Friday, October 29, 1999

イスラム・コラム No.3 「欧米では不満の声があがっている」

JapanMailMedia 033F号から転載。
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 ■ 特別寄稿               山本芳幸
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No.3 「欧米では不満の声があがっている」


10月22日(金)

 日本人のジャーナリストに会う。
 JMMに僕が書いたものを読み、抗議の電話をかけてきたので、サシで決着をつけることにした。

 案の定、面会と同時に乱闘状態になり、ようやく流血の惨事が発生し、これでやっと記事が書けると彼は喜んで帰っていった、みたいなことは何にもなかっ た。実際は、国連クラブという、酒あり女あり---いや、女はない、かわりに豚肉がある---のイスラムもパキスタン文化も完全無視の植民地主義全盛かと 思われる、たわけた治外法権地で晩飯を食いながら、彼を取材しただけであった。いや、彼が僕を取材したのかもしれない。

  もうほとんどみんな帰ってしまいました、とその日本人は言った。今、残っているジャーナリストはみんなムシャラフとの会見を狙っているそうだ。地元の新聞 記事はムシャラフが自宅でBBCと会見した模様などを詳しく伝えていた。それには、今ムシャラフは一生懸命マイルドなイメージ作りに励んでいるように書い てあった。結構簡単にインタビューなんかできそうな気がしたが、そうでもないのだろうか。JMMから突撃インタビュー要員を送ったらどうだろう?

  日本の新聞はどうしてあんなに薄っぺらいんだろう、と僕は言った。いや、そんなことはない、日本の新聞は30ページくらいある、厚い方です、アメリカの新 聞は分厚いけど、ほとんど広告でしょう、というようなことを彼は言っていた。どうも気に障ったみたいなので、いや、そうではなくて、内容が薄っぺらいので すと言いかけたが、場が悪化しそうなので止めた。

 記事が断片的で文脈が見 えない、たぶん普通の読者には何も伝わらないのではないだろうか、と言ってみた。客観主義の建前がそういう記事を作ってしまう、日本の新聞では意見のよう なものは別枠で載せるようにできていて、記事と分離している、というように彼は説明した。だからあ~、そこを~、と高校生風に喋ってみたくなったが、やは り止めた。

 客観的な記事なんて書けるでしょうか、ファクトなんて言ったっ て、並べ替えただけで別の印象を作ることできるでしょう、とネチネチと迫ってみた。確かに客観的な記事などありません、と彼が言うやいなや、どうせ書けな いのに書いたふりをするのはたちが悪い、欧米のメディアの強引な文脈形成には腹が立ちますが、もうそれはそれとして分かっているので、読者は自分の責任で その記事を受け入れるかどうか判断できるのです、あなたも客観主義止めてみませんか?のようなことを言ってみた。

 いや、そうは言ってもタバコを止めるような具合には行かないのです、と答えてくれたらおもしろかったのだが、彼は日本もだんだん変わって来てます、と言って僕の挑発には乗らなかった。

 それにしても、歴史の流れの中に「事件」を位置づけるというような作業をしないで放り出されたファクトって何か意味あるんでしょうかと言ってみた。僕もかなりしつこい。あっ、それ上司がよく言ってます、と彼は言う。カクンと僕のひざが抜ける音が聞こえた。

 確かに我々に勉強不足のところがあるんです、と彼は言った。そこで僕は、だったら勉強すればいいじゃないか、とは流石に言わなかった。もっと根性の悪そ うな人だったら、「お前は何様だ!」という絶叫を引き出すまでねばったかもしれないが、この人は根性悪ではなかったので、もうこの話は止めることにした。

 彼はほっとしたのか、いや、なかなか記事にできないことは、他の形で書いてフラストレーションを消化しているというか、そんな感じなんですねえええ、と 彼はパキスタンで食べるポークのスペアリブという奇跡に気づかず、つぶやいていた。だから、食べ物一つでも文脈を見落とすと・・・くどい。彼も日本の善良 な一会社員なのだった。


10月25日(月)

 驚いた。龍さんから督促状が届いていた。また、育英会からの催促かと思った。いや、実際は督促でも催促でもなく、控えめな舵取りみたいなものだが、なんか先日の底意地の悪い会話を聞かれていたような気がしてオロっとした。ちょっと長いけど、引用してみよう。

>今日の朝日新聞朝刊と日経には、
>
>「ムシャラフ参謀総長が25日から3日間の予定で、
>サウジとアラブ首長国連邦へ訪問する。
>無血クーデター以来初めての外国訪問」
>
>という短い記事が載りました。
>NY Times をウェブでチェックしようと思ったのですが、
>キューバのバンドのコンサートがあって時間がありませんでした。
>
>パキスタンやアフガニスタン情勢の報道について、
>アメリカのメディアと日本では何か違いますか?
>あ、そうか、山本さんは日本のメディアの様子がわからないんですよね。

 ウェブで日本の新聞記事を見ることはできるけど、確かに様子はよく分からない。
 それはもちろん主観アパルトヘイトのせいだ。味も色も臭いもないような「客観的」な記事が列挙してあるだけでは、様子というのは分かりにくい。日本の新聞社にマンデラはいないのか。

 とまた何様的なことをいっても、日本の新聞をほとんど見ていないので、いくつか日本の新聞サイトをのぞいてみた。うっ、マンデラはいるらしい。●●の視 点とか、そんな感じの「主観です用語」をタイトルにしたコーナーをいくつか発見した。しかし、ああでもないけど、こうでもないけど、ああでもないから、こ うでもない、みたいな主観揉み消し工作癖が抜けないような「視点」であった。どれを読んでも六字以内でまとめると「色々あった。」になりそうだ。

  視点を明瞭にできない、というのは客観主義とは何の関係もなくて、自分の発言の責任は自分が引き受けるという当たり前のことから逃避しているだけではない のだろうか。だから、話題がなんであろうと、結論はいつも「人それぞれ色々ありますね」みたいなことで逃げ道を最大限確保し、色々間の闘争にはちっとも 入っていかない。このフニャラフニャラとした態度、何があっても自分には絶対責任などないという態度、あらゆる立場を自分は理解しているのだけどどれにも 自分はコミットしないという態度、自分は常に偏向から免れていて公正中立な立場に立てると信じこむ態度、こういうのは新聞よりテレビの方がいっそう丸だし になっていたような気がする。

 普通の日本人は、とっくにそういうウソまる だしの社会の公器的茶番にうんざりしていたと思う。でなければ、「識者」という職業の人がたくさん集まって徹底討論と称して延々と朝まで一方通行の咆哮大 会をやってるような番組を見たいと思う人はそんなに多くはいなかっただろう。なんでもいいからとりあえず意見を言う人を見てみたかった、のではないだろう か。

 しかし、こういう趣向の番組も飽きられてしまったようだ。理由の一つは、対話が持つ緊張が、「私の意見」の一方的開陳には本質的に欠けているからだろ う。テレビ局は、また新しい目玉商品を作るのに大変なんだろうが、視聴者が主観垂れ流しにもすぐ飽きたということ自体は、いいことだと思う。

 上滑りの奇麗事、つまりウソくさい言葉が社会を覆うことが危険なのは、人々がそういうことにうんざりしてその反動で、なんだか強いことをガンガン言ってくれる人が登場した時、ホロリと行ってしまうことなのだ。

 そういうことが我が国でも外国でもあったではないか。だから、これもあっさり飽きたというのは、日本の普通の人々は「識者」業界の人ほど鈍っていないということではないか。


10月26日(火)

 クーデター直後の日本の新聞記事はウェブで見たが、みんな揃って「軍部強硬派やイスラム原理主義勢力」 vs 「シャリフ首相」という図式を採用しているのが奇異に感じた。これはインドとの対立という一つのキーだけに依存してパキスタンを見ていたからだろう。

 「カーギル(カシミールの紛争地)からの撤退→インドへの屈服かつアメリカへの屈従→軍部強硬派・イスラム原理主義勢力が不満持つ→シャリフ首相倒せ→ クーデター」というストーリーを前提に記事は書かれている。その結果、「軍部強硬派やイスラム原理主義勢力の動きが懸念」され、そこから一気に「核はどう なる?」という話に飛ぶ。

 しかし、このストーリーは一つの視点の採用に過ぎない。
 客観主義など最初っから崩れているのは言うまでもない。その後の経過を見れば、ムシャラフの最優先課題が内政の立て直しにあるのは明らかだ。腐敗しつく した官僚機構を立てなおすことが最も緊急な課題となっている。そして、カシミール紛争をめぐっては最前線からの一方的な自主的撤退を宣言して早くも実行し た。つまり、日本の報道が前提にしていたストーリーは勘違いもいいところだ。

  なんらかの情報源を鵜呑みにして、密かにそれに依拠して記事が書かれる。そうすると、元の情報源の視点がそこに乗り移る。そういうことが起こっている。そ れが客観主義の実態に過ぎない。シャリフ元首相に対する不満は、司法への介入、政府機構の私物化(組織的な汚職)、メディアの弾圧、経済政策のずさんさ、 など複数の原因が元になっており、インドとの関係だけが問題ではない。そして、もっと重要なことはシャリフ元首相を最も嫌ってきたのは、一般の国民であっ たということだ。

 日本のメディアが軍部の一部強硬派によってクーデターが起こされたというような印象を日本人に与えていたとしたら、それはほとんど事実の捏造だ。

 17日のムシャラフの演説に関して、案の定、具体的な日程が含まれていなかったことを指摘する日本の新聞記事があった。その記事はそれをこのように伝えていた。

 「欧米では不満の声もあがっている」と。

 欧米っていったい誰のことなんだろうと思う。
 欧米にはいろんな国が含まれているが、まさかみんなが声をそろえて不満を言っているということを言いたいのだろうか。その中の一部の国が不満を言ってい るのなら、なぜその国名を出さないのだろう。それに国そのものが声を出すわけではない。声を出すのは人間だ。いったい誰が言ったのか。

 一般の通行人にインタビューしたのか、学者が言ったのか、政府の公式発言なのか。言うまでもなく、そんなことを追求してもしょうがないのだ。

 これは日本人なら馴染み深い、レトリックの一つなのだから。
 「みんなそう言ってる」という表現を我々は持っている。「欧米では・・・」は、あれの親戚なのだ。子供が何か親に買って欲しい時、「みんなエアナイキ履いてる」、ピアスをして親に咎められた時、「みんなしてる」、ウリがばれた時、「みんなしてる」・・・・。あれだ。

 この表現は形式としては、単なる「客観的」な描写だ(descriptive)。しかし、描写という形をとって、なんらかの意見を主張している (prescriptive)。「エアナイキが欲しい」というかわりに「みんなエアナイキ履いてる」、「ピアス(ウリ)してどこが悪い」というかわりに 「みんなしてる」、そして「私はこう思う」というかわりに、「みんなそう言ってる」。

 このタイプの表現は、自分の意見の根拠を「みんな」に求めている。「みんな」という特定集団があるわけでなく、それはなんとなく「世間」のことを指している。

 日本が「世間」が意見妥当性の根拠として使える社会だからこそ、存在する表現とも言える。このような表現を使うことを一方的に子供じみているというわけ にはいかない。なぜなら、「みんな」がそうならしょうがないと認める社会、あるいは「みんな」と同じであるべきという規範を持つ社会がはじめにあるからこ そ、子供はこういう表現の有効性を察知して使うのだ。自分の意見を検討する時に例えば「神」を参照する社会で育った子供なら、ウリをしてるのがばれても 「みんながウリしてる」は使えない。なんとかして「神がウリを認めている」という理屈を発見せざるを得ないはめに陥る。おそらく不可能だろうが。

  「みんなそう言ってる」型の表現は、意見の表明であるにもかかわらず、形式上は描写であるために、責任追及の手を逃れられるという特性を持っている。あな たはそう言ったじゃないか、というような追求をされたら、「いや、みんなそう言っていると言っただけで、私がそう思っているとは言ってない」とかわすこと ができるのだ。

 「みんなそう言っている」が使われた文脈では、その表現は「私はそう思っている」ということを伝える道具になっているのだが、まずくなれば「みんなはそ う思っているかもしれないが、私はそう思っていない」と逃げることができる。なんと都合のいい言葉だろう。この表現の責任逃れ体質が嫌われることを察知し た子供は、成長するにつれ、だんだんこういう言い方をしなくなっていくのだろう。

  さて、「欧米では不満の声があがっている」は何だったのか。正確な事実の描写でないことは明らかだ。この一文によって、なんだムシャラフの演説はたいした ことなかったのだ、という印象が十分伝えられる。しかし、記者にそうだったのかと聞けば、いえ私はそうは言ってません、欧米がそう思っているのですと切り 返すだろう。

 「欧米では」が「みんな=世間」の役割を果たし(だからこそ、どこの国の誰かということが特定されない)、「欧米=みんな=世間」に責任をかぶせ、どこ で拾ってきたのか分からない印象を適当にばらまく。しかも、これらはちゃんと「客観的」な装いをもって行われる。予め責任逃れの体制が整備されているの で、その内容、それがばらまくであろう印象、そのインパクトなどが熟考されていない。

 つまり、「欧米では不満の声があがっている」は、幼児性を脱しないメンタリティの現れとも言えるし、究極の審判者の位置に「神」でも「理性」でもなく、「世間」が座っている社会の必然の産物とも言える。

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山本芳幸(在イスラマバード)
・UN Coordinator's Office for Afghanistan / Programme Manager
 (国連アフガニスタン調整官事務所 / プログラム・マネージャー)

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山本芳幸氏は友人です。文藝春秋に連載中の『希望の国のエクソダス』のパキスタン北西辺境州の取材の際にもお世話になりました。氏のレポートは龍声感冒 http://www.ryu-disease.com/jp/kabul/(*) でもご覧になれます。
パキスタンのクーデターだけではなく、イスラム世界の現状について、山本氏のレポートを不定期連載します。わたしのとのメール交換の形になるかも知れません。
                                村上 龍
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(*)i-NEXUSに移行。

Friday, October 22, 1999

イスラム・コラム No.2 「非常事態な日常」

JapanMailMedia 032F号から転載。
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 ■ 特別寄稿               山本芳幸
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No.2 「非常事態な日常」


10月15日(金)

午後6時頃、帰宅してウェブに繋ぐと、龍さんからのメールが届いていた。

> このクーデターを期(?)に、イスラム世界のレポートを、
> ぼくとの交換メールの形で、お願いしようと思っていましたが、
> 非常事態宣言が出て、「交換」では追いつかないので、
> パキスタン情勢が落ち着くまで、
> レポートを連載していただけませんか?

最初、何が書いてあるのか、よく分からなかった。何かよくないことが龍さんの身辺に起こったのだろうか。それとも、突発的な仕事が入って動きがとれなくなっ たのだろうか。少し心配した。信じがたいかもしれないが、この時、僕はまだパキスタンで非常事態宣言が出たことを知らなかった(!)。

もう、これだけ書けば、現地の状況のほとんどは理解できたかもしれない。
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 今朝起きて、まず最初に僕がしたことは銀行に電話を入れることだった。昨夜ウェブを見ると、やはり銀行の外貨取引が停止されたと出ていたからだ。口座の残額をきいて、今日引きおろせるかどうか尋ねた。銀行員の「イエ~ス、ユ~、キャァァ~ン」 という面倒くさそうな声が「お前はタコか」と言っているように聞こえた。みんな(タコ以外)変わりない日常を送っているのだった。しかし、それでも、せこい抜け駆け根性が働き、取り付け騒ぎの気分で、今日中になんとか銀行へ行こうと思った。

 それから、新聞もウェブも見ずに僕はオフィスに行き、銀行に行きそびれ、やっと午後6時頃、帰宅した。そして、龍さんのメール。日本の文脈で言えば、笑ってしまう話だろうけど、今日は帰るのがとても遅く(!)なってしまったのだった。

  金曜日は、イスラム教では安息日だから、本来仕事してはいけない。数年前まで、パキスタンでは金曜日は全国的に休日であった。しかし、やり手ビジネス・マ ンとしてパキスタン経済の立て直しを一身に担って登場したナワズ・シャリフ首相、いや元首相は、金曜日休日制を廃止した。他国経済との取引上、不利である からだという。グローバリズムが国家の休日を変えた例かもしれない。

 それ以後、在パキスタンの国連事務所もそれまでの「木曜半ドン、金・土休日」というイスラム体制から、「金曜半ドン、土・日休日」という世界標準体制に移行することになった。

 信じられない話がもう一つある。今日一日オフィスで「非常事態宣言」を話題に出した人は一人もいなかったということだ。皮肉なことに、みんな、来年の非常事態の値段の計算に没頭していたのだ。これには少し説明がいる。

  このところ毎年年末に、全世界の国連の緊急・人道援助プログラムへの拠出金を求めて、各国連機関が共同で、『グローバル・アピール』というものを出すのが 恒例となっている。世界の各紛争地ごと個別に、しかも各国連機関が別々に、ちまちまと拠出金を加盟国にお願いしても、なかなか金が集まらないから、世界ま るごとみんなで一緒にお願いしようということになったのだ。

 10月15日 は、その『グローバル・アピール』へ載せる予算提出の現地レベルでの締め切り日だった。しかし、よく考えれば、「来年度」の「緊急・人道援助」(英語で は、emergency,humanitarian, relief などの語が使われるが同じカテゴリーの援助を指す)の「予算」とは、訳の分からないコンセプトである。平和な地域で行われる「開発援助」なら、長期的展望 に立って予算をつくることができるが、将来、起こるかもしれない非常事態を予測して予算を立てるなど、厳密に言えば、できるわけがない。

 結局、何をするかと言えば、今ある不幸が継続すると前提して、その対策経費を計算するのだ。来年、起こるかもしれない新しい不幸に関しては、ほとんど博打的な予算だ。起こるかもしれない不幸の値段を計算する。我々は悪魔の手下か。

 つまり、今日我々は、来年のemergency のための予算を立てるために、 state of emergency が宣言されたばかりの空間の中で、仕事という日常に没頭していた。

 「締め切り」という極めて日常的な非常事態は、国家の「非常事態宣言」よりも強力に我々を日常に縛り付けたのだった。現在のemergency と未来の emergency に挟まれて、それでも、強情に日常を生きる・・・
 何を書いているんだろう?
 僕はもう何が日常で、何が非常なのか分からなくなってきた。

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10月16日(土)

 午前10時頃、魚売りの少年が家にやってきた。時々、彼は自転車の荷台に魚を入れた木箱をくくりつけて、はるか北の町から、首都イスラマバードにやってくる。

  外人、汚職官僚、腐敗政治家らの住んでる家を一軒一軒訪れて、北方の川で獲れた魚を売り歩くのだ。木箱をのぞくと、かなりでかい魚が四尾ゴロンと入ってい た。一尾は鯉に似ていたが、よく分からない。あとの三尾は全然名前は知らないが、パキスタンではよく見る魚だった。それを一尾買った。約2キロで、145 ルピー(300円)。

 この魚売りの自転車にはかならず後続車がついてくる。魚のさばき屋だ。客がまんまと魚を買うと、後続の自転車をひく男がすばやく七つ道具を自分の木箱から取り出し、玄関先でさばく。なかなかいい連携だ。

  路上で解体されつつある魚の鱗が秋の日差しに光るのを見ていた。ふと、この二人の若者は「非常事態宣言」を知っているだろうかと思った。あまりに、平和で のどかな風景ではないか。「日常事態宣言」でも出すか。しかし、僕のウルドゥー語で、そんな話をするのは無理なので何もいわなかった。

 様々な香辛料にこの魚を数時間つけて、カリッと揚げて食った。ピリッと辛くクリスピーな皮と柔らかい白身のコントラストが効いて、実に美味い。

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10月17日(日)

 午後8時半に始まったムシャラフの演説を見た。いい人が出てきたな、と思った。単なる直感だ。あてにはならない。しかし、いっしょにテレビを見ていた妻も「He is a good man ! 」と言った。
 少なくとも二人の視聴者が好感を持った演説であった。

  もっと具体的な日程の発表などを期待していた人達は落胆したかもしれない。そのような形式を整える演説を作るのは簡単だし、早くも「軍政」にプレッシャー をかけ始めている国際社会に対してもその方がウケがよかったはずだ。しかし、それをあえてしなかったところに誠実さが現れていると見た。腐敗構造を本気で 一掃する覚悟だと僕は解釈した。期待し過ぎか。

 「デモクラシーの一刻も早 い復帰を」とか、「憲法の回復の早期実現を」とか、各国の声明を見ていると、マニュアル通りにしか喋らないファーストフードレストランのお姉さんを思い出 す。「クーデター→非難すべき→デモクラシー復帰すべし→憲法尊重」という教科書(マニュアル)で覚えた回路を繰り返すのが仕事なんだろか。としたら、 ファーストフードと政治の意外な近似性。

 いったい、どのデモクラシー、ど の憲法に復帰しろといいたいのだろう?首相の権限強化のために憲法を改変し、大統領を飾り物にしてしまい、司法に干渉して最高裁を骨抜きにし、メディアを 弾圧し、親戚一同・仲間うちで政府要職を占め、議席は「遺伝的」に継承され、よってたかって国家の予算を食いつぶし、税金・電気代・水道代・ガス代・電話 代も払わず、経済政策といえば税金を上げることしか知らず、政府批判が高まると関心をそらすために宗派間抗争を煽り、いよいよ足元がグラグラゆれてくると アメリカに助けを求めに行く、そんな政府が好きだった?

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10月19日(火)


 昨日、今日と、地元の新聞を読むのが楽しい。クーデター以来、犯罪率が激減したという記事があった。汚職がバサバサと摘発される。悪代官のように振舞ってきた官僚が次々にクビになる。一般のパキスタン国民は胸のすく思いだろう。

  各政党は世俗的なものからイスラム原理主義的なものまでみんな揃ってムシャラフに大きな期待をかけている。彼等が言っていることを一言でまとめると、どん どん腐敗分子を追放して、また一からゲームをやり直そうということだ。そのためには、しばらくムシャラフさんにいてもらわないとしょうがないという点で彼 等は一致している。

 引退した軍の最高指導者や元大統領なども、こまごまとしたアドバイスをムシャラフに送って応援している。変な奴を側近に選んだら失敗するのだぞ、注意するんだぞ、騙されたらダメだぞ・・・と。

 小学校に入学した息子を送り出すように、心配と期待で熱くなりながら息子を見守っているというようなイメージを持った。なんか泣ける話ではないか。

  今、パキスタン国民はとてもシンプルな目標をもって、上から下まで一致団結している。国を建て直すんだという熱い空気が伝わって来る。ほんの数日前まで、 諦めと停滞だけがこの国を覆い尽くしていたのが、もうウソのようだ。日本にはないことを龍さんが発見した希望がここにはある。そんな国の新聞は読むのが楽 しいものなんだということを発見した。

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  メディア的には劇的なことは何も起こっていない。銃声も流血もない。イスラマバードのマリオット・ホテルに大挙して詰め掛けた日本人ジャーナリストは退屈 してるだろう。映像メディアが権力を握って以来、銃声と流血が事の重大性の尺度になってしまっている。文字メディアも、不幸なことに独自の尺度を利用でき る特権を忘れて、映像メディアと同じ尺度を使う。「メディア的」とはそういう意味で僕は使っている。

 無血の『名誉革命』が今のような状況で起こったなら、歴史の項目は一つ減ったかもしれない。事の重要性を認識して、歴史に位置付けるという作業をする能力は、あくびをしながら銃声と流血を待っているジャーナリストには無縁のものだ。

  『グローバル・アピール』などという田舎政治家がやりそうなパファーマンスを我々がやるはめに陥るのも、原因は同じところにある。世界には悲惨な状況がい くつも同時に並行して存在する。その悲惨は想像力の範囲を越えている。映像はそれを大いに助ける。BBC、CNNで放映されると、視聴者は驚く。政治家は そういうところに手柄のチャンスを見つける。政府が動かされる。お金が集まる。BBCとCNNはメディア的に劇的なところにしか来ない。慢性的に静かに想 像を絶した悲惨がいくら続いても、メディア的にはおもしろくない。

 政治家はそんなところに点数を稼ぐチャンスを見出さない。政府も動かない。お金が集まらない。悲惨はさらに悪化する。そして、ニーズと予算の間に著しい不均衡が起こる。それを是正する努力が必要になる。それが『グローバル・アピール』だ。

 メディア的につまらないパキスタンの現状は非常に興味深いものだ。
 クーデターに対する外国政府からの非難や制裁は、クーデターが憲法を超越 した行為である、すなわち民主主義の破壊行為であるという、形式上、正しい議論に基づいている。しかし、パキスタン国内では、今まで見た限り、すべての論 説がそれに反する議論を展開している。すなわち、シャリフ政権は民主的な手続きを利用して独裁制を作り上げた、もう合法的な手続きでは政権を交代させる道 は閉ざされていた、そして手付かずで残された最後の国家機関、軍をシャリフが独裁政権の支配下に置こうとした段階で、軍はそれを阻止した、だから軍の行っ たことは正しい、という議論だ。立憲民主主義という形式を尊重していると、息の根を止められる、というギリギリのところまで追い込まれたあげくの決断で あったということだ。

 事実、ムシャラフは、二百数十名の一般乗客もろとも墜落する7分前にようやくカラチ空港に着陸することができた。

 民主主義の範囲内で合法的に独裁政権が成立した場合、どのようにして国民はその独裁政権を倒すことができるか。その独裁政権の下で国民は形式的な合法性を尊重して独裁体制に甘んじるべきなのか、あるいは合法性の枠を出てレジスタンスを実行するべきなのか。

 地元新聞のある論説は、ナチズムを例に出していた。ナチズム体制下で、合法的に国家の命令に従った者は、戦後罪あるものとして裁かれ、違法にレジスタン スを展開したものは、戦後ヒーローになった、その裁判をやった同じ国家が今、パキスタンのクーデターを非難する、おかしいではないか、という論旨であっ た。ここには、常に出てくる西洋諸国のダブル・スタンダードに対する批判も重なっている。

  ムシャラフが乗っていたのと同じ機に乗っていた一般乗客の話が報道されていた。その機には、スリランカでの水泳競技に参加した高校生がたくさん乗ってい た。その一人がどうしても喋らせてくれといって話した言葉が載っている。「メディアで知ったんだけど、西洋諸国はデモクラシーをパキスタンに回復しろと 言ってるけど、罪のない一般人の生命を危険に陥れるデモクラシーって、いったいなんなの?」

 ムシャラフは、合法性の問題に18日の演説で触れている。「10月12日、手足を犠牲にして身体を救うか、手足を救って全身を失うかという選択の前に我々は置かれました」というように表現している。身体とはnationのことであり、手足とはconstitution のことである。

 「constitution はnation の一部です。だから、私はnation を救う方を選んだ。しかし、それでもconstitution を犠牲にしないように配慮した。constitutionは一時的に停止されただけである。これは、martial law ではない。デモクラシーに至るもう一つに道に過ぎない。 軍はパキスタンに真のデモクラシーが繁栄するための道を開くために必要である以上の期間、政権に留まる意図を持っていない。」

 身体と手足という比喩が適切かどうか分からないが、彼の意図は国民に十分に伝わり、理解されたようだ。

 nation は人々の集まりを指す。constitution はその人々の集まりがより幸せに暮らせるような枠組み、ルール、構造を定めるものだ。だから、nation みんながそれに従ってもらわないと困る。しかし、constitution を維持するために、nation を苦しめるとしたら、それは本末転倒である。

 constitution で定められた構築物を、state と呼ぶ。あるnation がある種のstateを選び取ることに合意して、nation とstate が幸福な結合を果たすと nation-stateが成立する。これを国民国家と訳すことに何の意味があるのかさっぱり分からないが、社会科の教科書ではそう出ている、あれのことだ。

 しかし、現時点でのパキスタンは、極めて平和である。state を支える constitutionがタイムをとり、西洋近代の信仰では常にセットであるべき 『law and order』の半分が欠損した、非常に危うい状態にあるにもかかわらず、国民(nation )の自発的な意志で秩序は保たれている。

 秩序が、『  and order 』の下で発生している。一種の驚異である。
今から、state を作りなおして、出直すのだという意気込みでnation が一致団結している。おそろしく困難な事業だろうと思う。失敗するかもしれない。しかし、失敗したとしても、他にパキスタン国民に行く場所はないのだ。こ こで頑張って自分達(nation)を幸せにするstate を作り上げるしかない。やはり、これは制裁を与えるのではなく、応援するべきではないだろうか。

 非常事態宣言下のパキスタンで続く日常を今、僕はこう解釈している。パキスタンでは今、驚くべき事態が発生している、と。

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山本芳幸(在イスラマバード)
・UN Coordinator's Office for Afghanistan / Programme Manager
 (国連アフガニスタン調整官事務所 / プログラム・マネージャー)

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山本芳幸氏は友人です。文藝春秋に連載中の『希望の国のエクソダス』のパキ スタン北西辺境州の取材の際にもお世話になりました。氏のレポートは
龍声感冒 http://www.ryu-disease.com/jp/kabul/
でもご覧になれます。
パキスタンのクーデターだけではなく、イスラム世界の現状について、山本氏 のレポートを不定期連載します。わたしのとのメール交換の形になるかも知れ ません。
                                村上龍

Friday, October 15, 1999

イスラム・コラム No.1 「静かなクーデター」

JapanMailMedia 031F号から転載。
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■ 特別寄稿               山本芳幸
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No.1 「静かなクーデター」

10月12日

 携帯電話が突然通じなくなった、と思ったら、クーデター。待ってたわけではないけど、「とうとう」というか、「やっと」というか、あまり感慨がない。街は軍が制圧してるらしいが、まったく抵抗がないのだろう。とても静かだ。

 パキスタン人は大喜びだろう。もちろん悲しんでいる人も中にはいるのだろうけど。

  しかし、また外貨口座は凍結になりそうだ。先週解除されたばっかりだったのに。タイミング悪い。手元には3000ドルくらいしかない。家族でとりあえずバ ンコックくらいまで行けるかな。いや、空港閉鎖されてるのか。こういう時に現金が乏しいと不自由感がつのる。プラスチック・マネーは化けの皮がはがれる。 悪化しないことを祈るしかない。

 ナワズ・シャリフ首相は、アイデンティ ティを模索する、国民の期待に応えられなかったようだ。危なくなってアメリカに応援を求めて国民の誇りに傷をつけてしまった。小銭で(実に大金なのだが) 右往左往する首相は、ショップ・キーパー(ガキの使い)と蔑まされ、パキスタン人の自画像に一致しなかったのだろう。

 インドに一発かます、アメリカに肘鉄食らわす、そういうリーダーを国民は求めている。その点、インドも同様だ。インドでは強烈な指導者であるヴァジパイ首相がまたもや今回の選挙で地位を強固にした。

 問題はその後だ。国民の誇りを守った後に、どうやって国民の飯を確保するか。

 この順序を逆にしない「援助」は可能かを考える。日本だけがそれをできる立場にあると思うけれど、現実はほど遠い。惜しいことだ。

(午後9時頃)

+++++++++++++++++++++++

 と書いて送信しようと思ったら、電話が不通になっていた。携帯電話だけ止めてもしょうがないことに、軍も気がついたか。とりあえず、クーデターのマニュアル通り、コミュニケーション手段は制圧したらしい。

  いよいよ雲行きが怪しくなってきたのかもしれない。明朝9時からの会議はあるだろうか、なんて日常的なことを考えている自分に笑ってしまう。あるわけない だろ。今頃、セキュリティ担当はすべての連絡手段が絶たれて、大慌てのはずだ。全職員に無線機が配備されているはずだけど、それはマニュアルだけで実際に は誰も持っていない。担当者は責任問題を予想して(職員の危険ではなく)真っ青だろうな。

  とりあえず、今何をすればよいだろうか。水と食糧はかなりある。1週間くらいの篭城ならもつだろう。移動となると荷物をまとめる必要があるか。しかし、あ まりやる気にならない。いつもやってるからすぐにできるだろう、という怠け心に負ける。あるいは、もっと危機感が必要なのか。しかし、車にガソリンがあま り入ってないことに気がついた。一人で出ようとしたが、妻もいっしょに行くというので、二人でクーデターの街に出てみた。

 ほんとに静かだ。人が歩いていない。車もほとんど走っていない。いつもこんなに静かなら良いのにと思う。ガソリンスタンドも閉まっているかと思ったが、開いていた。

 満タンにして戻ってきた。 まだ、電話は不通。

 BBCとCNNもネタ切れで同じことばかり繰り返している。新鮮な情報が入らなくなると息苦しくなるもんなんだな。

  とここまで書いたら、なんと電話がかかってきた。もう回復させたらしい。どうも平穏に終わりそうな気配。BBCとCNNはムシャラフの会見を生中継すると 言ってる。クーデターを阻止するような動きはまったく伝えられていない。まるでクーデターが政権を交代させる正当な手続きみたいだ。

(0時10分)

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10月13日

 その後、僕はずるずると午前4時くらいまで起きていた。とりあえずムシャラフ陸軍参謀長の会見を聞いてみたいと思っていたのだが、それよりも何か重大なことを忘れているような気分で寝る気になれなかったからだ。

  ムシャラフの会見は短いものだった。しかし、メッセージは非常にはっきりしており、おそらくパキスタン国民の多くが納得するだろうと思った。クーデター発 生直後に、「パキスタン人は大喜びだろう」と僕は感じたが、ムシャラフのスピーチは、そのようなパキスタン人を代弁するようにできていた。

 それにしても、ナワズ・シャリフ首相はせこいことをしたもんだ。気に入らない奴(ムシャラフ)を外国出張中にクビにしたりしたら、一国の指導者としての威信に傷をつけると思わなかったのだろうか。

 しかも、帰国するムシャラフの載っている民間航空機をパキスタン国内に着陸することを阻止しようとしたという。幼稚であるだけでなく、政治のために一般乗客の生命を危険に陥れたのだから、彼のやったことは犯罪でもある。

 朝刊は一面クーデターに関する記事で埋まっていた。

 「アメリカ大使館と国連オフィスは閉鎖」という小さな記事を発見した。やっぱり9時からの会議はないのかと思いながらも一応事務所に電話してみた。新聞 記事は疑うべし。やはり通常通り開いているのだが、新聞の誤報で混乱してまだ、誰も来ていないということだった。なんだか、のんびりした空気が伝わってき た。

 実に静かなクーデターだ。クーデターが静かというのは、妙な話である。

 それは、転覆される国家が抱える問題が底無しに深かったということだ。国家は法によってある秩序と構造を維持している。問題があれば、その法秩序の定める手続きにしたがって解決することになっている。
 首相が気に入らないなら、手続きに従ってクビをすげ替えればよいのだ。

 この法秩序というのは、一つの小さなコスモスといってもよいだろう。
 その小コスモスの中でいろんなゲームが行われるのだ。クーデターというのは、このコスモスの外からやって来る。コスモス内の一切のルールを無視して、コ スモスの変革を迫る。クーデターのクー(coup)は一撃という意味だ。クーデターは、法秩序としての国家に対する一撃という意味だ。

  従って、コスモス内でどのような激しいゲームを行っていようと、(例えば、CTBTをめぐって、カシミール問題をめぐって、アフガン政策をめぐって、イス ラム原理主義をめぐって、テロリストをめぐって、宗派間抗争をめぐって等々)コスモス自体の破壊者が現れたら、プレーヤー達は一致団結して戦うべきなの だ。プレイグラウンド自体が消滅するかもしれないのだから。「軍がconstitutional limit を越えないことを望む」というアメリカの声明も、「constitutional order を尊重することを望む」というドイツ、フランス、イランの声明も同じ意味である。

 コスモスの法秩序と構造を定めているのがconstitution だ。
 つまり、コスモス自体を破壊するな、と言ってるのだ。

  とすると、静かなクーデターとは何なのだろうか。今日の新聞が載せている財界、政党、宗教団体などの談話は一様に、このクーデターの責任はナワズ・シャリ フ自身にあると言っている。もちろん、クーデターという事態は悲しむべきだが、という留保をつけて。街には何事もなかったかのように、普通の日常が続いて いる。

 守るべきコスモス内のルール、法秩序、つまり国家が正当に持つべき 制度、それに対する期待が国民の中にはもうなかったのだ。パキスタン人はそれらがウソだと諦めていた。クーデターに対する抵抗が一切見られなかったのは、 破壊から守るべきもの、それを国民は誰も見出さなかったということだ。今のところ、パキスタン国民は、Let it go 的な態度で一貫している。

 「制度とリアリティが究極まで乖離した国家では、クーデターがいとも静かに達成される。」

 これは日本人も覚えておいた方がよいかもしれない。

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山本芳幸
・UN Coordinator's Office for Afghanistan
 (国連アフガニスタン調整官事務所)
・Programme Manager
(プログラム・マネージャー)
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山本芳幸氏は友人です。文藝春秋に連載中の『希望の国のエクソダス』のパキ スタン北西辺境州の取材の際にもお世話になりました。氏のレポートは
龍声感冒 http://www.ryu-disease.com/jp/kabul/でもご覧になれます。
パキスタンのクーデターだけではなく、イスラム世界の現状について、山本氏 のレポートを不定期連載します。わたしのとのメール交換の形になるかも知れ ません。
                                村上龍
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