Friday, October 06, 2006

母と子と国連


1.

子 「母さん、昨日もまた夜中まで仕事だったよ」







2.

母 「あら、でも余分なお金を稼いだわね」
子 「いや、残業手当は出ないんだ」






3.

母 「あら、でも重要な仕事だったんでしょ」
子 「いや、そうでもないんだ」






4.

子 「上司に僕のパワーポイントのスライドを変えろって言われたんだけど、でも、変えたらかえって悪くなった」







5.

母 「あら、でも会議の準備にはなったわね」
子 「いや、会議はキャンセルされたんだ」







6.

子 「でも、いいんだ、どっちみちこのプロジェクトは予算が付いてなかったから」






7.

母 「じゃあ、あなたはそもそもありもしないプロジェクトのための、ありもしない会議のためのプレゼンをさらに悪くするために、遅くまでただ働きしてたってこと?」





8.

母 「あらまあ、あなたはきっと国連で仕事してるのね」







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まさに国連そのまんまではないか。Scott Adams という人はどうしてここまでよく知ってるんだろう?

Sunday, October 01, 2006

「カブール発復興通信」(10)(11)(12)-2006年4月~6月

昨日、寿司パーティなるものがクミ家であった。河内のシチリさんがドバイから生のマグロとタイ持ってきはったのだ。フランス人とイタリア人は今さら寿司ごときで驚くわけはない、というか、アホほど食い倒していた。セルビア人はおいしく食べていそうに見せかけていたけど、なんかやたら言葉が多くて苦手そうに見えた。バルカンは肉王国だしなあ。ネパール人は黒い紙がおいしいといっていた。

昨日の朝は内務省への自爆攻撃があっただけど、仕事は普通にあったし、9月末で一斉に切れるいろんなNGOの契約の更新におおわらわだし、特に気にもとめていなかったけど、FAOは、White City (外出禁止)になっていたらしい。なので、事務所の車が使えないと行って、UNDPの車に便乗させてもらっていた。一応国連のセキュリティは統一されてるはずなのだけど、こういうことはよくある。

酢飯と魚がかなり余った。河内のシチリさんは、9人の参加者のために米を一升炊いたと言っていた。生魚も2,3キロ買ったんだろうか。

今のうちにおにぎりにしとけば、明日食べれると言ったら、クミさんが余った米にふりかけをかけておにぎりを作ってくれた。誰も興味を示さず、僕が全部持って帰った。これで、明日のランチはろくでもないレストランに行かずに済むと思った。

今朝は7時半頃シャワーを浴びて、まだ時間があるので昨日のおにぎりを食べようと思ってキッチンに下りていったが、いつも朝は込み合ってるキッチンに掃除のおばさんしかいない。変だなあと思ったが、とりあえず冷蔵庫でガンガンに冷えているおにぎりを食べながら、ダイニングに行くと、たぶん知っているアメリカ人の中で一番無口なロバートがぽつんと一人ソファーに座ってテレビを見ていた。

お互いにオハヨーみたいことを言ったと思うが覚えてない。僕はまたキッチンに戻って、お茶をいれ、無線室に電話して車を送ってくれるように言うと、White City だという。えっ?なんで?理由は分からないけど、昨日の続きみたいなことだろうか。昨日は動き回れて、今日は外出禁止というのも変な話だ。午前4時に無線で伝えたとか言ってるけど、知らないよ。

僕はまた自分の部屋に戻って服を着替えることにした。ロバートもソナムもカルチュンも知っていたらしい。それでロバート以外の二人はまだ寝ているのだった。しかし、ロバートもボサッとテレビ見てないで朝会った時に一言くらいなんか言わないかねえ。ほんと無口なんだから。

昼くらいにはオフィスに行けるだろうと思って、ごろごろしていたが、いっこうにWhite City は解禁にならない。とうとうそのまんま一日が終わってしまった。NGOの契約切れたなあ、と思うがどうしようもない。

夜7時過ぎに明日もWhite City だという連絡が無線室からあった。といっても、朝7時半までにオフィスに入って、それからオフィスから一歩も出ずに仕事をして3時半になったらコンボイを組んで帰宅ということになったらしい。それにしても、二日続けてWhite City は珍しい。カブールも時間の問題だ。どんどん崩れていくだろうな。Evacuation も近いかもしれない。15キロの’Go-bag’ を点検しておくことにした。

オフィスに行けないので、久しぶりにゲストハウスのPCから送信してみることにした。日本語タイプできないから面倒くさい。


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「カブール発復興通信」(10)

「アフガンの女性は歳をとらないのよ」と、女性問題省のマスーダ・ジャラル大臣が言ったことがある。自慢でも冗談でもない。アフガン人女性の平均寿命は44歳。つまり、歳をとる前に死んでしまうという現実を彼女は話したのだ。

2001年9・11の後、米同盟軍の攻撃によってタリバンが追放され、アフガン女性が解放された、そして彼女たちはブルカを脱ぎ捨てた、というのが、当時の報道が作り上げた典型的なイメージではないかと思うが、そのようなイメージは、対テロ世界戦争のサポートにはなっても、当のアフガン人女性の大多数にとっては何のことだか分からなかっただろう。

女性問題省大臣のマスーダ・ジャラルは、アフガン女性の境遇の改善には長期的なアプローチが必要であると主張している。彼女たちが直面している問題は、短命に終わったタリバンが登場するはるか以前から存在する問題であるし、一つの政権を交代させたら消滅するというような底の浅い問題ではないからだ。

アフガニスタンでは、昔からザール・ザン・ザミン(金・女・土地)が紛争の三大原因だと言われている。「女」が、「金・土地」と並列して語られるという一事で、すでにアフガン女性の置かれている境遇の一端が見えると思う。

女性問題省の文書には、すべての結婚の六割から八割が強制的なものであると記されている。そして、それはしばしばなんらかの紛争の解決のためであったり、借金の返済のためであったりするのだ。

現在のアフガニスタンでは16歳以下の結婚は違法だが、57%の女性が一六歳以下で結婚し、3割以上の女性が18歳未満で出産、15歳未満で出産する女性が1割もいる。そして、アフガン女性が生涯に出産する子の数は平均して6・6人。

しかも、現在、助産婦など専門家が立ち会って行われる出産は全体の14・3%に過ぎない。医療施設での出産となると全体の11%だ。若年の結婚・出産、しかも多産で、かつまともな医療環境が整っていないとなると、どのような結果になるか。

統計に表れている数字では、30分に1人の女性が出産中に死亡している。全体では10人に1人の女性が出産中に死亡する。これが、「アフガンの女性は歳をとらないのよ」の内実なのだ。

アフガニスタン独立人権委員会の報告書は、アフガン女性の5割が不幸な結婚生活を送っていると伝えている。自分の意思とは関係なく、借金返済や紛争の決着のために、老人に嫁がされた少女が幸せであるはずもなく、凄まじい家庭内暴力に傷つき、路上に捨てられ、病院に収容されたというような新聞記事もたまに出ることはある。

そして、暴力と絶望の果てに女性たちは自殺する。去年1年間でアフガニスタン西部のヘラートだけで150人の女性が焼身自殺を図ったと人権委員会は報告しているが、もちろん、我々が知ることができるのは氷山の一角に過ぎないだろう

四半世紀の戦乱でアフガニスタンにはたくさんの未亡人が生まれた。アフガニスタンの伝統によると、未亡人は亡くなった夫の兄弟か、近い親戚とのみ再婚できる。自分の意思とは関係なく、義父の決めた相手と再婚するか、しない場合は子供だけは義父の家に取られて、嫁は追放されることになる。

この前近代的な習慣を破ったのは、皮肉なことにタリバンだった。99年、タリバン総帥のムラー・オマールは、未亡人は望む相手なら誰とでも再婚できるというお触れを出した。しかし、再婚の自由はタリバンの崩壊によって3年ほどで終わる。困ったのは、その3年の間に再婚した女性たちだ。再び、義父の家族が現れ、殺すと脅されて、女性問題省に助けを求めてかけこむ女性が出てきた。

マスーダ大臣が取り組んでいる女性問題は一時的な現象ではないのだ。彼女は、アフガン人すべてが協力して努力すれば、アフガン女性の境遇の改善は数10年で達成されるだろう、しかし、みんなが協力しなければ数世紀かかるだろう、と言う。

メディアが作り上げた華々しく解放されたアフガン女性というイメージは、国際社会がタリバンをひっくり返してあげた、だからアフガン女性は幸せでしょうという押し付けがましいメッセージではあっても、現実にアフガン女性の助けにはならない。アフガン女性たちが戦わなければならない相手は、爆弾で乗り越えることのできない前近代の伝統なのだ。

(『フォーサイト』2006年4月号所収。見出しは「歳をとらないアフガンの女性」。)
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「カブール発復興通信」(11)

ドアを開けると、サジアがさっとショールのようなものを引き上げて髪を覆う。小さな蝶々の形をした髪留めが一瞬見えたが、もう見えない。髪を顕にした方がずっと可愛いのにと思うが、もちろんそんなことは言えない。

私がこのオフィスに着任した18ヵ月前、全アフガン人職員316人のうち女性は2人だけであった。その後、私はアフガン人職員を4人雇ったのだが、そのうち3人がサジアを含め女性であった。

これは単に一番優秀な人から雇った結果に過ぎない。国連には男女雇用機会均等を積極的に推進するという建前があるが、そんなことは選考過程ではまったく念頭になかった。

アフガニスタンでは高等教育を受けた女性が働ける職場というのは非常に限られている。私企業などほんの少ししかないし、官僚制度も今やっと整備し始めたところ。医療機関や教育機関もカブール以外ではまだまだ伝統的医療や寺子屋のようなものが主流で、職場として成立しているわけではない。

女性の働く権利というのは、そもそも可能性としての職場が社会に出現するまで、主張される必要はなかった。その点において、それは極めて近代的な概念だと言える。

我々がイメージするような職場がなくても、人類の登場以来女性は働き続けてきたはずである。現在のアフガニスタンを見ても、農業では男女の分業が確立され、何百年にわたってアフガン女性も男性同様、働き続けてきたのである。性差による分業が成立する農耕社会や遊牧民社会ではわざわざ女性の働く権利という概念を抽出する必要はなかった。

ところがそのような前近代的な農耕社会や遊牧民社会を近代的な視点から見ると、女性の人権は著しく侵害されているように思える。しかし、それは近代化が様々な要因によって阻害され中断されてきたこと、言い換えればいまだ近代的概念としての人権が適用不能状態にあることを確認しているに過ぎない。

ソ連侵略後のカブールではミニスカートをはいている女性もいたということを元に、アフガン女性も昔は自由だった、彼女たちの人権侵害はソ連撤退後、内戦を経てタリバンによって始まった、というような報道が数多くなされ、それが通説になったのかもしれない。それが真実なら今やアフガニスタン中にミニスカートの女性がいるはずだ。だが、実態はまったくそうではない。

国際社会が復興援助や平和構築という名目の下で行なう様々な活動の内部には、隙間なく近代的概念としての人権が組み込まれている。国連のアフガニスタンにおける現在の活動の根拠は2001年11月14日の国連安保理決議1378号にあるのだが、そこには「アフガニスタンを近代化せよ」などとはもちろん書いていない。しかし、すべてのアフガン人を代表し、人権を尊重する政府の樹立を促す、この決議の内容は〝近代化〟を要求している。つまり国際社会が復興援助として行っていることの本質は、「外部からの近代化」なのだ。

これはドン・キホーテ的営みではないだろうか。内部の自発性によるのではなく、近代が外部からやってきたら、それはもはや近代とは呼べないのだから。

「外部からの近代化」に従事しているなどと自覚している援助関係者はほとんどいないだろう。男女雇用機会均等が国連オフィスで実行され、すべての事業内容に近代的概念としての人権が組み込まれ、アフガン人を「指導」することによって、それは静かに浸透していく。

民主主義を自発的な行動によって獲得できす、外部から与えられてしまったことによる、その内実の貧困を「戦後民主主義」という言葉を使って確認してきた日本人としては、戦後アフガニスタンで復興援助や平和構築という形で進められる「外部からの近代化」が本質的な近代化の契機をアフガニスタンから奪うことを懸念してしまう。

(『フォーサイト』2006年5月号所収。見出しは「「外部からの近代化」は近代化なのか」。)
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「カブール発復興通信」(12)
その日からすべてが変わった、そんな一日が歴史にはあるように思える。例えば、2001年9月11日はそんな一日の一つだろう。

5月29日、カブールで2001年のタリバン撤退後、最悪と言われる暴動が起きた。発端は移動中の米軍車列が、カブールの朝の交通渋滞の中に突っ込んだことだった。米軍用トラック一台が一般車12台を一気に破壊してしまい、その場で死傷者が出た。米軍は怒る群集に取り囲まれ、威嚇(?)射撃を行った。米軍の銃弾によって、さらにアフガン人死傷者が出 た。そして、その場の一般アフガン人が米軍に石を投げ始め た。そしてまた米軍が発砲、というのが、当日中に伝わってきた話だった。

この事件は直ぐにカブール中に伝わり「アメリカに死を! カルザイに死を!」と叫ぶデモが市内全域に拡がり、やがて彼らは暴徒化していった。外国人の住居が襲われ、警官の詰所に火がつけられた。既に午前中に国連には移動禁止の指令が出ていたので、この事件の伝わり方とそれに対するアフガン人の反応は非常に速かったと言える。

その頃、国連事務所に近づく群衆を威嚇する警官や国軍の銃声が鳴る中で私たちは撤退の準備を始めていた。後で分かったことだが、その間に、CARE、OXFAMなど大きな国際NGO (非政府組織)の事務所が群集に襲われ、略奪されていた。EU (欧州連合)事務所も群集に取り囲まれ、職員20人はNATO (北大西洋条約機構)指揮下の平和維持軍に救出された。私の同僚5人が住む住居も襲われ、警備兵は逃げ、略奪された後、放火された。

翌日、市内六つの病院でアフガン人14人の死亡、140人の負傷が確認されたが、そのほとんどが銃撃によると報道されている。

これまでも、グアンタナモ基地でのコーランの侮辱的扱い や、デンマークのマホメットの風刺画が発端で、アフガン人による抗議デモが始まり、それが暴動に変質するということがあった。しかし、今回の「交通事故」を発端とする暴動には、何か異質なものを感じる人も少なくない。

これまで暴動が起きるたびに言われていたことは、その発端となる理由が何であれ、暴徒化したアフガン人の裏で、実は政治的不安定を利益とするグループが暴動を扇動しているということだった。これは、国連や米同盟軍やカルザイ政権に対して一般アフガン人が反感を持っているわけではないという解釈とも言える。

しかし、今回の交通事故から暴動までの流れの裏で政治的意図を持った誰かが糸を引いていたと考えるのは無理がある。交通事故は計画されたものではないし、暴徒化したのはたまたまその場にいたアフガン人であ り、意図的に投入された集団ではない。突発的な交通事故を起点に暴動を組織化したとするには、カブール市内に暴動が広がるまでの時間があまりに短い。

そして、何よりも事の発端は「コーランの侮辱的扱い」や「マホメットの風刺画」のように宗教的要素があるものではなかった。BBCのカメラに向かって 米軍やカルザイに対する怒りをぶちまけていたのは、特に政治的でも宗教的でもない、ただそこにいたアフガン人だった。

その日、伝わってきたのは普通のアフガン人の怒りだった。それは誰かに煽動される必要もなく発火した。それが毎日のように起こる自爆攻撃や外国人を狙った攻撃にも無感覚になりつつある私たちに、おやっと思わせたのだろう。

この暴動後、カルザイ大統領はカブール警察の長官を含め幹部30人以上を解雇し、50人近くを左遷した。アフガン政府による調査も事件の5日後に始まった。米軍に説明を要求する議員の声も報道されている。

一方、カブール中のモスクには米軍に対する抗議デモを呼びかける匿名文書が出回り、ヘクマティヤール元首相は暴動に立ち上がったカブール市民を賞賛する声明を発表した。

普通のアフガン人の怒りをなだめることができるのはどちらだろうか。

暴動のあった日の午後、私達は指定された避難場所に撤退した。私はそこで芝生の上に座り、カブール特有の心地よい初夏の風に吹かれながら、敷地の外の乾いた銃声を聞いていた。将来この日をすべてが変わった一日として思い出すのだろうかと考えながら。



(『フォーサイト』2006年6月号所収。見出しは「伝わってきた普通のアフガン人の怒り」。)
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