Saturday, December 31, 2005

あと一周

歩いて3分のところに住んでいる両親のところへ家族で晩飯を食べに行った。カニをどこかから送ってきたのでそれを食べに来いという口実だった。プライドとK-1を見ながら食べることになった。どちらも当初の生々しさがなくなって実につまらない。他にたいした番組もないので救われているのだろうと思う。

年が明けてから、家に帰ることにした。近所にある神社に行ってみようということで親子四人で歩いていった。これも家から歩いて3分くらいのところにあるのだが、少し奥まったところにあるので、家族も両親も誰も知らなかった。僕は夜明けに一人で散歩がてら、近所をかなり探検していてこの界隈の地理には結構詳しくなっている。

神社には焚き火をしているじいさん・ばあさんがいて、参拝する人にお神酒とおつまみを配っていた。息子二人に小銭を渡してお賽銭箱に入れることを教えた。こういうところに来るのは妻も子どもも始めてだったのでまったく要領が分からずきょとんとしていた。なんでお酒をくれるの?なんでお菓子をくれるの?なんでお祈りするの?・・・・・・・

焚き火と神社の建物が興味深いらしく、上の息子はしばらく観察した後、忍者が住んでいたところかと訊く。忍者とか侍がいた頃からあった建物だと言うと、かなり満足気な顔をしていた。神社の由来を書いたものがあったので、読んでみると起源は13世紀まで遡るらしい。それを説明すると、妻も感嘆して、これは絶対におじいちゃんとおばあちゃんにも教えなければいけないと、言っていた。まあ、こんなものどこにでもあるんだけど、とはもちろん言わなかった。

家に帰って年越しそばを作ったら、もう何も食べれないくらいお腹一杯だったはずの子ども二人がまたちゃんと食べきったので驚いた。慣れない夜更かしをするとお腹がすくのだろうか。今年は戌年か。あと一周で還暦だ。なんと凡庸な一生なことかと思うと戦慄が走る。夢もロマンも必要なくなったが、せめて子どもが高校を卒業するまでは生き延びたいものだ。

Friday, December 30, 2005

冬のバーベキュー

二人の息子を連れて100円ショップへ行った。テレビのお絵かき番組でやってた押し絵とやらを上の子がやりたいというので画用紙と絵の具などを買いに行ったのだ。ついでに紙ねんども買った。家に帰ると、いきなり紙ねんどでの遊びが始まり、絵の具と画用紙のことは忘れたみたいだ。なんとか遊び場を一箇所に集中させようとしたが、その努力もむなしく半時間もすれば家中、紙ねんどだらけになっていた。案の定、妻は怒り狂う。夕方にアナ・カリナ母子が遊びに来るので朝の間に掃除したところだったのだ。怒るのもやむなしか。

その後、下の子が昼寝を始めたので、上の子と二人で今晩のバーベキューの材料を買いに業務スーパーへ買い物に行った。このくそ寒い冬にバーベキューは成立するのかという懸念もあったが、アナはここのバルコニーでするバーベキューが好きだと妻が言うので、そういうことになった。

業務スーパーというところは、卸売り市場のようなところなので、大量に食料品を買う人にとっては、格安でよいのだが、少量しか必要のない一般家庭の人には無駄な買い物になってしまいかねない店だ。「漬物」とか「冷凍焼き鳥」とか「つぶあん」とかなんでも1キロ単位で売っている。安いのだが、普通の核家族なら全部食べる前にダメになってしまうだろう。

バーベキューにする牛肉もスライスした手ごろな量のものがなかったので、1キロのかたまりを買った。必要な分だけ家でスライスして残れば冷凍にしておこうと思ったのだ。野菜はほとんど家にあったので、中国産のしいたけだけ買った。これも1キロだ。もやしキムチも1キロ買った。子ども用のソーセージ、自分用のトリ皮なども買った。

6時頃にアナとカリナがやってきて、バーベキュー・スタンドを暖めようとして、なんと火のつきにくい木炭しかないことを発見。なんとか火をつけようと30 分ほど頑張ったがダメだった。食材の用意は妻にバトンタッチし、アナの運転でマッチで火がつく炭をコーナンまで買いに行った。

じっとしていると寒いが、バーベキューというのは結構忙しいので、それほど寒さは感じなかった。アナのだんなさんは仕事が忙しくてほとんど家にいないこと(今も中国に出張中)、カリナはロシア語、日本語、英語のトリリンガル環境で成長せざるを得ないこと、など我が家と共通点があるので、そういう泣き笑い人生が話の端々に挿入される。

走り回って遊んでいるカリナと上の子に負けじと下の子もついて走り回る。当然歳の違いなどというコンセプトはまだないだろう。自分では同じ仲間だと思って一緒に遊んでいるのだ。年齢や国籍や言語や宗教などあらゆる違いが子どもには何の影響も及ぼさない。何歳くらいまで、こういうふうに生きていけるのだろうか。

Thursday, December 29, 2005

ラーメン

「希望軒」のラーメンとギョーザはむちゃおいしい。
雑誌に載ったり、テレビに出たりしないで、地道にやっていってほしい。
行列ができるようなラーメン屋だけにはなってほしくない。
食い物屋に行列ができるようになると、もう味は終わってしまう。

今晩はアナとカリナと我が家の6人で「希望軒」に行った。
べラルース人母子には、ごまだれとんこつチャーシューメンを頼んだ。
彼女たちももやはりおいしいと感激していた。

今晩はウメ一族が焼き鳥屋に行こうと言っていたのだが、ラーメンを食べるともうお腹いっぱいで行く気がなくなった。電話すると、ウメ一族も焼き鳥を食い終わったみたいなので、こっちに来ないかと誘うと、焼酎とワインをもってやってきた。

ウメ一族に誰がいるのか聞いていなかったのだが、総勢5人の酔っ払いがインターフォンのカメラに現れて、妻もアナも驚いていた。アキヨ、カーコ、ノリコ、アリさん、ウメの5人でみんな僕の高校の同級生だ。ウメは相変わらずスーツにネクタイをしてやってきた。他に服がないらしい。

というわけで、大人8人、子ども3人の11人が我が家にたむろすることになった。いつも一番うるさい下の子が慣れない状況のせいか妙に静かだ。日本語の嵐で戸惑っているのかもしれない。

こういう時は、(自称)英語の成績が一番良かったというアリさんがここぞとばかり英語をしゃべるので、日本の英語教育の欠陥が見事に証明される。「チェリーブロッサム・シュリンプ」がなんとかかんとか言っているが誰もなんのことか分からない。アリさんとしては「桜エビ」のことを言いたかったらしい。これはもう笑うしかない。

上の子は日本人の大群を見て日本語をしゃべろうとしている。日本人がしゃべっているつもりの英語が英語に聞こえないのだろう。しかし、本人は最近、全然日本語を使ってないので、アクセントや単語の選択が微妙にずれている。コミュニケーションは難しい。


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Wednesday, December 28, 2005

掃除

今日は下の子のアトピーの医者と妻の乳がん検査の予約が重なってしまった。もし悪かった場合の緊急性を考えて妻の検査の方に行くことにした。マモグラフィーとかエコーとかいろいろ検査したが、決定的に悪い知らせはなかった。それでも念のため注射器のようなものを乳房にさして中味を少し抜き取って検査するということだ。結果は来年の1月11日に分かるというので、それでは遅すぎると言うと6日にしてくれた。

アトピーはほんとに可哀相だ。痒くて痒くて眠れないのだ。痒いところをかきむしるので傷がついて、そこにばい菌が入り、化膿したりする。どういうわけか、顔だけきれいに直ったのが幸いだ。アトピーは見かけによる精神的な影響もかなり大きいのだ。それにしても、イライラせずによくもいつも陽気に走り回っていてくれると思う。自分がアトピーなら、癇癪起こしまくっていたのではないだろうか。

兄弟はみかけはそっくりなのだが、性質が全然違うのがおもしろい。上の子はまったく手がかからず赤ちゃんの優等生のようなものだったが、下の子は病気につぐ病気で大変だった。何よりも本人が一番大変だっただろうと思う。こういう子どもの場合、回りの大人、つまり親がイライラしてしまうので、そのとばっちり、という逆境にも遭遇する。そのせいかどうか分からないが、下の子はとてもセンシティブに育ってきたようだ。

僕と妻が少し声を荒げて何か言い合いをしかけると、下の子はすぐに「アーッ!」と言って止めに入る。上の子が親に怒られていると、お兄さんを守ろうとしてゲンコツをふりあげて親に対して攻撃にくる。そして、自分が仲間に入れられていない状況が発生すると、なんとしてでも仲間に入ろうとしてくる。2歳7ヶ月でも、ちゃんと自分の自我がある。妻もあの子は自分で自分の世界を切り開いてきたと言っていた。

ソファーに寝そべって、うつらうつらとテレビを見るでもなく見ていたある晩、下の子が目の前をチョロチョロと動いていることに気がついた。少し寝たような気がして、また目を開けると、下の子がおもちゃを持ってそれをどこにおこうかと見回しているところだった。テレビのある部屋がきれいになっている。いったい何をしているのか?さっきから、彼は掃除(!)をしていたのだ。

子どものいる人なら分かるだろうが、幼児というのはありとあらゆるものを家中散らかして1日の終わりには家の中は大変なことになっている。いちいちかたづけていてもきりがないので、かたずけるのは一日の最後に一回ということになる。だから、もうこんなものだと思って、ちらかりまくった部屋のソファーで僕はぐったりしていたのだ。

しかし、この2歳7ヶ月の子は、床に散らばったおもちゃやお皿やコーヒーカップやスプーンや絵本を拾ってはあるべき場所を探しては移動させていたのだった。不思議だなあと思って、妻に訊いてみた。掃除しろと言ったのか、あるいは掃除を教えたことがあるのかと。そんなことは全然していないが、母がやってることをただまねしているということだった。

Tuesday, December 27, 2005

エイリアン

今日は、妻のエイリアン・カードの更新に行った。滞在許可(ヴィザ)を更新したので、エイリアン・カードも更新することになる。あの悪名高き「外国人登録証」というやつだ。エイリアンねえ。

あっ、そこでくびをかしげている方、日本人と結婚しても、日本国籍は即とれないのだ。でもって、人口減ってやんの。バカじゃないの、この国。

「日本人には外人を自分たちと同等の人間として受け入れない差別体質がある。日本人の血をもつ人間だけが日本人であり、その他の人間はすべて「外人」というわけだ。日本人は純血のみを絶対とする民族です」(皆が同じでなくてはならないという日本人の排他思想を、アメリカのジャーナリストに、イサムが説明した言葉)

あらゆる努力をして、イサムを日本人として育てようとしたイサムのお母さんは11年後、挫折した。13歳のイサムは一人でアメリカに帰った。偉大な才能をこうやって日本は失い続けてきたのだろうなと思った。もっとも美しい日本人を戦争でまっさきに殺し、もっとも優れた才能は受け入れられず、残っているのはカスだけ?

業務報告
1.気がついた方もいるかと思いますが、ブログのリンクを三つ左横につけました。三者三様の逆上あり。

2.どうも僕へ出したメールから返事が来ない、おかしいなあと思っている方は、もう一度出してみてください。僕が読む前に削除されているケースが発覚したので、念のため。

3.Windows On The World は、イベント時でなければ、そんなに高くないです。なんか恐慌に陥ったようなメールが来たので。ランチビュッフェなんかはお母さん集団でいっぱいのようです・・・。

Monday, December 26, 2005

クリスマスの後

予約時間に30分遅れたが、今日の「さかもとクリニック」は土曜日ほど混んでいなかった。

「どうですか、元気ですか」
「まだ大丈夫です」

という、いつもと同じやりとりで始まり、血を採って、僕が欲しい薬を言う。あれ出しときましょか、これもいっときましょか、みたいな八百屋で買い物をしているようなやりとりだ。

その後、焼きたてのパンがいつも食べ放題というファミリーレストランに毛が生えたような「バケット」という名の店でハンバーグを食べながら、ショーコさんがおもしろいと言っていた『イサム・ノグチ』を読んで少し時間を潰した。この本を昨日読み始めてから、ずっと引き込まれっぱなしだ。

* * *

「この冬は寒すぎて、気鬱な毎日でした。イサムは風邪ばかりひき、その看病に明け暮れました。また私は”田舎”へのホームシックにかかっています。日本でもアメリカでもどこでもいい、広々とひろがる土地と住んだ大気の田舎で暮らしたい。この手で大地を掘りおこしたい。可哀相に、イサムもいま、小さなシャベルを手に下駄をはいてうろついています。”何をしているの?”と尋ねたら、”何もない、ママ、どこも掘るとこない”と答えました。ああ、私たち母子はこの東京に閉じ込められて一生を終わるのでしょうか。でも、すでに梅が咲いています。もうすぐ日本の美しい春です」(イサムの母からアメリカの友人への手紙。イサム3歳の頃)

「ついに自分を受け入れてくれる人々のなかにいる、という意識がはっきりとあった。ぼくのような混血でも、自分たちとすこしも違わない仲間としてあたたかく迎えてくれた。森村学園ではフリーク扱いされなかった」(イサム、6歳4ヶ月の時の回想)

「子どもというのは正直なものだ。隠すことなく差別意識をあらわにしてみせる。アイノコのぼくは、彼にとって、まぎれもないフリークだった」(イサム、1年2学期に茅ヶ崎の尋常小学校へ転校後の回想)

* * * 

「バケット」のハンバーグはあまりおいしくなかった。僕はチープな食べ物、ジャンクフードにはうるさいのだ。ハンバーグはサンタの缶詰が一番おいしいと頑なに信じている。そんなもの、もう売ってないかもしれないが。

味は別にどうでもいいが、週日の昼間にこんな店に来ると、小さい子どもを連れたお母さんグループに必ず会う。こういう時はいつも、みんなが僕から視線を外すような気がする。社会のはぐれものは可哀相だし、いつ逆上するか分からないから、目が合わないようにしましょうというお触れが出ているのではないかと思う。そういう居心地の悪さは、大学教師をしている義弟も話していたことがあった。真っ昼間という、まっとうな社会人にとってはとんでもない時間に自宅のあるマンション界隈をうろうろしていると、やはり胡散臭い光線を感じるようだ。

しかし、子どもがうるさい。したい放題、叫び放題だ。お店のウェイトレスの表情もかなり険しくなっているが何も言わない。お母さんたちは自分たちの話に没頭している。だんだん腹が立ってくる。こういう時は腹なんか立てずにさっさと席を立って注意をしに行くべきなのだろうか。しかし、他人に注意されて聞くようなお母さんなら最初からこんな状態を放置しないだろう。

聞きたくもないがお母さんたちの話の内容まで腹が立ってくる。もう少し他に考えることはないのか。まるで新聞のテレビ番組欄を見た時と同じような絶望感に襲われる。なんなのだろう、このアホらしさかげんは。イサム・ノグチのお母さんはこんなに苦労してイサムを育てたんだぞ、分かってるのか、そのへんのとこ、えっ?どうや?

このままではホントに逆上する社会のはぐれものになりそうだったので、店を出ることにした。まだ、2時35分まで少し時間があるので、本屋に入った。また、記憶にない買おうと思った本を探すということになった。

しかし、なんなんだ、この本屋は。三分の一がコミック、三分の一が実用本、残り三分の一が中途半端な品揃えの文庫本だ。これを本屋と呼んでよいのだろうか。しかし、それでもほんの少しだが”文芸”という一画もあった。こういう本屋とも呼べなさそうな本屋でも置いている文芸書とはいかなるものであるか、ということに少し前向きに興味を持って見てみることにした。

が、文芸という概念をこの本屋は間違えて使っているのではないかと思わざるを得なくなった。期待していたわけではなかったが、ここまで行くとたいしたものだ。本という概念さえ、もう壊れているのかもしれない。

それでも『半島を出よ』はちゃんと置いてある。これが売れる本というものか。たいしたもんだ。

ようやく2時半になったので、僕は映画館に急いだ。『男たちの大和』を見るためだ。チケットを買う時、「男たちのダイワ」と言ってしまわないか、ちょっと緊張した。僕は時々そういう間違いをして、顔が爆発しそうになることがある。

5人くらいしか見ていないのではないかと思ったが、館内は三分の二がうまっていた。へぇーっと思いながら、当然回りに誰も座っていない前から三列目の真ん中の席に僕は座った。メガネを忘れたので、そんな前の席を買ったのだった。

こらえる間もなく、あっという間に涙がこぼれ落ちていた。そんなことが上映中何度も繰り返された。すすり泣く音、鼻水をずり上げる音が回りからも聞こえる。これを涙なしに見る人はいるのだろうか。どうにもこうにも泣けてしまう映画だ。

ずーっと昔のことだが、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を読んだ時、その美しさに打たれたものだが、その時、この美しさを映画にできないものだろうかと思ったことがあった。だから、今回『男たちの大和』という映画の存在を知った時、すぐに見に行こうと思ったのだ。原作は異なるが、あの大和が映画になるということでは、僕の頭の中で同じことになっていた。

泣き暮れた映画だが、終わってみるとどうしようもなく怒りが蓄積している。どうして、こんな日本にしてしまったんだ、ああやって死んでしまった日本人にどういう言い訳をするのだ・・・どうもはぐれものの逆上が本格化しそうになってきた。

一応書いておくけど、戦争を美化したいわけでも、日本はえらかったとか、昔は良かったとかそんなことを言いたいわけでも毛頭ない。戦争当事者間に道徳的な善側と悪側があるような歴史観は、歴史から何にも学ばないというのと同義であるとは思っている。良い殺人と悪い殺人、良い強姦と悪い強姦、良い拷問と悪い拷問・・・そんなものあるか?

『ALWAYS 三丁目の夕日』は昭和33年(僕が生まれた年)を舞台にしているらしいではないか。カブールに帰る前にはどうしても見ておきたい。

『Mr.&Mrs.スミス』は妻が、『キングコング』は上の子が、見に行きたいと言っているので、なんとか行きたい。

『スタンドアップ』『博士の愛した数式』『七人のマッハ!!!!!!! 』も行きたいが、これは始まるのが出国してからだ。

Sunday, December 25, 2005

クリスマス

急いでインターネットでクリスマス・ディナーを検索してみるが、当日なので当たり前だが予約状況は厳しいようだ。そもそも、この歳になるまで、わざわざ人まみれでゴミゴミして、割増料金で、かつ1年で一番質が落ちるようなクリスマス時に外食をするなんてバカげていると思っていた。

とは思うものの、若い頃、僕はクリスマスにいつも何をしていたんだろう?クリスマスを節目化せずに毎晩連続して飲んだくれていたので特に記憶がないのだろうと思う。一度だけ覚えているのは、1991年のクリスマスだ。ロンドンから東京に向かうバージン・アトランティックに僕は一人で乗っていた。着いたら、日付は変わってクリスマスは終わっていた。あれ?クリスマスがなくなった、と思ったのをなぜか覚えている。モラトリアムはその年に終わってしまった。

クリスマス・イヴに上の子の学校の友達のお母さんたちでディナーに行くという話があったそうだ。だんなさん達は忙しくてそれどころじゃない日本社会の生活に我慢がならず外国人妻たちが叛乱の火の手をあげるという勢い、だったのかもしれない。

参加者はベラルーシのアナ、ドイツのルード、もう一人ブラジルの名前は知らないお母さん、そして僕の妻の四人であった。しかし、僕の妻は僕の予定が分からず確約を当日まで先延ばしにしていて、結局、他の3人はもう一人別の人を探して4人を確保してしまっていた。

心遣いが小泉八雲的なアナは、僕の妻に25日に再度他のところへ行こうと誘ったらしい。アナのだんなさんは中国に出張中で子どものカリナと二人だけで日本に残っているのだった。彼女も可愛そうな気がするが、クリスマス・イヴもクリスマスもお母さんだけどこかに出かけるというのは、子どものカリナが可愛そうな気がする。

というわけで、クリスマスは僕が妻をどこかに連れて行き、アナとカリナを大晦日に家に招いてバルコニーでバーベキューをしよう(寒すぎてできないような気もするが)ということになった。

ディナーに行くといっても、子どもを二人とも置いていくというのは初めての経験なので、おばあちゃんとおじいちゃんが見てくれるとはいえ、やや心配でもある。老夫婦よりも6歳の息子の方がすでにしっかりしているようなこともあるのだ。4人の幼児を置き去りにするようなものではないか。

しかし、一度、妻をディナーに連れて行かねばならんとはずっと思っていた。帰国するたびにオーストラリア人のお母さん、プルーデンス婦人(と呼びたくなる)がジェニファーをどこかに連れて行ってあげなさいよ、なんてことを小泉八雲の世界的に、ものすごく控えめに言うので気にはなっていた。

今年の4月、バンコクで買い物をしていた時、何が気に障ったか、妻が突然、どこにもおしゃれなんかしていく場所がない、そんな機会がないと言って、怒り出したことがあった。僕と二人の息子は途方に暮れて嵐が過ぎ去るのをショッピングモールの外のベンチに座ってただ黙って待っていたのだった。だから、おしゃれできるところを探さねばならんともずっと思っていたのだった。

クリスマス・ディナーっぽいところ、おしゃれができるところ、早い時刻に短時間で終えられるところ、という条件を総合すると、選べるレストランはホテルくらいになった。ウェスティン・ホテルは三部制になっていて、早い時間を選べるのだが、ほとんどの店が満席になっている。空いている店はいまいちだ。ヒルトン・ホテルの店は二部制になっているが、予約状況が分からない。35階にあるWindows On The World というたわけた名前のレストランなら条件をすべて満たすだろうと思い、電話してみたら、壁側(窓側)の席はないが、内側ならまだ空いているという。一度行ったことがあったので、内側でも景色はたいして変わらないのを知っていた。

今日、妻は朝から髪を染めたりして、なんかいろいろ準備をしていたので、着ていく服はあるのだろうかとちょっと心配になってきた。何を着ていくのか訊いたら、バンコクで買ったブルーのやつという。そんなの買ったか?全然思い出せないが追求するとややこしいことになりそうなので、ああそうとだけ言った。

Windows On The World は、天井が高く、ガラスでできた壁一面に夜景が広がり、実にすがすがしい。妻は料理をとてもおいしそうに食べている。こんなの初めてだを何回も連発していて、そうかこういうのは知らなかったのかと思うと若干自責の念にかられた。

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http://hiltonjapan.ehotel-reserve.com/Japan/HiltonOsaka/RestaurantAndBar/restaurants_skylounge.asp

飲み物は何にするかと訊かれても、とりあえずシャンペンを楽しむかないでしょうという雰囲気なので、シャンペンのメニューを見たが、1種類しかない。グラス1杯3700円。ケッ、と思ったが、飲んでみるとおいしかった。母の買ったシャンメリーとはかなり違う。良い葡萄ができた時しか作らず、これは1997 年もので、007の第三作目からずっと使われているシャンペンです、とシャンペン屋さんが言うのでそれを全部訳した。

カニの前菜のあと、帆立貝と伊勢海老のカルパッチョが出てきた。うーむ、これはいかんかも。妻は生ものを食べないのだ。しかし、おいしいと言ってペロッと全部食べてしまった。帆立貝にキャビアをのせたら、確かにおいしいが、それなら今までの寿司嫌いはなんだったんだとも思う。

シャンペンはあっという間になくなり、他の飲み物を頼まなければならない状況が迫ってきた。もう僕はやけくそになっていたので、ソムリエっぽい人の講釈を素直に聞いて、数万円の赤ワインを1本頼んだのであった。1万円以下のものが一つもなかっただけなのだが。

蕎麦粉で作ったラビオリが3枚にフォアグラとトリュフが併せて出てきた。えっ?ラビオリっ?と思ったが、一応イタリアン・ディナーと名称がついていたのを思い出した。妻は蕎麦粉のラビオリの味に妙に関心している。これがおいしいと思うなら、どうして蕎麦は食べないんだと思ったが、やはり黙っておくことにした。

フォアグラは軽く表面が焼いてあり、日本の焼肉屋でいうと、刺身にするもち肝を焙ったかんじに出来上がっている。こういうまったりしたものはあまり好きじゃない僕もこれはおいしいと思った。妻は元々こういう味が好きなのは知っている。トリュフが何か知らないというので、ブタが発見するキノコだと言うと、話は聞いたことがあったようだった。

その次に小さなワイングラスに入ったシャーベットに星型のチョコレートがのっかったものが出てきて、そこにウェイターがシャンペンをぶっかけにやってきた。いきなりデザートが出てきたのではなく、お口直しだという。フォアグラやラビオリがこってりしていたので、確かにちょうど良いと思った。

最後はフィレステーキにまたトリュフをのせて出てきた。こんどのトリュフは生で、追加のトリュフはいかがですかとトリュフと小さなおろし金のようなものをもってウェイターが回ってきた。1グラム1200円だそうだ。追加料理というよりも、こういうのもアトラクションの一つなのだろう。

インテリアにしろ、料理の一つ一つにしろ、いろんな人が知恵を絞ってる様子が分かる。レストラン業界の競争を勝ち抜くのも大変なんだろう。グローバリズムの毒には納得せざるを得ないことが多いのだけど、資本主義の健全さはこういう民間レベルに現れるんだなと思う。これが役所システムではこいう細かい点で努力するというインセンティヴが存在しない。その結果、総体としてろくでもないことになる。いや、自分の職場の話なんですが。

チェックを見て笑ってしまった。妻も笑っている。今日のディナーの料金は我が家のほぼ一か月分の食費と同じだったのだ。1年が13ヶ月と思えばいいではないか。

二人の息子を引き取りに行くと、泣かずに遊んでいた。下の子はさすがに時々思い出しては、ママ、ママと探していたそうだが。

Saturday, December 24, 2005

クリスマス・イヴ

いつも行く「さかもとクリニック」は土曜日は午前中のみなので、11時半頃に行ったが、子どもが20人くらい待っていて、今日は諦めた。風邪はほとんどよくなったし、血の定期検査をして薬の追加をもらうだけなので、年内に一度行けたらよいのだ。善玉コレステロールを増やして、中性脂肪を減らして、尿酸を減らさないといけないのだが、なかなかうまく行かない。

さかもと先生はかなり大変なことなってますよと言うし、僕もデータを見せられると異論はないし、他の医者にも何年も前から言われていることなので、なんとかしなければと思うが、なんともならないまま時間が過ぎていく。

僕の心電図は小さい頃からおかしいので、そういうものだと思わざるをえないのだが、始めて見た医者は心筋梗塞だと言う。MSFのりっつぁんにどういうことなのかきくと、心筋梗塞ならえらいことだし、そんな生活できないはずだみたいなことを言われたことがあるので、やはり元々変な心電図が現れることになっているのだろうかと思うのだが、それに追い討ちをかけて、本格的な心筋梗塞にみまわれる可能性を考えた方がいいとは思っている。

たまたま夜中につけたテレビで心筋梗塞の特集みたいなことをやっていた。
その中で「危険因子」というのが五つあげられていた。
1.喫煙
2.生活習慣病
3.中性脂肪
4.肥満
5.運動不足
の五つなのだが、自分に全部当てはまる。

そして「ひきがね」が四つあげられていて、
1.過度の疲労
2.睡眠不足
3.激務
4.ストレス
の四つだった。これもかなりいけてると思う。

「対策」として考えられるのは、
1.運動
2.食生活の改善
3.薬
の三つなのだが、1と2が欠けて、3に頼る結果になっているのだった。この状況は歳をとるにつれて、ますますひどくなっているようだ。なんとかせねばならん。

しかし、今日は家族全員+おばあちゃんもいっしょだったので、医者はあっさり諦めてみんなで買い物に突入することになった。「さかもとクリニック」もカルフールもヴィソラにあるので、その界隈で全部済ませることにした。

昨日、テレビを買ったのだが、たまに日本で買い物をすると一般的な値段の感覚がずれてしまっているので、高いのか安いのかの判断がつきにくい。もうほとんどのテレビが薄い液晶とかプラズマになっていて、こういうのを買うしかなくなったのだなと思うが、この値段があまりに差があるのでびっくりした。

飛行機の中で読んだ雑誌には売れ線は40インチと書いてあったのだが、店頭に一番多くならんでいるのは37インチのものだった。販売台数が大きいほど価格の効率もよくなっているだろうと思い、37インチのを見て回ったが、同じ37インチのもので、10万円くらいの差があるではないか。何が違うかはまったく分からないので、店員に訊いてみたが、スペックを調べた結果、彼も分からないと言う。単にデザインが違うとか、要するにモデルチェンジの問題のようなのだ。

どれもこれも同じに見えるなら、安い方でいいではないかという意見を念のために妻に打診してみると、あっさり当たり前じゃないかという返答だったので、いわば型落ちで10万円安くなっているのを買った。

まるで何にもチェックしていないように思えるかもしれないが、それでも一点だけ慎重にチェックしていた。それは下の子が触れる範囲にスイッチ類がいっさい付いていないということだった。スイッチというものを見ると、すべて触りたくなる歳頃なので、いくらやめろと言っても無駄なのだ。

前のテレビが潰れたのはそのせいかどうかホントのところは分からないが、 下の子がon and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off, on and off.....を毎日、100回は繰り返しつぶやきながら、テレビのスイッチを酷使していたという重い事実があった。

また、次回テレビが潰れても下の子に疑惑がかからないようにするためにもスイッチ類はどこにもついていないにこしたことはない。幸い、ほとんとのテレビのスイッチ類は見えないところに付くようになっていたので、この問題はあっさり解決した。

さて、今日はおばあちゃんはわけの分からない、細かいものを非常に真剣に吟味して、結果的にどうして「買う」という決断に至ったのか分からないものを買い物かごに入れていく。おばあちゃんも妻もワインを飲みたいというのだが、結局二人ともワインとは似ても似つかぬものを一本ずつ選んでいた。「それ、ワインとちゃうで、炭酸の入ったシャンペンもどきのジュースみたいなもんやで」と言ってもきかない。「店員さんがワインやと言うた、試飲したらおいしかった、飲んでみ」とおばあちゃんは言って僕にも勧める。「おいしいと思うならそれでええやん」と言って抵抗しないことにした。

妻はピンク色のボトルを選んでいる。It's not wine, it's just like juice mixed with peach and white wine. と一応言ってみたが、妻は、This is my drink. と言ってボトルを握っている。もうどうでもいいから、この訳の分からないおばあちゃんと妻の選んだ二本のボトルをかごに入れて、次の現場へ移動することにした。ワインの講釈を垂れる人間が家族にいたりしたら、ぞっとする。

食料品売り場でもうカート二つが山盛りになり、これ以上運べないだろうと思われる状態でやや呆然としていると、おばあちゃんがニコニコしながら、安い和牛のステーキがあったよと言いながら、呼びに来る。見に行くと、確かにおいしそうな牛肉だった。しかし、これをどうして安いと思ったのかが分からない。1枚当たりの値段が店頭には書いてあるのだが、それをグラム数で割ると、100グラム当たり千円弱だった。これを安いと思うような生活はしていないはずだが、200グラム前後を1枚にして売っているから安く見えたのだろうか。

人数分買うとこれだけで、1万円くらいになるということは分かっていないだろう。しかし、何を言っても通じるとは思えないので、今日ステーキが食べたいのかと訊くと、「簡単やからステーキがいいやろ」と言う。なんのこっちゃわからんがな。ただ安いと思っただけなら、それは間違いだと言えるが、食べたいなら、この歳になって、その価値に見合う値段かどうかなんてことはもうどうでもいいだろう。そうか、食べたいなら、そうしようと思い、それを5枚買うことにした。

注文するとトイレに行きたいといい、僕にいろいろ買ったからと言い、5千円札を一枚渡して消えていった。別にいらないと言おうと思ったが、その額を見て噴出しそうになって、もらっておくことにした。今日の買い物だけで、すでに6万円は超えているのだが、きっとそういう計算にはいたっていないだろう。

いつ使うか分からないようなもの、すでに家にありあまるほどあるようなもの、いつ食べるか分からないようなものをさんざん買った後に、最後の最後に店を出るところで「あっ、忘れていた」といいながら、おばあちゃんは発砲スチロールの箱に入って山積みになっているクリスマス・ケーキを一つ買った。寒いのにアイスクリームのケーキを食べたいのかと思ったが、面倒くさいので何も言わなかった。

家に帰って、おじいちゃんも合流し、老夫婦はこのお肉はおいしいなあといいながら、ぱくっと食べ尽くし、その後、発砲スチロールの箱からアイスクリーム・ケーキを取り出すと、おばあちゃんも妻も、アイスクリーム?!と言って驚いていた。当たり前じゃないか、わざわざ溶けないように発砲スチロールの箱に入れて売ってるんだから、想像つくでしょと言ったが、はあぁぁぁと言って、母も妻もまだ驚きが収まらないようだった。主婦というのは、いったい何を見て買い物しているんだろうと思う。子どもはどっちにしろ嬉しいのでどうでもいいのだが。

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Friday, December 23, 2005

クリスマス・ソング

毎年おんなじクリスマス・ソング・ベストばかりで飽きたから、なんか違うの買って来て欲しいと言われて困ってるお父さん、
80年代以降クリスマス・ソングの定番になったワムの「ラスト・クリスマス」を、実はビートルズが1966年にハンブルグで録音していた、と言われても思わず信じてしまいそうなこのCDはいかがでしょうか。

"XMAS !" The Beatmas
1.「Please Please Me」かと思ったら、「ジングルベル・ロック」
2.「Eight Days A Week」かと思ったら、「サンタが街にやってくる」
3.「I Saw Her Standing There」かと思ったら、「ロッキン・アラウンド・ザ・クリスマス・ツリー」
4.「Please Mr. Postman」かと思ったら、「ラスト・クリスマス」
5.「No Reply」かと思ったら、「フェリス・ナヴィダ」
6.「All My Loving」かと思ったら、「ママがサンタにキスをした」
7.「Love Me Do」かと思ったら、「ジングルベル」
8.「Taxman」かと思ったら、「赤鼻のトナカイ」
9.「Nowhere Man」かと思ったら、「聖なる御子」
10.「Ticket To Ride」かと思ったら、「ホワイト・クリスマス」
11.「Lucy In The Sky With Diamonds」かと思ったら、「聖しこの夜」
12.「A Day In The Life」及び「All You Need Is Love」かと思ったら、「ア・ベアーン・イズ・ボーン・イン・ビートルホーム」

ビートルズを聴いて育ったおじさんもきっと楽しめます。もう10年以上前に発売されたんだけど、2003年に再発売されたのでまだ手に入りますよ。

Thursday, December 22, 2005

昨日は気分が悪くて眠れなかった。吐き気がするのだが、吐けない中途半端なsick で、ベッドの上でのた打ち回っていた。朝5時くらいに少しましになってきたが、結局寝るのは諦めて、昨日もらった『フォーサイト』を読むことにした。そのまま寝ずにチェックアウトして、帰国したらいつも行く赤坂見付の『長寿庵』に行った。「もりそば」と「しめじそば」を頼んだ。いつもはあっさり食べれるのに、今日は途中でしんどくなってきた。胃が抵抗している。

やはり帰国したらいつも行く『スカイ』に散髪をしに行ったら、「ああ、やばいよ、3時までびっちり」と僕が「怪力女」と呼んでいるマッサージ担当に言われた。「じゃあ、来年来る」と言うと、「今年はどうもお世話になりました。来年もよろしく、アハハ」と景気よく笑っていた。忙しくてハイになってる感じだった。そうか、こういう業種は年末稼ぎ時なんだなと思い出した。

飛行機にするか新幹線にするか考えながら、ホテルへの道を歩いていると、本屋があったので、バンコクからの飛行機の中で日本の新聞に載っていた書評を読んで何冊かの書名をメモしていたことを思い出した。でも、今メモはない。本を見れば思い出すかもしれないと思って店に入ったが、ほとんど思い出せなかった。結局メモとは関係なく『新リア王(上・下)』高村薫(新潮社)と『国家の品格』藤原正彦(新潮新書)を買った。

どうも今日本は雪がたくさん降ったり、停電だったりするらしいので、飛行機はやめることにした。飛行機はちょっとしたことで数時間遅れたりする。

東京駅に行くと人がたくさんいた。新幹線が混んでいる。年末だからこれくらいなのか、みんな飛行機を敬遠してこうなるのか分からないが、すぐに乗れる「のぞみ」の普通車はもういっぱいだった。グリーン車にしたが、これも窓側は満席だと自動券売機が表示している。別に窓でも廊下でもいいので、これに乗ることにした。

東京駅を出る前に僕はもう寝ていたみたいだ。目が覚めると名古屋駅を出るところだった。ふと窓の外を見ると、雪で真っ白の景色が続いている。新大阪に着くのは30分から40分遅れるというアナウンスをしている。雪国へ行くような気分になってきた。

新大阪駅に着いてタクシーに乗って、「箕面の方へ向かってください」というと、少し間があって、運転手さんはどのへんですかと訊く。新御堂筋を北に向かって、171号線で京都方面へ、右に曲がって、しばらく行ってから山の方へ入るんですけど、と言うと、どれくらい入りますかと訊く。150メートルくらいかなと言うと、やっと「ああ、それなら行けるわ」と言う。変なことを言う。「えっ?なんで?」と訊くと、道路が凍結していて、箕面方面はやばいということだった。朝は吹雪で大阪市内に10センチの雪が積もって、新御堂筋も北の方が凍結していて、走れなかったそうだ。今夜も9時頃くらいまでしか走れないやろなと言っていた。

実際、新御堂筋を北に向かうとどんどん残った雪が増え始めた。家の近くの歩道は雪が凍っていて、人々はとても慎重に下を見ながら歩いていた。家の前にあるロータリーふうの車寄せは完全に凍っていて、タクシーの運転手は時速1キロくらいに落としてそろそろと近づいていった。すごいことになっていたんだな。家族の誰かが道でこけて怪我とかしてないかなとちょっと心配になってきた。去年は母が凍った道でこけて手を骨折した。

ドアを開けると、2歳7ヶ月の下の子がパパァ!と言いながら、洟を垂らしながら走ってきた。6歳5ヶ月の上の子は手を後ろに組みながらニコニコしながら、下の子のはしゃぎぶりを見ている。ほんの少し前までは上の子がこうやって走ってきたものだが、大きくなったなと思う。

二人にバンコクで買ったおもちゃをあげると、やはり反応の違いがもうはっきりしてきた。下の子は未来車ミニカーの10台セットを持って「Car! Car! Car !」と叫びながら転げまわるという様子だが、上の子はバットマンの乗っているバイクの構造を解明しようとしている。上の子にレーシングスーツのようなジャケットを買ったのだが、「Cool !」と言って、むしろそちらの方に興奮していた。下の子はなぜかバスが好きなので、バスのアップリケが付いたジャケットを買ってきたのだが、上の子がジャケットを着ると、やはり自分も自分のジャケットを着て「Cool !」と言っている。なんでも同じようにしないと気がすまない時期なのだ。奥さんにはジーンズとTシャツを買ってきたのだが、さっそくそれを着てやはり「Wowoo, Cool ! How did you find my size ?!」と言っている。みんな同じか。

着替えに自分の部屋に入ると、上の子の書いた手紙が5通、机の上にあった。

Dyer Papa it cood be windy in Afganistan But you hafto be very cerfool.
Love Yoshiya

Deyr Papa...
I haev a presint for you bicos I bot it for you and I em weting for you to cam bak
Love Papa 2006

Dyer Papa
I'm missing you Bicos you ere going to cam ane 'til Cerismies
Love Papa

子どもはスペルを覚えるのではなく、音に文字を当てはめることによって、自然に書くことを覚え始める。幸い、この子の行っている学校は、こういう時期にスペルを厳格に教え込むようなバカげたことをしないのでありがたい。あと二通には絵が描いてあった。

カブールから電話をしたある日、上の子が手紙の出し方が分からないと言っていたことを思い出した。今度、カブールに戻るまでに、eメールの出し方を教えようと思った。

Wednesday, December 21, 2005

見た、来た、治った

バンコク発が午後11時40分で、成田着が午前7時半なので、チェックインが早くなるという連絡を入れておいたのだが、ホテルのチェックインカウンターの女性は「はあっ?」て顔をあからさまに見せてくれた。飛行機の中でまったく寝ずに本を読んでいたので、頭がボーっとしていて、何も言う気にならず、「はあっ」女のなすがままになっていた。

前回も別のホテルで同じことが起きた。こういう時、自分も日本人なのを忘れて、日本人は案外いじわるだと思ったりする。外国で何か嫌な目に合うと、とりあえずそこの国民すべてが悪いと思うことによってカタルシスを得ようとする心理と同じだ。

結局、恩着せがましく「今回は部屋がありましたので」という枕詞とともに、部屋をあてがわれた。部屋まで案内してくれた別の女性に、インターネットすぐに繫げられますかと念のためにきいたら、ラインチェンジャーをお貸しさしあげますだって。

まったく「はあっ?」でしょ、それは。今どき、この自称先進国でダイヤルアップなんて使ってる人いるのか?僕のコンピュータにはそもそも電話線を突っ込む穴さえ付いていないことを約1年前に発見したのだ。

しかし、ミス・りんごのような、この女性に何も罪はないので、チェックイン時の不愉快さは残っていたが、丁寧さに全力投球して、すんません、LANはないですか?と訊いてみた。

「ああ、高速ネットワークですね。この部屋にはありませんが、ある部屋もありますので、お部屋を交換いたしましょうか?」だと。そうかチェックインの時にちゃんと言わなかった僕が悪かったのだ、みんな僕が悪いに決まってる、で、どうしてそういうこと最初に訊いてくれないかななんて微塵も思ってはいけない、ここは日本なんだ、アフガニスタンや、パキスタンや、UAEや、タイと違って、融通なんてコンセプトは江戸時代に朱子学を導入してから消滅したんだと思うことにした。もうすぐ赤穂浪士もやってくるではないか。

ミス・りんご(かなり可愛い)は、部屋からフロントに電話して高速ネット部屋がないか訊いてくれているが、どうやら相手はごねているようだ。電話を僕に代われと言っているらしい。けっ、もったいつけやがって、なんて思わずに、また最後の力をふりしぼって、丁寧に喋ろうとしてみた。

あいにく高速ネットのある部屋は全部うまっていて、12時まで待たないと空かないということだった。待っている間にネットに繋ぐ必要があれば、ラインチェンジャーを・・・とまた言い出す。うるさいよ、てめえと思いながら、その、僕のコンピュータは古くて性能が悪くて融通がきかないもんで、ダイヤルアップの接続ができないんだって、みたいなことを言おうと思ったが、もうどうでもいいから、12時までこの部屋で待っているから、部屋が空いたら連絡してくれるように頼んだ。もう早くベッドに倒れこみたいだけで、インターネットなんて話題を持ち出す僕が悪かったに決まってるんだから。

ミス・りんごが帰って、服を脱いで横になろうとしたら、もう電話がかかってきた。部屋が空きましただって。なんじゃ、それ?ひょっとして、大阪で言う「値打ちこき」?

3時間ほど寝て、『フォーサイト』のショーコさんに電話した。連載の予定について話をつけなくてはいけないのだった。1時間後、ホテル内のお店でショーコさんに会い、僕はコーヒーとサンドウィッチを頼んだ。今思い出したが、前回もショーコさんと話をした時(別のホテルだったが)、僕はコーヒーとサンドウィッチを頼んだのだった。僕はどうやらサンドウィッチが好きなのだな。

毎月一回の自分の原稿に、こんなんでいいんだろうかという疑問が日増しに高まっていたので、ショーコさんに思い切って打ち明けてみることにした。俳句のようにもっと魂が入ったものを書かなくてはいけないのではないかとか、月刊と言えども一貫した思想を追求する姿勢が必要なのではないだろうかとか、考え出すときりがないのだ。

しかし、そういうこととは関係なく、今日はふとショーコさんって若いんだなと思ったので、そう言ってみた。高尚な文学論になるはずが、間の抜けた出だしで始まってしまった。その時はうかつなことに思いつかなかったが、ショーコさんは結婚目前で、そういう時期の女性はどうも光り方が違うと前々から思っていたが、そういうせいかもしれない。そう言えば、外務省をやめて国連に行ったコダマさんという女性はそういうこととは全然関係なく、年中結婚間近っぽいハッピー系の人相をしていて、まぎらわしい人であったのを思い出した。

肝心の話の内容は大して進展もなかったが、ショーコさん自身の文章がとても優れものなので、おまかせコースでいいじゃないかという気分になった。編集者の役割というのはおもしろいものだと思う。励ましたり、持ち上げたり、厳しく叱ったり、またなだめてみたりと、いろいろやることが多いのだろうなと思う。

その後、1時間ほどして、higashiuraと落ち合い、寿司清に行った。今日はおいしいイカがあった。こりこりっとした小さいイカが僕は好きなのだ。大きいイカの場合は、ミミの部分がやはりこりこりしていて好きだ。飲食店内でお客さんがタバコをすいまくってる風景が新鮮だった。8日間タバコをすってなかったが、今日から復活した。

その後、タンテに久しぶりに行った。タンテはだんだんたくさん立派なウイスキーを仕入れるバーになってきたけど、なぜか今日は焼酎が飲みたくなって、ないと思ったけど、訊いてみたら、かなり立派気な焼酎が一本あったので焼酎を飲むことにした。

リューちゃんは酒を飲まなくなったそうだ。昔々は、バケツで行水をするような飲み方をしていたが、パタッと飲むのを止めたらしい。僕もそうなので、その感じはよく分かる。そもそもお酒なんておいしいと思って飲んでいなかったと思う。たくさん飲むからといって好きとは限らないではないか。

かなり飲んでから、higashiura はテツとか本位田とかに電話しているが、もちろん誰も出ない。今頃子供をお風呂に入れているんだとか言ってる。最後にhigashiura はウメに電話した。ウメは電話に出た。今、家に帰ってきたところらしい。相変わらず遅くまで仕事して、遅くまで飲んでるのかね。

ゴトー・ケンジが12時過ぎに来ると言っていたが、もう1時を過ぎていた。最後に飲んだミント・ジュレップが効いてきて、なんか頭がくらくらしてきたので、そろそろ帰ることにした。「もう1時過ぎてるで」とhigashiura に言うと、「えっ?電車ないやん。10時くらいやと思ってた」やと。なんとのんきな。どうやら、本気でテツとか本位田が子供をお風呂に入れる時間やと思っていたらしい。

時には、ショーコさんやhigashiura のように、まったく自分と異なる業界の人と話をするのは精神の健康に必要なことだと思った。

ところで、ゴトー・ケンジ、どこ行った?

Monday, December 19, 2005

プルン

ホテルの部屋のテレビにNHKが入ってたので、つけてみると、ものすごーく懐かしいスタイルの語り口の司会者がパッとしないステージの上で素人っぽい人になんかしゃべっている。どうやら、この素人っぽい人が歌をうたうようなのだけど、すべての雰囲気が例えば「戦後」とか「復興」みたいな言葉を連想させて、どうも今ではないように見える。

これはドラムの一場面なのだろうかとしばらく見ていたが、どうもそうではないらしい。古い録画を放映しているのだろうかとも思ったがそうでもなさそうだ。やがて「のど自慢」という文字が目に入った。のど自慢?ものごころついた頃にはすでにやっていたと思うが、あののど自慢?あれからずーっとやっていたのか?どこかまったく知らない町の公民館のようなところでやっているらしい。ずーっと同じことを五十年くらいやっていたのだろうか。時間のひずみに落ちてしまったような気分だ。

それが終わると、書評みたいなものが始まった。今日はミステリーものを紹介する日だそうだ。二人の文芸評論家という人が出てきて、この二人が野球の打順に合わせて(?)、9冊の本を選ぶという趣向だ。なぜ野球の打順なのか、それがミステリーとどう関係あるのかはまったく分からない。クリーンアップを打つ三冊の本について二人の文芸評論家がしきりに議論している。日本は本格的にどうかしちゃったのだろうか?のど自慢の後に、本の打順?頭おかしくなりそうだ。

ちなみにこんな本(↓)が出てきた。本には罪はないだろう。まったく知らない分野だけど、何冊か読んでみようと思った。この番組の効果ありか。

「暗礁」黒川 博行
「隠蔽捜査」今野 敏
「シャングリ・ラ」池上 永一
「容疑者Xの献身」東野 圭吾
「オルタード・カーボン」リチャード モーガン
「暗く聖なる夜」マイクル コナリー
「耽溺者(ジャンキー) 」グレッグ ルッカ
「魔力の女」グレッグ アイルズ
「灰色の北壁」真保 裕一
「ユージニア」恩田 陸

テレビの有料放送で"XXX2 - The Next Stage "を見た。こういうのを見て、戦場に行く若者はやはりムチャクチャしてしまうしかないんじゃないだろうか。残念ながら、そういう若者が登場するルポ、 "Generation Kill" は翻訳されないようだけど、あれを読んでからこういう映画を見てもコンピュータゲームで育つ狂気よりも哀しみの方をどうも先に見てしまう。

主人公のIce Cubeのセリフに"I was born looking guilty." ってのがあったけど、うまい表現だな。僕も実は、I was born looking #$%& って思うことが多々ある。

"Batman Begins" の中で、"What I do defines me" というセリフが出てくるんだけど、これは『蒼き狼』(井上靖)で描かれてるジンギス・カンの生き方に現れている思想と同じだ。

「ほんとの私は?」という問いは、人生で最も言い訳がましい時期である思春期に誰もが通過するものだと思うけど、僕は『蒼き狼』を読んで、この問いが果てしなく無効であることに納得したもんだ。だから、バットマンがWhat I do defines me と言ってるのを見た時も、Ice Cube が屁みたいな顔をしてI was born looking guilty と言っているのを見た時も、みんな苦労して大人になったんだなあと頭の中でものすごい大飛躍が働いて思った。これを読んでいる人はなんのことかさっぱり分からない可能性大ですね。

まだ咳が続く。時々、ゲポッとのどの奥からカタマリが出てくる。太った芋虫のような形だ。やわらかく弾力があるが、形は崩れない程度に固体化している。おすとプルンとゆれる。まるで一個の生物みたいだ。黄色い地に赤がまだらに入っている。痰に血が混じっているのだ。これを食べると病気になるだろうなと思うが、元々自分の体内から出てきたことを思い出して一人笑ってしまう。しばらく眺めてからティッシュでくるんで、もう一度念のためギュッと押してみたが、かなり固形的抵抗を示した。なかなかやるなと思いながら、ゴミ箱に捨てた。そろそろ頭のもやが晴れてきそうだ。

Sunday, December 18, 2005

ワニ

あんのじょう、今回のフライトは坊主の武者修行みたいなことになってしまった。ぷるぷるとふるえながら、けな気にも静かに痛みをこらえている、のどや鼻の弱った粘膜を思うと、なぜか因幡の白兎を思い出した。蒲(ガマ)の穂は効くんか?日本の海にはワニがおったんか?ととりとめもないことがボケた頭の中をまわる。

機内の乾燥した空気と低い目の気圧は、ジョディ・フォスターの「フライト・プラン」ですでに使われていたような、超巨大二階建て旅客機が実用化された暁には解決するそうだけど、なんで巨大化するまでまたんとあかんのかね?面の皮が厚くても、体内粘膜のかよわい僕としては、飛行機に乗るたびに受けるダメージにはかなり困ってるんですけど。

ついでに「フライトプラン」日本では公開前みたいだし、商売の邪魔したくないけど、それでもやっぱりストーリーもうちょっとなんとかならんかったかなあ。ジョディ・フォスターは相変わらず優等生の演技でしたが。

バンコクには1時間遅れで朝7時半くらいに到着。ホテルに頼んでおいた向かえの車が今回はなんか見慣れない新しい車になっていた。BMWの新車だそうだ。まあ、僕にはほとんど猫に小判なのだけど、素人目にも美しいと思わせる形であった。

ホテルに着くと、中二階のレストランに朝食人がたくさん入ってる。今お腹すいているか?と自問してみたがよく分からない。そう言えば、この1週間ほど食欲があるのかないのか分からなかったのだった。

こんな朝っぱらにチェックインする人はそんなにいないので、すぐに部屋に入った。僕の部屋は14階で、高さではこのホテルのちょうど真ん中辺りなのだけど、窓から外の景色を見ると地震が起きたら絶対助からないだろうと思う。

さて、何をしよう?まず、バスタブにお湯をためた。そして、浸かった。おーっと思う。全身に感動が走る。何かこれだけでスーパーマン化するような気分。凄まじきお湯の威力。

次に、やはり何か食べるべきだと決意した。でも、外に出る気はしないので、ルームサービスで、カオパッド・ガイとトム・ヤム・クンを頼んだ。日本風に言うと、焼き飯とスープかな。

食べ始めてから食欲がわいてくるような気分が盛り上がってきた。タイめし効果かもしれない。めしの後に、タイマッサージ2時間で20%割引のちらしが室内にあったので電話した。15分ほどで日本で言えば薬局屋さんのユニフォームのようなものを着た小柄な女の人が現れた。最初の10分くらいは意識があったが、もう後は時々体勢を変える時に起こされて一瞬目が覚めるが、ほとんど起きていられなかった。いつの間にか2時間経って、終わったことを告げられたが、もう目を開けるのも立ち上がるのも面倒くさく、サイドテーブルの上にいくらかタイ・バーツを置いていたので、なんとかそこに手を延ばして200バーツをとって彼女にチップにあげて、また寝た。しばらくするとバタンというドアの閉まる音が聞こえた。僕はそのまま寝てしまった。

目が覚めたのは夕方の5時過ぎだった。とてもつもなく深い海に潜っていて、今戻ったばかりというような疲労感のある目覚めだった。でも、確実にもわーっとした状態から抜け出しつつあるのを感じる。ようやく先に明かりが見えてきたのかもしれない。

Thursday, December 15, 2005

とても Hung Up

な気分だなあ。なんもかも中途半端なまま、怒涛の闘病生活、というほどでもないけど、うだうだするだけで生産性皆無の生活を続けるうちに、もう何が中途半端だったのかさえ忘れ始めた。

今日はもういいかげんにすっきりしているかなと期待していたが、目が覚めてみると、いまいちだった。咳は減った。鼻水も減った。涙目も減った。のどの痛みはほぼ壊滅。しかし、全身の微妙な震え感がしぶとく残っている。脳みそがわなわなしてる感じが一番嫌だ。目に入ってくるものにちっとも現実感がない。ひょっとして頭の病気?

約束通り、旅行代理店の人がイスラマバード・バンコク・成田の往復チケットをもってきてくれた。64,800ルピーだった。米ドルに直すと、1,080ドルだが、百ドル紙幣しかもってなかったので、1,100ドル払った。なんか勘違いして頭の中では120ルピーのお釣りだと思って、お釣りいらないよと言ってしまっていた。後で考えたら、20ドルのお釣りだから、1,200ルピーもあげたことになる。ああ、バカじゃないか!

その後、歯医者に行った。常に2週間前からびっちり予約が入っているカリスマ歯医者なので、予約時間に遅れるとみてもらえない。今日も受付の女の子は愛想がいい。この国では愛想のよい若い女性というのはほとんど語義矛盾、つまり、あってはいけないことなので、この歯医者に入って彼女を見た瞬間、違う国に来たような気がする。女は笑顔一つで世界を変革する、とかってレーニンとかチェ・ゲバラとかカストロとか毛沢東とかジョン・レノンは言わなかったかもしれないが、『すべての男は消耗品である』には書いてありそうな気がする。

毎回、麻酔を打ちまくって治療をするので、今はいろんな薬をのんでることを一応伝えた方がいいのかなとも思ったが、たかが風邪薬だし、それに「それじゃあ、今日は治療なし」なんてことにはなって欲しくないので、風邪引いて調子悪いとは言ったが、薬のことは何も言わなかった。

相変わらず歯医者ジュネは手際よく治療を始めた。3人の若い女性がアシスタント役をやっているのだけど、分業がすごくうまくいっていて、ジュネの心が読めるようにてきぱきと動いている。ああ、それにくらべて、うちのオフィスときたら、ったく、とふと思うが忘れることにする。

あれっ?胃のあたりに盛り上がり感がある。なんか、これは吐きそう・・・。まずい、吐くのでは・・・。でも口をあけたままで治療は続いているし、何にも言えない。どうしたものか。この状態で嘔吐が始まると悲惨なことになりそうだ。痛い時は手をあげろとか言ってたから、手をあげたら気づいてくれるか。しかし、もう少し我慢してみようかな。終わるまで持ちこたえるかもしれないし。やっぱり麻酔と風邪薬の食い合わせが悪かったか??

吐き気を我慢して、目をつぶっているとやがて口を開けているのもしんどくなった。もうギブアップしようと思ったら、歯医者ジュネのOKという声が聞こえた。終わったらしい。歯医者に向けての逆噴嘔吐というおぞましい事態は避けられた。

いつものように、ジュネはまるで「今日の試合を振りかえって」みたいな De-briefing をしてくれている。こういうのがとてもジュネ先生らしい。治療方針、なぜそういう方針にするのか、そのための現実的なオプションは何か、それぞれのリスクは何か、そして今日はどこまで進んだか、要するに、決して患者を暗闇に放置しないという方針なのだ。見方を変えれば、まるで良いプロジェクト・マネジメントの見本のようだ。

歯医者を出てから、少し歩くことにした。四日間もごろごろしているので筋肉が衰えてしまってる。わなわな感もそれに関係しているのだろう。そう思って、昨日の夜は1キロほど離れたマーケットまで歩いて行き、ケンタッキーのフライドチキンを食べたのだった。注文する時に、「辛いのか、普通のか」って訊くから、辛いのをバーガーに、普通のを単品で頼んだが、食べてみると全部辛かった。とてもパキスタンらしい。帰りに、Radio City というCD/DVD屋さんで、マドンナの"Confessions on A Dance Floor" を買った。1曲目の "Hung Up" の懐かしい音色が聞きたかった。同じ歳で最も偉大な人はマドンナかもしれないなあ。

鳥風邪?

久しぶりに強烈な風邪をひいた。腰が痛くなってきたのが日曜日。翌日は朝からだるかったが、それでも元気ではあった。銀行に行き、パキスタン大使館にヴィザを取りにいった。この時、寒風吹き荒ぶ中、約半時間は外で立っていたと思う。これが効いたのだろう。その後、オフィスに行ったが、急激にだるくなってきて、座ってられなくなった。PCもバッグもそのまま全部オフィスにおいて、ゲストハウスに帰った。少し横になればましになるだろうとその時は思っていた。ところが、どんどんしんどくなる。のどが痛い。熱い。関節が痛い。ああ、風邪引いたと思う。あわてて、日本からもってきた薬を探す。こんな時用セットとしてもらった、フラベリック錠20mg、ペレックス顆粒、ムコダイン錠500mg、クラリス錠200、なるものをのむ。ついでに熱っぽく、あちこち痛いのでロキソニン60mgものんだ。

もうオフィスに帰るのはあきらめた。近所に住むミゲナに、帰ってくる時にバッグとPCをもってきてくれるように頼んだ。それにしても、このクソ忙しい時にと思うと、むしょうに腹が立つ。あれもこれもと頭の中はやるべきこと洪水状態で爆発しそうになる。夕方、所長が電話してくる。しんどい時はオフィスに来るなという話。2週間ほど前も同じようにダウンしかけたが、その時は体力の方が勝利して、大事には至らなかった。その時も結局、オフィスとゲストハウスの間を行ったり来たりして完全休暇はとらなかった。電話の向こうの所長の声は「ほれ見たことか」に満ちていた。

火曜日の朝。のどの痛みが悪化していなことを発見。やや安心するが、咳がひどい。鼻汁と涙が垂れ流し状態。頭はボーっとしている。身体全体が宙に浮いているような感じがする。無理だ、これは。一日じっとしている決心をした。うつらうつらしていると、バラモンから電話がかかってくる。あまりにマヌケな質問に地獄に落ちろと叫びたくなった。もっとまっとうな質問が山ほどあるはずの自分の部下からは電話がない。邪魔しないように気にしているのだ。それを考えると、バラモンのバカさかげんによけいむかつく。

水曜日になってしまった。咳き込んで苦しくなるようなことはなくなったが、鼻汁と涙は相変わらずだ。頭もボーっとしている。翌日の木曜日ははイスラマバードへ行って、金曜日に歯医者に行って、土曜の夜中にバンコクへ向かう予定だったが、この調子ではきついなあ。

寝ているかどうか、今電話してもいいかどうかという質問を、アミールが携帯のメールで送ってくる。なんというバラモンとの違い。イエスと返信すると、すぐに電話がかかってきた。電話でアミールと話してみて、声が出にくいことに気がついた。この二日間は実に声を出すことが少なかった。だから、自分の声の状態を認識していなかった。夕方にアミール+二人が僕のゲストハウスにやってくるということになったが、こののどの状態で無理に声を出すとまたぶり返しそうな気がして、静かに話そうと決意する。お見舞いに来るわけじゃない。この二日間にたまった質問をクリアにすることと、翌日からの予定と仕事の手順について話す。

彼らからブリーフィングを受ける。相変わらずバカバカしい事態もあちらこちらで起こっているが、すべて予想の範囲内で大して興奮するようなこともなかった。この年末に処理しないといけないことは多いが、なんとかなるだろう。

そして、とうとう木曜日になってしまった。イスラマバードへ行く便は午後なので、その前にオフィスに少しでも顔を出そうと思っていたが、どうにもこうにも調子よくない。昨日よりは改善していると思うのだが、全身が微妙に震えているような気がする。のどは特にわなわなしている。自分の声が自分の耳にストレートに入ってこない。宙に浮いた感があって、平衡感覚がにぶってる。

空港へ直行するというメールを携帯電話で自分の部下に送って、オフィスには行かず、空港へ向かった。空港の待合室でフブにばったり会った。How are you ? なんて言われてもねえ。あんまり良くないってこたえると、ひどい顔してるとフブは僕の顔をまじまじ見ながら言ってくれた。朝、鏡で自分を見て、ほんとひどい顔してると自分でも思った。

カブールからイスラマバードまでは1時間くらいだが、離陸する前から僕は眠り始めたようだ。着陸の直前になって目が覚めた。ものすごく長い時間寝ていたような感覚が残ってる。イスラマバード空港から市内までの車の中でも、またすぐに眠りに入っていた。何時間も 寝ていたような感じなのだが、実際は30分くらいだ。

この四日間、タバコをまったくすってない。タバコもすえないほど不健康になったということか。

Saturday, December 10, 2005

孝行息子は3カ衝撃を乗り越えなければならない

アミールは結婚していないが二歳の息子がいて産みの親である元彼女がボスニアで育てているが、本人はカブールで別の彼女と住んでいる。それがどうした?アミールは息子思いで、かつ孝行息子でもあるのだ。

休暇になるとアミールはボスニアに帰って息子と過ごす時間に最大のプライオリティを置いている。たまたまそこには元彼女である息子の母がいるのだろうけど、それがどうした?息子との失われた時間に対するなんとも言えず痛い感じはよく分かる。失われてしまった時間は、もう戻ってこないのだ、みたいなことを年中怒り狂ってる僕とは正反対にとてもマチュアで情緒のバランスが良いアミールがポツンと言ったことがあって、その時はちょっとドキッとした。

でも、彼は今、ジレンマ中でもある。両親をどこか外国に連れて行きたいと思ってもいるのだが、そうすると息子との時間が減少してしまうからだ。休暇一回分は確実に消滅するだろう。内戦中はスイスに逃れたり、戻ったりしていたそうだが、あまり詳しいことは知らない。「で、戦ったのか?えっ?どう?」なんて下品な訊き方になりそうで、どうにも話のもっていきようがなく、その辺の話は戦争があった、で、戦争が終わった、で通り過ぎる。

で、戦争が終わって、アミールの両親は息子二人(彼には弟が一人いる)に何か残さなければいけないと思い、なけなしのお金をはたいて、巨大な家を買ったそうだ。親というのは世界中どこでも子供に何か残さなければいけないと思うものなのだろうか。僕の親もよくそんなことを言っていた。僕も妹も何にもいらないというのに頑張って、結局借金だけ残してくれたが。

アミールの親が買った巨大な家というのは完成品ではなく、壊れた家だった。戦争があったのだから、なにもかも修理が必要だったとすれば、それも珍しいことではなかったのかもしれない。その壊れた家をお父さんは少しずつ修理しているそうだ。いずれ、息子二人がそこに住むことを夢見て。

「問題は」とアミールは言う。「まず、巨大過ぎて、おそらく全部修理するのは不可能か、可能としてもこの先何十年かかるか分からないということ。次に弟と二人で住むという可能性はまったくない。そして、どちらか一方がボスニアの片田舎に帰ってきて、その家で生活するということも考えれない。そんなところに仕事がないのだから、不可能なのだ」ということらしい。

アミールが両親にそう説明しても、「さあ、次はあそこのドアをつけよう」ってな具合で話にならないらしい。そんなこと聞きたくもないのだろう。もういいではないか、それが生きがいなら、そうやっていたら、と僕が言うと、アミールももうそう思うと言っていた。

そんな親にアミールがどこか行きたいところはないかと訊いたことがあるらしい。無口で黙々と家の修理をしている、彼のお父さんは普段何も要求するとか頼むとか好みを言ってうるさいとかそういうことがない人なのでまた何も答えないだろうとアミールは思っていた。ところが、お父さんは、一言恥ずかしげに、

「ピラミッド。」

と言ったらしい。何がなんだかさっぱり分からないが、ふだん何にも言わない父親がそんなことを密かに思っていたなら実現したいと思うだろう。よく出来た息子であるアミールは「なんで?」なんて野暮なことは訊き返さずに、両親をピラミッドに連れて行こうと思った。

僕も興奮して絶対連れて行ってあげるべきだと強行に主張した。僕の父親は入退院を繰り返して、酸素ボンベをつけて寝るらしいので、もう飛行機には乗れないだろう。そんなことにいつなるか分からないと思うと、ひとの親の話なのについ断固おせっかいになった。

しかし、いきなりカイロに突入するわけか。かなりの困難も予想される。カイロ、カラチ、カルカッタ、俗に言う「3カ・ショック」の街だからなあ。僕の第三世界体験はカラチで開始したのだけど、あれはホントにすごかった。あれほど呆然自失という言葉がぴったり当てはめる瞬間もそんなにはないだろうと思う。

しかも、年老いた親というのはまったく予測不可能な動きをするものだ。いやはや大変だろうけど、ここはアミールが奮闘するしかないだろう。

Friday, December 09, 2005

壊れた・・・

年末になると、恒例の決算という一大行事でてんやわんやになるのはもうなじみ深くなってるけど、いまさらアホではないかと思わざるを得ないこと続出で、怒るべきなのか笑うべきなのかもう分からなくなってきた。

ずーっと深酒をしていなかったけど、ボスニア人のアミールが故郷からもってきた手製のラキア(焼酎みたいなもの)がおいしくて、彼にちょっと飲まないかと勧められると、一杯だけのつもりで始めて、もう途中で何もかもどうでもよくなって、門限もへったくれもあるか状態で、アミールも僕も舌が回らなくて何を言ってるかさっぱり分からないはずだが、へべれけになりながらもなんか話していて、最後はカラシニコフをぶらぶら下げて、つま楊枝をいつも口に入れてる警備兵に護衛してもらいながら、ふらふらと自分の家まで歩いて帰るということが最近何回かあった。

みんな荒れている。
アミールは、ここの毎日は映画になると怒りをかみ締め笑いながら言ってたけど、ほんとにそうだと思うと、僕も笑いが止まらなくなった。よくもここまで奇想天外なことが毎日起こるものだ。もう腹も立たず、ただ笑いで腹筋が痛いだけになってきた。

すごーく久しぶりに、UNICAという国連のゲストハウスに行った。昔々は国連の人はそこにしか住めなかったので、僕もかつてそこに2年くらい住んでいたから、すごく懐かしいので行ってみようかなとは何度も思っていたのだが、今の状況を聞くにつけ行きたいという気持ちが失せていた。遊び場所みたいなのが何にもないので、夜な夜なUNICAにわんさと外国人がつめかけて、ガールハント・ボーイハント用の、いわば漁場みたいなことになって、「えらいことなってまっせ」という話だけ聞いていたのだ。

ある晩ふとビリヤードをやりたいと思い立って、迷いをふりきり、逡巡する身体に鞭打って、アミールを誘いUNICAに行くことにした。行ってみると、外見はかなりそのままで安心した。が、肝心のビリヤード台は壊れていた。なんか意気消沈。晩飯を食う気にもならず、サンドウィッチとかなんか簡単なものを作ってくれないかなときいたが、今は晩飯用ビュッフェの準備で忙しいからと断られた。

しょうがないから、バーにちょっと寄ってみようかと思っていると、アフガン人の男がタッタッタと寄って来た。視力が思いっきり落ちたので、2メートル離れているともう誰か僕は分からないのだ。

ミスターヨシ!
と言う。おおおお、ハミドではないか。彼はずーっとここのバーテンダーをやっているのだ。どれくらいずーっとかというと、国連がここをゲストハウスにするよりもずっと前、ソ連の社交界がカブールにあって、社交の場の一つとしてここが使われていた頃からずーっとなのだ。生き延びていたのだなあ。

バーに行ってカウンターにつくと、ハミドは昔は良かった、みたいな話をポツポツとし始めた。今はクレージーになってしまって・・・バカな西洋の若造が酔って暴れる・・・ビリヤード台を壊したのもあいつらだ・・・。彼は僕が毎晩ビリヤードをしていたのを知っている。ビリヤード台が壊れたのは彼のせいではないのに、なんか申し訳なさそうな顔をしていた。ビリヤードなんか全然やりたくなかったふうに見せようとちょっと努力してみた。

僕はかつてキッチンとバーのマネージャーをしていたので(当時、UNICAの住人で責任分担していた)、キッチンに行ってみたくなった。それに何かつまみになるものを作りたいとも思ったので、みんな忙しいのなら自分で作ろうと思ったのだ。

そこに住んでいた頃、片目のシェフがいて、彼に僕は中華風の料理をかなり真剣に教えようとしていた。彼は英語はいまいちなのだが、フランスで仕事をしていたことがあって、フランス語は得意だった。それでも英語の料理本を20冊くらいパキスタンで買ってきて、彼にあげて、いろいろ試していたのだった。やっと彼が覚えた中華あんかけ風焼きソバはその頃のカブールではほとんど革命に匹敵した。同じものに150%くらい食傷していた住人にも大好評だった。

キッチンに行って何か作ってこようと言って席を立ちかけると、ハミドの顔が暗くなった。

「死んだよ、あの片目。みんな新しい。行かなくていい・・・。」
と言う。

そうか。もう昔と違うのだな。いろいろ変わって当然なのだ。外国人みんなで寄ってたかって変えようとしているんだから。

なんかずうずうしいことになりそうだから、おとなしくしていることにした。その後で、ハミドはフライド・ポテトとサンドウィッチとサラダをバーのカウンターに持ってきてくれた。

習慣的にアルコールを飲んでいないせいか、すぐに酔っ払ってしまう。何も言わないのに、ハミドは僕のグラスが空になるとすぐに新しいのをついでしまう。結局、どれくらい飲んでいたのか、というか、お金を払った記憶がない。困ったもんだ。

かなりヘロヘロし始めてから、フブがやってきた。ヒューバートというオランダ人の白髪のおじさんなのだが、みんな彼をフブと呼ぶ。

ニコッとアミールと僕に笑顔をみせて片手を軽くあげて、近寄ってきた。そして、「ああ、今日は最悪の日だった」が彼の最初の言葉だった。誰もかれもみんな毎日、最悪の記録を更新しているような気がする。

彼はCapacity-Building の専門家で世界中を回って、現地の民間人や新しい現地政府のキャパビルを設計している人なのだ。言葉ばっかりで、全然現実離れした議論が蔓延している援助業界の中では、彼はとても珍しく、現地の状況を反映して、現実的でものすごく緻密な仕事をする人なのだ。彼と話をするのはとても楽しい。

ところが、彼のやってることを全然理解しない人も少なくなく、日々彼が絶望と落胆にめげず戦っているところを見ると、凄惨な拷問でも見ているような気分になる。年末になってバタバタと痴呆のように走り回るはめになるのは、彼のようにちゃんと現状を分析して、その対応策を長期的に設計しないからなのに、そんなことは微塵も考えず、目の前1.5メートルくらいのことしか考えず、ギャーギャー言ってる連中がこの世では常に多数派なのだろうか。

フブはフォト・ジャーナリストという側面もあり、美しいものに敏感で、かつ哲学にも若い頃、相当はまっていたようで、写真や文学や哲学の話をまるで学生に戻ったような気分ですることができて、とてもおもしろい。

でも、彼もいつか完全に切れてしまうのではないだろうか、とハラハラする。僕は自分はもう完全に精神衛生を壊していると思うが、もし専門の精神科医がここに来たら、そんな人はゴロゴロ見つかるだろう。

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壊れたか、フブ?(オフィスの敷地内で。バックに見えるは有名な土嚢)

Sunday, November 27, 2005

I AM SAM を見た。

歯医者に行くために週末にイスラマバードへ来た。たかが歯医者で毎回飛行機に乗って隣国に行くというのも実に間抜けな事態だが、出費もこの歯痛騒動でもう数千ドルになってしまった。実にバカバカしい。歯医者に払ったお金は百ドルにもみたないというのに。でも、気分転換の効果もあるので、それなりに良いことかもしれないとも(かなり無理に)思っている。

部屋にいる時は、インターネットは繋ぎっぱなしなので結局どこにいても仕事は24時間続いているようなものだけど、それでもカブールの缶詰状態よりは精神衛生は少し改善されるような気がする。

テレビつけっぱなし、PCで音楽ならしっぱなしで、本を読みながら、メールをチェックしつつ、返信を書いたり、原稿を書いたり、何一つ集中していないけど、これでもオフィスにいるよりはましだと思う。オフィスでの仕事はもう狂気の沙汰としか思えない。次から次にどこにも出口のないような問題が津波のように押し寄せてきて、5分以上同じ問題を続けて考えることもできない。みんなイライラして、声を荒げ、途方に暮れ、ため息をつき、そして疲れきって家に帰る。次の日はまた同じことの繰り返し。

今日の夜、つけっぱなしのテレビでI AM SAM をやっていた。ちらちらと見ながら、A History of The Arab Peoples, Albert Hourani. (分かりやすい。お勧め)を読んだり、次の『フォーサイト』の原稿を書いたりしていたのだが、だんだん、I AM SAM が優勢になり、いつのまにか、この映画だけに一点集中していた。

ミシェル・ファイファーがいらいらして怒鳴り散らす弁護士役をやっていたのだが、その醜さに仕事でいらいらしている自分の姿を思い出す。ショーン・ペンが 7歳児の知能しか持っていないという設定のサムを演じるが、ミシェル・ファイファーの弁護士とは対照的な汚れていない心みたいなものを象徴していた。映画を批評するほど映画のことは分からないが、DVDを買おうと思ってアマゾンを見たら、120件もレビューが載っていたので、ヒットした映画なんだろうな。全編ビートルズのカバーで満ちていた。CDも買おう。

見ている途中、なんども胸の奥の方が痛んだ。

Thursday, November 03, 2005

『声をなくして』 永沢光雄、晶文社

上記は今回の特選必読書です。
是非、読んでください。こういう人が日本を救う、と思う。

うつ病で、癌で、声をなくし、胸にあけた穴で呼吸をし、小腸を食道かわりに移植し、腎臓が悪くて、肝臓が悪くて、アル中なんですが、鋭いです。かつ笑わし続けてくれます。


「日本で現在、多くの人間によって雑誌に書き散らされている、ノンフィクションという記事。もう一度言う。みーんな、おんなじ!!まるで、明文化されていない、だが空中にきっちりと浮かんでいるマニュアル通りに書かれたり、写されたり、撮られたものばっかり。「いらっしゃいませ」、「ハイ、ハイ、コーラは Sですか?Mですか?(笑・筆者)、ポテトはいかがですか?」、「ハイ、三分程お待ちいただけますでしょうか?」、「どうもありがとうございました(笑・筆者)。」(59頁)

「三十五歳を過ぎたあたりから、私はその文筆家を志す若者たちに蔓延しているノンフィクションなる書き方を、沢木耕太郎病と呼ぶようになった。まずは自分のことを書き、そして対象物との出会い、それらのもみあい、葛藤、やがての相互の理解、そして「じゃ」と片手を挙げて世間の雑踏の中に対象物は消えてゆく。」(59頁)

「上手く言えないが、ノンフィクションと銘打たれた文章は、取材対象を通し、昼過ぎのアパートの中でオナニーをしている自分、深夜の居酒屋で恋人であったはずの人間に酎ハイを頭からぶっかけられて、呆然としている自分を書く作業であると私は考えるのであるのだが、皆、自分を隠すようになり(編集者の命じるところでもあろう、誰もてめえのことなんか読みたくねえんだよという。違うんだけどなあ・・・・取材相手を通して自分を書くということは、すなわち、その時こそ初めて取材相手を表現することなのに・・・・)、そろいもそろってお涙ちょうだい、情にすがるばかりの記事のオンパレードになってしまった。テレビも同様。何がノンフィクションだ!?そんな言葉のなかった頃の坂口安吾や川端康成の囲碁の観戦記の方が、よっぽど臨場感があり、そして何よりまず第一に著者の心が表現されている。」(90頁)

どうですか?えっ?痛いですねえっ。
妻のいる方、いた方、こんなん(↓)はどうですか?

「そもそも、私の妻という人間は、やたらと些細なことでむくれる。やれ、酔っ払って道端で寝ていたところを警察に保護されただの、バーのカウンター席から落っこちて買ったばかりのズボンを破いただの、やれ、二、三日、都内某所にいて帰宅しなかっただの、そんな些細な、私の意志の入っていない出来事をあげつらっては、こちらを批判する。
 これは、私の妻だけのことであろうか?
 だとしたら大変なことである。私のかかりつけの精神科医のもとに引っぱっていかねばならない。
 それで数人の、結婚している友人に尋ねてみた。君のところの妻君はどうかね?
 私は彼らの答えを聞き、安堵した。どこの妻君も、実に些細なことで怒るらしい。やれ、酔っ払って喧嘩となりひっぱたいたとか、本人も知らぬうちに気がついたら家の外に三人の女を囲っていたとか、競輪でけっこうな勝負に出てマイホームを失ったとか、そんな些細なことで、なぜか彼らの妻君たちは怒髪天を衝かせたらしい。
 そうか。四十五歳になってやっとわかった。妻という人種は、ほんの些細などうでもいいことで怒ることを趣味としているらしい。
 そう考えると、自分の意志とは無関係に体内で生まれたガンなんで、取るにたらないことだ。どうしてか?あんなに些細なことで怒ってばかりであった妻が、私がガンになった時は怒らなかったからである。怒りに値しなかったのであろう。」(188-189頁)

うなります。

Wednesday, September 28, 2005

'Suicide bomber' strikes in Kabul

From BBC : Wednesday, 28 September 2005, 16:56 GMT 17:56 UK
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/4290744.stm

A suicide bomber has killed at least 12 people and injured a number of others outside an army base in Kabul, Afghan security officials say.

The suspected bomber was among those killed in the powerful rush hour blast near the army training centre.

A security official said the bomber drove his motorbike to a car park where Afghan soldiers were waiting for buses.

There have been several suicide bombings in Afghanistan this year, but they are relatively rare in Kabul.

The last one in the capital in May killed three people.

Wednesday's was the first such incident in the country since parliamentary elections on 18 September.

Afghan President Hamid Karzai was swift to extend his sympathies to the victims.

"I am saddened that the lives of many Afghan people, mainly soldiers serving the Afghan nation were lost. I condemn it in the strongest terms."

'Busiest hour'

Defence Ministry spokesman Mohammed Zahir Azimi had earlier said: "Today just after 1630 (1200 GMT) a man riding on a motorbike carried out a suicide attack in front of the Kabul military training centre."

He said initial reports suggested a number of those killed were Afghan National Army soldiers.

Nato-led peacekeepers, who have a base 500 metres away, and Afghan police sealed off the area, causing huge tailbacks of traffic.

The BBC's Bilal Sarwary at the scene of the attack on the Kabul-Jalalabad road said there was chaos after the blast.

At least three army buses were seriously damaged, he said.
Witnesses spoke of scenes of horror.

"I saw a man on a motorbike driving towards the parking area where there were a lot of soldiers trying to get into a bus. I heard a big bang and every one started running. Then I saw people lying on the road,"

Mohammad Haider, a 31-year-old taxi driver, told the BBC.

'Huge boom'

The bomber struck at one of the busiest hours in the day, with hundreds of people outside the centre after work.

"It was rush hour and I was waiting with everyone for their buses to go home, when I saw a motorcycle rushing towards lots of buses and people in the parking area," an Afghan army officer told the AFP news agency.

"Suddenly I heard a huge boom. I fell to the ground and when I stood up I saw several bodies scattered around.

"Two buses were on fire and there was human flesh around me."
It is not yet clear who was behind the attack but Abdul Latif Hakimi, who claims to speak for the Taleban, said they carried it out. He named the bomber as Sardar Mohammad and threatened more attacks.

Earlier in the day, Afghan intelligence officials told the BBC they had information that an al-Qaeda suicide squad - Fedayini Islam - was in Afghanistan.

Officials said they suspected the bomber might have been Arab.

Militancy

There have been other suicide bomb attacks this year in Afghanistan. In May a UN worker and two others died in an attack on a Kabul internet cafe.

A suicide bombing in Kandahar left more than 20 people dead in June.

The last major explosion in Kabul was in August 2004, when a car bomb ripped through the office of a US contractor providing security for President Hamid Karzai, killing about 10 people. The Taleban said they carried out the attack.

Last October three people died in the capital when a suicide bomber detonated hand grenades as he approached soldiers in a busy shopping street.

More than 1,000 people have been killed in violence linked to militancy in Afghanistan this year.

//END//

Saturday, September 17, 2005

BGMとか。

高校を卒業して以来、すべての音楽はBGMになってしまった。それを望んでいたという事情もあるのだが、ほんとにそうなった。高校卒業まではあまりにのめりこんでいたので、結局テクニカルなディテールばかりに注意が向いてしまって、音楽を音楽として単純に楽しむという幸せが消え失せていたと思う。

自分でギターを弾いていると、音楽を聴くというより、ついどんなテクニックが導入されているかとか、どんな新しい細工が使われ始めたとか、ミュージシャンのプロフィールなんかにばかりに関心が向いてしまって、結局音楽を楽しめなくなっていた。それに高校生の頃に気がつき始めていたのだが、完全にギターから離れるまでは、そういう状態から抜けきれなかった。

それももう25年以上前の話なので、高校を卒業して数年すると、ギターのことはまったく忘れてしまって、ジャンルとかミュージシャンとかそんなこととは無関係にただふと耳にした音楽で「いいな」と思えば、たまにCDを買う程度のスタンスになっていた。熱狂的に特定のミュージシャンのファンになるということがなくなって、音楽すべてまとめてBGMになったのでした。

そういう姿勢になってからも、時々、「おっ」と思うのがたまに登場することがある。全部は覚えていないけど、すぐに思いつく「おっ組」は、Frankie Goes to Hollywood, Massive Attack, INEXS, Jane's Addiction, Oleta Adamas, Radiohead, 椎名林檎とか。

INXSは登場した時から伝説化が始まるようなバンドだったけど、ヴォーカルが死んでから、ほんとに伝説のバンドになってしまった。彼らも今やいいおじさんだ。

ところが今新しいヴォーカルを入れて、再出発することになった。そのヴォーカル選びを公開でやるテレビ番組が水曜日と木曜日に「Rockstar INXS」というタイトルでやってる。予備選考を通過した15人が毎週いろんな課題曲を歌って、一人ずつ落選していって、最後に一人選ばれて、ホントにINXSのヴォーカルになることになっている。American Idol のロックスター版だ。これがまた、いやはやレベル高いです。INXSに参加しようがしまいが、もうあんたはスターでしょってのがぞろぞろ出てくる。

毎週歌われた曲はすぐにMSN Music でダウンロードできるんだけど、プロを抑えてRockstar INXSが始まってから売り上げトップ10は常に彼らの曲で独占されてるから、すごい。

来週が最後に残った3人の戦いになるんだけど、前半戦のパフォーマンスを集めたCDの予約が始まったので、すぐに予約購入した。

この番組には、INXSが毎回審査員として当然出ているのだけど、それに加えてデイヴ・ナバロが進行役で出ている。ロックファンはたまらんでしょ。デイヴ・ナバロといえば、あのJane's Addiction を立ち上げて、ほとんどギタリストの概念を変えてしまった人だし、その後レッド・ホット・チリ・ペッパーズにある時期参加していた人で、センスの良さでは現役ギタリストの中では飛びぬけているのです、と僕は思う。クラプトンとかジェフ・ベックとかロビー・ロバートソンとか、そして当然ジミヘンとか大御所ももちろんいいと僕は思っているのだけど、そういう人たちとはまったく違う新世代のギタリストの地位を確立した人としてデイヴ・ナバロはすごいと思う。

そういうこととは関係なく、デイヴ・ナヴァロの簡潔で心遣いの行き届いた、しかもカッコイイフレーズ連発のトークに僕は感心した。ああいうコンパクトでスパッと言いたいことを相手を傷つけず伝える英語は、とても勉強になる。そういう人だから、ああいうどセンスのいいギターが弾けるんですかね。関係ないかな。

今日も身体は疲れきってるのに、頭の中はぐちゃぐちゃ、神経が煮えたぎってるようで、なかなか眠れない。ベンザリンを飲んで、Radiohead の"HAIL TO THE THIEF"をBGMにして、ほとんど更新しないブログを書いて、後はSteve Coll の"Ghost Wars"を読みながら、眠くなるのを待つつもり。

"Ghost Wars"はさすがにピューリッツァ賞をとっただけあって、よくできた本です。ろくでもない「9・11もん」を読んで後悔している人にはお勧め。副題は"The Secret History of The CIA, Afghanistan and Bin Laden, From The Soviet Invasion to September 10, 2001" です。「September 10 まで」っというのが粋なところでしょ。ペンギン・ブックスに入っているので、日本の書店でも手に入るかも。きれいな正統派英語なので、日本の大学受験英語の教材にも使えるんじゃないかな。但し、読み出すとなかなか止められない、おもしろい内容なので、勉強どころじゃなくなる可能性もある。

(書いてから、だいぶ日が経ってしまったが、16日と17日の分をアップした。)

Friday, September 16, 2005

3連休

今日から金・土・日と3連休です。18日の選挙をひかえて危険度急上昇って解釈の結果です。なるべく休暇を利用して出国するようにという、命令なのか、勧告なのか、忠告なのか、詔勅なのか、お知らせなのか、お叱りなのか、なんかよく分からないけど、とりあえず誰か死んでも誰も責任とらずに済みそうな準備がされて、国連の外国人スタッフは大量出国しました。

毎日のように回ってくるセキュリティ情報メールに、今回(水曜日)に限って最後にこんなこと書いてあると、バラモンがめざとく見つけてきた。

"Your security is my concern, but stays your responsibility"

日本語にすると、「あなたのこと(身の安全)はとっても心配だけど、自分で責任とってね」みたいなところか。国連のDSS(Department of Security and Safety)の真髄をきれいにコンパクトにまとめたうまいフレーズだ。内容がなんであれ、コンパクトで意味が明瞭なコミュニケーションは気持ちのいいものだ、と感心しながら、笑っているとバラモンは憮然としていた。なんか起きることを予測して言い訳の先手をうってるのか、というから、当たり前じゃないかと言うと、バラモンは二コリともしなかった。結局、バラモンは木曜日に出国してしまった。

今やゲストハウスは静かなもんだ。着任したばかりの人が一人いて、いきなり休暇をとるわけにも行かず、一人取り残されているだけなので、僕と二人だけ。

セキュリティとは関係なく、大量に仕事が押し寄せてきているので、更新するべきNGOの契約書のファイルを6個もって帰ってきた。3日間の間に済ませるつもりだけど、どこまで終わることやら。

Saturday, September 10, 2005

もうすぐ選挙、

と言えば、日本では衆院総選挙のことになるだろうけど、
アフガニスタンもそうなのです。
でも、エジプトのことを思い浮かべる人もいるかもしれない。

日本は明日選挙でしょ。特に今回の選挙で何か言いたいわけではないけど、小泉首相が郵政法案否決に激怒して、衆院を解散して約1ヶ月でホントに選挙ができてしまうというのはただ単純にすごいなあと思う。

候補者の準備も大変なんだろうけど、投票用紙を刷ったり、投票所を設営したり、なんかいろいろやることいっぱいでしょ。それが全部一ヶ月で出来てしまうってのがすごいではないか。

アフガニスタンでは史上初の国会開設に向けての下院選挙と州議会(みたいなもの)の選挙が9月18日にあるんだけど、これがもう大変なことになってます。

だいたい字を読めない人が8割くらいいるのだから、投票用紙からして(見たことないけど)、相当工夫しないといけないでしょ。絵とかシンボルで表すっていったって、立候補者は6000人ですからね。6000のシンボルの中から自分が投票したい人のシンボルを探すのって大変じゃないのかな。


字が読めなくても、投票って何することなのか分かるように説明しようと苦労しているポスター。


投票用紙をアフガン全土の3万箇所の投票所に運ぶのも苦しい作業だろうなあ。ロバの背に乗せて運ばざるを得ない山奥とかあるし、一箇所に定住しない遊牧民用の投票所も作らないといけないし、いやはやご苦労さんですよ。

でも、いきなりすごいのは、下院の二百四十九議席中六十八議席が女性に(27%)、十議席が遊牧民に(4%)割り当てられているという、ジェンダー及びマイノリティの考慮です(州議会も25%が女性に割り当てわれている)。形式的には、日本よりもはるかに先進的な議会がアフガニスタンに誕生するでしょう。これで、日本のジェンダーランキングはまた一つ下がるかも。今、ボツワナの下で、150位代だと思う。。

でも、地元メディアの報道は結構笑わしてくれます。立候補者達のインタビューを記事にしたりしてるけど、議会が何をするところか分かっていない候補者、政治家というコンセプトがよくのみこめていない候補者、印刷所にポスター制作を頼みに行き、そこで印刷工の若者に指摘されて、スローガンが必要なことに初めて気づく候補者なんてのが出てくる。ほのぼのしてるし。

治安が悪化しているとかで国連の治安強化ももうヒステリックに近い状態になってるけど(実際、すでに候補者が四人、選挙運営のために働く人が五人、選挙実施を支持する宗教指導者が六人殺されているが)、カルザイ政権をアメリカの傀儡政権だと考える勢力は、カルザイ政権がすることはなんでも妨害してるわけだから、特に選挙に反対してるわけではないでしょ。

いわゆる、ニュータリバンのスポークスマンは早くも、一般人に犠牲者が出るので、選挙の日に投票所は攻撃しない、なんて声明を出して、それに対してアフガン政府が歓迎するコメントを出したりしてる。普通のアフガン人からすれば、アルカイダとアメリカの戦争に巻き込まれてえらい迷惑ってことでは共通してるんだろうけど、そんなこと言うと援助のお金が入ってこなくなると困るしね。

Friday, September 09, 2005

NHK、受信料

[NHK、受信料未払い世帯に「法的手続き」 検討を表明]って記事が出ていたけど、我が家のように、そもそも日本語放送を見る人が誰もいないのにNHK受信料を払っているところに花を贈るとかアイスクリーム一年分贈呈とかそういうポジティブな話は考えないのかね。。

僕が日本にいない限り、NHKであろうと民放であろうと、日本語放送にチャンネルを合わせること自体あり得ない。僕が日本に帰ったところで、1週間の間にテレビを見るのは合計しても1時間未満だろう。それでも、NHKの受信料を払ってる。

なぜか?議論する時間とエネルギーがバカバカしいからでした。僕がヨルダンとかイラクにいた時に、集金人という人が我が家に現れて、まったく日本語の分からない妻に契約書にサインさせていった。これは違法でしょ。

今の家に引っ越した時も、また集金人が現れて、その時は僕がいて対応したのだけど、日本語放送を見る人間が僕しかいない、そして僕はほとんど日本にいない、日本にいてもほとんどテレビを見る時間はない、と一通りのことは言ったが、もちろん話にならない。こんなことで5分以上使いたくなかったので、とにかく契約書とやらにサインしたのでした。それでも集金人はBSは見ていないんですかとトンチンカンなことをきいてくる。だから、何にも見ていないって言ってるでしょ、と言ったが疑い深い目をして今回は勘弁してやるみたいな態度で集金人は帰っていった。結局日本全土を覆う、相手に不快感を与えて勝利感を味わう前近代メンタリティの陳列であった。

第一に時間の浪費、
第二に不愉快さ、
たかがNHK受信料一つで、この二つをこれ以上増大させるのは合理的ではないというのが、受信しないNHKに受信料を払い続ける理由でした。

で、NHK受信料っていったいいくらですか?

Wednesday, September 07, 2005

歯が痛いと、すべてのことに抵抗する気がなくなる、と気がついて、
日常は気がつかないまま、なんとこまごまといろんなことに戦っているんだろうかってことに、気がつく。人生は戦いだなんて思ってるわけでないし、そんなこと言う気も毛頭ないんだけど、すべてなすがままではなかったんだな。

9月4日にカブールからイスラマバードへ行く予定だったが、飛行機の席が取れてなくて(なんという悪いタイミングで最悪のことが起こるんだ?)、9月5日にイスラマバードに着いた。

フィリッポに紹介してもらった歯医者は予想通り、二週間先まで予約がぎっちり入っているとのことだったが、緊急だということで6日に見てもらった。

歯医者に行って感動したのは人生初めてだ。ジュネ・マリクという名前のこの歯医者さんの僕の歯の状況説明はほんとによく分かった。昔々治した歯の処置から問題が発生していて、それが連鎖的に異なる問題の原因になっていたのだが、複雑な状況と難しい対策について非常に理路整然と話してくれた。そして、薬の種類と目的と期待される効果についてもよく分かる説明をしてくれるので、早く薬が飲みたくなってしまった。

そして、最後にestimate cost というのもくれた。仕事でしょっちゅう使う言葉がこんなところに出てくるとは。パキスタン的にいうとかなり高額かもしれないが、日本的には大した額ではなかった。保険制度の整っていない国では、ともかく患者がお金の用意をする必要があるわけだから、これは親切なシステムだと思う。

受付の人にいつ払えばいいのかと訊けば、きょとんとしている。知らないのだ。全部終わってからでいいとか言って、お金を受け取ろうとしない。パキスタンでお金を受けとらない???

[#IMAGE|c0009784_18501934.jpg|200509/09/84/|mid|640|480#]
↑歯医者とは思えない素敵な建物だった。インテリアも歯医者臭くなく、センスが良かった。静かに流れる女性ヴォーカルの歌が笑顔の可愛い受付の女の子に似合っていた。何しに行ったんや?

* * *

カブールで国連クリニックの歯医者に駆け込んだのは9月1日の朝だった。その時はもうこの世の終わりかと思ったが、今はまだ世界は滅亡しないような気がしてきた。

それにしても、あの国連の歯医者はなんなんだろう?いろんな書類にID番号やらなんやら記入して、それから30分待った後、やっとみてもらったのだが、どこが痛いと訊きながら、あちこちの歯を鉄棒でコンコンと叩いてきくことが15秒くらい。そして、素早くこれは抜いた方がいいという診断に至った。はあっ?まだ何にも見てないじゃないかと思ったが、僕は口を開けたままで何も言えない。

そして、今日は痛そうだからまず痛みを除去しようと言って、その日の抜歯はなく、薬の処方箋を書き始めた。そして、次の質問が「君は糖尿病はあるか?」だった。僕はまた「はあっ?」という顔をしていたと思う。この歯医者は、blood にsugar が多いか?と訊きなおす。糖尿病という診断は今まで知っている限り一度もない。今年の4月に健康診断した時もそういう傾向はなかったと答えたが、この医者は念のため血液検査をしようと言って、それも処方箋に書き込んだ。

まず歯と糖尿病に関係があるとは知らなかったが(あんのか?)、ちゃんと歯を見ていない時点でもう僕は一刻も早くイスラマバードへ行くことを考えていたのであった。

この国連歯医者に渡された紙を持って、血液検査担当者の部屋を探し回ってやっと到達すると、生まれて一度も笑ったことのないような女が僕の手から無言で紙をひったくって、突如、僕がものすごい過失を犯しているような顔をこっちにむけて、お金を払ってから出直して来いという。どうやら、先払いシステムだということだ。それならそう言ってくれたらいいだけなのに、どうして、そんな態度かなあ?まったく国連そのものだ。

またお金を払う場所を探し回って(国連クリニックの中にはどこにも手順も何もかいてない)、結局そんな場所はないということが分かった。クリニック内の薬局に行って、薬のお金といっしょに払うことになっていたのだった。ああ、もうどうでもいい。血液検査なんかしてどうなる?と思ったが、何にも抵抗する気がなくなっていたので、とりあえずあの目を引きつらせた女のところへ領収書をもってもどった。

この女の注射はきっと痛いだろうなと思っていると、携帯電話に仕事の電話がかかってくる。ああ、もう考えたくない、と思うが、なんとか答えないとしょうがないし、返答はするもののさっぱり頭が働かない。ともかく今、手に注射が刺さっていて血を採られているところだから後で、と言ってようやく電話を切った。

それから9月6日まではほとんど記憶に残らない地獄の日々だった。ロキソニン、パナドール、ニューロフェン、イルプロフェンなど等、痛み止め関係を飲みまくってしのいだのだった。当然、こういう時に限って、津波のように仕事は押し寄せてくるし、「フォーサイト」の原稿締切は重なるし、マーフィーの法則はどこまでも貫徹している。(ちなみに次回のタイトルは「正義と安定のジレンマ」のようです。選挙のことを書いたつもりなんだけど)

とりあえずSerena は3泊予約していたが、最初の1泊をふいにしたし、イスラマバードには最低5泊しなければならないことが分かった頃にはもう予約でいっぱいで他の宿を探すはめになったが、ともかく痛みは激減したし、この先の処置(それ自体は全然良い話ではないんだけど)も見えてきたし、もうそんなことはどうでもよくなった。

土曜日にカブールに帰る。

Saturday, September 03, 2005

機能麻痺

歯が痛い。脳みそ、機能麻痺。
明日、イスラマバードの歯医者に行く。
あ~、バカバカしい。

Sunday, August 28, 2005

8 Nights 9 Days in SERENA, Islamabad

明日、というか数時間後にチェックアウトする。
8月20日からイスラマバードに8泊したが、最初の何日間かはまだ頭の中から仕事が抜けなくて、全然休暇にならなかった。寝ようとしても、無数のスプレッド・シートやらデータベースの構造ばかりが頭の中をぐるぐる回っていて、なかなか眠れない。マイスリーもベンザリンもハルシオンも効かない。やっと寝たと思っても、夜中に3回くらいは目が覚める。あたかもずっと考え続けていたようにまたスプレッド・シートの同じページが頭の中で開いている。目が覚めている時は、何も仕事に手をつけないように意識しているが、ボーっとしてしまって、なかなか何にも集中できない。

やっと普通の意識に戻ったと思ったのは、26日だった。結局、仕事から抜けて普通の状態に戻るには1週間必要だいう結論に至った。ニコチンとかカフェインとかそんなものか、ある種の麻薬のようなものが仕事によって脳内に発生しているのではないかと思う。

こういう状態で家族に会うのはとてもしんどいし、向こうもえらい迷惑だと思うので、今後はカブールを出て確実に1週間どこかで仕事麻薬を抜いてから家族に会おうと思った。イスラマバードに滞在していた家族も明日、日本に帰り、僕はカブールに帰る。

イスラマバード滞在中泊まっていたセレナホテルは、世界中に展開するインターナショナルホテルチェーンとちがって、デザインに無駄が多く、その点で際立っている。12年前、クエッタのセレナホテルに3ヶ月滞在したが、そこもあくまでもクオリティは最高レベルに維持しようとしながら、まったく奇想天外な建築物であった。

イスラマバードのセレナは3年前にオープンしたばかりだが、哲学に変更はないようだ。機能的だが無味乾燥なホテルが世界制覇を進める中で、こういうホテルは是非生き残って欲しい。

下の写真(↓)朝だか昼だか分からない頃に、僕はぼんやりとこのカフェでダブル・エスプレッソを飲んで正気に返ろうと努力していた。ガラスの壁の向こうに見える緑の空間は無駄と贅沢と救い。



カフェから出て一段下にある道路に続くセレナの敷地を撮った写真(↓)。特に意味はないが、とりあえず芝生にしてみた、みたいなところがセレナらしい。


パキスタンに行くことがあれば、セレナホテルはお勧めです。インターネットで予約可。

Saturday, August 27, 2005

どこで何をまちがえたのか?

信じない人も多いと思うけど、パキスタンの本屋に行くと、インテリとか知識人とか日本では死語になってしまった概念が突如よみがえってくる。といっても、そんなカテゴリーの人にわんさと出会うなんてわけではない。

ただパキスタンでは本屋さんの店員が本のことを知っているというだけのことなんだけど、これって懐かしくないですか?日本最大の書店というキャッチフレーズのお店なんかで、こんな本は誰でも知っているだろうと思って店員にきいても全然なんの興味も示されず、いきなりコンピュータに向かって、あげくのはてに在庫がありませんの一言で終わることに10年くらい前はかなり憤慨していた。もう僕は日本では本屋で本を買わなくなったので、そんなことさえ忘れていたけど、かつてそういう苦しみのような哀しみのようなものがあって、それよりもっと前は本屋の店員との会話というものもあったんですね。

今日、3年ぶりくらいで、イスラマバードの本屋さんに行ったのだけど、まずお店に入ってすぐのところに、ずらっともうこれは全部読みたいでしょうって本が並んでいた。アフガニスタン関係の本がものすごく増えている。19世紀に大英帝国植民地行政官が書き散らかした紀行文も装いを新たにして出ている。それにキーワードで言えば、イラク、アラブ、イラク戦争、テロ、イスラム、アメリカ、アルカイダなどに関連する本がずらずらずらずら。著者の名前から察するに、イスラム系の人の作品から西洋人の作品まで幅広く集めている。東アジア人の名前はまったく見なかった。

7、8年前、アフガニスタン関係の本を求めて、パキスタンのいろんな本屋に行ったもんだが、その頃は宝探しみたいなものだった。店員の助けがなければ、その重要性、というか存在さえ、分からなかった本も多かったものだ。そんなことを思い出しながら、僕は予定を変更して、一冊ずつ手にとって吟味しはじめた。

予定というのは、今日はただ一冊の本を-あるとはほとんど期待せずに-探しに来ただけだったのだ。Bernard Lewis の"What Went Wrong ?"が欲しかったのだ。世界的なベストセラーだから、日本語の翻訳も出ているかもしれない。いや、出ていなかったら日本はどうかしてる。今さらどうかしてるもないんだけど。

9・11以後に書かれたイスラムとかアフガン関連の本はいいかげんなものが少なくないという印象をもっている人はたぶん僕一人じゃないと思う。"What Went Wrong ?"は9・11の前に書かれた「9・11もの」と言ってよいかもしれない。9・11が起きた時は、最後の校正中だったそうだ。出版社的には、急遽1章追加でもして「9・11もの」として売り出したかったんじゃないだろうか。でも、結果的にはそんなことする必要はまったくなかったのだ。この本はすでにこの分野で古典になる道を歩み始めている。

正確にいうと、Bernard Lewis 教授(プリンストン大学)は、校正中に9・11が起きて、少し、ほんの少しだけ書き加えている。本文が始まる前の最初の1ページにたった7行の前書きを付け足したのだ。それがまたカッコよすぎる。うまく日本語に訳せないので、英語のまま抜き出してみる。

"This book was already in page proof when the terrorist attacks in New York and Washington took place on September 11, 2001. It does not therefore deal with them, nor with their immediate causes and after-effects. It is however related to these attacks, examining not what happened and what followed, but what went before - the longer sequence and larger pattern of events, ideas, and attitudes that preceded and in some measure produced them."

キャーっ!

レジに座っている無愛想なおっさんに"What Went Wrong" Bernard Lewis と書いた紙切れを渡すと、店の小僧に一言指令を出して、11秒後くらいに、この本はあっさり出てきた。パキスタンでは何をやっても時間がかかって僕はイライラしてしまうのだが、この素早さは信じられない。コンピュータに入ってるデータベースなんて勝負にならないな。

そして、僕は衝動買いに専念することができたのでした。

まず最初に選んだ一冊は、"When Baghdad Ruled the Muslim World - The Rise and Fall of Islam Greatest Dynasty", Hugh Kenndey. ヨルダンでしばらく生活して「イラクはすごい国だったんだな」という印象がこびりついているんだけど、その「すごい国」全盛期について知りたいとずっと思っていたので、これはなかなかぴったしの本ではないかと思って選ばないわけにはいかなかった。

次は、"Traditions & Encounters - A Global Perspective On the Past", Jerry H. Bentley & Herbert F. Ziegler. これはタイトルを見て、もう買わないわけにはいかなくなった。「伝統と遭遇」ってか?これはもうこの10年ほど僕の日常でしょ。アメリカの大学の教科書らしく、大判でやたらページ数が多く(1067ページ)、そして重い。5キロくらいはあるだろう。世界史の教科書みたいなものだけど、異種の伝統の遭遇という視点で一貫して書いているようだ。

他にもたくさん欲しいのがあったが、あと一冊はまったく趣味ではない本を選んで終了することにした。"Searching for Peace - The Road to Transcend", Johan Galtung et al. 日本でもファンが多い平和学の大家、ヨハン・ガルトゥングさんとその一派の本だ。机上の空論を徹底的に追求する方が小学生の遠足日記のような中途半端なフィールドワークよりましだという程度に僕はガルトゥングさんのような人の仕事を尊重をしている。あっと驚くような発見も感動も期待していないけど、最近どういうことをしているのかささっと知るには良さそうなコンパクトな本なので買うことにした。

後は、Stress Relief の本を二冊とDepression 関係の本を一冊買った。結局、この三冊は妻にあげてしまった。明日また別のを買おう。

Saturday, August 06, 2005

An ugly megalopolis

"faragile days" の書評を発見した。書評の見出しが、An ugly megalopolis

表紙の写真(↓)。


オー・ヘンリーの短編のような驚きの結末はなくて、モーパッサンの作品のように、環境に順応している登場人物が描かれている、とかなんとか書いてある。あとはいくつかの短編の要約。やる気あんのかって思わせる、へたな書評だった。

Tew Bunnag

というのがタイの作家の名前だった。本のタイトルは、
"fragile days - tales from bangkok".
全部小文字。

表紙は、緑の葉っぱが茶色く枯れた葉っぱのバックの上にのっていて、さらにその上にいかにもfragile なタイトル文字がかぶさっている。美しいです。
表紙の一番下にたぶん日本なら帯にのりそうな文句が直接印刷されている。

"Uneasy snapshots of everyday life in Bangkok...
where traditional values hang in a delicate balance."

ちゃんと内容を味わっている編集者がいるんですね(いつか日本の本の帯のデタラメな文句がいかに本の内容を誤解させているか、本の価値を破壊しているかみたいなことを書いたような気がするがどこに書いたのかな)。

この文句を読むと、タイの夏目漱石的存在なのかなとも思う。「夏目漱石+アーウィン・ショー+村上春樹」という印象は、日本が近代化にかけた百年を一気に駆け抜けざるを得ないタイの現状をかなり反映しているのかもしれないと思ったりする。

ところで、この本はオリジナルではないらしい。
「Quintessential Asia」という名のシリーズの一冊で、アジアの最もすぐれた文学的「声」のショーケースたらんとしているということです。シンガポールのSNPインターナショナルという出版社がアジア各国から新人とかベテラン作家とか関係なく優れていると思う作品を集めてシリーズものとして出版している。ありとあらゆるものの中身と評価の間になんの関係もなくなった日本から見ると、このシリーズ自体興味深い。このシリーズは"promises to inform, provoke and delight"なんて書いてあるけど、確かに"fragile days"に関するかぎり、それはウソではなかった。他の本も手に入れたい。

ところで、Tewさんというのは、あるとても有名な貴族の息子さんらしい。タイ史に関して完全な無知なのでまちがった解釈をしている可能性があるが、裏表紙に書いてあることの字面だけ追ってみると、19世紀のチュラロンコン王の時代に絶大な権力を持っていたサイアム(シャム)の摂政である、スリウォン・ブナンというタイ史ではとても重要な人の直系の子孫なのだそうだ。

Tewさんは1947年生まれで、ケンブリッジ大学(キングス・カレッジ)で中国語と経済学を勉強した。1968年に卒業して、1975年まであちこち放浪の旅に出ていたようだ。優雅だねえ。その間にケンブリッジのはずれで瞑想と太極拳とヨガと西洋ものを混ぜ合わせて、精神セラピー・センターなるものを作ったりしてる。

1985年からはギリシャとスペインに住み始めた。二国間を行ったり来たりってことだろうか。ずっと外国にいる間もTewさんは常にタイで起こっていることは、ちゃんと注視していて、浦島太郎状態にはならなかったそうだ。

2000年にようやくバンコクに戻ってきて、バンコク港地域にあるエイズ患者のホスピスで彼らの世話をする仕事を手伝い始めた。(バンコクって海に面していたのか?)

これまでに本を二冊出していて、その他にも瞑想とか太極拳に関する記事をたくさん書いているらしい。

最後に、『壊れやすい日々』に収録されている短編のタイトルだけ、ほぼ直訳して書いておこう。
「幽霊の話」
「忘れるべき一夜」
「ジード、弟を探す」
「花売りの少女」
「ギャンブラー」
「失踪」
「女の復讐」
「アイ・ジェイの後悔」
「愛がタミーを癒す」
「エピローグ:バンコクの街の歌」

Tewさん、会ってみたい人だな。

Monday, August 01, 2005

Fragile Days

を日本語に訳すとすると、
「はかない日々」かな。
いや、「もろい日々」か。
思い切って、「日々虚弱」か。

あっさりと、「壊れやすい日々」がいいような気もする。

なんとなく、バンコクのトランジット中、予定通り出発が2時間半送れて、無思慮に買った本の一冊のタイトルが「fragile days」だった。タイの作家の短編集なのだが、タイの作家は、というか東南アジアの作家を誰一人として知らないので、この作家がどういうポジションの人かは全然分からない。

買っただけで、しばらくほったらかしにしていたけど、あまりに暑くて、からだがだるくてなかなか眠れないので、パラパラとめくり始めると、はまった。

ものすごく大きな物語がどこかにひそんでるわけではないし、文章も淡々としていて、何か来るのかな、何か来るのかなと思って読み進めていると、ぱたっと終わる。

シンプルで正しい英語で、まるで日本の大学受験生の英作文のようにも見える。スラングなんてほとんど出てこない。タイ語がちょっと入っていたりするけど。

淡々と語られるバンコクのシティ・ライフには、今どきの日本人に驚きを与えるようなものはないかもしれないだけど、読み終わるともう一度あそこ、本の中に戻ってみたいと思わせるようなものがある。ひょっとして、この作家はチョーーーーーーーー有名な人なのだろうか。バンコクのアーウィン・ショーとか呼ばれていたりするのだろうか。「I like routine.」で始まる一編なんかは村上春樹ぽいかもしれない。

と書いて、ひょっとしたら、とっくに日本でも翻訳が出ていて、それなりにファンがいたりする作家なのかもしれないと思い始めた。

この翻訳は難しいかもしれない。優秀な中高生なら訳せるだろう。でも、よほど注意しないと、何かの要約かガイドブックのようになってしまいかねないと思う。この雰囲気をダサくなく、維持する日本語は難しそう。

ここまで書いて、作家の名前が思い出せない。今、手元に本がない。忘れなかったら、書き足します。

Thursday, July 28, 2005

MedVac

ボロ雑巾なんて書いた、その翌日、所長がドバイにMedVacされてしまった。不吉なことを書いてしまったのかなあ。(MedVac = Medical Evacuation)

その日の朝、人事担当官として5月に赴任して10日後に2週間の休みを取って娘のプレゼントしてくれたフランス旅行に出かけるという前代未聞の快挙を成し遂げたインド人のセングプタが走り回ってるので、どうしたの?ときくと、所長のMedVac の準備で忙しいということだった。

MedVac ?なんで?

自分の用事を済ませて所長の部屋に行くと、いつものように所長は黒いブーツを履いた両足を机の上に彫り投げてイスの背もたれを限界まで反り返らせて座りながら、セングプタともう一人のインド人の話を聞いていた。

インド人二人を無視して、調子悪いの?と所長に聞くと、ちょっとはにかんだ笑みを見せて、低~い声で、あ~、う~、大丈夫だ、あ~、う~、とか言っている。

調子悪いもヘッタクレもないわな。もうずっと前からボロボロ雑巾状態だったのだから。それでも耐えてたのに、とうとう自白したとなると、相当危機ではないか。隣の部屋で副所長のおとぼけサンディがチョー深刻な顔をして電話でドバイの病院と連絡をとっていた。そしてインド人は和やかに談笑を続け、所長はあ~、う~、と言いながら、オフィス・チェアにのけぞったまま。

ふと現実感を失って、自分一人その場からいなくなって、この全体を眺めていた。なんなんだろう、この風景は?なんか変。三種類の空気がまったくかみ合ってない。確固とした虚構というフレーズが浮かんできた。まともな人間関係とはそういうもんなんだろう。とはいうものの、僕はどれにもあわせる気分じゃなく、それ以上何も考える気もなく、さっさと所長の部屋から出て行った。

ところで、もう一人のインド人というのがセングプタに負けず劣らずおもしろい。彼も新しく、6月に赴任したばかりの財務担当官で、来て早々、何を勘違いしたか、カースト制度を自分の周りのスタッフの中に築き始めて早くもアフガン人の叛乱の機運を盛り上げている。アフガニスタンとインドは永久に折り合えないらしい。彼はカースト制度の頂点に立っているので、僕は彼を密かにバラモンと呼んでいる。

しかし、インド人というのは着々と仕事をする人種だなと思う。日本人のように明らかなオーバーワークなんて絶対インド人には考えられないけど、それでも怠けているわけでもない。やることはちゃんとしてる。それに書く英語がしっかりしてる。連絡事項なんか意味の明瞭な英語でちゃんと回してる。当たり前ではないかと思うかもしれないけど、子どもの落書きか電報のような英語しか書けない欧米系の人が少なくない現実の中ではそんなことでも感心してしまう。インド人が国連業界の中ではびこるのも理由があってのことだと思った。

確かに、インド人はそんなに単語をぎっしり詰めて喋るなと言いたくなるくらい、話が長いし、ひとの話は聞かないし、大変なことは大変だけど、でもそんなのはインド人に限ったことではない。何国人でもそういうタイプの人はいるから、そういうのを敬遠してたら仕事にならない。やることだけやる人ならもう他のことはどうでもいいではないかと僕は思うのだけど、そう思わない人も多いだろう。そう言えば、日本でしんどかったのはその部分だったな。

バラモンが「みなさんカブールで銀行口座を開いてください、そしたらそこに現地手当を振り込みますよ」という通達を全職員にメールで送ってきた。そしたら、細かい返事のメールをまた全職員宛てに出すバカが続出して、そしてバラモンが張り切ってまた全職員宛てに返事を出して、もうなんとかしてくれ状態になってきたので、「もう分かったから、ホンモノのインドカレーを食わせろ」と全然関係ない返信をバラモン一人に送ったら、すぐにメニューを持って僕の部屋に現れたので驚いた。な、な、なんじゃ、こいつ?明日インド・カレーパーティをする。楽しみ。銀行口座の件がどうなったかは読まずに全部削除したので全然分からない。カレーを食べながら聞いてみよう。

Wednesday, July 27, 2005

catastrophe /kətǽstrəfi/

━ 【名】【C】

1 (突然の)大惨事; 大災害 (類語 ⇒disaster).
2 大きな不幸[不運, 災難].


1 大失敗.
2 破滅, 破局.
3 (悲劇などの)大詰め, 結末.

Ⅲ 〔地質〕 (地殻などの)突然の大変動[激変].
語源
ギリシャ語「転覆」の意; 【形】 catastrophic

彼女が去って、僕の心の中にぽっかりと穴があいた、みたいな表現は誰がいつ頃、始めたのかな。明治時代の人がそんな言い方するのは想像できんな。夏目漱石はそんな表現使わなかったしな(と思う)。なんとなく大東亜戦争後のような気がする、なんとなく高度成長期後のような気もする。わからんな。

レーコが去って、ふとそんな言葉を思い出したけど、そんなこと言ってたやつがうらやましいという気がした。穴があくってことは土台はまだ健在で、そこに欠陥ができただけのことだから、たいしたことないじゃないかと。それにくらべて、レーコの剥奪はやっぱりカタストロフィとしか言いようがない。PCに入ってる辞書を見てみると、大惨事、大きな不幸、大失敗、破局、地殻の大変動・・・。なかなかぴったししてる。

ようやくレーコの身代わりの採用が完了した。三人の国際スタッフと三人のアフガン人スタッフ、それに元々いた国際スタッフ一人とアフガンスタッフ一人がいるから、数字上は8人でレーコ一人分をまかなうことになる。半年経ってレーコの三分の一くらいができれば大成功だろう。甘い見積もりのような気もするが。

カブールを去る前の日のレーコはほんとにボロ雑巾のようになっていた。アホなことに、僕はなんどもボロ雑巾という表現に感動していた。人間はその言葉通りボロ雑巾のようになるんだと、きっとそんなことになってる人間を見た人が「ボロ雑巾のように」という表現を使い始めたんだ、とまあ全然あてにもなんにもならないけど、僕は本気で考えていた。

もうすぐ所長が引退する。次の人も決まった。僕ならさっさと仕事の整理にかかってパッキングとか最後の買い物とかを考えそうな気がするが、この所長は最後の最後まで本気で仕事するつもりらしく、もうボロボロになっている。あまりに痛々しくて見てられない。次から次によけいな(と悪いけど、僕は思ってしまう)仕事を持ってくるし、一日も休まないし、朝の6時でも夜の12時でも平気で電話してきていきなり仕事の話を始めるし、生活すべてが仕事になってしまってる。彼のヨタヨタと歩くうしろ姿を見ると、なぜか僕は「ゲゲゲの鬼太郎」を思い出してしまう。ボロ雑巾という妖怪はいなかったかななんてのんきに考えてみる。

何が人をボロ雑巾にまでさせてしまうのだろうか、と考えながら、鏡の中でボロ雑巾を探して、ああ「ゲゲゲの鬼太郎」全巻読んでみたいと思う楽しい毎日。

Down

i-nexus.org のサーバーがダウンしてる。
メールの受信・送信不可。
僕のHPも見れません。
イライラ。

Thursday, July 21, 2005

いそが

とりあえず、これでも。

『フォーサイト』 新潮社

- ESSAYS & REPORTS -
63 [新連載]カブール発 復興通信
アフガン人はどこに戻るのか
山本芳幸

Thursday, May 26, 2005

American Idol again

American Idol はカブール時間の午後8時に始まるので、昨日は7時半になってあわてて僕はオフィスを出た。10分でゲストハウスについて、冷凍のホワイト・アスパラガスとブラウン・マッシュルームを解凍して、スパゲティを11分間茹でて、スパゲティの入ったボールとアスパラガス・マッシュルーム・ソテーの入ったお皿とパルメザン・チーズとミネラル・ウォーターをテーブルに置いて、テレビの前に陣取った。

ヴォンジー(Vonzell Solomon をみんなそう呼ぶようになっていた)がいなくなって、僕にとってAmerican Idol の魅力は、もう半減していたのだが、それでも、最後まで見届けたかった。それにヴォンジーはこのコンテストとは関係なく、いずれプロのシンガーとしてデビューするだろうと思う。

アラバマ出身の29歳長髪完璧男のボー(Bo Bice。昨日はBoo って書いてしまったけど、Bo のまちがい)には、Southern Rocker というニックネームがつけられている。プライベート・ジェットで故郷のアラバマに帰った時は、なんとほんもののレイナード・スキナードの生き残りをバックに、Sweet Home Alabama を歌って、ぴったりはまっていた。先週はステージでは演奏なしで歌うという賭けにもで出て、そのあまりの正確無比な絶唱に審査員は圧倒されていた。彼には確かにgift があると思う。そして、何より彼は既にものすごい人気者になってしまった。ちゃらちゃらしていない米南部の男で素朴でしかもソフトだから、かなり射程範囲が広いと思う。

キャリー(Carrie Underwood)には、Country Girl というニックネームがつけられている。文字通り、オクラホマの田舎娘という意味と、音楽のジャンルのカントリーを歌わせると、もうどうしようもなくうまいという点をかけているのだろう。彼女もボーに負けず、ほんとに素朴さがにじみ出ている。考えてみると、ヴォンジーを入れて三人ともほんとに素朴な普通の人だった。こういう市井の中から才能が発掘される過程というのがおもしろい。

キャリーは、ボーの完璧さに比べると、時々弱く聞こえたりすることがある。nervous になりがちなのだ。審査員も時々それを指摘して、僕はキャリーはもっと早く脱落するかもしれないと思っていた。しかし、キャリーはいつもその緊張感を懸命に振り切って歌いきろうする。そして最後には出だしの若干の乱れを常に乗り切ってきた。そのプロセスにキャリーの一所懸命さとか真面目さがあふれてきて、たぶん結果的にはそれがキャリーの人気に繋がってきたのだろうと思う。しかし、今日の対戦相手はあまりに強敵だ。順当に行けば、キャリーに勝ち目はないだろうと僕は思っていた。

今日は、両者とも三曲ずつ歌う。ハリウッドの巨大なコンサート・ホールは3階席までぎっしり埋まっている。司会者、ボー、キャリーの三人がステージに現れると歓声がすでに爆音のように響き渡っていた。歌う順番を決めるために、司会者は一面がボーの顔、もう一面がキャリーの顔になっているコインを持ってきた。

司会者はそのコインをポーンとトスした。が、彼はそのコインを落してしまった。コインはころころとステージの上をころがり、なんと鉄格子のようなものがはまっているフロアーのところに行って、ステージの下に落ちていってしまった。司会者はあわてて鉄格子に指を突っ込もうとするが、指が入るわけがない。ステージのスタッフも何人か集まってきて、鉄格子ごと取り外そうとするがはずれない。

なんというマヌケな出だしだろう。初っ端から波乱の幕開けとなった。結局、トスはやりなおしとなり、ボーから歌うことになった。一曲目は両者とも、誰もほとんど知らないような地味な曲を指定されている。

コマーシャルが終わって、ボーの歌が始まった。
えっ?僕は自分の目と耳を疑った。あのボーがキーをハズシタ。ピッチが乱れている。どういうことなんだ?今までの彼にはありえなかった。う~む、オリンピックの決勝みたいだと僕は思った。信じられないが、あの完璧ミスなし男がミスした。明らかに緊張している。しかも、聞いている方が肩がこりそうな、ものすごく難しい歌だ。ボーが苦労しているのがテレビ画面からひしひしと伝わってくる。10万人のトップ0.002% というほぼ頂点に立った男でもこういうことがあるとは。

しかし、さすがにボーは後半はその歌をきっちり自分のものにしてうまくまとめていた。3人の審査員も一様にボーが乱れたことに驚いていた。審査員の一人はこの歌は嫌いだと言っていた。言いたいことは僕もよく分かった。ほんと分かりにくいメロディだった。でも、最後にはちゃんと持ち直したことも審査員は評価していた。

続いて、キャリーが登場した。あれ~~~っ!キャリーも同じミスで歌に突入してしまった。キーが定まらない。なんてこった。それにしても、誰だこんな難しい歌を作ったのは?キャリーも懸命に持ち直そうとする。不思議なことに、ミスをしたことのないボーに比べると、どちらかというと、ミスなれしているキャリーの方が落ち着いて処理しているように見える。そして、彼女も最後には、ちゃんとキャリーの歌として歌いきっていた。

やっと歌い終わったキャリーに司会者が近づいて何か訊いたが、キャリーの声は震えていた。一所懸命に涙をこらえている。失敗して悲しんでいるようには見えなかった。やっと一曲歌いきったという大事業に感極まったという感じだった。

審査員も3人とも同様にキャリーが一曲目のボーとまったく同じ経過を辿ったことを指摘していた。この曲は嫌いだと同じことを言っている審査員がいた。ものすごい接戦になってきたと言っている。しかし、毒舌審査員のサイモンは、第一ラウンドはキャリーの勝ちだと、あくまでも彼の評価だが、宣言していた。

二曲目は両者とも自分の選んだ曲を歌う。ボーはアップテンポのロックを選んだ。Southern Rocker の見せ所だ。もう場内騒然、拍手喝さい、雨あられ状態になってしまった。こういうのをやらせると、ボーは渋く、かっこよく、しかもちゃらちゃらせずに決めてしまう。完璧なパフォーマンスだった。

審査員はWelcome back ! と言っていた。一曲目は失敗だったけど、二曲目で本来のボーに戻ったからだ。もう言うことなし、素晴らし過ぎ、みたいな評価だった。

次はキャリーだ。キャリーは当然カントリーから曲を選んだ。キャリーの透き通るような声がカントリー節になって場内に満ちていくのを見ていると、すがすがしくなる。とても気持ちがいい。でも、やはりキャリーは緊張している。それがところどころでピッチを乱す。21歳の田舎娘と29歳の南部ロッカーの違いかもしれない。

それでも、審査員はキャリーにWelcome back ! と言っていた。キャリーもやはり一曲目の失敗を乗り越えて、二曲目で自分を取り戻していたのは明らかだった。でも、毒舌サイモンは第二ラウンドはボーの勝ちと言っていた。

この時点で、キャリーにはまず勝ち目がなくなってしまった。ボーが二回失敗するということは、まず考えられない。となると、キャリーは三曲目で差をつけられてしまう。キャリー危うしだ。

そして、三曲目、ボーの歌が始まった。一転して、今度はスローな歌。う~む、これはうますぎる。聴衆はうっとりして聞き入っている。いつものボーだ。歌が完全にボーのものになっている。予測された展開とは言え、やっぱり素晴らしい。この人はプロになるべき人なのだ。

審査員一同やっぱりボーだねって感じでほとんど言葉がない。そして、この半年に渡って続いてきた10万人の戦いの最後の歌をキャリーが歌う番が回ってきた。

だだっ広いステージの真ん中にキャリーが一人ポツンと立っている。すべてがのしかかってくる一瞬に、飛行機に乗ったことがなかった、牛馬の世話をしている21歳のCountry Girl が全米に中継されているテレビカメラの前で、たった一人で立っている。緊張なんて簡単なものじゃないだろうと思った。

たいてい薄汚れたジーンズにTシャツみたいな簡単な格好をしているキャリーが真っ黒のワンピースを着て、静かに歌い始めた。とんでもないミスをしても、僕はきっと驚かなかったと思う。むしろ、そんなことを予想してしまいがちで、僕はキャリーを見ながら緊張していた。

キャリーの歌は静かに静かに入って、しかし確実に少しずつ熱くなっていった。どこにもミスはない。キャリーの歌が完璧に続いていく。だんだんと事態の展開がいつもと違うと思い始めた。あの緊張ばっかりして、いつも涙をこらえていたキャリーが歌を完全に牛耳っていた。僕の両頬には鳥肌が立ってきた。すごい歌になってきた。いかん、僕の目に急速に涙がたまってきた。キャリーの歌はピークに入ってきた。ものすごい絶唱だ。なんてことだろう。キャリーは爆発したのだ。ステージの上はすごいことになってる。場内の異様な雰囲気がテレビ画面からも伝わってくる。もう、この世界はすべて私のものよ、と今キャリーが言っても誰も逆らえないだろう。こんなことになるなんて、いくら決勝だといっても、誰も予想していなかっただろう。歌を終えた時、キャリーは世界の支配者になっていた。

静寂が場内を覆った。審査員も場内もあっけにとられている。いったい何が起こったのか理解しかねているのだ。誰も言葉がない。ステージの上ではキャリーがまたいつものキャリーに戻って、今にも号泣しそうなのを一所懸命におさえ、きっちり両手を前でそろえて立っている。審査員のコメントを待っているのだ。そして、ようやく思い出したかのように場内からは圧倒的な歓声が地響きのようにわきあがってきた。

審査員にはほんとに文字通り言葉がなかったのだ。いつも一番手でしゃべる審査員の一人が、まったくお手上げといった感じでなんども首をふり、ワーオ、ワーオと独り言のように繰り返している。彼はようやく正気を取り戻したかのような観衆の大歓声の中で一人立ち上がって、拍手をしながら、まだワーオ、ワーオと言って首をなんども振っているだけで何も言えない。となりのポーラ・アブドルもただ放心したように首をふっているだけだ。最後の毒舌サイモンまで、もうまいったと言った顔で、一言、I should say you have done enough to win と言った。

今や、あのボーはどこかにふっとんでしまった。このキャリーの最後の一曲、この瞬間のキャリーを凌駕するシンガーはこの世に存在しないだろうと思った。そういう一瞬の中に神は存在するのだ、軽々しくディーヴァを連発するもんじゃないよ、ったく、と思うが、そんなことはどうでもいいか。

二人の歌が終わって4時間だけ全米から投票の電話がかかってくる。一人で何度でも投票できるし、すでに組織票という選挙みたいなことも始まっているようだから、結果はどうなるか分からない。結果がどうなろうと、才能あふれた女性カントリー・シンガーと男性ロック・シンガーがまた一人ずつアメリカに誕生したことに変わりはないだろう。

そして、この稀にみる才能の発掘はすべて10万人のお笑いに始まっていることに僕はあらためてアメリカの強さの根拠を見てしまう。そして同時に日本の弱さの根源がどこにあるかを。もし、あなたに子どもがいるなら、否定ではなく、まずは肯定から始めましょう。

Wednesday, May 25, 2005

Likable

今日は次男の誕生日だ。あれほど気になっていたにもかかわらず、一昨日の夜にはっと気がついた。こどもの日のプレゼントを注文する時に、結局まだ時間があると思って先延ばしにしたのがいけなかった。あわてて注文したが、25日中には着かなかっただろうな。
選んだのは、「ミッフィーのやわらかブロック」と「わくわくサウンドボール」。

今日は、American Idol の最終決戦の日だ。なんとなく見始めたテレビ番組だけど、これは実に興味深いし、アメリカという国の活力源の一面を象徴的に現しているように見える。

日本でいうと「スター誕生」のような番組なのだけど、もう何ヶ月にも渡って、審査員一行様が全米を渡り歩いている。それぞれの街でアメリカのアイドルになりたい人に片っ端から歌を歌ってもらうのだが、この段階が凄まじい。どう考えても、どう見ても、絶対どんな国のアイドルにもなれそうにない人がわんさとやってくる。その数、トータルで10万人。そして、そのほとんどがとんでもない歌を披露して、テレビを見ている人は爆笑で死にそうになり、3人の審査員は頭を抱えたり、腹筋をつかんだりして、耐えている。

毎週異なった街で行われるこのわけの分からないコンテストをみて、僕も最初はただゲラゲラ笑っていたのだが、だんだんなんか変だなあと思い始めた。それは何なのかはっきり分からないが、気がついたのは10万人のアメリカ人がことごとく自信満々だということだった。審査員は毒舌と言っていいほど、はっきり評価するのだが、それでも10万人の誰一人として懲りた様子がない。

あまりに有名な番組なので、自分が世間の笑い者になっているということも、知りたくなくても知れそうなものだが、そういうことを恐れているふうにもまったく見えない。なんなんだろう、これは。まったく周りが見えないバカなのか。10万人のバカ集団?

この奇妙な気分を感じる自分は日本人だなあとつくづく思う。この10万人には「世間」というコンセプトが存在しないということだろう。そして、完全に自分が自分の世界の主人公なのだ。

自分が卒業した高校の新聞に何か書いてくれと頼まれて、「いろんなことはまあ、どうでもいいから、自分の人生の主人公を目指したらどう?」みたいなことを書いたことあるけど、そんなふうに言葉で言えても、やはりこの10万人の主人公集団を目の前にすると、うわっ、なんか変と思ってしまうのだった。

そもそも僕が「自分の人生の主人公」なんてコンセプトをもてあそぶようになったのは、15,6年前にNYに住み始めた時だった。初めての外国の生活、というよりも初めての大阪以外の生活で、NYに住む人たちの態度というか、姿勢というか、全身から染み出ている何かに強烈な印象を持ったのだった。その頃のNYは今よりもずっと汚くて、身なりも挙動もほんとに変わった人がかなりウロウロしていて、僕はそういう人がいつか襲ってくるのではないかと最初の頃はかなり怯えていた。

ところが、そういう人たち-ホームレス系-が、明らかに見た目でアメリカ人と思えない僕に、話かけてきて、それがまた延々と続くのだった。ほんとに不思議な気分がしたものだ。誰に話しかけられてもほとんと何を言ってるのか分からなかったのだが、そのうちにいろんな人が話しかけてくる街だということに気がつき始めた。例えば、大きなコンドミニアムのドアマンが延々と僕に向かって、自分がいかに経済に詳しくて、株で儲けたり損したりしているかという話をする。この人にとって、僕はなんなのだろう?この人にとって、そんなことは眼中になくて、自分の世界しかないのではないかと思ったものだ。

日本なら、「ナリキリ野郎」というコンセプトが使えるが、NYの人はみんなそうではないかと思ったのだ。みんななんかになりきってる。自分の世界で。すべての人が現実の世界の主人公とかスターとかアイドルになれるわけではないのだから、少なくとも自分の世界だけでも、そうやって主人公になりきってた方が幸せなんだろう、いや、自分の世界でも自分が主人公でないなら、いったい自分の世界ってなんなんだ?と思い始めたのだった。日本にはそんなものはない、あるのは世間だけ、と言ってしまえばおしまいなのだけど。

American Idol に戻ると、10万人のうち、ほんの20人くらいがハリウッドで行われる決勝に残る。そして、この決勝に残った人たちがすごい、すご過ぎるのだ。もうそのままでそれぞれ昨日CD 100万枚売りましたと言っても、まったく不思議じゃないくらいレベルが高い。僕はここから一人に絞るのは不可能じゃないかと思った。

決勝戦からは毎週一人ずつ消えていくのだが、決勝戦では審査員に誰かを落す権限はなくて、コメントだけで、後はテレビの視聴者の投票で決まっていく。だから、毎週のパフォーマンスがとても重要になってくる。毎週、毎週、全米のテレビ視聴者の厳しい目にさらされて選ばれていくわけだから、もうすでにホントのアイドルと化していく。最後の3人になると、プライベート・ジェット機で故郷の街まで帰って、空港にはリムジンが待っていて、市長が出迎え、そして、1万人ものファンが待っていたりする。

そうやって故郷訪問みたいなイベントをはさんでまたハリウッドに戻ってきてコンテスタントは歌い続ける。決勝に残った人が10人くらいになってからは、みんなあまりに歌はうまいし、もう僕は誰がいいのかさっぱり分からなくってきた。しかし、10万人の集団をどんどんさばいていた頃に、すごいうまいなあと思った人に対しても、審査員はそれはカラオケかとか、場末のバーのシンガーかとかボロクソに言っていた意味が少し理解できるようになってきた。決勝集団はそんなレベルをはるかに超えてしまってる。

ただ単にぼやーっとテレビの前でねそべって、その中で歌っている人を見ているだけで、涙が出そうになったことが何度もある。歌というのはこういうものなのかと思ってしまう。誰が歌っても同じ、なんてものじゃないのだ、と当たり前かもしれないがあらためて思った。

先週、最後に残った3人が歌ったのだが、これは苦しかった。その中の一人、Vonzell Solomon にAmerican Idol になって欲しいと、いつの頃からか僕は思い始めたのだが、後の二人、Carrie Underwood と Boo Bice もすごい。Carrie Underwood のことはよく覚えていた。まだ、10万人集団の中の一人だった頃、21歳の彼女はオクラホマの片田舎で住んでいて、牛とか馬の世話をしている。そして、ハリウッド行きが決まった時、飛行機に乗れる、乗ったことがなかったと言って大喜びしたところが、すごいさわやかな感じだった。金髪で美人でスタイルがよくて、好印象を与えて、歌がめちゃくちゃうまくて、どこを探しても欠点がない。

ところが、Boo Bice はそれの上を行っているかもしれない。まるで70年代のヒッピーみたいなストレートな長髪で29歳の今までいったい何やってたのかと思わせるのだが、彼にはミスというものがない。決勝ではいろんな条件の歌を歌わないといけないのだが、彼は絶対ミスをせず、あらゆるタイプの歌を完璧に自分ふうにアレンジして歌う。審査員も言っていたが、コンテスト全体がまるで彼のコンサートをしているような感じになってしまう。

この二人にVonzell Solomon は勝たなければいけなかった。最後に残った3人の中では彼女だけが黒人だった。毎週、会場には家族や親戚や友人がいっぱい応援に来ていて、カメラは必ず彼らを写すのだが、お父さんが真っ赤のスーツを着ていたりする。彼女はフロリダの郵便局で仕事をしていて、歌が好きで勝手に歌っていたそうだ。ところが、このうまさははんぱじゃなかった。僕は彼女の歌を聞いていて、なんどもじわーっとしてきた。ホィットニー・ヒューストンよりうまいんじゃないかと思う。でも、彼女には一つ欠点があって、時々emotional になって、よく聞けば、ほんの少しだけどキーをはずすことがある。でも、そうなってもいつも最後には持ち直す。彼女も美人だし、スタイル抜群だし、そのまま今でもアイドル状態なのだが、他の二人もコマネチみたいに完璧だし、僕は心配だった。

でも、ほぼ完璧な三人の中で、僕にはVonzell Solomon だけが何か特別に見えていた。なんと言えばいいのか分からないが、彼女が出てくると胸騒ぎがするというか、なんかそわそわしてしまうというか、Vonzell Solomon のまわりはいつもキラキラしているように見えたのだ。

先週、特別審査員がVonzell Solomon はとてもlikable だと言った。ああ、そうだ、それだと僕はひざを叩いた。他の審査員もきっと同じことを思っていたのだと思う。いつも罵るのが仕事みたいなサイモンという審査員も、あなたには likability factor がある、と続けた。

そうなのだ、彼女はとてもlikable なのだ。それに見ている人間はひきつけられてしまう。これこそ、スターとかアイドルだけが持っているものではないだろうか。

この胸さわぎは彼女のlikability が起こしていたのだ。この言葉は、なんとなく「好感」って訳してしまいそうだけど、僕はそんな生易しいものではないように思う。これはむしろ「恋」みたいなものだと思う。日本語の愛も恋も英和辞書的にはにlove 関連のフレーズになってしまうけど、それでは恋の微妙さが出てこない。likable を使えば、あの微妙さは可能じゃないだろうか。実際、僕は審査員たちはみんな僕と同じようにVonzell Solomon に恋をしていると思った。

でも、先週、その彼女が落ちてしまった。今日の夜は、Boo Bice とCarrie Underwood が壮絶な決勝戦を展開するだろう。

Friday, May 20, 2005

買い物デーかBBQデーか。

今日は金曜日。休みのはずの日。
最近、みんな疲れぎみで、機嫌も悪い。
今日は僕のセクションはみんなで休むことにした。他のセクションはそもそも金曜日にほとんど来ない。休日だから、休むのが当たり前なのだが、このところ仕事の障害が多く、先延ばししてる案件が山積みになっていて、イベント化でもしないと、僕のセクションでは誰もなかなか休む気にならない。休日に出勤しろとは僕は一言も言ったことないのだが。

セキュリティが悪化すると、いろんな規制が実施されて身動きとれなくなるが、それで一番困るのは買い物にいけないことかもしれない。料理人を雇っている場合は、少なくとも食事には全然支障はないだろうが、僕の住んでいるところは料理人は必要ないという意見で全員一致していて、各自が勝手になんか作って食べている。冷凍庫が一つと冷蔵庫が二つあるので、みんなかなり買いだめしているのだが、それでも2週間ほど買い物に行かないと、だんだん材料が不揃いになって苦境に近づいてくる。

街の中の一般の店に行くことはまだ禁止されているのだけど、PX には行くことができる。日本にも昔、進駐軍がいた頃は、PXという単語は日本人にもなじみ深いものだったようだけど、現代日本ではほとんど使われない単語だろう。今でも、日本国内の米軍基地にはあると思うけど。

PCに入ってる辞書を見ると、「post exchange 〔米陸軍〕 酒保」と書いてあった。なんのこっちゃ?軍の下請けで業者が入って営業している免税店と言えば分かりやすいかな。カブールにはISAF(International Security Assitance Force)と呼ばれる、いわゆる国連平和維持軍が委託して経営されているPX が、4件(?)あるらしい。今日は、リチャードとウチェンナを誘って、PX 巡りをすることにした。

まず一軒目のブルーと呼ばれるPX で、フィリップスのミニコンポが半額で売っていたので、それを一番最初にショッピング・カートに入れてしまった。食糧を買うお金が足りなくなるかもしれないと思って、やや不安になるが、自分のベッドルームでPCから流れるしょぼい音じゃなくて、もう少しまともな音で音楽を聴きたいと思っていたので、やはり買うことにした。

次にお湯を沸かす電気ポットも半額になっていたので、これも買うことにした。オフィスでコーヒーやお茶を飲む時に使うのだが、もう半年近く誰のものか知らないポットを借りて使っていた。なんとかこの状態を脱出したいと思っていたのだ。

あとは、スパゲティを5キロとか冷凍の野菜や魚を買って、レジに行くと合計297ドルだった。ポケットには残ってるお金は73ドルになってしまった。これではPX 巡りどころか、二軒目に行く意味もないと思ったのだが、リチャードとウチェンナは、どうしても最低もう一軒は行きたいというので、ついて行くことにした。

■Blue PXでの買い物
Philips Micro Audio System :119.00 ドル
電気ポット : 19.00 ドル
V8 野菜ジュース 330ml X 24 缶 : 31.00 ドル
Walkers ショートブレッド・ビスケット : 2.80 ドル
Grisbi Coffee Cookie : 1.50 ドル
Kleenex フェイシャル・ティッシュ : 2.60 ドル
Barilla スパゲティ 1キロ X 5個 : 5.00 ドル
Camel Light 1カートン : 15.00 ドル
Marlboro Menthol 1カートン : 14.00 ドル
冷凍ホワイト・アスパラガス : 9.00 ドル
マーガリン 250グラム X 2個 : 3.10 ドル
Soppressata Spicy サラミ : 7.35 ドル
冷凍皮なしメルルーサ(魚) : 14.60 ドル
冷凍スライス・食パン : 1.99 ドル
アンチョビ・フィレ 2缶 : 4.40 ドル
Macleans ハミガキペースト : 2.90 ドル
Panadol Extra 16個(鎮痛剤) : 4.00 ドル
ストレプシル 1箱 : 4.50 ドル
SAXA グラウンド・ペッパー : 1.25 ドル
Funsize Mixed Mini Chocolate : 5.49 ドル
Danzka Lemon Vodka 1L : 10.49 ドル
Barilla Pesto Sicilian : 4.40 ドル
Barilla Pest Genove : 4.00 ドル
San Pellegrino Orange : 0.69 ドル
Lo Salt 350グラム : 2.28 ドル
Rounding(切り捨て) : 0.05 ドル
小計 :297.00 ドル

次のお店はシュープリームというところだ。なんと、ここにいつもは品切れのMarlboro Menthol Light があるではないか。今買っておかないといつ買えるか分からないので、とりあえず控えめに4カートン買っておくことにした。別のコーナーに行くと、あれっ、新鮮な野菜が入荷している。冷凍野菜ばかり食べていると、こういうのにどうしても弱くなる。冷凍でない、アボガドとセロリとマッシュルームを買うことにした。ウチェンナが「なんだ何にも買わないのかと思ってたら、いっぱい買ってる」とか言って笑ってる。僕はそれを無視して「金貸してくれ」と答えた。

肉のコーナーに行くとベーコンも入荷していた。豚肉のベーコンは貴重なのだ。これも1キロ分買うことにした。もう手持ちの73ドルでまかなおうなんて気はとっくになくなっていた。結局、合計85.6ドルで、リチャードとウチェンナの共同金庫(二人は同じ家に住んでいる)から100ドル借りた。


■SUPREME PXでの買い物
アボガド 1キロ : 8.50 ドル
セロリ 1キロ : 8.50 ドル
マッシュルーム 250グラム : 1.50 ドル(レジの人の計算間違い)
Marlboro Menthol Light 4カートン : 48.00 ドル
プリッツエル 2パック : 2.60 ドル
スモークベーコン 200グラムX5 : 15.00 ドル
石鹸ピンクバランス 1個 : 1.50 ドル
小計 : 85.60 ドル

今日のお買い物合計 :382.60 ドル(約4万円)


今日の夜は、どこかの国際機関の日本人の誰かがどこかに転任になるとかいうので(いったい誰なんだ?)、BBQパーティをやるらしく、そこに行こうと誘われていたが、どうも動く気にならないので、パスした。それで、今晩はゆっくり家にいようと思っていたが、なんか忘れ物をしているような気分が続いていた。と思ったら、チャールズから電話がかかってきた。そうだ、彼の家でもBBQパーティを今晩するから来いと言われていたのだった。一つだけ断るのも変だと思って、これも行かないことにした。そしたら、今度は日本のNGOの人から電話がかかってきた、明日の昼BBQパーティをするから来ませんかだと。不思議な日だ。みんな急にBBQが食べたくなったらしい。僕は全然食べたくないので、これもやはりお断りした。今日の僕の催しものは買い物でもう終わったいたのだ。

Tuesday, May 17, 2005

White City

昨日の夜9時過ぎ、リビングルームでテレビを見ていたら、オフィスのセキュリティ担当官から電話がかかってきた。「無線を聞いてないのか?」というから、あはっ、えへっ、聞いてない、リビング・ルームでテレビ見ていたしぃ、ともぞもぞこたえると、今日はもう外には出るな、インストラクションが入ってくるから無線を聞くように、ということだった。

あわてて、ベッドルームにVHF無線のハンドセットを取りに行くと、ちょうど僕のコールサインを呼んでいるところだった。無線室が全員の所在の確認を始めていたのだった。無線による安全確認は7時にすでに一回やってるから、カブールで何か起こったのだろう。

とりあえず、ハウスメートのラースに連絡しにいくと、彼のところにはまだ連絡が来ていない。セキュリティのインストラクションは、UNDP内にオフィスをおいているセキュリテの責任者から出て、それが各国連機関のオフィスに、夜間なら無線室に伝えられる。そこから、各オフィスのスタッフに伝えられる。ラースはすぐに自分のオフィスのセキュリティ担当官に確認の電話をし始めた。当たり前だが、彼のオフィスも同じインストラクションを受け取っていたが、回ってくるのが僕のところより遅かっただけだった。

それから、彼はあっちこっちに電話して、自分の国のデンマークの大使館にも電話して、情報を集めていた。彼の集めた情報を総合すると、シャリ・ナウでイタリア人の女性が誘拐された、ジャララバード・ロードと呼ばれているところの国連施設にロケット弾が15発ほど撃ち込まれたということだった。

う~む、なんか不穏な動きだな、と思っていたら、また無線による指示が入ってきた。カブールにホワイト・シティが適用された、よって明日はessential staff のみ事務所に行くことが許可される。必ず二台の車で移動。ということだった。そのあと延々と国際スタッフ全員がそれを聞いたことを確認するメッセージを返す声が無線から流れてる。

3日間ほどessential staff だけという日が続いて、やっと解除されたと思ったら、また一日で逆戻りだ。同時並行して進んでいる仕事がたくさんあるので、こういう事態はすごい障害になる。ほんとは身の安全とかそういうことをいろいろ考えるべきなのだろうが、真っ先に頭に浮かぶのは、あれが止まるとか、これが遅れる、とかそういう仕事のことばかりだ。

とりあえず、リビングルームに備え付けのPCから明日予定されてるミーティングやら仕事についての指示とか言い訳とか申し開きとか弁解とか謝罪とかごまかしとかのメールを送ることにした。

それから、数日前にこのゲストハウスに来た日本人の女性のことを思い出した。カンダハルに赴任するらしく、ちょうどセキュリティが悪化している時に初めてアフガニスタンに来てしまい、カブールで足止めをくらっていたのだった。

どういうわけか、この前会った時はまだVHF無線機を支給されてなくて(これってホントは大問題なのだけど)、何にも知らないかもしれないと思ったので、一応を寝込みを襲いに、いや連絡をしようと思って、彼女の部屋をノックしたが、応答なし。ラースも連絡しなきゃとか言って、うろうろしているが、男二人なので、どうしたらいいものか、いまやセクハラと言えば、国連名物みたいで、いろいろ指示されていて、男の職員は萎縮しがちなのだ。

しばらくラースとリビング・ルームで話をしていると、シャワーを浴びた彼女がひらひらと登場した。ラースは極めて事務的に事態の連絡をした。僕はもう一度VHF無線はもう支給されたか訊いたが、まだなのおぉ~、だった。

一夜明けて、今日も静かなオフィスだ。
所長とセキュリティ担当官は元軍人だから、こういう時、妙に高揚して張り切る。僕は自分の部屋で一人で仕事する。昨日の朝、同僚のチャールスが3日間ゆっくり休めたか、なんて訊くのでびっくりしたが、彼らは静かなオフィスどころか、ずっとオフィスに来ていなかったのだということをあらためて認識した。そして、また今日は自宅待機だ。これでは、やはりオペレーションに支障が出てしまう。僕は結局、毎日オフィスに来てるけど、いろんなことが中途半端に遅れてしまってる。なんか気持ちよくない。

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オフィスにいても、ぼやっとする時間が多くなってきた。これなら家で寝ていた方がましだと思う。昨日のイタリア人女性のことは日本の新聞に出ているだろうかと思って、インターネットを見ていたら、なんか日本では長者番付が出る季節らしく、誰それがランキング入りとかなんとか何本も記事が出ている。

テレビにたくさん出ている人は儲かってるってことなのだなと思う。ある芸能人は、一日あたり1000万円になるとか書いてあった。あんなくだらないこと言って、そんなにもらえるなら、若い人が学校なんか行ってもしょうがないと思っても、しょうがないと思うが、そういうこと言うと単に妬んでいるだけだと思われるんだろうな。なんにせよ、僕にはまったく関係のない世界だ。

イラクで誘拐された日本人の人の話もどうなったのかなと思うが、あんまり新しい情報はないようだ。ウェブの上でそうやってうろうろするうちに、「豪歌姫ミノーグさん、乳がんに」という文字が目に飛び込んできた。最初「豪歌姫」ってとこにひっかかって何か分からなかったが、カイリー・ミノーグのことではないか。なんと、とうとうそういうことになってしまったか。容姿が重要な仕事の人にとって、これはかなり打撃を受けるだろうな。気落ちしないで、ずっとキャピキャピ歌っていて欲しいと思うが。

ジェフ・ベックが7月に来日するという嬉しいニュースも見つけた。なんとかいけないものだろうか。なんとか対策を立てよう。

その後、Ansar Al-Sunnah のことをもっと知りたいと思って、ウェブを見ていると、あるわ、あるわ、ものすごい量の情報が流れている。どこまで行ってもきりがない。そうこうしているうちに、バグダッドにいるアメリカ人・ジャーナリストのブログに迷い込んでいた。

そこで見た一枚の写真。すぐに僕は" Generation Kill "に出てきた米兵たちを思い出した。ブログのその先が読めなくなった。


From http://michaelyon.blogspot.com/

Saturday, May 14, 2005

アルバニア

アルバニア人の女性がオフィスに来た。最近オフィスのスタッフを公募しているので、ちょくちょく問合せがある。なかにはアフガニスタンに住んでいる人もいるので、ひょっこり話を聞きにきたりする。今日来たアルバニア人の人は、知り合いの紹介でやってきた。

ほんとはこれまでの経歴とか将来の野望とか、あるいは必要とされている仕事の内容とか、そういう話をするべきなのだが、どうもアルバニアのことが気になってしかたなくて、結局2時間くらいアルバニアの話を聞きまくって、次回は英語で書いたアルバニアの本を持ってきてくれるように頼んでしまった。

アルバニアの話はおもしろかった。全然知らなかったが、アルバニアは部族社会なのだ。彼女はアフガニスタンのパシュトゥーン族の部族規範がよく分かる、アルバニアの部族規範とそっくりだと言っていた。ほーーーーーーーーーーーーーっと、僕は息をのんで彼女の話を聞いていた。

ひょっとしてと思って、『ゲルマニア』を読んだ時も僕は一人でほーーーーーーーーーーを連発していた。古代ゲルマン人の規範は、パシュトゥーン族の部族規範とそっくりなのだった。ヨルダンに8ヶ月ほど住んでいた時も、アラブの規範を知れば知るほど、僕はパシュトゥーン族の部族規範を思い出したものだった。そっくりなのだ。

いろいろ話を聞いたけど、またいつかまとめて書こう。せっかく来てくれたのだから、最後に30分くらい焦っていろいろ仕事の話を説明した。しつこくアルバニアに行ってみたいと思いながら。

Friday, May 13, 2005

静かなオフィス

午前10時に始まったミーティングは午後1時前に終わった。出席者5人のうち3人はすぐにミーティングルームを出たが、僕はまた別件で続けて所長と二人でミーティング。二人とも、直前の3時間のミーティングでもうかなりうんざりしているので、さっさと終えようという気分がはっきりとしている。

まず、別件の書類を一読して、僕がコメントを箇条書きふうに言う。所長がそれをメモする。次に所長が彼のコメントを箇条書きふうに言う。それを僕がメモする。それぞれ確認して、次のアクションを決める。それで終わり。それでも20分ほどかかった。でも、これ(別件Xとしておこう)は、長引きそうだ。アクションの一つが他機関とのミーティングなので、その時間が決まるまで、僕は部屋に戻って仕事することにした。

自分の部屋に戻って、昨日作ったおにぎりを食べながら、メールをチェックして、昨夜書いたメールを発信した。今日のオフィスはとても静かだ。午前中ミーティングに出ていた3人はゲストハウスに戻ったようだ。所長と僕以外、誰もいない。

ふと時計を見ると、5時を回っている。今日中に例のミーティングは設定できなかったのだろうか、と思っていると、所長が部屋に入ってきて、僕の机の上のチョコレート・チャンク・ヘーゼルナッツ・ビスケットを一枚さっと口に入れて、なんかもごもご言っている。何かに怒っているらしいが、はっきりしない。彼は、ビスケットが口に入ってなくても、何訛りか知らないが、とても分かりにくい英語を喋るカナダ人だから、さらに分かりにくい。

もごもご、ぐしゃぐしゃと言いながら、手招きで自分の部屋に来いというので、行ったら、一本のメールを見せられた。それはものすごく緊急に処理しなければいけない件についてのある人からの返答だったのだが、一読しても何を言いたいのかさっぱり分からない。僕はPCの前に立って読んでいたのだが、とにかく座ってゆっくり読めと所長が言うので、もう一度読んだが、だんだん腹が立ってきた。

「コイツハ何モ分カッテナイ・・・」という言葉しか思い浮かばない。完全に事態を把握しそこなってトンチンカンな提案をしている。まったく、アホか、というかうんざりする。もうなんど緊急だといってきたことか。メールも何本も行ってるし、何度も電話でも話をしている。にもかかわらず、分かってない。そして、この人間が適切なアクションを起こさないとどうにもならないというのに。所長の怒りもごもっとも。

所長が書いた返信のドラフトも読んだが、すでに何度も何度も説明して合意したはずのことをもう一度丁寧に説明している。この返信をどう思う?と所長は訊くが、This is what we understand. としか言いようがない。しかし、ほんとどうすればいいんだろう。どこかにバカにつける薬を売ってないだろうか。僕も所長もしばらく考えあぐねてボーっと沈黙していた。

ともかく、所長はそのメールを送って、僕は別ルートで同じことを試みることにして、僕は部屋に戻った。

部屋に戻ると、どっとメールが増えていた。5時を過ぎるとNYが朝になるので、こっちから送ったメールの返信がNYから入り始めるのだ。どこかで切らないといつ家に帰れるか分からない。暗くなる前に帰ろうと思っていたが、もう暗くなってきた。

あれっ?僕の部屋の窓から駐車場が見えるのだけど、所長の車がない。一人になったのか。もう帰ろ、帰ろ。

Thursday, May 12, 2005

だらだら・・・

昨日の夜、気になるテレビ番組「American Idol」を見ていると、ラースがリビングルームにどどっと入ってくるなり、アメリカでなんか変なこと起こってるぞ、ライブ中継してる、と言うので、ニュースチャンネルにかえると、BBCもFoxもホワイトハウス周辺を映しっぱなしにしてる。

ホワイトハウスはevacuation, 上下院ともevacuation, とか、なんだか物騒な気配が漂っている。未確認の飛行機がホワイトハウスに近づき、確認しようとしたが応答がなかったためだそうだ。F-16がスクランブル発進し、ブラックホークも飛んでいる。

なんだかよく分からないので、リビングルームにあるPCでCNNのサイトを見ると、なんと第一面は、ジャララバードのデモの記事だった(日本とはえらい扱いが違う)。その上に、緊急ニュースとして、ホワイトハウスでevacuation、詳細はこの後すぐに、みたいなことが書いてある。何が起こっているか、まだよく分からないらしい。

911以後、GWOTという変な言葉がよく使われるようになったけど、どうせなら第三次世界大戦中とかなんかもっとはっきりした言葉使った方がいいんじゃないのかな。言葉はどうでもいいとしても、確かに僕らは今GWOT中なのだと思う。

しばらくすると、ワシントンDCには、All clear が発令されて、ホワイトハウスにも人が戻り始めた。

と思ったら、見たことない人がリビングルームに入ってきた。ヤーァといって簡単に挨拶して、どこから来たのか訊くと、ジャララバードだった。なんとか混乱を脱出したグループの一人だった。今日、彼を含めて6人が飛行機で退避してきたそうだ。ヘリコプターで出てきた人たちもいるので全部で何人ジャララバードからカブールへ来たのか分からない。

ゲストハウスが略奪されて燃やされた、全部なくなった、と彼はボソッと言って、リビングルームのPCに向かった。きっと誰かに連絡するのだろう。

今日、オフィスに行くと、すぐに国際スタッフを全員集めてセキュリティのミーティングが行われた。最新の状況のブリーフィング。コーランの侮辱に対する抗議で始まったデモだったが、デモ中に四人殺されたことで、今はそれに対する怒りがデモの目的になってきているとか。

まだ、ジャララバードには二十数人取り残されている。午前中に国連機を二便飛ばして全員カブールに移動を終える予定。今日からカブール市内の一切の移動に許可が必要になった。ちょっとタバコを買いに行ったり、ゲストハウスにランチを食べに行ったりなんてのも許可が必要。オフィスの時間もいつものようにだらだらと10時頃まで仕事するわけには行かなくなった。定時通りに8時から5時の間に仕事をして帰宅するようにということだった。(その1時間後に帰宅時間は4時に引き上げられた。)

明日は金曜日でオフィスは休みのはずだが、国際スタッフはオフィスに来て仕事していることが多い。しかし、金曜日はモスクに人が集まる日なので、お祈りの後、自然発生的なデモのような状態になることが多いから、明日はessential staff のみ出勤ということになった。誰がessential staff なのかという質問。セキュリティ担当と所長の二人という回答だった。

ミーティングの後、続いて所長と別件のミーティング。他機関も関係している話なので、そこと別のミーティングが今日5時に設定された。えっ?5時?話が違うと思ったが、こんなもんだ。続いて、同じ場所で別件のミーティングのために、もう二人スタッフが入ってきた。これも30分ほどで終えて、続きは明日の朝6時からと所長が言った。えっ?明日?金曜日に?朝6時に?という僕の質問に彼はすべてうなずいた。笑って、OK と言うしかない。でも、なんだったんだ、朝のセキュリティミーティングは。しばらくして、不満気な雰囲気を察した所長は10時からでもいいけどと言い出したので、結局10時からになった。

それから急いで自分の部屋に戻ったら、ミーティングをする予定のアフガンNGOの人がすでに待っていた。セキュリティにお金を使ったがどこにチャージしたらいいのか分からないという話。また、セキュリティか、と思う。もう一つの話は、承認されたばかりの予算にまちがいがあったので、なおして欲しいという話。

NGOといっても、一つのプロジェクト予算だけで10億円を超えているし、職員は1500人もいるから、中小企業といってもいいだろう。こういう組織をちゃんと経営するのも企業社会がまだまだ根付いていないアフガニスタンの人にとっては、なかなか大変なのだ。

二つが解決して、また今度は別のビルにいるITシステム担当の人とのミーティングに行った。途中で、渉外担当のスタッフを誘って行った。最近、あるドナーが新しいウェブベースのデータシステムを作ったので、資金を提供しているすべての組織にそれにデータを入力して欲しいと頼んでいる。

このドナーの資金のプロジェクトを担当している人がいるので、僕はその人がやればいいと思うのだが、いや、これは外の人と関わるので、渉外担当者がやるべきだとか、ITが関係しているので、IT担当者がするべきだとか、いや、契約とか財務関係は誰も分からないからプログラム担当者がするべきだとか、いや、プロジェクト進行中の財務情報を要求されているなら、それは極秘情報だから誰にも見せずに断るべきだとか、いろんな意見が出て、何にも決まらない。ドナーが、Absolutely required といって頼んできたことで、しかも昨日中に担当者を伝えなければいけないのに、こうやってほんの些細なことでもなかなか決まらない。国連らしいと言えば、国連らしいだろう。

いつまでも同じ話を繰り返していてもしょうがないので、セキュリティでばたばたとしている混乱に乗じて、このミーティングでさっさと担当者を決めてしまおうと思っていた。一応、なんとか進みそうな気配で話は終わった。

部屋に戻ると、所長が部屋に入ってきた。バグランのIPのオフィスが襲撃され、車が全部破壊された、ワルダクでdeminer が人質にとられた、ヘラートでdeminer が三人死んだ、と言う。次から次に・・・。何も言葉がない。

カブールもevacuation になるかもしれないなあと思いながら、やっとPCに向かおうとしていたら、セキュリティ担当官が血相を変えて部屋に入ってくるなり、Aに移動の許可を出したのかと怒鳴っている。はあ?Aというのは、部下の一人なのだが、許可も何もずっとミーティングでそれ以外は誰とも話す時間がなかった。すべての移動は許可がなければ禁止なのに、Aは勝手にゲストハウスに帰って荷造りを始めたということだった。セキュリティ担当官は彼の権限を越えて、僕が勝手に許可を出したと思ったらしい。彼は、Aをアフガニスタンからほりだしてやるとプリプリしながら出て行った。

どうでもいいけど、早くメールをチェックしようと思って、PCにたどり着いたら、部下のBが、ランチに帰りそこねたから、お腹がすいたと言って、僕の部屋に入ってきた。いきなり僕の机の上にあったプリッツェルを食べ始めた。バリバリと音を立てながら、なんで我々は今ここにいるのだ?と言っている。確かに、他のUNはもう帰宅しろという指令が出て戻ったところもある。

Bがプリッツェルを全部食べきったので、トルティア・チップをあげたら部屋から出て行った。と思ったら、午前中にミーティングをしたNGOの財務担当者が訂正した予算書とディレクターの訂正申請のレターを持って現れた。合意したとおりであるのを確かめて、帰ってもらった。僕がもたもたしている間に、このNGOは着々と仕事していたんだなと思う。

NGOの人と入れ替わりに、新入りの部下のCがひょろっと入ってきた。あるドナーがIPに導入しようとしている財務処理のソフトウェアについて何か意見があるらしい。部下のうち三人は公認会計士なので、そういうことには細かい。しばらく話して、これまでの経緯も同じ専門の人から聞いた方がいいだろうと思って、Cを連れてBの部屋に行った。そしたら、別の部下のDも入ってきた。公認会計士三人でいろいろ話していたが、僕がそのドナーと彼らのミーティングを設定することで話は終わった。

やっと、と思ったら、ドイツ人の一団がやってきた。そんなアポをした覚えがない。ある省に顧問として派遣されているドイツ人と、そこのプロジェクトに資金を提供するドイツ政府に雇われた人たちだった。ダムを建設する前の地雷除去をしたいらしいが、国連とかアフガン政府とかNGOとかの関わり方やら、資金の流れ方の複雑さに困惑していた。確かにややこしくて全部分かっている人なんているんだろうかと思う。僕も全貌はさっぱり理解できないが、分かっていることだけ説明した。契約書の見本を欲しいというので、後で送ることにした。とかなんとか話していたら、It's 4 o'clock, we gonna shut down ! と叫びながら、ゲーリーが入ってきた。

えっ?うそっ?もう4時?もう終わり?5時のミーティングが、と言いかけると、分かってる、一応連絡しただけ、と言ってゲーリーは家に帰っていった。ドイツ人が帰った後、またAがちょろちょろすると面倒なので、早く家に帰るようにと言いに行った。

結局、ゲストハウスに帰ったのは、7時5分前だった。7時に無線による安全確認が終わったあと、テレビで、"American Idol" と "Growing Up Gotti" と "Simple Life 2" を見た。三つともカテゴリーとしては、「リアリティもの」に入るのだと思う。アメリカの今が少し見えて興味深い。

カブールのこの季節の最大の楽しみである、野生キノコを昨日手に入れたので、キノコとチキンのオイスターソース味の炒め物とズッキーニのにんにくソテーを作って食べた。ごはんを炊き過ぎたので、ワカメ明太子おにぎりにして明日オフィスにもって行くことにした。

ベッドの中で今日ほとんど読めなかったメールを読んで必要なレスポンスを書いていたら、あっという間に午前3時になってしまった。とりあえず寝ることにした。


GWOT=Global War On Terror

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BBCはジャララバードの様子をこんなふうに(↓)報道している。

Riots over US Koran 'desecration'


BBC News / Wednesday, 11 May, 2005
At least four people have been killed and many injured after police opened fire to break up an anti-US protest in eastern Afghanistan, officials say.

Hundreds of students rioted in the city of Jalalabad over reports that the Koran was desecrated at the US prison camp in Guantanamo Bay, Cuba.

President Hamid Karzai has said the violence showed the inability of Afghan authorities to handle such protests.

The US authorities have said they are investigating the allegations.

"Obviously the destruction of any kind of holy book... is something that is reprehensible and not in keeping with US policies and practices," state department spokesman Tom Casey said.

President Karzai, who is in Brussels, told Nato that his country would need international assistance "for many, many years to come".

Buildings burned down

Afghan National Army soldiers, supported by US units, are out on the streets of Jalalabad to try and control the situation.

Protests also spread to the south-eastern city of Khost, where hundreds of students took to the streets.

In Jalalabad, buildings belonging to the United Nations are reported to have been attacked and the offices of two international aid groups are said to have been destroyed.

Pakistani ambassador to Afghanistan, Rustam Shah Mohmand, told the BBC the Pakistani consul's house had also been burned down and two cars torched.

One international aid worker in Jalalabad told the BBC that he could see smoke rising from points across the city.

He said there were groups of people running along the streets, reportedly looking for foreigners and anyone working for non-governmental organisations.

The BBC's Andrew North in Kabul says the violence comes after several months of mounting concern among foreign aid workers in Afghanistan over their security.

All UN and other foreign aid workers in the city have been told to move to safe areas.

The protesters chanted "Death to America" and smashed car windows and damaged shops.

"Police opened fire in the air to control the mob, and some people were injured," Jalalabad police chief, Abdul Rehman, told the AFP news agency.

Jalalabad is 130km (80 miles) east of the Afghan capital, Kabul, close to the Pakistani border.

Reports of abuse

The unrest follows a report in the American magazine, Newsweek, that interrogators at Guantanamo Bay had placed copies of the Koran on toilets in order to put pressure on Muslim prisoners.

Former Guantanamo inmates told the BBC Urdu service earlier this month that some Arab prisoners had still not spoken to their interrogators after three years to protest at the desecration of the Koran by guards at the camp.

On Sunday, the Pakistani government said it was "deeply dismayed" over the reports about the Koran.

Islamist parties there have called for a nationwide strike on Friday.

Both Pakistan and Afghanistan are close allies of the US in its war against terror.

Insulting the Koran or Islam's Prophet Mohammed is regarded as blasphemy and punishable by death in both Pakistan and Afghanistan.

The US is holding about 520 inmates at Guantanamo Bay, many of them al-Qaeda and Taleban suspects captured in Pakistan and Afghanistan following the 11 September 2001 attacks in the US and subsequent US-led invasion of Afghanistan

Wednesday, May 11, 2005

甘いフルーツ「ぶさいくやけど愛嬌」-国際支援の現場から・・・きゃっ。

ってな記事を発見(ここ↓)。
http://www.asahi.com/international/shien/TKY200505090115.html

アフガニスタン東部のジャララバードで、昨日から始まったデモが暴動化し、ジャララバードの国連事務所がすべて略奪される。暴徒化した群集に発砲があったと思われ、二十数人が負傷したというニュース。発砲したのは、米軍だといううわさが流れるが確認はされていない。
そもそものデモの原因は、グアンタナモに収容されているアフガン人のコーランを看守の米軍兵がとりあげ、便所に捨てたことに対する抗議だという話。
国連はジャララバードから職員を evacuate しようとしているが、どうなったのか、現実的に可能な状態なのかどうか分からない。

日本の新聞に載ってるかなあと思ってみてみたが、やっぱり出ていないね。
カブールはインターネット・カフェ・テロ事件で国連職員が一人亡くなってから、セキュリティの規制が厳戒になって、身動き取れないかんじ。50mの移動も車二台が必要。レストランその他公共の場所はすべて出入り禁止になった。歩行はもちろん禁止。エクササイズのために毎朝近所の丘まで歩いて往復していた人ももう歩けなくなった。

Monday, May 09, 2005

まちがい

インターネット・カフェでの爆発は午後6時10分前だったそうだ。Curfew を破っていたわけではなかった。娘さんがカナダのMecial School に合格して、その入学準備に合わせて帰国するところだったとか。なんかなあ・・・。

Sunday, May 08, 2005

再び忘れるということ

昨日、10時過ぎくらいにゲストハウスの居間で、いつものようにぼんやりとテレビを見ていたら、ラースが入ってきて、「どこも行かないと思うけど、外に出ないようにって無線室から連絡があった」と伝えた。一応同じゲストハウスの住民みんなに連絡するようにと言われたのだろう。

「今頃から外には出ないけど、なんで?」と訊くと、「カブール市内で爆発が起こってるらしい」と、またいつものことだよといいたげな顔で言って、居間から出て行った。

確かに、どこそこで爆発があったとかどうとか、米兵が殺されたとか、そんなことは毎日どこかで起こってるし、だからどうしようと言っても何もすることがないし、結局、そういう情報が無意味なものと化していく。

爆発音は聞こえるだろうかと、僕は耳をすませてみたが何も聞こえない。そして、また、僕の注意はテレビの方にもどっていった。

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オフィスに来て、ミーティングを一つ終えて、メールを開くと、セキュリティ関係のメールが続けて入っている。このところ毎日入っているので、ほとんど読まないのだが、昨日なんかあったのだろうかと思って開いてみた。

えっ?うそっ?!

国連の国際職員が一人爆発で死んでいた。なんでや?昨日の夜中の12時頃、カブール市内のシャリ・ナウという一応高級な地域の中心部にあるインターネット・カフェで爆発があり、重傷者多数、死者3人、うち一名は国連の国際職員と書いてあった。

なんで、そんな時間に、そんなところに?
Curfew は11時だし、昨日の夜12時と言えば、ラースが律儀に警告を伝達に来た時刻よりも後だ。この人は連絡をもらってなかったのだろうか。Curfew も破ってる。

帰国休暇の直前で大金を銀行から引きおろして持っていたが、残念ながら、そのお金はすべて発見できなかったと書いてある。さらに、身体の損傷が激しく、IDカードを発見するまで誰か特定することができなかったとも。

分かっているのは、昨日の夜12時頃、爆弾をもって一人の男がインターネット・カフェに入ってきた。彼はトイレの中で爆弾の操作を誤り、そこで爆発してしまう、ということくらいのようだ。これもかなり憶測がまじっているような気がするが。

アフガン政府はこの爆発をテロと断定して、捜査は内務省管轄から国家安全保障部に移行した。

日本の新聞をインターネットで見てみたが、この爆発はどこにも載っていなかった。

去った人

昨日の夜は、スティーヴンのお別れディナーだった。今日の飛行機で彼はカブールを去っていった。

とてもユニークな人だった。日本的にいうと、小うるさいという感じで敬遠する人も多かったが、なぜか僕は彼にまとわりつかれて、いろんな話(ほとんど不平・不満・怒り・挫折、そんな感じの話)を聞かされていた。ある意味でほっとしたが、オフィスの名物が一つ減ったような感じもする。

彼は、オフィス主催のお別れ会を頑なに拒否して、自分でお別れディナーを企画した。その気分は分かる。僕もそういう公式お別れ会みたいなものの、あの作り笑顔に満ちた雰囲気がなんか嫌いだ。

そのディナーに行ってみると、なんと同じオフィスから来ているのは僕一人だった。苦笑する。結局、最後には彼はみんなと衝突してしまったんだなあ。かといって、僕と意見があったわけでもないのだが。

僕以外に5人いたが、みんなアングロサクソンだった。スティーヴンもオーストラリア人だから、やはり同族はかたまる傾向があるみたいだ。5人のうち2人は僕の近くにすわっていたので、話をして分かったが、アメリカ人だった。でも、タバコを吸っていた。タバコを吸うアメリカ人というのは近頃レアものだ。

Thursday, May 05, 2005

記念日・祝日・記念日・・・・

結婚記念日とか彼女の誕生日とかなんとか記念日みたいなものを覚えてる男はアホだと思っていたし、もちろんそんなことのために何日も何週間も何ヶ月も前からプレゼントを考えたり、催しものを計画したり、ホテルやレストランを予約したり、その時に着る服を考えたり、シミュレーションをして聞く音楽やセリフまで考えたり、そういうことするメンタリティはきっと狂気に近いに違いないとさえ思っていた・・・確かに独身の頃は。

しかし、今はものすごく注意深くなった。そういうことを忘れて、あるいは無視して発生する事態のコストの大きさを思えば、少しくらい神経を張り詰めて1年のうちほんの数日を覚えている方がよっぽど楽だと思い至ったからだ。

このところ若干の緊張を必要とする日が続く。4月26日は結婚記念日だし、5月5日はこどもの日だし、5月8日は母の日だし、5月25日は次男の誕生日だ。でも、僕はずっと家にいない。

いかんでしょう。でも、今はインターネットでものを買って送ることができるという便利な時代になったのだ。

去年の結婚記念日は日本にいたので妻に指輪を買った・・・というか、そのずっと前に僕が自分の結婚指輪をどこかでなくしていたので(3回目)、なんとかせねばいかんと思いつめていて、とうとうまとめてセットで買うことにしたのだった。

せっかく新しいセットを買ったのだから、古い結婚指輪はもうやめて新しいのだけ使えばいいと思うのだが、オリジナルの方は牧師さんにblessing されているけど、新しい方はblessing されていないからとか言って、妻は頑なに古いオリジナル結婚指輪に拘っている。

神もへったくれもあるか、こっちの方がずっと高いんだぞ、なんて泥沼に頭から突っ込むようなことは言わず、僕はいかにして、自分の新しい指輪をなくさないかについて考えることにした。結論は僕が毎日一番長く見つめるところに飾っておくということであった。それなら消滅したらかなり迅速に気がつくはずだ。

それはたぶんコンピュータのディスプレイだった(わびしっ)。僕の結婚指輪は今も日本の家にある僕のPCのディスプレイとキーボードの狭間で光り輝いているはずだ。そういうわけで、僕が指輪をしないという一貫した姿勢は、ひょっとしたらなにかと有利かもしれないというさもしいスケベ根性から出たものではなく、もう同じような指輪を二度と買いたくないという貧乏根性から出たものであった。そこんとこ訂正お願いします。

今年はやばかった。結婚記念日が迫っていることに気がついたのがその3日前だった。アマゾンの本でも注文してから2,3日かかる。もう何を贈るかなんて考えている余裕はなかった。花だ、とりあえず花を送らねば。長男もどういうわけか花が家にやってくると喜ぶ。花だ、花だ、と思ってインターネットの花屋を走り回ったが、どいつもこいつもだった。

確かにいろんな花の写真がサイトには載っている。これはいいと思ってクリックすると、「注文受付から配達まで1週間かかります」なんてやつばかりだ。ほとんどパニックになっていたので、後でチェックしようと思っていた花なんかどこに行ったのか分からなくなってしまう。

そうこうするうちに「おまかせメニュー」というのを見つけた。値段を決めて山盛り一杯みたいな感じで注文すれば、むこうが勝手に在庫にある花を取り合わせて送ってくれるということだった。これなら翌日配達可と書いてあった。僕は数少なくない選択肢の中から「バラと小花」を選び、中くらいの値段を選んだ。もちろん写真はない。税・送料込みで8,925円だった。どんな花が届くかも分からないので、安いのか高いのかも分からない。

これで一息ついた後、僕はこどもの日のプレゼントと母の日の花を忘れないうちに次々と注文していった。もうすぐ6歳になる長男にはあまりつまらないオモチャは買いたくないし、最近せっかく本に目覚めてきたので、長男には本だけを贈って、本にまだあまり関心のない次男にはオモチャだけを贈るというのが最適だと思うのだが、そうはうまくいかない。

次男がオモチャをもらうと長男もオモチャを欲しがる、長男が本をもらうと次男もその本を奪取しに行こうとする。結果は壮絶な争いとなってしまう。兄弟喧嘩というものがもう始まっているのだ。僕も高校生になるくらいまでは、一歳違いの妹とほんとによく喧嘩したのだが、今こうやって兄弟喧嘩を見ると、親は哀しい気がするのだなということに気がついた。

まだ二歳に届かないというのに、次男の攻撃力には目を見張るものがある。次男には歳の違いというコンセプトはまだないのだろうと思う。幼児とか子供とか大人とかそういう区分がなくて、みんなといつも同じことをしないと気がすまないように見える。

人間はいつ頃から、こういうことを認識し、さらに微妙に「分をわきまえ」たりするようになるんだろうか。僕は、子ども達にはなるべくわきまえ過ぎないように育ってほしいと思う。そうすると、いつか日本から出さないといけないだろうが。

悩んだあげくの結論は、二人ともオモチャと本を買う、しかし比重を変える、ということだった。最少の組み合わせを考えても、長男に本二冊とオモチャ一つ、次男に本一冊とオモチャ二つで、全部で6点になる。なんか多すぎるような気がする。自分の不在をおもちゃでカバーしようとしているのだろうか、こうやって子どもは甘やかされてダメになるのだろうかとか、またくよくよしてしまう。しかし、悠長に考えているひまはなく、結局注文してしまった。

■凱也(長男)に。
おもちゃ部門:「ウルトラマンネクサス・ナイトレイダー・アタッシュセット」
書籍部門:「Shark (Eyewitness Books)」Miranda MacQuitty (著), Dk (著).
「National Geographic Dinosaurs (For the Junior Rockhound)」Paul M. Barrett (著), Paul Barrett (著), Raul Martin (イラスト), Kevin Padian (序論).

■哲也(次男)に。
おもちゃ部門:「イモ虫のチャーリー」と「ミッフィーのボールテント」
書籍部門:「Brown Bear, Brown Bear, What Do You See?」Bill Martin (著), Eric Carle (イラスト).

■母の日に。
カーネーションの鉢。

Tuesday, May 03, 2005

レイチェル・ヤマガタ

ずっと前にも書いたと思うけど、レイチェル・ヤマガタはかなりいいと思う。一大ブレークしてもよさそうな気がするが、絶対しないとも思う。

デュカキスという名前の人が米大統領候補で、ものすごくいいところまで行ったことがあるけど、絶対に大統領にはなれないだろうと予測する人がいて、その根拠がデュカキスという名前が悪いということだったのを妙によく覚えている。

デュカキスというのはギリシャ系の名前らしく、そういう変な発音をしなければいけない名前の人は大統領に選ばれないという、笑ってしまうというか、真剣に聞いているとまったくバカバカしくなるような話だった。でも、小難しい解説よりも、ずっと信憑性が高い話に思えたものだ。

で、実際デュカキスは落選したわけだけど、落選してみるともちろん敗因分析みたいな話がまたいっそう小難しく出てくる中で、デュカキスが惜しいところで敗れたのは、選挙キャンペーン中にどこかで米軍を訪問し、そこでヘルメットをかぶったからだという話があった。

これは最近読んだブッシュものの本(どれか忘れた)にも書いてあったけど、ヘルメットとか帽子をかぶるというのは、よっぽど計算しつして演出しないと、どうしても間抜けに見えてしまうそうだ。デュカキスのヘルメットかぶりのパフォーマンスは完全に裏目に出て、全米にテレビ中継を通して、私は間抜けですと宣伝することになってしまったということだ。なんかこれも納得してしまえる。

僕もイラクの米軍の兵隊さんたちと話をしている時、これを着てみないか重いよとか言って渡された防弾チョッキみたいなものを着て、ついでだからこれもと言って渡されたヘルメットをかぶって撮った写真があるのだけど、これはもうどこの阿呆だ?としか言いようのない超マヌケな写真になってる。「コンバット」のサンダース軍曹のようにヘルメットをかぶってカッコよくなるには相当年季がいるのだ。

でも、名前とヘルメットでデュカキスはあと一歩のところで大統領になれなかった、と思うと、ほんの少し人生のつらいことも忘れることができるような気がするのが不思議だ。全然そんな効果ないってか?僕にだけあればいいのだ。

何を書こうとしていたかというと、レイチェル・ヤマガタはヤマガタが付いているかぎり絶対ブレークしないと僕は思ってしまうということだった。マライア・キャリーがマライア・サイトウだったり、カイリー・ミノーグがカイリー・ハシモトだったりしたら、通算数千万枚も売り飛ばすシンガーになっていたとはとても思えないのだけど。

僕がそんなこと言わなくても、レイチェル・ヤマガタを売り出さなければいけないプロデューサーなんかは、そういうことは百も承知だったのだろうと思う。ショービジネスの世界に生きてる人たちなんだから、そういうイメージみたいなものには十分に敏感だろう。

レイチェルさんがヤマガタというアイデンティティを維持したかったのか、プロデューサーが意外性を狙ったのか、あるいは会社側がセールスよりもPolitically Correctness に拘ったのか、全然分からないが、どこかになんらかの悩みは存在したのではないだろうか。

バカ売れしなくてもいいけど、レイチェル・ヤマガタさんには消滅しない程度に続けて欲しい。買っても損したとは思わないと思いますよ。みなさんも一枚いかがですか?眠れない夜なんかに最適です。Rachael Yamagata "Happenstance".

でも、レイチェル・ヤマガタさんに山形県の名誉知事になってもらうとか、山形県のテーマソングを作ってもらうとか、ミス山形になってもらうとか、レイチェル・ヤマガタ饅頭を作って山形名物として売り出すとか、そういうアイデアは却下した方がいいと思う。

Sunday, May 01, 2005

中央アジアの高麗人

昨日のゴハのお別れ会はアリランという高麗料理の店でやった。わざわざ高麗料理なんて書いたけど、日本でいうと、普通の韓国料理の店だ。ブルゴギ、カルビ、ビビンバ、チゲ鍋、巻き寿司なんかを頼んだ。

中央アジアにはたくさん韓国人が住んでいる、というのはドシャンベ(タジキスタン)やタシケント(ウズベキスタン)のオフィスから時々やってくる人に聞いて知っていたが、カブールにアリランというレストラン兼ゲストハウス兼会社を開いたのも、中央アジアからやってきた韓国人だ。

なんとなく、習慣的に韓国人と書いてしまっているが、彼らは1930年代、つまり第二次世界大戦中にスターリンによって、対日協力の疑いがあるという理由で、沿海州から中央アジアに強制移住させられた朝鮮族の人々の末裔だ。今の北朝鮮や韓国に住む朝鮮族は当時は日本国籍だったから、スターリンが疑い深くなるのも仕方ないだろう。沿海州に住む朝鮮族にとっては、日本のえらいとばっちりを受けたことになる。

現在も中央アジア全体で50万人くらいの朝鮮族が住んでいるそうだが、ロシア語ではコレーチと彼らのことを呼んでいるそうだ。朝鮮族自身は自分達を高麗人と呼ぶらしい。英語のコリアンもロシア語のコレーチも、音的にはチョーセンやカンコクよりもコウライにずっと近い。

中央アジアで朝鮮族の人と言えば勤勉で豊かで成功した人の代名詞だそうだから、中央アジアに強制移住させられた後も、高麗人たちはたくましく生きていったようだ。

一昨日はアングロサクソン6人+東洋人1人という組み合わせで、文化的多様性は低かったが、昨日は、アルメニア人1、パキスタンとイギリスのハーフ1、スーダン人1、ウガンダ人1、アフガン人2、スペイン人1、日本人2の計9人で、はるかに多様であった。どれか一つの単一民族が圧倒的であるより、こういう多様な状態の方が居心地がいい。

たぶん、各人のsensibility のレベルをかなり上げないといけないからではないだろうか。それぞれの個人というのはいろんな属性の集積みたいなものだけど、ある属性に対する非難とか中傷というのが、いかに馬鹿げているかということが目の前で具体化されることに誰でも気がつくだろう。

ある個人の属性というのは、国籍、宗教、性別、身体、文化、教育、肌・髪・目の色その他いろんなもののことを言っているのだけど、例えば、Aという国籍はバカだとか、Bという宗教はバカだとか、Cという性別はバカだとか、Dという体型はバカだとか、Eという教育はバカだとか、Fという色はバカだとか言いだしたら、多種多様な人の中にいれば、回りにいるほとんどの人が、どれかに当てはまってしまう可能性が非常に高いだろう。ACという組み合わせの人、BDEの人、CBDFの人とか、いろいろあり得る。つまり、そんなこと言い出したら、その人は孤立無援で生存していけなくなるだろう。

それよりも、属性批判が馬鹿げていることに気づくはずだ。最初に、Xさんや、Yさんや、Zさんという個人がいて、その人たちとのコミュニケーションが成立し始めたら、属性とは関係なく、好きになったり、気が合ったり、あるいはその反対に嫌いになったり、気が合わなかったりするだろう。その後で、XさんはACだということが分かったから、好きだったけど、嫌いになろうとか、YさんはBDEだということが分かったから、気が合ったけど、気が合わないことにしようとか、そういうことを考えるだろうか。考えたとしたら、ほんとにアホだから、虫のように踏み潰されるかもしれない。

属性によって区別して扱うことが差別の基本にあるのだろう。個人を相手にする限り、個人の好き嫌いはあっても、差別はあり得ない。

ゴハは「韓国語も喋れるのよ」とか言って、アリランのウェイトレスとなんか喋っていた。しかし、最後に二人が発した言葉は、「スパシーバ」だった。十数年前まで二人は同国人だったのだ。

Saturday, April 30, 2005

去る人たち

明日の晩に、ゴハのお別れ会をする。5月5日に彼女はこのプログラムを去って、アルメニアに帰る。なぜなんだ?!と詰問はしなかったけど、いろいろな話を総合すると、娘の教育を優先した結果だということだろう。

ゴハの部屋には十代後半の娘さんの大きな写真が置いてある。ゴハも美形だから、信じられないことはないが、でも信じられないくらい美人だ。何を勉強したがってるの?と訊くと、即座に「彼女は女優になりたがっている」という返答が返ってきた。ああ、としか言いようがなかった。そりゃそうだろうな、この美貌じゃ、他に何も思いつかないだろう。

アメリカに連れて行くの?と訊くと、ゴハはちょっとはにかんで、「そう」と言っていた。ショービジネスならアメリカしかないだろう。NYだろうか、LAだろうか、まあ、そんなことはどうでもいいので、訊かなかった。ゴハは娘を連れてアメリカに行き、ちゃんとした学校に娘が通い始めるのを見届けて、母国に戻ってくるそうだ。

「全部で3ヶ月くらいかかるだろう」
「そう、だから、この3ヶ月が必要なの」

というわけで、彼女は仕事を辞める。
一人娘がいなくなると、彼女は母国に帰っても一人になる。夫はモスクワで仕事をしているからだ。一人でアルメニアで生活するの?と訊いたら、またゴハはちょっとはにかんで、「夫と暮らしたい、もう一人は嫌」と答えた。でも、どうするんだろう、と思ったが、大阪のおばはんみたいな質問を続けるのはやめた。

でも、彼女は自分の計画を勝手に話し始めた。娘の行き先が確定して見届けたら、自分はまたカブールに戻って来たい、その時は夫には仕事を辞めてもらっていっしょに来てもらう、そうすれば、私が働いてカブールで二人で生活することができる、そのうち夫だってカブールで仕事が見つかるかもしれない、等々。

たくましいなあ、母だなあ、妻だなあ、すごいなあ、とボーっと間抜けな顔して、ゴハに見とれていたら、空席があったらまた応募したいんだけど、いい?と言った。
えっ?えっ?何っ?もう一辺言って?
だから、またこのオフィスに来てもいいかって?
あああああ、もちろん、もちろん、もちろん、いいに決まってる。

ゴハは仕事がよくできた。献身的だった。いい人はどんどん去っていく。
ほんとに戻ってこれたらいいんだけど。

レイコも5月5日にカブールを出る。彼女はそのままNYに行って、ハンドオーバーをして、ちょっとギリシャで休暇をとって、カブールに戻ってくるそうだが、やはり辞めてしまう。6月にスーダンの新しい仕事を始めるからだ。今、スーダンにはどんどん人が吸い寄せられている。新しいポストが次々に公募されている。彼女はそこで今より高い地位のポストを得た。

レイコの穴埋めはきつい。彼女はあまりに出来すぎた。ハンドオーバーの量もはんぱじゃない。ものすごい量の仕事を一人でこなしていた。結局、彼女の穴埋めのために6人雇うことになった。1人分の穴埋めに6人採用しなければならない、という事態が彼女がどれだけとんでもない仕事をしていたかよく現している。しかし、それでも同じ質と量の仕事が維持できるかどうかは分からない。仕事というのは、人数が増えれば、単純に質が向上したり量が増加したりするもんじゃないからだ。

レイコは自分でも言っているが、集団行動が苦手だ。群れたり、つるんだりできない。連れションなんてコンセプトが理解できないだろう。日本の学校なんかとてもまっとうに行けないだろう。一人でも気ままになんでもやるのが好きなのだ。でも、責任感が日本的に強いので、なんでもちゃんと最後までやってしまう。(カレシとかいるんだろうかとふと思ったこともあるが、もちろんそんなことは訊いたことない。シゴト、シゴト)

仕事さえ動いている限り、誰がどんな格好をしていようが、どんな態度であろうが、どんな時間に仕事しようが、僕はなんとも思わないが、レイコは日本の社会には適応できないだろうし、嫌われるかもしれないし、いじめられるかもしれない。でも、本人はそんなものに適応する気なんて毛頭ないだろう。僕もそんなものはゴキブリの餌にでもしたらいいと思う。彼女の新しい上司がゴキブリとかゲンゴロウとか糞コロガシでないことを祈るばかりだ。

レイコは仕事がよくできた。献身的だった。いい人はどんどん去っていく。
ほんとに戻ってこないんだな。

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それにしても、日本でやっていたあの国際協力人材育成論議は何だったんだろう?
思いっきりピント外れてたぞ。
もういいか。関係ないし。