Thursday, February 08, 2007

Groundtruthing

人々の生活を再建したくて、私はアフガニスタンに行ったの。
でも、意図が善いだけでは十分でないことをひどい思いをして学んだわ・・・
という見出しで始まる記事を読んだ。

"The Road to Helmand"
By Holly Barnes Higgins
Sunday, February 4, 2007; B01, Washington Post

アフガニスタンに限らずだけど、こういう仕事をしている人が現実をありのままに伝えるのはかなり難しいと思う。この記事の中にも、取材をしに来るジャーナリストの話が出てくるけど、そのジャーナリストの書いたものは結局現地に来て取材する必要のないものだったとホリー・バーンズ・ヒギンスさんはちょっと落胆している。

自分の頭の中にある悲惨なアフガニスタン、自分の国の読者が読むことを待ち望んでいるような衝撃のアフガニスタンを、ジャーナリストは求めて探し回る。現実をジャーナリストに見せようとするホリーさんの努力は無駄になる。悲惨とか、ばら色とか、そんな両極端の言葉で要約できる現実なんてどこにもないのに、ジャーナリストにはあいまいな現実なんて必要ない、あるいは記事にならないということなのだろうか。

これとはまったく逆にばら色の成功物語しか語れないこの業界の体質にもホリーさんは苦しむ。彼女はアメリカ政府の援助を現場で実施し、それをPRするという立場にいるので、いっそう苦しいだろう。何もストーリーがないところに、成功物語を捻出して宣伝しなければいけないのだ。

彼女はおもしろい言葉を紹介していた。groundtruthing。
ものすごい造語だと思ったが、Google してみたら、空撮や衛星写真の分野で使われる用語らしい。しかし、もちろんここではまったく異なる意味で使われている。ぴったし相当する日本語は分からないが、「現場の真実を伝える」というような意味でホリーさんは使っていた。

ホリーさんの現場はアフガニスタン南部の地球の果てみたいなところなのだが、彼女と彼女のスタッフ達は時々カブールのアメリカ政府役人に会いに行き、米国の現在の援助方針は現場の実情に合っていないのではないかと疑問をぶつける。そのプロセスを彼女たちはgroundtruthing と呼んでいるのだそうだ。彼女は一貫してとても冷静に書いているのだけど、ホントは米政府役人に向って、あんたたちは現実が何も分かってない!と叫びたいのだろうということは、容易に読み取れる。

まったく同じような思いをしている人は、アメリカの援助に関わる人だけでなく、すべての援助国の出先機関や国際機関に腐るほどいるだろう。アフガニスタンは、groundtruthing に挑戦して打ち破れていった人の屍の山かもしれない。確かに国際協力という業界には「成功」しか存在しないかのような体質がある。これはほぼ完璧な知的破滅ではないか。

ホリーさんは1年後、アメリカに帰っていった。契約を更新しなかったようだ。しかし、1年間あの地獄の一丁目のような場所に住んでいただけで、尊敬するしかない。僕なら三日目に病気になり、一週間後に死ぬと思う。彼女の住んでいた場所は、ラシュ・カルガという。

アフガニスタン最後の日に、彼女はオフィスで一人緑茶を飲む。アフガニスタンではどこへ行ってもこの緑茶を飲むはめになる。さめた出がらしのような緑茶に砂糖を思いっきり入れて飲むのがアフガニスタンの緑茶なのだ。それに比べたら、日本のお茶のおいしさはこの世の奇跡だろう。彼女はお茶を飲みながら思う。

「もし憂鬱に味があるなら、それは生ぬるく、甘さのない緑茶のようなものじゃないかしら・・・」。

絶望を通り越すと、そのようなことは書かないものだと分かるような文章が最後に続く。アフガニスタンの真実を書こうとすると、限界までウソに近づかないと、数時間後に自殺する人の遺書のようになってしまうだろう。ホリーさんの記事を読んで、話せば三分で終わるようなことを「フォーサイト」に書き続けるのがどうしてこんなに苦しいのか分かったような気がした。

自分の仕事に満足できるような結果はどこにもなかったことを彼女は冷静に受け入れる。それでも、もっと何かできたのではないか、という思いにつきまとわれる。そして、この最後の日に一枚の写真を見る。それは、彼女が作った冊子を学校に配った時のものだ。そこに写っているのは目を大きく見開いて冊子の写真に見入る教室いっぱいの子どもたち、その写真を指差し何かを説明している先生、ニコニコしながら冊子を配っている警察官・・・。

と書けば、この写真一枚で愛は地球を救うみたいな結論にもっていくように見えるかもしれないが、もちろん、そんなわけではない。彼女が疲れきっているのは、そんな写真一枚でアフガニスタンをばら色に描いてしまう、この世界のすべてだったのだから。

その写真を見ながら、彼女は言葉と絵が希望と可能性を呼び起こせるものなのだろうかと懐疑する。それでも、最後にそんな写真を見ながら、ほんのかすかな満足を感じることを自分に許そうとして彼女の文章は終わる。

彼女は自己欺瞞に無縁であるのはもちろん、国際社会というものの壮大な欺瞞を拒絶する。が、だからといって部屋の片隅で意固地になってすねているわけでもない。淡々と書き続けられたストレートな文章に好感をもった。

これを読んでいる時、僕はたまたまRachel Yamagata を聴いていた。あまりにぴったり合ってしまう。もう底なしの憂鬱に落ち込み、永久に這い上がって来れないのではないだろうかと思った。ホリーさんに会って話してみたい。

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