Thursday, November 03, 2005

『声をなくして』 永沢光雄、晶文社

上記は今回の特選必読書です。
是非、読んでください。こういう人が日本を救う、と思う。

うつ病で、癌で、声をなくし、胸にあけた穴で呼吸をし、小腸を食道かわりに移植し、腎臓が悪くて、肝臓が悪くて、アル中なんですが、鋭いです。かつ笑わし続けてくれます。


「日本で現在、多くの人間によって雑誌に書き散らされている、ノンフィクションという記事。もう一度言う。みーんな、おんなじ!!まるで、明文化されていない、だが空中にきっちりと浮かんでいるマニュアル通りに書かれたり、写されたり、撮られたものばっかり。「いらっしゃいませ」、「ハイ、ハイ、コーラは Sですか?Mですか?(笑・筆者)、ポテトはいかがですか?」、「ハイ、三分程お待ちいただけますでしょうか?」、「どうもありがとうございました(笑・筆者)。」(59頁)

「三十五歳を過ぎたあたりから、私はその文筆家を志す若者たちに蔓延しているノンフィクションなる書き方を、沢木耕太郎病と呼ぶようになった。まずは自分のことを書き、そして対象物との出会い、それらのもみあい、葛藤、やがての相互の理解、そして「じゃ」と片手を挙げて世間の雑踏の中に対象物は消えてゆく。」(59頁)

「上手く言えないが、ノンフィクションと銘打たれた文章は、取材対象を通し、昼過ぎのアパートの中でオナニーをしている自分、深夜の居酒屋で恋人であったはずの人間に酎ハイを頭からぶっかけられて、呆然としている自分を書く作業であると私は考えるのであるのだが、皆、自分を隠すようになり(編集者の命じるところでもあろう、誰もてめえのことなんか読みたくねえんだよという。違うんだけどなあ・・・・取材相手を通して自分を書くということは、すなわち、その時こそ初めて取材相手を表現することなのに・・・・)、そろいもそろってお涙ちょうだい、情にすがるばかりの記事のオンパレードになってしまった。テレビも同様。何がノンフィクションだ!?そんな言葉のなかった頃の坂口安吾や川端康成の囲碁の観戦記の方が、よっぽど臨場感があり、そして何よりまず第一に著者の心が表現されている。」(90頁)

どうですか?えっ?痛いですねえっ。
妻のいる方、いた方、こんなん(↓)はどうですか?

「そもそも、私の妻という人間は、やたらと些細なことでむくれる。やれ、酔っ払って道端で寝ていたところを警察に保護されただの、バーのカウンター席から落っこちて買ったばかりのズボンを破いただの、やれ、二、三日、都内某所にいて帰宅しなかっただの、そんな些細な、私の意志の入っていない出来事をあげつらっては、こちらを批判する。
 これは、私の妻だけのことであろうか?
 だとしたら大変なことである。私のかかりつけの精神科医のもとに引っぱっていかねばならない。
 それで数人の、結婚している友人に尋ねてみた。君のところの妻君はどうかね?
 私は彼らの答えを聞き、安堵した。どこの妻君も、実に些細なことで怒るらしい。やれ、酔っ払って喧嘩となりひっぱたいたとか、本人も知らぬうちに気がついたら家の外に三人の女を囲っていたとか、競輪でけっこうな勝負に出てマイホームを失ったとか、そんな些細なことで、なぜか彼らの妻君たちは怒髪天を衝かせたらしい。
 そうか。四十五歳になってやっとわかった。妻という人種は、ほんの些細などうでもいいことで怒ることを趣味としているらしい。
 そう考えると、自分の意志とは無関係に体内で生まれたガンなんで、取るにたらないことだ。どうしてか?あんなに些細なことで怒ってばかりであった妻が、私がガンになった時は怒らなかったからである。怒りに値しなかったのであろう。」(188-189頁)

うなります。

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