Monday, December 26, 2005

クリスマスの後

予約時間に30分遅れたが、今日の「さかもとクリニック」は土曜日ほど混んでいなかった。

「どうですか、元気ですか」
「まだ大丈夫です」

という、いつもと同じやりとりで始まり、血を採って、僕が欲しい薬を言う。あれ出しときましょか、これもいっときましょか、みたいな八百屋で買い物をしているようなやりとりだ。

その後、焼きたてのパンがいつも食べ放題というファミリーレストランに毛が生えたような「バケット」という名の店でハンバーグを食べながら、ショーコさんがおもしろいと言っていた『イサム・ノグチ』を読んで少し時間を潰した。この本を昨日読み始めてから、ずっと引き込まれっぱなしだ。

* * *

「この冬は寒すぎて、気鬱な毎日でした。イサムは風邪ばかりひき、その看病に明け暮れました。また私は”田舎”へのホームシックにかかっています。日本でもアメリカでもどこでもいい、広々とひろがる土地と住んだ大気の田舎で暮らしたい。この手で大地を掘りおこしたい。可哀相に、イサムもいま、小さなシャベルを手に下駄をはいてうろついています。”何をしているの?”と尋ねたら、”何もない、ママ、どこも掘るとこない”と答えました。ああ、私たち母子はこの東京に閉じ込められて一生を終わるのでしょうか。でも、すでに梅が咲いています。もうすぐ日本の美しい春です」(イサムの母からアメリカの友人への手紙。イサム3歳の頃)

「ついに自分を受け入れてくれる人々のなかにいる、という意識がはっきりとあった。ぼくのような混血でも、自分たちとすこしも違わない仲間としてあたたかく迎えてくれた。森村学園ではフリーク扱いされなかった」(イサム、6歳4ヶ月の時の回想)

「子どもというのは正直なものだ。隠すことなく差別意識をあらわにしてみせる。アイノコのぼくは、彼にとって、まぎれもないフリークだった」(イサム、1年2学期に茅ヶ崎の尋常小学校へ転校後の回想)

* * * 

「バケット」のハンバーグはあまりおいしくなかった。僕はチープな食べ物、ジャンクフードにはうるさいのだ。ハンバーグはサンタの缶詰が一番おいしいと頑なに信じている。そんなもの、もう売ってないかもしれないが。

味は別にどうでもいいが、週日の昼間にこんな店に来ると、小さい子どもを連れたお母さんグループに必ず会う。こういう時はいつも、みんなが僕から視線を外すような気がする。社会のはぐれものは可哀相だし、いつ逆上するか分からないから、目が合わないようにしましょうというお触れが出ているのではないかと思う。そういう居心地の悪さは、大学教師をしている義弟も話していたことがあった。真っ昼間という、まっとうな社会人にとってはとんでもない時間に自宅のあるマンション界隈をうろうろしていると、やはり胡散臭い光線を感じるようだ。

しかし、子どもがうるさい。したい放題、叫び放題だ。お店のウェイトレスの表情もかなり険しくなっているが何も言わない。お母さんたちは自分たちの話に没頭している。だんだん腹が立ってくる。こういう時は腹なんか立てずにさっさと席を立って注意をしに行くべきなのだろうか。しかし、他人に注意されて聞くようなお母さんなら最初からこんな状態を放置しないだろう。

聞きたくもないがお母さんたちの話の内容まで腹が立ってくる。もう少し他に考えることはないのか。まるで新聞のテレビ番組欄を見た時と同じような絶望感に襲われる。なんなのだろう、このアホらしさかげんは。イサム・ノグチのお母さんはこんなに苦労してイサムを育てたんだぞ、分かってるのか、そのへんのとこ、えっ?どうや?

このままではホントに逆上する社会のはぐれものになりそうだったので、店を出ることにした。まだ、2時35分まで少し時間があるので、本屋に入った。また、記憶にない買おうと思った本を探すということになった。

しかし、なんなんだ、この本屋は。三分の一がコミック、三分の一が実用本、残り三分の一が中途半端な品揃えの文庫本だ。これを本屋と呼んでよいのだろうか。しかし、それでもほんの少しだが”文芸”という一画もあった。こういう本屋とも呼べなさそうな本屋でも置いている文芸書とはいかなるものであるか、ということに少し前向きに興味を持って見てみることにした。

が、文芸という概念をこの本屋は間違えて使っているのではないかと思わざるを得なくなった。期待していたわけではなかったが、ここまで行くとたいしたものだ。本という概念さえ、もう壊れているのかもしれない。

それでも『半島を出よ』はちゃんと置いてある。これが売れる本というものか。たいしたもんだ。

ようやく2時半になったので、僕は映画館に急いだ。『男たちの大和』を見るためだ。チケットを買う時、「男たちのダイワ」と言ってしまわないか、ちょっと緊張した。僕は時々そういう間違いをして、顔が爆発しそうになることがある。

5人くらいしか見ていないのではないかと思ったが、館内は三分の二がうまっていた。へぇーっと思いながら、当然回りに誰も座っていない前から三列目の真ん中の席に僕は座った。メガネを忘れたので、そんな前の席を買ったのだった。

こらえる間もなく、あっという間に涙がこぼれ落ちていた。そんなことが上映中何度も繰り返された。すすり泣く音、鼻水をずり上げる音が回りからも聞こえる。これを涙なしに見る人はいるのだろうか。どうにもこうにも泣けてしまう映画だ。

ずーっと昔のことだが、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を読んだ時、その美しさに打たれたものだが、その時、この美しさを映画にできないものだろうかと思ったことがあった。だから、今回『男たちの大和』という映画の存在を知った時、すぐに見に行こうと思ったのだ。原作は異なるが、あの大和が映画になるということでは、僕の頭の中で同じことになっていた。

泣き暮れた映画だが、終わってみるとどうしようもなく怒りが蓄積している。どうして、こんな日本にしてしまったんだ、ああやって死んでしまった日本人にどういう言い訳をするのだ・・・どうもはぐれものの逆上が本格化しそうになってきた。

一応書いておくけど、戦争を美化したいわけでも、日本はえらかったとか、昔は良かったとかそんなことを言いたいわけでも毛頭ない。戦争当事者間に道徳的な善側と悪側があるような歴史観は、歴史から何にも学ばないというのと同義であるとは思っている。良い殺人と悪い殺人、良い強姦と悪い強姦、良い拷問と悪い拷問・・・そんなものあるか?

『ALWAYS 三丁目の夕日』は昭和33年(僕が生まれた年)を舞台にしているらしいではないか。カブールに帰る前にはどうしても見ておきたい。

『Mr.&Mrs.スミス』は妻が、『キングコング』は上の子が、見に行きたいと言っているので、なんとか行きたい。

『スタンドアップ』『博士の愛した数式』『七人のマッハ!!!!!!! 』も行きたいが、これは始まるのが出国してからだ。

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