Wednesday, September 27, 2006

「カブール発復興通信」

『フォーサイト』(新潮社)に「カブール発復興通信」という名の連載を2005年の6月(雑誌的には7月号だと思う)から連載していた。まず「復興通信」 というタイトルに引っかかる。カブールに住んで、「復興援助」と呼ばれるものに少しでも触れ、一日にほんの少し正気の時間がある人ならば、誰でもこのタイ トルには引っかかってしまうだろう、という程度に2005年夏の段階ですでにアフガニスタンの状況は混沌としていた。もうその状況をまっこうから否定しよ うとする人は少なくとも現場の関係者にはいなかったと思う。しかし、これを混沌から秩序へという過程としてみる人と、混沌からさらなら混沌への過程として みる人という違いは存在していた。それも読者が判断すればいいのかと思い、「復興」という言葉をタイトルに残すことに僕はそれほど抵抗しなかったと思う。 ただ、ダサいとかなんとか言って、編集者のショーコさんをいじめたかもしれない。今から思えば、『フォーサイト』という雑誌のカラーからすれば、妥当なも のだったのだろう。

各号でとりあげるトピックをショーコさんと相談して、最初に半年分くらいを決めたと思う。それぞれのトピックに関して、ただ単に記憶に頼って書き飛ばすと いうこともできたと思う。しかし、いざ原稿にするとなると、いろいろと気になることが出てくる。数字とか日付とか確認しなければいけないものもある。そし て、いろんなドキュメントをぱらぱらとめくるのだが、それは自分の部屋の掃除をする時とよく似ていて、ついつい手にした本をいきなり読み始めて掃除をほっ たらかしにしてしまうように、ドキュメントの大群の中からなかなか出て来れないようなこともしばしばあった。間違った記憶というのはとても多いものだ。

そのあげくそういう情報に頼った文章を書いてみると、おもしろくもなんともない。エンターテイメントじゃないのだから、おもしろくなくてもいいのだと思う のだけど、しかし、普通に読み飛ばせないような文章がしばしば出来上がる。これはやはり雑誌的には問題だろう。その結果、せっかく、ある特定のトピックに ついて情報の固まりとなってから、それらをすべて放棄して、「さて、それで自分はなんと思っているのか」という、一番最初の段階に戻って考え直すはめにな る。自分の頭で考えて書いているには違いないのだが、字数の厳格な制限、雑誌のスタイル、情報の性質などを考慮していると、かなり自分が普通に書く文章と は印象の違うものができあがる。実際、あんなものは僕が書く文章じゃない、おもしろくもなんともない、みたいな批判ももらったことがある。どうも僕はいつ も日記のような文章を書くと思われているふしがある。しかし、本業ではいろんな文章を書き分けるというのが日常になっている。英語ではあるけれど、目的に 従って僕は毎日かなりスタイルを変えた文章を書いている。毎日、日記を書いているわけではないのだ。

この過程の残り滓のような原稿、それにトピックごとに集めた情報が今僕のPCの中には山となって残っている。捨てるのももったいないと思うのだけど、他に使い道もない。ハードディスクのゴミ箱化が促進される典型例だ。

これで最終校だと思っていたものが、時々「校正さん」というところから、質問が出てくることがある。たいてい事実確認についてなのだけど、それはそれはす ごいものです。僕がうっかり間違った歴史上の日付を書いていたり、共和制であるところを立憲君主制だと書いていたり、ある事故による死者数が間違っていた りしたら、必ず指摘される。原稿の隅から隅まで調べつくしているようだ。「校正さん」というのは出版社の地下にある秘密情報機関のようなものかなと思っ た。

各号には「見出し」のような「タイトル」のようなものがついている。文章のタイトルは、人間で言えば、服のようなものだと思っているので、僕はかなり気に なる。しかし、一つの雑誌の中のたくさんの原稿の中の一つなので、全体の調和ということも出版社は考えざるを得ないだろう。僕がタイトルをつけるとかなり エキセントリックになるのは避けがたい。というわけで、この作業はショーコさんに取られてしまった。僕が気に入ったものもあれば気に入らないものもある が、人生には妥協も必要だと思い、全部まかせきりになった。

2006年に入ってから、資金難が続き、元々忙しかったオフィスがいよいよ大変なことになってきた。僕はしばしば締め切りに遅れた。ショーコさんは忍耐強 く待ち、かつあの手この手で僕が早く仕上げるように仕向けてくれたのだが、何回かは絶対絶命に陥り、すわ今回は欠号かという時もあった。仕事が終わるのが 11時くらいになり、家に帰って何か食べたら、もう夜中になってしまう。最後の最後は徹夜で書いて、日本時間の朝までに送るために、午前4時とか5時にゲ ストハウスのPCから送るなんてことが何回かあった。それも、ほんの一文、ほんの一節、ほんの一語がなかなか決まらなかっただけで、最後に何時間もかかっ たりする。メルマガに書き散らかすのとは、この辺がかなり違うなと思った。結果的にはまったく穴があかずに終わったのは今から思えば信じられない気分だ。

これを続けるのはもう無理だとなんども思っていたが、とにかく約束した1年は続けようと思っていたら、結局1年2ヶ月になった。しかし、この先もう1年と いうのは無理だと思って、終了させてもらうことにした。今、原稿締め切りのない月が二回目になったが、なんか不思議なものだ。月末になって、何も書いてい ないと忘れ物をしたような気分になる。本業が落ちついたら、いつかまた書きたいという気分が沸いてきた。

過去の原稿をHPに載せてもいいということをきいたので、いずれHPに載せようと思っていたが、今カブールで使ってるPCにHPをアップデートするソフトが入っていない。というわけで、ヨシログに順番に載せることにした。でも、もう今日は長いので明日からにしよう。

Tuesday, September 26, 2006

月謝

アフガニスタンでは金・土が休日だが、9月24日の日曜日はラマダンの開始ということで休日になった。サラダオイルがなかったので、近所の何でも屋に歩い て買いに行くことにした。現地の店に行くことは禁止ということになっているのだが、自分の住んでいる地域なので顔見知りは多いし、サラダオイル一つのため に、わざわざオフィスから断食中のドライバーを呼んでデューティ・フリー・ショップまで行くのは、あまりにバカバカしい。

歩き始めると、そこら中の暇を持て余した警備兵たちがカラシニコフをぶら~んと下げて、力なく、もやあっと片手をあげて挨拶する。僕も「やあ」みたいな声 をかける。特に会話はないけど、お互いの顔は知っている。この地域に住んでいるのはほとんどが外人なので、それぞれの家の前には必ず警備兵用の木の箱みた いなものがあり、彼らはそこで寝泊りし、飲食もそこでする。ほんとに退屈だろうと思う。もし、武器を持った何者かが襲ってきたりしたら、絶対に彼らは逃げ るだろうと思うし、逃げるべきだと思う。本気で武器を持って攻撃されたら、彼らがどんなに抵抗をしたところで勝ち目はまったくないのだから。

しばらくすると、少年二人がついて来た。彼らはストリート・チルドレンと呼ばれているが、アフガニスタンのストリート・チルドレンの実態に関する本格的な 調査は見たことが無い。彼らに関わっているNGOとか、彼らに関心を持ったジャーナリストの断片的情報ならいくつかは見たことがあるけれど。

二人の少年と話しながら、お店までの道を歩きながら、ふと気が付いた。彼らとの会話のスムーズなこと、まったくストレスがないこと。すべて英語なのに。
オフィスのアフガンスタッフとのコミュニケーションでは、中途半端な英語で、しばしばストレスがたまる。そんなスタッフより、この少年二人の方がずっとましではないか。

少年は二人とも12歳だった。空港の近くの集落に住んでいる。朝8時から1時間英語を教えてもらうために都心に住む先生のところにやってくる。9時から1 時間自分で勉強する。10時から2時まで現地の学校に行く。2時からこの地域に来て、何か仕事がないか探す。夜家に帰って自分で英語の勉強をする。

空港から都心までは3キロくらいあるだろう。毎朝歩いて通うそうだ。英語の先生というのはおそらく教育のあるアフガン人の内職のようなものだと思う。毎月 の月謝が高いので大変だと少年二人は言っていた。いくらかきくと、月10ドルだった。ノートが欲しいが買えない。1年ほど前、彼らにノートをあげたことが あった。それから何度かもう使い終わったので新しいノートが欲しいと言いに来たことがあったが、その後一度もあげたことがなかった。忙しくて買いに行く時 間が無かったというのが主観的な理由だが、本気で買いに行く気があればいくらでも買えただろう。

店に着いて、僕が買い物をしている間も少年二人は外で待っている。荷物持ちという仕事にありつけるかどうかという瀬戸際なので、少し緊張しているように見 える。しばらくするともう一人別の少年が合流した。買い物中にちょうど断食明けの合図が店にあるテレビから流れてきた。これからまずお祈りをしてみんな一 斉に食べ始めるのだ。この断食明けの食事をローザーという。

少年たちのローザーになるものを何か買おうと思ったが、デーツとかパコーラーとかは、この店には売っていなかった。しょうがないので、ビスケットをおおめに買った。買い物を終わると、少年たちは僕の買い物袋を競って取り上げ、歩き始めた。

ローザーはどうするの?ときいてみた。今日はお金がないから、ない、ということだった。今日はまったく仕事にならない一日だったのだ。どうしたものか。途 中でどこか別のお店によって、もっとローザーに適したものを探して買うか、あるいは荷物持ち料金を払うだけにするか、ごちゃごちゃ考えている間に自分のゲ ストハウスに着いてしまった。道中でいつの間にか、また一人別の少年が合流していた。

もう何も選択肢はない。買い物袋を開けて、ビスケットを一人に一箱ずつあげた。少年たちは、とても普通に、はにかんだ笑顔を見せた。こんな笑顔もあったの だということをカブールの毎日では忘れていることに気がつく。よく考えてみれば、僕はほとんどいつも不機嫌ではないか。また、ノートを仕入れておこうと深 く決心した。が、また忘れるだろうとも思う。

たった10ドルの月謝。一日1時間の授業。過酷な仕事。それで、彼らはここまでちゃんと英語を習得できる。いったい日本の大学生の何人が彼らと普通に話ができるだろう?日本の英語教育は間違っているなんてレベルの話ではない。もう根本的に何かが違い過ぎる。

翌日、リー、ナタネール、ミゲナと4人でレバニーズ・レストランでランチを食べながら、この話をした。結局、我々は、国連は何をしているんだという問にぶ つかり、みんな落ち込んだ。カブールのストリート・チルドレン全員に毎月10ドルの奨学金を出したとしても、毎月1億円もいらないだろう。毎日何億円とい うお金が国際協力という名の下に使われているのに、そんなお金はこの少年たちとはまったく関係ないところに消えてなくなっている。国際社会とやらが小難し い戦略やら政策やら延々と議論して腐るほどペーパーを作って、単純なことが、もはや誰にもできなくなっている。ストリート・チルドレンたちは、そんなこと とは関係なく着実に育っていっている。

レバニーズ・レストランのランチは四人で60ドルだった。あの少年の半年分の月謝が払えるなと思った。

Saturday, September 23, 2006

Commandante

ゲストハウスに転がっていた『Commandante』のDVDを昨夜見た。フィデル・カストロをオリヴァー・ストーンがインタビューし続ける。背景には インタビューの内容に関係するドキュメンタリー・フィルムが重なったりする。○○主義とか△△主義とか、そんなものとは関係ないところで、カストロとオリ ヴァー・ストーンの人間の違いが全面に出てくる。just war を戦ったと信じている人を、自分はunjust warを戦ったのではないかと問い続けている人がインタビューをしている。カストロはいかなるドグマからも、もっとも遠いところにいる人だった。ヴェトナ ムでオリヴァー・ストーンが負った精神の深い傷は癒えることはないのだろうと思った。それが彼の才能の起爆剤なのかもしれないが。
カストロ以後のキューバが安定し続けることを祈る気分になった。

Friday, September 22, 2006

ハドリアヌス

ちょろちょろと読んでいる塩野七生の『ローマ人の物語』、やっとハドリアヌスにたどり着いた。これでようやく、以前モニカにもらった"Memoirs of Hadrian", Marguerite Yourcenar を開く気になれる。

長いこと積読になっていた、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』にとうとう手をつけたら、あっという間に終わってしまった。よくまとまった良い本だと思った。後で、ウェブを見ると、やたらジョン・ダワーを攻撃している人もいるので驚いた。この本に収められている様々なトピックはそれぞれいろんな人がすでに書いているので、少なくとも日本人にはよく知られているのだろうけど、こうやって全部整理してまとめるという作業には敬意を持つ。読んでみると、なんじゃ、こりゃ?という本にあたることも少なくないが、この直前に読んだ"Man Who Would Be King: The First American in Afghanistan", Ben MacIntyreといい、良い本が続いた。今夜は『アレクサンドロス大王東征記』に手をつけようと思ってる。著者のアッリアノスはハドリアヌスに見こまれた人だった。それだけに興味もます。