毎週木曜日に長男が課外活動の空手クラブに行く。先週初めて最初から最後までその様子を見てみた。小さい子どもが11人に大人の女が二人、助手のような高校生くらいの男が一人、そして大学生くらいの先生が一人。子どもの女の子と男の子が半分ずつくらいだった。道場のようなものはないので学校の中の体育館で練習する。子どもを体育館まで送ってきた親たちは普通一度どこかに帰ってまた迎えに来るようだ。体育館には僕以外にアメリカ人のお父さんらしき人が二人残った。
一応、ハジメとか、ヤメとか、レイとか、日本語が先生の口から出てくるのだが、おそらくデンマーク人であろう先生の発音が妙に突拍子もない奇声を発しているように聞こえて、思わず笑えてくる。中には日本語の単語だろうと思うのだが、いくつかどうしても何を言っているのか分からない言葉があった。
バレーボールの課外活動にも長男は参加しているので、それも一度見たことがあるが、デンマークの学校では規律みたいなものがとても希薄で、それは空手クラブでもたいして変わりはなかった。但し、空手の先生の方ははるかに意図的に規律や礼儀や尊敬のような観念を伝えようとしているように見える。しかし、その努力もむなしく空回りしていた。
子ども達の空手の練習は壊滅的に混沌を極めていた。日本の先生なら怒鳴り散らして、昔なら(僕の子ども時代なら)おそらく二、三人は竹刀で叩きのめしていただろうと思えるような状況が展開している。それでも先生は何回かは神聖な道場にほんの1分から2分の静寂を取り戻していた。そこに、アメリカ人の父親二人が延々と話す声が漏れてくる。ほとんどずっと経済の話をしている。家を買おうと思って探しているがどうしたこうした・・・。こそこそ話しているのだが、このお喋りの邪魔さかげんには明らかに気がついていないようだ。
子どもが育っていく過程で、自由と規律の間に、どこに重心を置くかは難しい問題だ。才能というのは規律とはまったく相容れないところで炸裂するようなところがある。個々の才能を必要としない制度を作るためには完璧な規律を達成するのがもっとも効果的だろう。しかし、それでは個々の人間の存在とはいったい何なのかという根源的な問題に直面するし、そのような社会はやがて停滞し朽ち果てていくだろう。しかし、まったく全ての個々人に制御されない自由が与えられた社会というのはそもそも言葉として矛盾している。それなら社会が構成されない。ある程度の規律があるからある程度の自由が保障される。
自由の側に大きく振れている国から来た人と、規律の側に大きく振れている人の間には、大きな違いがある。日本人は後者のグループの代表的な国民だと思う。そして、日本の外に出る限り、それは明らかに偏りすぎている。個人としては勝手に自分の自由度を増加しようとして止まない大群の中では、単純に言って損をし続けるだろう。そして、さんざん損をしたあげく、社会に貢献していない分子として非難されるだろう。自由を声高に主張している人のほとんどが単に社会のフリーライダーであっても、規律正しい日本人はふんだりけったりの目に合う。
この空手はスシだなと思った。日本の外で見るスシとこの空手はよく似ている。どちらも日本発であるのだが、微妙にいろんなところが変形している。東洋に対する漠然としたエキゾチシズム、ゲイシャとソニーとマンガを繋げる不可解さ、あるいは単なる珍しいもの好き、もしくはほとんどゲテモノ趣味のようなものが入り混じって、スシやカラテが再構成されているような気がした。
練習が終わって、長男が着替えて出てくるのを外で待っていたら、アメリカ人の父親が空手の練習に参加していた女に陽気に話しかけている。
「ヘイッ、見てたよ、空手ダンスなかなかうまいじゃないか!」
衝動的に顔面に蹴りを入れたくなった。