様に快適だった。

そして、またオフィスに戻り、明日から出張なので、いろいろと片付けだすと、あっという間に9時になっていた。今日もまた眠れないだろうと思っていたが、 どうせ明日は朝6時半にチェックインしないといけないし、最初っから寝る気はまったくなかった。カブールからドバイへ向かう飛行機の中で寝ればいいし、ド バイのトランジットが14時間もあるので、ホテルを予約していたから、ドバイで眠りこければいいと思っていたからだ。

そして、案の定というか、予定通りというか、僕はまったく眠らずドバイ行きの飛行機に乗ったのでした。2時間半の飛行中たぶん1時間は寝ていたと思う。ホ テルにチェックインして、PCをつないでくそメールの山をダウンロードして、ちらちらと仕事メールを見たら、気分が悪くなってきた。「パリにバー」で命拾 いしたようなもんだ。今のうちに寝よ、寝よ。出発まで、まだ12時間ある。

Saturday, May 13, 2006

At the Breakfast Meeting

とても天気の良い朝、やっと冬が去ったのははっきりしてるけど、まだ夏の暑さまで少しある、春と呼ぶにはシャープな日差し。そんな日の朝。

「オーケー、ちょこっとbreakfast meeting で300万ドル。悪くないわね、そう思わない?」と言って、金髪の彼女は机の上の書類を片付けながら立ち上がり、こっちをちらっと見て、 いたずらっぽく ニッコリ笑った。僕は気分を害するどころか、そんな彼女の言葉、動作、表情の組み合わせに好感をもった。ジンメルなら、これだけでものすごく難しい論文を 書くだろう。イエスでもノーでもない、身をゆだねるのでも拒否でもない、所有でもない非所有でもない、が矛盾はどこにもない、みたいなことを延々と書い て、なんのことはない、なんとか女性特有の魅力をさす概念であるコケティッシュを解明しようとした彼の論文「コケットリー」を僕は思い出した。(『社会学 の根本問題(個人と社会)』に入ってる)

その朝、僕はあるドナー国の大使館で拠出金の交渉の最終段階の打ち合わせをしていた。簡単に言うとお金をもらいに行ったのだ。今、ものすごい財政危機で、 あと何日で100万ドル必要!みたいな計算を毎日やりながら、なんとかやりくりしているのだが、例えば来週までに1000万ドル下さいなんて言って、すん なりくれる国があるわけはない。拠出金の交渉は普通は1年以上前からちゃんとやらないと、それぞれの政府の事情があるわけだし、どうにもならない。

この日訪れた国とはすでに2400万ドルの交渉をやっていて、それがまとまりかけていたのだけど、あまりの金欠に同情して(?)、さらに追加して別予算から300万ドルほど回せる可能性があるという連絡があったので、その話を聞きに行っていたのだった。

こういう時に用意する書類(たいていはProposalと呼ばれている)のフォーマットは国によって異なっているが、そのフォーマットに埋め込まれている 論理構成に大した違いはない。面倒くさいので、細かいことは書かないけど、究極のゴールから個々の活動との間を結ぶ垂直の論理(例えば「桶屋を儲けさせ る」という究極のゴールのために「風を吹かせる」という活動を行うという論理的つながりを示す)と、垂直の論理の各段階を成立させる前提と垂直の論理を横 につなぐ、水平の論理と呼ばれるものを組み合わせてマトリックスを作り、そのマトリックスを一本の線に再構成したもの(すべての文章は線形なので)が フォーマットになっている。

良いproposalは簡単にマトリックスに再構成することができるが、ダメなのは再構成できない。このマトリックスをロジカル・フレームワーク(ログフ レ)と呼ぶのだけど、これは考える過程を補助する道具であって、提示するためのものではない。これをペタッと貼ってあるproposalもあるが、それは 別に飾りと思えばよいとしても、文章の内容を読むとまったくログフレと一致していなかったりして、それでは、わざわざこれは悪いproposalですよと 宣言しているようなものだ。形だけ先行して内容がついていってないということだけど、ありとあらゆるものが形だけで進むことを見慣れている日本人には大し た驚きでもないだろうと思う。いちいち小姑のように他人の作った文書に文句をつけてる時間もないので、見て見ぬふりをして通り過ぎるのだけど、いわゆる専 門家と呼ばれる人たちの文書の中にもそんなわけの分からないのは山とあるので、今勉強中の人や見習い中の人はおじける必要はないと思う。それでも生きてい ける。

しかし、どんなに普遍的に立派な文書を作ったところで、それだけでは現実にはまったく意味がない。個々の政府にはそれぞれの国内事情があり、それに合わせ た文書が必要なのだ。我々のような外部の者と政府の出先機関(外交使節)との間で合意ができた後、それぞれの首都での国内的攻防があるのが普通だ。各国内 部にお金を出そうとしている人(外務省とか)とお金を握り締めている人(財務省とか)がいるのだから、我々としてはいかに前者の援護射撃をうまくするかと いうことを考えないといけない。その朝、僕が訊きに行っていたのはそういう話だった。本国政府の担当者はどういう内容がお好みか、文章はどれくらいつっこ めばいいか、予算の詳細のレベルはどの辺におけばいいか、大雑把なのが好みかシンプルなのが好みか、というような話を15分ほどしたのだった。妥協できな いこちらの論理は維持するが、あとは人格のないライターになり切って徹底的に相手の好みに合わせる文書にする。そうやって、ちまちまとお金を集めているの でした。

そして、最後に彼女が言った言葉が「breakfast meeting で300万ドル。悪くないわね」だった。僕はアハハと笑いながら、立ち上がり、彼女と話をしていた間ずっと背中の暖かさが気になっていたので、うしろを振 り返った。壁はガラス張りになっていた。壁際は端から端までベンチのようになっていて、そこにカラフルなクッションがいくつか置いてある。クッションと クッションの間に鉢植えがポツン、ポツンと並び、明るい日差しがクッションのパステルカラーと鉢植えの緑に当たって反射している。アフガニスタンの砂色の イメージも、政府機関のドブ鼠色のイメージもそこにはなかった。彼女は自分の国をここに作っているのだろうか。もう一度、彼女の方を振り返ると、さっきは は気がつかなかったけど、明るい日差しが彼女の金髪と横顔にあたって光っていた。こういう効果もひょっとして計算に入っているのだろうかと思ったりしなが ら、僕は彼女が自分で作ってくれたお茶のお礼を言って、今後の連絡のために名刺を渡して、彼女の部屋から出た。最後に名刺交換なんて、日本とはまったく逆 だけど、肩書きで仕事をするほどえらい身分ではないので、ちゃんとコミュニケーションさえ成立し、話が進めば、名刺なんてどうでもいいのでした。そんなこ と言ってるから、僕はほとんどいつも名刺を忘れ続けているのだ。

建物の外に出ると、庭の芝生が日差しを反射してまぶしい。あらためて建物をふりかえってみると、とても質素だ。政府機関とは思えない。でも、ある種の趣味 が一貫して主張されているのを感じる。芝の向こうの、外界と敷地を隔てる外壁の方を見ると、外壁より高い外の並木が壁に沿って木陰を作っている・・・。そ れを見て、やっと気がついた。外交使節の建物にはお決まりの巨大な土嚢をここは積み上げてないではないか。軽い衝撃を門番のアフガン人にばれないように胸 の中に隠して、僕は敷地の外に出た。すぐに外壁に沿う並木を見てみた。やっぱり巨大土嚢の山はない。良い趣味という言葉を今朝はなんども頭の中で使ってい たが、これは趣味ではなく哲学ではないか。哲学のある国か。日本の哲学なんてことを考えると憂鬱になるので、それを頭の中から振り払った。迎えの車はまだ 来ていない。涼しい木陰の下で外壁にもたれて、タバコに火をつけた。地面には葉の形がくっきりとした影になって写っていた。葉と葉の間は砂がまぶしく光っ ている。今朝のほんの30分くらいの出来事を頭の中で僕はもう一度リプレイする。そして、そうだ、ジンメルではなく、アーウィン・ショーだ、彼の文体をま ねて、短編を書いてみたいとふと思った。

Monday, May 08, 2006

Quixotic な、あまりにQuixotic な

「これはドン・キホーテ的営みではないだろうか」という一節が締め切りを5日遅れて昨日やっと送った「フォーサイト」の原稿の中にあるのだけど、またも怒 涛の一日から帰ってベッドに仰向けに横たわって、白い壁に両足の裏をつけて足と壁とベッドの直角三角形を作って、ぼんやりと天井を見ていたら、ふと「ド ン・キホーテ的」っていうのは日本語として意味が通じないのではないかということに気がついた。書いている時は、ただまったくもう Quixotic だなあという気分を日本語に翻訳したつもりだったのだけど、アルファベットをカタカナにしただけで翻訳になっていないではないか。

でも、日本語にすると何が当てはまるのだろうかと考えても何も出てこない。電子辞書に入っている「ジーニアス英和大辞典」を見てみると、

1.[時に Q~]ドン・キホーテ式の。
2.空想的な、紳士気取りの、幻想的な、現実離れした。
3.衝撃的な。

となっているが、どれもぴったしこない。「空想的な」と「現実離れした」が近そうだけど、「空想する」という行為が前面に出てしまうと、それさえ気づかな いトンチンカンさの味が出てこないし、「現実離れ」にすると、現実との距離の大小が問題なのではなく、現実との絶対的絶縁が問題なので quixotic の本質からずれてしまう。辞書を作る人に quixotic な気分は似合わないからしょうがないかもしれない。ついでに同じ電子辞書に入っている「Oxford Advanced Learner's Dictionary」も見てみると、

「having or involving imaginative ideas or plans that are usually not practical」

と書いてある。言語間で単語を一対一対応させないと気がすまないらしい辞書よりは親切だと思うけど、こうやってきっちり定義的に書かれてしまうと、やはり 漏れるものも出てくる。理想的なのは、現実に使われているケースを100個くらい列挙して、辞書を引いた人に体得してもらう(感得か)ことだろうけど、そ うなると辞書が分厚く成りすぎる。しかし、電子辞書なら分厚くならないのだから、もう辞書の成り立ち方を根本的に変えてしまっても良さそうな気もする。 IT会社の若い社長が辞書業界に殴り込みをかけて、単語を定義せず、感じさせるだけの電子辞書を作って老舗の辞書編纂会社を蹴散らしていただきたいもの だ。

* + $ X  ¥

20代半ばの頃のことだから、20年以上前のことだけど、大阪のミナミにQuixotic Bar というバーがあった。御堂筋の西側の、つまり貧乏臭い方の(東側には心斎橋筋が通っていてそのまた東側にはおしゃれな、というかバブリーなお店が当時は次 々出来ていた)、汚いビルの地下に幅1.5メートルくらいの通路が通っていて、その両側にみっちりと小さなお店が並んでいた。いつも臭くて、じっとりと 湿っていて、照明はたいてい半分くらいは切れているような薄暗い通路で、こんなところにわざわざ飲みに来る奴はどんな人間なのだとよく思ったものだが、ど うも自分のことを振り返る余裕はなかったようだ。Quixotic Bar は開店するのが午前二時くらいなので、当然その頃にはもう泥酔しているわけで、まともな思考力が撲滅した後でしか Quixotic Bar には行ったことはなかったはずだ。

Quixotic Bar の中は通路よりもさらに暗く、目がなれるまでは深海の洞窟に潜む盲ウナギの気分を味わうことができる。と書けば、完璧な静寂を思い浮かべてしまうかもしれ ないが、実際は爆音なのか音楽なのか分からないような大音響で60年代から70年代初期のロックやブルースがうなりまくっていた。例えば、Allman Brothers とか Grateful Dead とか。たぶん6畳くらいしかない店内に小さなテーブルが二つあり、壁際にワンルーム・マンションのキッチンのように小さなバーがへばり付いていた。いった いどうやってみんなこの場所を嗅ぎつけてやってきたのか分からないが、Quixotic Bar には常にびっしりと人が入っていた。この爆音の中で、まだ会話をしようとするバカ者も当然少数はいたが、ほとんどは声を出すことを諦めて、ただ暗黒と爆音 の中で沈黙して、グラスを握り締め、泥酔の身体に鞭打ってゆれながら突っ立っていた。目の前にどれだけ人がいようが、お互いに会話することを諦めているの だから、他人の存在は礼を失することなく無視できる。今から思えば、この爆音の中でのみ得られる静寂が人を寄せ集めていたのかもしれない。時代はまだ、ひ きこもりという手を発見していなかったのだ。

* + $ X  ¥

先週、ゲストハウスのキッチンでグリーンアスパラガスとサーモンのスパゲティを作っていたら、いつものようにひょっこりとユワン・マクロードが現れた。 ジュネーヴが拠点なのだが、2、3ヶ月に一回カブールにやってくる。いつも1週間くらいしか滞在しないが、その間に一晩くらいはかなりみっちりと話し込む のが慣例になっている。スパゲティを食べた後、今回も庭に旧ソ連人(アゼルバイジャン人)のニアジのウォッカを勝手に一本冷蔵庫から持ってきて1時くらい まで、いろんな話をした。ユワンは今や希少化する一方の大英帝国的・古典的知識人であるので話したいことはいくらでも出てくる。それに、現在のアフガニス タンのバカ騒ぎが始まる以前の艱難辛苦を共有していること、自分の国籍とは違う人と結婚し、子供の年齢が近いこと、かつてイギリスのライバル校に在籍した こと、などの理由でユワンと話し出したら、ネタはつきない。ただ、話を続ければ続けるほど、この世界を思春期の青年のように憂い、お互いに抑うつ的な状況 にはまり込みがちなのだが、別に眉間に皺を寄せて深刻な顔で話しているわけでもない。話は常にジョークで次へ移る。

「結局、」と言って彼はちょっと間を置き、「僕は、the best part of the last 200 years を過ごしたのだから、ハッハッハ」と彼はよく話を締める。彼は青春を60年代に過ごしたということを言っているのだ。一番おいしいところを取ったのだか ら、今、何がどうであろうと、それがどうした、ハッハッハ、というわけだ。それを聞くたびに、彼の勝ち誇った顔を見て、僕は負け惜しみ笑いで顔を醜く歪ま せ、もだえ苦しむしかないではないか。Quixotic Bar には、過去200年間で一番おいしいところの残りカスがあったもん、なんて口が裂けても言えない。

ユアンの経験と知識と考察を世間で共有できたらいいのにと僕はいつも思いながら、最終的には酔っ払って何が何だか分からなくなって、具体的な話になったこ とはなかったが、今回は、彼が9月にケンブリッジ大学でする講演原稿を僕が翻訳して日本界にデビューするということ、そして日本のどっかの大学で彼の講演 をする、という二大決議をしたのであった。これは是非とも実現したいものだ。決議一はともかく、決議二は僕が大学を探してこないといけない。大学の講堂な んてしょぼいので、今度帰国したらサトーセンセに東京ドームで彼の講演を企画する気はないかきいてみよう。


モスクの改修工事。あんな足場でええんか?労災なんてないんだろうな・・・

Saturday, April 01, 2006

カディマ

カディマが大方の予想通りか、それ以上の議席を獲得したなあ。イラク内戦とか、イランの核開発とか、対テロ世界戦争(GWOT)とか全部、「ハマスとカ ディマの時代にどう対応するか」をちゃんと考えないと対処できないはずだと思う。だから、アメリカもイギリスもこれまでの姿勢を堅持するそぶりを見せなが ら、どうも煮えきれない態度に見えるのは僕だけ?文脈が変わってしまったのだから、それぞれの政府内部でどう対応するのが一番得するのかを今一生懸命考え ているんだろうと思う。

日本はハマスとカディマの時代にどう対応するか?って当然思うけど、昨日着いたバンコクのホテルで日本の新聞を久しぶりに読んだら、一、二、三面の主要ニュースは偽メール問題だった。「蚊帳の外」感は否めない。

Wednesday, March 29, 2006

しんど。

帰国したら、家で使ってるルーターが潰れていた。いつも使ってるノートPCが終了しなくなった。下の子が熱を出した。それに続いて、上の子も、そして僕も 熱が出てきて寝込んでしまった。三日間ほとんどずっと寝ていた。1週間もふらふらしていた。すべての予定はホゴになった。何をしに帰ってきたのやら。明後 日、出国する。

Monday, March 13, 2006

思いやり煙草

あ~煙草は身体に悪いなあ・・・。ほら、こんなに(↓)。
ってここまでやられると、ひょっとして本気で止めさせたいの?って疑いも少しわいてくるかもしれない。日本よりもタイの政府の方が思いやりが深いんですかね。

気がつくと、Bed in Bangkok

11日にカブールからイスラマバードへ、その日の日付が変わる頃にイスラマバードからバンコクへ来た、のだが、相変わらず直直直直直直直直直前まで仕事ま みれのただれた生活で、いつ寝ていつ起きたかもよく分からないうちに、ふと目が覚めると、ふとんの中にも入らずバンコクのホテルのベッドの上に倒れたまま 眠っていたらしい。時計を見ると、12日の午後11時過ぎだった。過去36時間くらいの経過がようわからんなあ。いろんな情景の写真をバラバラに投げたし たような記憶の残り方。
(↑)この上にそのまま寝ていた。

11日の午前中に会議があった。中心であるべき人がちっとも肝心なことにフォーカスせず、どうでもいいことをだらだらと話し続けてイラつく。なんど話を元 に引き戻しても、この人はすぐに余計なことに頭が行くらしい。そして、何が重要なことで何が枝葉末節なのかが判断できない、全体が見えない、プライオリ ティがつけられない。ちらっと、アミールとミゲナの顔を見たが、二人ともうんざりという表情をもう隠そうともしていなかった。

会議の後、自分の部屋に向かいながら、あれは性格のせいなのか、あるいは精神の病なのか、なんなのだろうと、僕がつぶやいていると、ミゲナが頭を指さし て、ここが悪い、と小さい声で言っている。単なるバカでもなんでもいいけど、問題はそういう人を重要なポジションにつけてしまう国連という制度だよなあ。

コフィ・アナンの国連改革案を相談もなしに発表したと言って、国連職員が騒いでるけど、ほんと国連って、バカのふきだまりですかぁ?問題はあんた達だっ て。あんた達に見せてもちっとも結論でないでしょうが。だから、あんた達に見せてもしょうがないの、ねっ、みんなあんた達に辞めて欲しいんだってわからん ないの?

もう、全職員のろくでもない9割をクビにして、残った優秀な1割と、あと新しく1割優秀な人を雇って、その2割の人に給料を今の5倍払っても、同じ規模の支出で、国連の仕事も少しはましになるだろうに。

その後、引継のミーティングをしなければいけなかったけど、イスラマバードまでのチケットが見つからず、いったんゲストハウスに帰った。チケットは二日前 に路上の少女から買った新聞の中にはさまっていた。ゲストハウスにはブータン人のソナムとカルチュンがいたので、冷蔵庫の中にあるものは全部食べていいと 言い残して、オフィスに戻った。
(↑)カブールの新聞売りの少女

前日は例のごとく、ほとんど眠れず、頭の中に靄がはったままだけど、話をすればするほど、何もかもあちこちで、つまりアホbureaucracyでペン ディングだらけで、3週間経って戻ってきても何も動いていないだろうとしか思えない。思いっきり非現実的なデッドラインに合わせて、結果的にカブールレベ ルでは何もかも非現実的にやり終えたというのに、ほんとバカバカしい。アミールとミゲナも、もうそれだけで、既にヘトヘトなのに、この後、ものすごくフラ ストレーションな時間を過ごすことになるだろう。いはやは気の毒。

イスラマバードの空港に着くと、いつも使う旅行代理店のムスタファがイスラマバードから先のチケットを持って待っていた。空港のレストランへ行って、チ ケット代を払ったら、残りのお金は35ドルになってしまった。いっつも忙しくて、去年の8月から清算を一つもしていないので、現金が全然ないのだ。清算せ ずにたまっているお金はもう1万ドルは超えてるだろう。しかも、オフィスが僕に前払いするべき現金を用意するのを(いつものように)忘れたと経理のアホは 出発直前に言いに来るし。バンコクに着けばATMが使えるので問題はないからどうでもいいんだけど、他の国だったらどうするんだろう、と考えると同じよう なことがウガンダに帰るウチェンナにも、アルバニアに帰るミゲナにも起こったのを思い出した。出発直前にオフィスに現金がないといつものように経理のアホ に言われて、二人とも立ち往生したのだ。普通、ドバイに到着したらそこで予め旅行代理店に頼んでおいたチケットを受け取って、現金で払って、旅を続けると いうことになる。二人ともそのお金がなかったのだ。その時は、みんなから現金をかき集めてなんとか出て行った。

イスラマバードのトランジットは7時間あるので、どこかにチェックインして少し寝ようかと思ったけど、7時間というのは実に中途半端だ。市内との往復、ホ テルのチェックイン・チェックアウトの時間をトータルすると2時間はなくなるだろう。それにフライトのためのチェックインは3時間前とほざいているから、 正味ベッドで横になれる時間は2時間ということになる。それだけのために動くのもしんどいので、僕はそのままレストランで出発3時間前まで仕事の続きをす ることにした。実際、仕事をし始めると3時間はあっという間だった。チェックインしてラウンジに行って靴と靴下を脱いでソファーに横になったら1時間ほど 眠ったようだ。

搭乗すると一番前の席で、うれしいことに隣は空席だった。また靴と靴下を脱いで食事が終わったら寝ることにした。機内で「AEON FLUX」を上映中していた。シャーリーズ・セロンが好きなので、うつらうつらしながらも、ちらちらとその映画を見ていたがいつのまにか眠っていた。

なんかざわざわする物音で目が覚めた。どうやら着陸前にもう一度軽食が出て、それを片付けているようだ。もう飛行機は下降中であれよあれよという間に着陸。ずっと寝ていたので移動した気分がない。

空港に向かえの車が来ていなかったので、タクシーに乗ってホテルに向かった。今回はホテルを変えた。かつて何年間かバンコクに来るたびに泊まり続けていた ホテルが一つあった。エントランスが明るい、従業員がふてぶてしくない、インテリアのセンスが落ち着いている、とか好きだった理由はいろいろあげることは できるけど、今考えると、マネージメントが良かったという一言に尽きると思う。

ところがそのホテルが何年か前に巨大資本に吸収されてしまったのだ。別に経営者が誰であろうとホテル自体が代るわけでないのだから、いいではないかと思っ て、その後一度、名前の変わったそのホテルに泊まって、僕はびっくりした。建物もインテリアも何もかも同じ、そしておそらくほとんどの従業員も同じなの に、何かが違うのだ。なんか感じ悪くなってる。失望したなあ。組織におけるトップの影響というのは、こうやって全体にじわっと浸透するのだと思ったもの だ。

それ以来、バンコクではいろんなホテルを泊まり歩いてるけど、最近少し気に入ったホテルが見つかったので、何度か同じところを続けていた。でも、かつての あのホテルのような、ぴったり趣味にあった感はなかったので、別にそこに拘りはなかった。前回来た時に、あのお気に入りホテルが場所を変えて、おそらく違 う資本も入って、またオープンしていたこを知ったので、今回はそこを予約したのだった。今のところはなかなか気に入っている。ものすごく豪華絢爛金ぴかぴ んでなく、エントランスは明るいけど、落ち着いているという点では同じ哲学を継承しているように見える。インテリアも趣味はいいが、お金かけまくって圧倒 するというタイプではない。三日泊まってみればもっと分かるだろう。

夜中にルームサービスで最初のまともな食事をした。肉は食べたくない気分なので、スープとサラダとライス。バンコクのホテルではほとんどいつも同じものを頼んでいるなあ。
(↑)シーザーサラダ、トム・ヤム・クン、カオ・パッド・クン

Sunday, March 05, 2006

更新

2月24日分を更新した。

Saturday, March 04, 2006

再開の兆し

予定を死守して(自分で立てたのでしょうがない)、2月28日に今年度予算をNYに送った。その次の予定は放心状態になってみて、それからアミールと二人 で飲み倒して、2ヶ月休みをとって(ふりをして)、アミールはガールフレンドと二人で南の島へ行って、僕は日本に帰って、二人とももう永久にカブールに 戻ってこない、ということだったが、放心する間もなく、NYからパニックメールとパニックコールの嵐で、どもこもいかん。NYの人もかわいそうなもんだ。 2月に赴任したばかりで、右も左も分からないうちに、いきなり百枚を越えるエクセルシートに何千項目もびっちりつまった、4000万ドルの予算請求を投げ つけられたら、常人なら受け取った瞬間に嘔吐すると思う。と、僕もアミールもミゲナも思っていたけど、仕事だからしょうがない。助けてあげたいけど、こっ ちでできることも限られてるしなあ。ひひ。

なんかいろんな問題があっちこっちで起こってるのは気づいていたけど、いちいち全部に関わっていて、新年度予算の成立が遅れたりすると細かい問題を解決す るどころの話じゃなくなるので、できるかぎり無視していた。今、ふと周りを見渡すと、ひどいなあと思うこと多し。もう何から手をつけたらいいんだろう?自 分の仕事じゃないと言って、通り過ぎるのが最善策かもしれないけど、ほっとくとやがてとばっちりがやってくるのは目に見えてるしなあ。それにしても、僕の 休暇予定日はとっくに過ぎている。延長も9週間が限界になってるので、来週末にはどうしても出国するはめになる。ひひ。

ふと周りというか、自分の部屋を見渡すと、とっちらかってるなあ。片付けるということを全然しなかったからなあ。休暇から帰ってきたら、やろうかなと思うが、やらないかも。
使用前(↑)
使用後(↓)

Friday, February 24, 2006

去る人たち(2)

シーラとイグナシオが去っていく、というので、今日はグリーンハウスというゲストハウスのバーでお別れ会でした。
前日、究極の疲労を見かねたミゲナがホームメードのラキアをふるまってくれて、案の定一本全部飲んでしまい泥酔した後だったので、今日は一日中ひどい下痢で、もう全然飲む気になれなかったけど、一応行ってみた。
4時開始だったけど、4時半くらいに着くと、エリックはいつものようにほぼ完全にできあがっていた。昨日飲むのをがまんしてジムに行ったアミールは今日は5時半には別世界の人になっていた。シーラはニュージーランドの軍隊にいたので、お客さんは元・現軍人さんが多かった。
なんか酔っ払いの話を書くのもめんどくさいので今回は写真特集。




























































Sunday, February 12, 2006

カタカタ

エアロスミスの "Fly Away From Here" を何度も聞いているうちに嫌でも歌のフレーズが断片的に頭の中に沈殿してくる。最初はほとんど意味のないウワ~ェイワゥ~オィなんて音が、単なる音からだ んだん意味のある音にかわってくる。音の一片が意味に変わると、その前後の断片も流れで意味化してくる。

そして、全貌が見え始めたら、いろんな日本語の単語が浮かび始める。意味をなすことと日本語の単語が浮上してくることは異なった次元の出来事なのだ。

「I have a pen.」は日本の義務教育を終えた人なら誰でもパッと意味が分かるだろうと思う。でも、いざ一通りの日本語を当てはめるとなると、これが至難の業だ。

「私はペンを持っています」
「わたし、ペンを一本持ってるの」
「ぼくちん、ペンあるもんねぇ~」
「ペンはあるって!」
・・・
いくらでも訳しようはある。あるいは、「I have a pen.」の住む環境がすべて分からないと日本語にしようがないとも言える。

スティーヴン・タイラーが日本語を喋ったとしたら、やっぱり自分のことは「オレ」って言わないといけないような気がする。でも、"Fly Away From Here"の全貌が見えてくると、どうも70年代の日本のフォークソングの臭いが出てくる。「人間なんて、らら~らららら~ら」とか、「あのぉ~素晴ぁ~ らしき愛を」とか、そんな臭い。全然ロックっぽくなくてエアロスミス・ファンが聞けば激怒するかもしれないけど、でもこの歌詞はそういう臭いなんだなあ。

エルトン・ジョンの「Your Song(僕の歌は君の歌)」だって、よく聞けば、日本で言うと「神田川」の抒情に近いものがある、っていつか書いたような気がする。ただ向うは「屋根の 上にすわって苔を足でけったりしながら、今はお金ないけど、お金持ちになったら二人で住める大きな家を買おうね、とか僕の贈り物はこの歌」なんて言って て、かたや日本では「二人で行った横丁の風呂屋を「一緒に出ようね」って言って、でもいつも私が待たされ、洗い髪が芯まで冷えて小さな石鹸カタカタ鳴っ て、貴方は私の身体(カラダ)を抱いて「冷たいね」って言う」という違いはあるけど、よくよく考えれば、スタイルが違うだけで「貧乏だけど頑張るんだ」 みたいな70年代の若者の抒情歌っていう点ではほとんど変わらないのではないかと思う。エルトン・ジョンとかぐや姫のどっちのファンも怒ると思うけど。

というわけで、エアロスミスの"Fly Away From Here" から頭の中に落ちてきた日本語を歌詞ちょうどに当てはめてみた(↓)。なんか歌詞だけ見ると、やっぱり白いフォークギター持って貧乏そうな長髪の若者が 歌っててもおかしくない感じしない?「史上最強ヘヴィメタ・ロッカー、夢と希望を歌う!」みたいな。

でも、いい曲ですね。"fly away" のしつこいリフは100%売れないと困るバンドならではのものだし、それでも飽きないように、スティーヴンさんも歌に何度もこまかなタメを入れる工夫して ("gotta do what it takes"とか"and any time you want"とか"we won't let nothin'or no one keep gettin' us down")、かつ曲そのものにギアチェンジも頻繁に入って("won't let time pass us by"とか、"if this life gets any harder now"とか、"do you see a bluer sky now?"とか)、プロが一所懸命考えてほぼ完璧になるまで練りつくした感に打たれる。どんな仕事でもそこまでやられるといいものだ。きっといいかげん感 が出る仕事はすべての分野でクズなんだろうな。

昨夜、Cさんの追悼の集まりに行った。彼が好きだった「スコットランドの花」をみんなが合唱して、涙が暴発した。ベイリースと焼酎を交互に飲んでると元気 になってきた。結局、二件はしごして(呼ばれもしてないパーティに勝手に行って)明け方に洗面所で吐いた。今朝、今年一番重要な会議でプレゼンをすること になっていた。昨夜の煙草の吸いすぎで声を出すのが苦しかった。資料とパワポのスライドは作ってあったが、話の手順を決めていなかった。ぶっつけ本番でし ばしば何を言ってるのか分からなくなった。もう悲惨。みんな分かっただろうか。大事な時の二日酔いというのは一生ついて回るような気がする。


『ここから跳びだそう』(Fly Away From Here)

なんとかしないと。(gotta find a way)
ああ、もう一日も待てない。(yeah, i can't wait another day)
何にも変わらないじゃないか。(ain't nothin' gonna change)
こんなところでぐずぐずしていたら。(if we stay 'round here)
どんなことをしても、なんとかしなきゃ。(gotta do what it takes)
すべては僕たちしだい、それに(cuz it's all in our hands)
間違いなんてみんなするんだし。(we all make mistakes)
でも、遅過ぎるなんてことは絶対にない。(yeah, but it's never too late)
やり直すんだ、一休みして。(to start again, take another breath)
そして、祈ろう。(and say another prayer)

そして、ここから飛び出すんだ。(and fly away from here)
どこかへ、そう、どこだっていい。(anywhere, yeah, i don't care)
ただ、ここからとびだすんだ。(we'll just fly away from here)
僕たちの希望と夢は、(our hopes and dreams are)
むこうのどこかにある。(out there somewhere)
もう時間はむだにしない。(won't let time pass us by)
僕たちはとぶんだ。(we'll just fly)

もし、人生がもっとつらくなったら、(if this life gets any harder now)
いや、ならない、心配することはない。(it ain't, no, never mind)
君が僕のそばにいてくれるんだから。(you got me by your side)
君が好きな時にいつでも(and any time you want)
列車にとびのり、(yeah, we can catch a train and)
もっといいところをさがせばいいんだ。(find a better place)
そう、僕たちは何があっても負けない、(yeah, cuz we won't let nothin')
誰にも邪魔させない(or no one keep gettin' us down)
君と僕なら(maybe you and i)
荷物をバッグにつめて、(can pack our bags )
あの空へ向かうことだってできる。(and hit the sky)

そしてここからとびだすんだ。(and fly away from here)
どこかへ、そう、どこだっていい。(anywhere, yeah i don't care)
ただ、ここからとびだすんだ。(we'll just fly away from here)
僕たちの希望と夢は、(our hopes and dreams are)
むこうのどこかにある。(out there somewhere)
もう時間はむだにしたりしない。(won't let time pass us by)
僕たちはとぶんだ。(we'll just fly)

前よりもずっと青いあの空がみえる?(do you see a bluer sky now?)
君はやっとましな人生を手に入れたんだ。(you can have a better life now)
目をあけて。(open your eyes)
ここには僕たちを止める人はもういないんだから、(cuz no one here can ever stop us)
試してみればいいさ、でも、止めさせない。(they can try but we won't let them)
絶対に。(no way)
君と僕なら(maybe you and i)
荷物をバッグにつめて(can pack our bags)
さよならを言えばいいだけのこと。(and say goodbye)

そして、ここからとびだすんだ。(and fly away from here)
どこかへ、ハニー、どこだっていい。(anywhere, honey, i don't care)
ただ、ここからとびだすんだ。(we'll just fly away from here)
僕たちの希望と夢は、(our hopes and dreams)
むこうのどこかにある。(are out there somewhere)
ここからとびだそう。(fly away from here)
そう、どこかへ、ハニー。(yeah anywhere honey)
どこだって、どこだって、どこだっていいんだ。(i don't i don't i don't care)
とにかくとびだそう・・・(we'll just fly...)

Thursday, February 09, 2006

Fly Away From Here

同僚のCさんが死んだ。
今日はオフィスに来なかった。
昨日Cさんのお父さんが亡くなって、昨夜はお酒を飲んで荒れていたそうだ。
僕は何にも知らなかった。

ほんの少しの間だけ、世界のすべてが白一色になって、完全な静寂がやってこないだろうか、そうすれば、仕事に没頭できるのに、などと思いながら、思い返せば、僕は完全に仕事だけにのめりこんでいた。

Cさんに飲みに行こうと誘われても一度も行ったことがなかった。
なぜ行かなかったんだろう?
ただ忙しかったのか、疲れすぎていたのか。
というよりも、誰に誘われても僕は飲みになど行かなかったのだった。
最近アミールと飲み始めるまでは。

一度だけCさんが飲んでいる姿を見たことがある。
なんかのちょっとオフィシャルなディナーがレストランであった時だと思う。
Cさんはビールを三缶ずつ注文していた。
すぐになくなるから、面倒くさいということだった。
120キロの大きな身体がビールの缶をつかむと、缶がとても小さく見えたのを覚えてる。

今回の仕事の津波はかなり凄まじい。
一年間他人の落としていった糞の掃除をするのにてんてこまいしたような気分だったけど、僕は、根本的に糞が出ないようなシステムに変えたくてしかたない。
所長には失敗する確立の方がはるかに高いと言ってある。
たぶん僕は失敗するでしょう、ハハハっと。
でも、最悪で現状なのだから、何もしないよりましなのだ、
と僕とアミールは思っている。
糞まみれで平気な人が多いこの業界で、
Cさんはそういうことが分かる数少ない人だった。

明日から三連休だ。ここでなんとか追いつけるかもしれない。

エアロスミスの "Fly Away From Here" をきくことにした。

gotta find a way
yeah, i can't wait another day
ain't nothin' gonna change
if we stay 'round here
gotta do what it takes
cuz it's all in our hands
we all make mistakes
yeah, but it's never too late
to start again, take another breath
and say another prayer
and fly away from here
anywhere, yeah, i don't care
we'll just fly away from here
our hopes and dreams are
out there somewhere
won't let time pass us by
we'll just fly
if this life gets any harder now
it ain't ,no, never mind
you got me by your side
and any time you want
yeah, we can catch a train and
find a better place
yeah, cuz we won't let nothin'
or no one keep gettin' us down
maybe you and i
can pack our bags and hit the sky
and fly away from here
anywhere, yeah i don't care
we'll just fly away from here
our hopes and dreams are out there somewhere
won't let time pass us by
we'll just fly
do you see a bluer sky now?
you can have a better life now
open your eyes
cuz no one here can ever stop us
they can try but we won't let them
no way
maybe you and i
can pack our bags and say goodbye
and fly away from here
anywhere, honey, i don't care
we'll just fly away from here
our hopes and dreams are out there somewhere
fly away from here
yeah anywhere honey
i don't i don't i don't care
we'll just fly...

やっぱり悲しいなあ・・・。

Wednesday, February 08, 2006

うざっ!

まだ日曜日の夜頃は、デンマーク紙の漫画に対する怒りで荒れるレバノンの映像をテレビを見ながら、アフガニスタンはデモしないなあ、なんでかなあ、なんて のんきなことを考えていた。気がつかなかったけど、月曜日にはすでにアフガニスタンでも始まっていた。火曜日はもう全国津々浦々めちゃくちゃになってい た。

昨日、余所の事務所で会議をしていた時に、外の道路をデモが通過したらしく(その時は会議自体が紛糾していて、出席者一同の怒鳴り散らす声があまりにうる さくて、外の音が聞こえなかった)、デモが通過し終わった頃に、外に止めてあった車二台がボコボコにされたよっと警備の人が言いに来た。

そうこうするうちに"Break ! Break ! Break !" (セキュリティの情報だから、ちょっとみんな聞いてくださいというアナウンス)が無線から流れてきて、「White City(移動禁止)」という連絡が入ってきた。会議は終わったけど、そこから動けないし、なんかちょっとお腹すいたかもぉ、ランチなかったしなぁ、今日 は帰れないかもしれないなぁ、ピザが食べたいなぁっとか、小さい声で口走っていると、機転の利く人がそこの事務所にもいて、ピザの出前を10人前注文して くれた。

天気が良くてその事務所の庭の芝生の前で座っていると眠くなってきた。クソ忙しい時になんという時間の無駄と思いつつ、もうどうでもいいかという思いにも なる。何を考えてもどうしようもないのだから、しょうがない。セキュリティの親分みたいな人に一応電話して、その事務所に待機中の人の名前を連絡しておい た。探し回ると鬱陶しいので。

1時間ほど待ったがピザが来ない。その間に何度もちょっとヒステリックな電話がかかってくる。僕が電話した人とは別の人から、そこに何人いるかきく電話。 10分後にまたそこにいるスタッフの名前をきく電話。内部で横の連絡がな~んにもなくて、一回に一つずつしか質問が思いつかないバカさかげんが相変わらず 国連らしい。「今からNYに連絡するから」、「移動禁止が解除されたら車を送るから動くな」、「今どうなってる?」他にすることないのかね。すべて最初の 一回の電話で確認済みでしょ。せっかくすがすがしい快晴の空の下でみんなで楽しく日向ぼっこを楽しんでいたのに、貴重な時間を台無しにしてくれるわ。

やっとピザが来た頃に、移動禁止も解除になって向かえの車もやってきた。ピザがもったいないので、そこの事務所の人にお礼を言って、4枚せしめてきた。自 分の事務所に戻って荷物を取って全員帰宅、ということになっていたので、自分の部屋に行くが、ピザを食べながらPCをバッグに入れようとしている間に、別 々の人4人が同じことを言いに来る。

「荷物をもって帰宅するように」「ピザ食べる?」
「荷物をもって帰宅するように」「ピザ食べる?」
「荷物をもって帰宅するように」「ピザ食べる?」
「荷物をもって帰宅するように」「ピザ食べる?」

という同じやり取りを四回繰り返す。
うるさいよなあ、ホントに。もうみんんな事務所に戻ってくる前から知ってるって。そうやって邪魔するからなかなかパッキングが進まないでしょ。

やっと車に乗ったら、いっしょに乗った所長が、A はどうした?B はどうした?C はどうした?どうした?どうした?どうした?と訊き始める。知らないよ。もうすでに同じ質問を他の人から二回聞いていた。そんなことするためにセキュリ ティ・オフィサーがいるのだから、どうしてその人に任せないのだろう。

所長はまた車から降りて、他の人を探しに行った。パーキングでは、S がA はどこ?T がB どこ?U がC はどこ?と言いながら、ちょろちょろして、S、T、Uが消えたらら、A、B、Cが現れてA がU はどこ?B がT はどこ?A はS がどこ?なんてお互いに聞きあってる。なんなんだろう、この風景は?まるで誰かが演出している映画みたいにアホまるだし。そうやって、みんなが同じことし ようとするから、なにもかも二倍も三倍も四倍も時間がかかるんでしょ。車の中でぼんやりと所長が戻ってくるのを待っているとアミールがぽつんと「ここは幼 稚園か」と言った。

Saturday, February 04, 2006

忙殺月間

忙殺月間突入につき、しばらく更新しないと思います。たぶん。
メールの返信は2ヶ月遅れくらいで追いつく決意です。
足フェチさん用の写真もそのうちアップする予定です。変なリクエストは結構好きなんで。

Friday, January 27, 2006

By all odds

僕のプライベートGoogle 一面に設定しているNewyork Times, Washington Post, Reuter のトップニュースはすべてハマス大勝利。
ヨーロッパ各国の新聞紙一面はすべてハマス大勝利、と自分の部屋のテレビで見れる唯一のニュース番組、EuroNews は伝えている。
リヴィング・ルームのテレビでやってるBBC では現地からの生中継と世界のハマス大勝利衝撃を伝えるニュースがほとんどの時間を占拠し、他のニュースはその間にちょこちょこっと詰め込まれている。

しかし「驚きのハマス大勝利」なんて口走っている人がいるのはそれこそ驚き。予測が当たったと自慢したいわけでなくて、今回はハマスが勝つなんて『フォー サイト』をちゃんと読んでいる人なら、そりゃそうでしょと思っただろうくらい、まるみえに近かった。『Playboy』の読者でも、 『Economist』の読者でも、『月刊PC 』の読者でもきっと同じように思っていたんじゃないの。つまり、世界中のいろんな出来事がハマスが勝つしかないでしょってことを天気予報のように指示して いた。

あらゆる指標が明日はハリケーンだと言っているのに、いざ来襲すると驚いてしまう代表格は、ブッシュだろう。

「選挙はぁ、えーっと民主主義でぇ、民主主義はぁ、選挙でぇ、ハマスはえーっと選挙で勝ってぇ、だからぁ、前も言ったけどぉ、民主主義は好きなんだけ どぉ、えーっとハマスはぁ、民主主義?あれっ?で、でもぉ、ハマスはいけなくてぇ、えーっと、なんちゅうかぁ、選挙は良かったなぁ、だけどぉ、武力行使を 非難しないとぉ、ハマスはダメでぇ、でもぉ、ハマスは選挙で勝ったんだっけ?えーっと、イスラエルを潰すなんて言っちゃダメっ!でぇ、でもぉ、選挙は民主 主義でぇ・・・ハマハマハマハマハマスススススはぁ・・・」

何をわけのわからんこと言っているのだろう、このひょっとこは?この会見がBBCでもEuroNews でも何度も何度も流されたのは、BBC とEuroNews が密かに意地悪を楽しんでいたからではないかと思えてしまうくらい、まぬけ面全開だった。Fox News なら放映禁止じゃないの?大統領のなんとか顧問達もアメリカ一般市民も情けなくて嗚咽にまみれていたかもしれない。

義務教育で学級委員選挙を通して、選挙とミス・コンテストを徹底的に混同させるような国の文脈では、選挙と民主主義の切っても切れない、でも切れっぱなし の関係なんて見ないふりをして済ませられるのだろうけど、欧米のほとんどはいよいよ恥部まるだし、というかダブル・スタンダード暴露状態で、ブッシュほど バカ正直に混乱しないとしても、やはり筋の通らない話をせざるを得なくなっている。EuroNews を見ていると、歯切れ悪い大賞をブッシュが取るとは限らなさそうだ。

「民主主義、最高って言ったじゃない?選挙すれば民主主義だって言ったじゃない?選挙やったじゃない?で、アタシ、勝ったの。でも、まだ嫌いなの?何よ、 それ、キャーッ!」って詰め寄られる欧米先進諸国の図。何をしようがとにかくアンタは嫌いなのってことを隠し通すためには、別の言い訳をもってこなくては ならない。テロリストだからなんて言ったって、どっちもどっちのことをやってしまった今となっては全然説得力なし。そもそも武力行使そのものを形而上学的 に非難できる国家は、今やブータンとか南海の孤島国家くらいでしょ。

タリバンの教訓を学んでいたら、ハマス政権をここで滅多打ちにするのは誰の得策にもならないことは分かるはずなのだが、全然学んだ気配はないし、暗い予感がする。窮鼠猫、噛みたおすし。

こんな時にシャロンが倒れてしまって舞台に出てこれないのはほんとに残念だ。シャロンの新党がイスラエルの選挙で勝てばまだ希望は繋がるが、それでも党と いうよりも、シャロンという個人を歴史が必要としているような気がしてならない。シャロンが倒れたのは誰かに仕組まれた結果なんて話が後で出てきそうな気 もするくらい残念。

自爆ではなく選挙によるハマスの政権奪取と、シャロンの右翼政権放棄・新党結成という組み合わせは、クレオパトラがシーザーの子供を身ごもる以上に大きな 歴史的事件になったはずだ。ハマスの綱領がイスラエルの存在を認めないと言っても、互いに相手をDelete できない現実にもうここまで嵌っている以上、倒れる直前のシャロンの姿勢を見る限り、彼なら現時的打開策を追求しただろうと思う。ハマスだっていずれシー ザーがルビコン川を渡るくらいの決心をせざるを得なくなっただろう。

しかし、シャロンなきイスラエルではそんな話にもならない可能性大だ。それに便乗して、ファタハが国内事情というか占領地内事情だけで動いてハマスの足を ひっぱったりすれば目も当てられない悲惨なことになる可能性もある。超大国のひょっとこ一匹では仲介にもならんし、ここで日本が人肌脱いでなんて言って も、誰も見てくれず、ただ脱いだだけ、というブザマなことになってしまうのがおちだろうし、前途多難過ぎ。

ところで、日本の政府見解は誰が表明したんだろう?・・・こ、こわっ。想像だけで悶死しそう。キャーッ、やめて、やめて。