Sunday, December 30, 2007

またブーツ

大晦日はAnna宅で過ごすことになった。我々の分担はシャンパンとビールとチーズいうことになって、今日、カルフールに買いに行った。

ついでに、デンマークの寒くて、暗くて、風が吹きすさぶ冬を乗り切るための靴を探した。確か前回の冬かなり暖かいブーツをカブールで買ったが、あれはゲストハウスのガードさんにあげてきた。

デザインのカッコイイものはたくさんあるが試着してみると、いまいちのが結構ある。おっ、これは行けるかなと思ったやつは微妙に縦・横・高さの組合せが自分の足に合わない。なかなか難しいものだ。条件は(1)長距離歩行で疲れないこと(といっても、通勤の20分のことなのだけど)、(2)防水加工・デザインであること(デンマークはいつもじめじめしてる)、(3)滑り止めがしっかりしてること。凍った道路を歩くのは年寄りにはもう危険なのだ。そして、(4)暖かいこと。最後に(5)自分の気に入った色・素材・形状であること。

とういう当たり前必須5項目みたいなもんなのだけど、これがなかなk総合得点になると、どれもこれも弱いのだ。妥協に妥協をかさなて、一つ選びました。カブールで買ったのは、Made in Korea だったかな。今回のはMade in Dominican Republic と書いてある。いつか写真をとってカブールで買ったブーツと比較してみよう。グローバリゼーションといっても、住む地域によって流通しているモノの生産地が微妙に違うのだろうな。生産地に色をつけて、そこのモノの流通経路にその色をつけて全世界流通図を作れば、グローバリゼーションの一端を視覚化できるだろう。小学校の社会科なんかでやってるかもしれないな。

* * *

ということで、パキスタンの政情不安にも関わらず、元旦の夜、行き場のない人達の集合場所は以下のとおり決定いたしました。


手作り居酒屋 甘太郎 千里中央店

電話番号 06-4863-7371
大阪モノレール千里中央駅 徒歩すぐ

Friday, December 28, 2007

Communication Break Down

やっとインターネット繋がりました。
以前使っていた携帯電話番号は現在使われておりません。かつ、すべての番号を失いました。かつ、i-nexus のメールアドレスも不通です。日本の関係者の皆様、もし宜しければ電話番号(及びメールアドレスも念のため)を、yoshilog オフィシャルアドレス(yoshilog@gmail.com)宛に送ってもらえませんか?あーなんかだんどり悪いなあ。

* * *

26・27日に仕入れた本:
『エコノミック・ヒットマン』ジョン・パーキンス、東洋経済新報社
『反哲学入門』木田元、新潮社
『終わらない庭』 三島由紀夫、井上靖、大佛次郎、淡交社(バカボンのパパにもらった)

Thursday, December 27, 2007

今夜はここで。ヒッヒッヒ。

『房』
住所 大阪市北区与力町2-10
電話 06-6354-7677
定休日 日曜・祝日
時間 17:30~

Wednesday, December 26, 2007

えーっこんなところで逢うなんてぇ~!

TANTE
港区赤坂 3 - 20 - 2
赤坂第3福富ビル二階
電話:03 - 5570 - 2244

赤坂見付駅から歩いて1分47秒

Monday, December 24, 2007

ケイタイから-失敗

予定通り21日に到着して、自分の家に来てみると、インターネットも電話もテレビも繋がってない。出国前に部屋をカナダ人に貸していったのだが、なんと4ヶ月近く経ってまだやってない。普通こんなことは引越しして一番先にするものではないだろうか。そのくせ、やたら中国家具やら古道具屋で二束三文で売ってるような火鉢などがところ狭しと並んでいる。浅はかでしぶといオリエンタリズムいまだ健在。

それにしても、ネットが人体の一部になってしまったような身にはこういうのは異様にストレスになる。しかも、冷蔵庫も洗濯機もないではないか。こういう家の中の些細な不便というのは家族内に険悪な雰囲気を醸成してしまう。あーなんかむかつくなあ。

一日目はほとんど寝ずにインターネットを最短で設置できる業者を探すはめになってしまった。しかし、どいつもこいつも時間がかかる。ダイアルアップの時代はスピードは遅いが、契約開始は瞬間的だった。今はスピードは飛躍的に上がったけど、契約から開始するまで1週間から1ヶ月かかるというところばかりではないか。

結局、歩いて3分くらいのところにあるケーブルテレビ会社に頼み込んで手の開いた人がすぐ来てくれることになったが、それでもちょうど1週間かかるではないか。ストレスで破裂しそうな頭で、hotspot の繋がる場所を探したら、なんと一番近くで千里中央のプロントだと。やれやれ。仕事のことを考えるとぞーっとするが、もうどうにもこうにもならん。

そのカナダ人が冬休みでどこかに行ってるので、彼の置いていったケイタイを使い倒すことにして、初めてケイタイでインターネットを見たりしていたら、yoshilog も見れるので一度アップしようとしたが、途中で変なことになってせっかくタイプしたのが全部消えてしまった。

呆然として、ためしにPCを開けてみると、あれっ?いくつかセキュリティなしのネットワークがあって、一つかろうじて繋がったり、切れたりする。というわけで、ためしに今yoshilog をアップしようとしてるのだけど、できるかな。

Thursday, December 20, 2007

もうすぐ

家を出ないと。
あーまだすっきりしない。鼻が詰まって息しにくい。咳がでる。のどが痛い。もう1ヶ月以上ひきずってる。今からデンマーク風邪を日本に輸出する。



* * *

20DEC07 SK 0983 CPH NRT 15:40 10:40+1
21DEC07 NH 0031 HND ITM 15:00 16:05

Monday, December 17, 2007

バグダッドはsurreal ね・・・

朝、子ども二人を学校まで連れて行く。家を8時過ぎに出るのだが、まだ外は暗い。後数日で冬至だから、今がもっとも日光の少ない日の数日前ということだ。

どうも身体がだるいのは風邪のせいだけではないようだ。日光の照射する時間が少ないと人間の身体の活動も低調になるのだろう。気分にも影響するらしく、人工日光のようなものを照射してうつ状態になるのを防ぐ機械も健康ショップに売っている、とアメリカ人の夫婦が言っていた。彼らはそれを使って冬を乗り切れたそうだ。               ↑とても朝の登校時の風景には見えない。

また風邪がぶりかえしてきた。鼻水と涙が止まらず、鬱陶しい。早めにオフィスを出て家に向って歩いていると、向こうから歩いてくる女の人と目があった。誰だろう?彼女はすれ違いざまに何か言ったようだが、i-Pod で音楽を聴いていたので、聞こえない。イヤホンをはずして振り向くと、

「私の名前はMですけど、あなたの名前は何ですか?」という教科書のような英語で話しかけてきた。その話しかける時の表情を見て一瞬で思い出した。彼女はかつてイスラマバードの国連やECで仕事していたのだった。最後に会ったのは8年前だ。

そうか、彼女はデンマーク人だったか、何人か考えた記憶がない。当然、最初の質問は「ここで何をしてるの?」だった。仕事してる。「家族は?」。ここにいる。「確か息子さんが一人いたと思うけど」。今は二人いる。「よくできたわねー、そんな生活で」。アハハハ。みたいな話をした後、「ここは閉鎖的な国だから簡単じゃないでしょう、何か困ることがあったら言って。できることあるかもしれないから」と彼女は言う。こういう言葉をデンマーク人から聞くのは初めてじゃない。ある種のデンマーク人は外国人にとってデンマークが住みやすい場所ではないということをかなり意識しているように思える。

立ち話で10年分をすべてカバーするのは無理だ。
私はいろんなところに行っていたわ、あなたもいろんなところに行っていたのをC(共通の友人)から時々聞いていたわ、私はどこにも住んでいないの、ずっと動いてる、年明け早々にインドに行って仕事を探すつもり、でも夏にはまた帰ってくるから、その時にまた会えるかも、バグダッドはsurreal ね、ね、そうだったでしょ・・・、

彼女はほんの15分くらいの間に世界中の話をしようとしているようだった。電話番号を交換して別れた。次会うのはまた10年後くらいの予感がする。家に向って歩きながら、彼女とばったりこの道で出会う偶然の不思議さを考えていた。彼女の顔には10年分の時がちゃんと刻まれていた。同じ街に住んでいた当時より、一瞬のすれ違いで出会い損ねたかもしれない今の方が彼女に親近感を感じた。これも不思議だ。

Saturday, December 15, 2007

Experimentarium

ピロリ退治のために妻に処方されたのがこの薬なのだが、これで効くのだろうか、というか抗生物質だらけなのでしょうがないのかもしれないが、ひどい吐き気と下痢と肌の痒みの副作用で痛々しい。
Metronidazol Actavis (Metronidazole)
Selexid (Penicillins)
Imadrax (Amoxicillin)
Pantoloc (Pantoprazole)

今日は長男の土曜日の日本語学校が今年最後の日で、午前中だけで終わりだったので、次男を連れて長男を迎えに行った。母は一人で家でやすむことになった。小さい子どもがいる母親が一人になる時間を作るというのはなかなか難しい。よくよく考えてみると、そんな隙間はほとんどない。世間の母親達はみんな一人の時間を渇望しているのではないだろうか。

息子二人はしょっちゅう兄弟喧嘩しているが、4歳の弟は常に8歳の兄の後を追いかけている。次男に長男を迎えに行こうというと喜んでついてくる。学校についてから、先生と他の生徒のお母さん達と少し話をしてから(実は名前も知らないのだが)、学校の近くにあるピザ屋に行った。

ここのピザはおいしいので時々来る。種類が100種類くらいあって、もちろんデンマーク語なので注文にてこずるのだが、少しは単語も覚えてきたので、だいたいの見当をつけて注文する。ピザを目の前で作ってる人も注文を取る人もデンマーク人ではないので、外人どうしの連帯感のようなものも発生する。コインで全部払おうとしたら1クローネ(25円くらい)足りなかったのだが、もういいよという手振りをしてまけてくれた。貧乏そうな移民風情の東洋人が小さい子ども二人を連れて三人で一枚のピザを買いに来たら、世界中どこに行っても25円くらいまけてくれるものかもしれない。

それから、やっと長男がずっと行きたがっていたExperimentarium に向った。同級生の誕生日会がよくここで行われるのだが、今まで引越したばかりで落ちつくのに忙しくて長男は一度も参加できなかったのだ。可哀そうなことをしたと思う。

これは実におもしろい場所だ。名前の通り、いろんな実験が行えるような装置があって、それを入場者は自由に使える。視覚や聴覚に関するものから、自然界の水や風に関するものまで、いろんなものがあって、とても一日ではすべてじっくり試すことは無理だ。子ども以上に大人も楽しめる。いつか一人で来て三日間くらいかけて全部味わい尽くしたいと思った。まあ、永久に実現することはないと思うが。

4時くらいにExperimentarium を出て帰ろうとすると、長男がバッグをピザ屋に忘れてきたことに気がついた。長男は実にこういうことが多い。それにくらべて、次男は実に細かいことに気がつき、几帳面で、まったく正反対だ。

まだデンマークに着いたばかりのある日、次男と母親はホットドッグを持ってバスに乗った。当然それをバスの中で食べていたのだが、次男が母親に、You are not supposed to eat it. という。母親がなぜかと聞くと、次男はバスの中に壁に貼ってある絵を指差した。そこには三枚の絵があって、タバコの絵に×印、飲み物の絵に×印、食べ物の絵に×印がしてあった。それを見て、4歳の子どもが、ものを食べてはいけないということを解釈して母親に伝えるということにまず驚愕したが、そういう絵に気がつくこと自体とても彼らしい。

話は戻るが、ピザ屋に着くと、さっきと同じピザ焼き職人みたいなトルコ人っぽい人がニコリと笑って、バッグの置いてある方向を指差してくれた。そのまま帰るのも気が引けたのでアイスクリームを三つ買って三人で食べながらバス停まで歩いて行った。まだ5時前だが、もう真っ暗で風が強くとても寒い。寒い時に食べるアイスクリームはどうしてこんなにおいしいのだろう。母親がいたら絶対に許さないだろうが、まあたまにはいいではないか。

帰りのバスの中で次男は寝てしまった。家に着くと今日は妻の具合がかなり悪いようだった。息子二人にオムライスとレタスのおひたしを作った。ケチャップの好きな次男はケチャップのついている卵を先に全部食べて、後から中のライスを食べていた。長男はそれを見て、ちゃんと食べろと叱っている。彼は母親の調子が悪いことをとても気に病んでいて、イライラしがちだ。心配症なところは母親に似てしまったのだろう。

今晩はオフィスのイヤーエンドパーティだけど、とても行く気力も体力もない。

Friday, December 14, 2007

Triage

お金が動くのも人事が動くのも年内は12月15日が最後なので、明日中に動かない仕事は来年に持ち越しになる。というわけで、土壇場の支払いや採用手続きでオフィスには坊主が走り回る喧騒が現れる。が、その一方でオフィスの半分はとっくにクリスマス気分におおわれていたりする。

年内に終えたいと思っていることを全部できるかどうか考えてみると、どうも無理だという結論に達してしまう。結局、To-Do List にあるものを、「年内にできそうなこと」と「年内にはできそうにないこと」に分けて、当面は前者に集中せざるをえなくなる。できそうにないグループには今はとりあえず死んでもらうしかない。

Triage みたいなものだ。ウィキペディアによると、Triage では以下のような分類が使われるそうだ。

黒 (Black Tag) カテゴリー0:死亡、もしくは救命に現況以上の救命資機材・人員を必要とし救命不可能なもの。

赤 (Red Tag) カテゴリーI:生命に関わる重篤な状態で一刻も早い処置が必要で救命の可能性があるもの。

黄 (Yellow Tag) カテゴリーII:今すぐに生命に関わる重篤な状態ではないが、早期に処置が必要なもの。

緑 (Green Tag) カテゴリーIII:救急での搬送の必要がない軽症なもの。

カテゴリーIIとIIIに入るものは、とっくに後回しにしているのだが、カテゴリーOに入ってるものは意外としぶとく生き残る傾向がある。これを早く手放さないと助かる命も助からなくなるから、残っている仕事をカテゴリーO か I に分けて、この1週間は I に専念することにしていたのでした。それでも、カテゴリーII や III や O に属する仕事についてもやんやと催促が来るので、うるさくてしょうがない。もうそれは年内はとりあえず寝てもらうことにしましたとも言えないのが苦しいところだ。

一人で仕事していたら、きっと O から III まですべてやってしまおうとしていただろう。家族といっしょに生活すると、そういう点で歯止めがかかる。子どもを学校まで連れて行ったり、仕事の帰りに晩御飯の買い物をしたり、ゴミを捨てにいったり、子どもの歯磨きをしたり、いろいろとやることも増えて、すべての時間を仕事に使うということは不可能になる。

生活の形態は仕事のやり方に影響を与える。そういうことを理解しない上司に当たったら不幸だろうな。で、たいていの上司というのは、自分の頭で想定された仕事のやり方の外に思考範囲がひろがっていない。つまり、たいていの人は不幸な仕事環境に置かれて、そして自分が上司になると、不幸の再生産にせっせと励むということになる。

上司も部下もない仕事というのは決して楽ではないと思うが、バカに囲まれる悲惨を上回る魅力もあるにちがいない。

Thursday, December 13, 2007

鼻曲がり文

ここのオフィスに来てから、同じオフィスの同僚に送った仕事メールの返事に「今日は家で仕事してるんだけど」という前置きのついてるものがちょこちょこ来る。最初は体調でも悪くて休んでいるのに、家でメールをチェックしたりして、結局仕事をするはめになっているのかなと思っていたが、どうもそうではないようだ。「家で仕事してる」メールが多過ぎる。というわけで、最近はなんかそういう制度があるのだろうと思っていたのだが、特に追求もしていなかった。

今日"Work-Life Policy"というSubject のメールがやってきた。オフィスでは直接仕事に関係しないメールを読んでいる余裕がないので、家に帰ってから読んでみると、これが仕事と生活のバランスを改善しましょうという意気込みのメールであった。

全然聞いたことなかったが、前の国連事務総長がフレキシブルな労働環境を奨励していたそうなのだ(興味のある人は国連のホームページでこれをダウンロードできると思う→ST/SGB/2003/4)。で、トップがそういうこと言い出すと、下々の部隊もそれにならわないといけないわけで(たとえ5年遅れであっても)、2008年1月から実施する"Work-Life Balance"を改善するための実験的措置(パイロット)を通告するというのがこのメールの趣旨であった。

まず最初に原則として、6項目が挙げられている。

1.仕事と家族生活のバランスを改善すること。
2.職員のクリエイティビティと生産性を最適化すること。
3.上司と部下の間でアカウンタビリティと信頼を構築すること。
4.この措置の実施によって組織にいかなるコストも発生しないこと。
5.フレキシブルな労働環境(working arrangement)は権利(entitlement)ではない。
6.この政策の効果のあるものにする責任は職員の側にある。

まーなんというか、今さらですが、役所臭くて鼻曲がりそうでしょ。

その後に具体的な措置について書いてあるのだけど、一つ目のオプションが、Compressed work schedule というタイトルで、要は全仕事時間は一定にして、出勤する時間を減らそうってもの。

1.週の最初の4日間、一日9時間仕事して、金曜日を半ドンにする。
2.一日45分ずつ多く仕事して、2週間に一回金曜日を休みにする。
3.週の最初の4日間、一日10時間仕事して、金曜日を休みにする。

一日の仕事時間が12時間以下ってことはまずないし、土日まったく仕事をしないってこともまずないなんて実情は完全に念頭にないのだろう。上の三つとも1日8時間・週5日間という仕事が前提になっている。

そして二つ目のオプションは、Telecommuting というタイトル。1週間に1日を限度として、職員のコスト負担で家もしくはどこか他の場所でネットを利用して仕事するというもの。もうすでにどこにいようがネットで繋がって結果的にはどこでも常に仕事するはめになっている実情のはるか後方にいるのがよく分かる。むしろこの猛烈なITの浸透によって、仕事に侵食され続ける職員の私生活をどうやって仕事と切り離すかってのが組織の課題でしょうが。

こりゃ、サル芝居ですか。形だけなんか整えたように見せているけど、中味について真剣に考えたとは思えない。こういうのをお役所仕事っていうのだろう。

とかなんとか言って、夕方になると、ほとんどのお店が閉まってしまい、週末になると生存の危機を感じるほど何もかもしまってしまうコペンハーゲンでは、出勤を週四日に限定してしまうと、お店の開いている時間に行動が自由になるわけで、そのメリットはかなり高い。誰にも話しかけられずに仕事に専念できる時間が取れるというのもかなり威力がある。

このパイロット、乗らせていただきましょう。

Sunday, December 09, 2007

Helicobacter pylori

最初、医者の口からHelicobacter pylori という言葉が出てきた時はまったく何も思い浮かばなかったが、後でウェブをみると、これは日本語でいうピロリ菌のことではないか。といっても、それについて詳しく知っているわけでも何でもないが、このピロリ菌という音の感触は耳に残っている。数年前日本の新聞を賑わしていたことがあったのではないか。ただ、その時も今も何も知らない。

ちょろちょろとウェブを見て、「この菌を起因として、いろんなことが起こり得る」ということは分かったが、具体的に妻の身体に今何が起こってそれが様々な症状にいかに結びついているかはまだ分からない。とにかく体内からこのHelicobacter pylori を殲滅しないといけないのは確かなのだろう。

それにしても、ようやく先が見えてきたというのに、「もう緊急ではないから、この後は別の医者で検査を続けてくれ」とは、なんと中途半端なのだろう?ともかく、そういうことで金曜日中に妻は退院し、来週別の医者に行くことになった。

* * *

昨日(土曜日)は、長男の通っている土曜日だけの日本語補習校でのクリスマス会だった。12時からだというので、午前中は家にいると、長男の担任の先生から電話がかかってきた。なんと午前中は普通通りの時間で授業があったのだ。そういう連絡を僕はメールで受け取っていたらしいがまったく記憶にない。あやまるしかない。

これはほんの一例で僕は子どもの学校で何が起きているかまったくフォローできていない。一日30分くらいは子どもの学校の勉強を見ようという斬新なアイデアはあるのだが、実際は1週間に一度みることができるかどうかという程度だ。平日のインターナショナル・スクールも宿題が山ほどあるし、日本語補習校の方は1週間に一日でい週間分を進もうとするのでこれも宿題がたくさんある。かなり困ったものだ。

クリスマス会では長男のクラスは劇をやったのだが、我が家の長男は一階もリハーサルというものに参加していない。金曜日の夜あわてて台詞を覚え、父親と少し練習しただけで、ぶっつけ本番ということになった。

一夜漬けで覚えた台詞をちゃんと舞台上で喋っている長男を見て、ちょっと感動した。劇の構成もシンプルで分かりやすくできていて、観客にはかなり受けていた。担任の先生がかなり頑張ったのだろうと思う。ほったらかしでも、こうやって子どもは育っていくものなのかと思いながら、長男の演じる劇を見ていた。

* * *

最近、新聞で「カブールノート」の紹介記事を読んで本を探したが、見つからないのでなんとかならないかという問い合わせが来た。本が見つからない、なんとかしてほしいという問い合わせがくることは時々ある。しかし、もう6年も前の本だし、爆発的に売れる見込みはないわけだし、出版社としても再版に踏み切りにくいだろう。

中古品を探してもらうしかないのが現状だけど、今アマゾンを見たら、なんと古本が一冊7,000円で売っているではないか!(→ここ。)1,000冊くらい手元においておけばよかった。

でも、今頃になって紹介記事を出すというのはどういうことなのだろう?どなたかご存知ですか?

Saturday, December 08, 2007

初めての夜

昨日の朝、ミケーラは1時間ほど電話しまくって、病院と話をつけ、彼女もいっしょに病院に行くことになった。結局、妻は検査のためそのまま一泊することになった。ミケーラはオフィスに戻り、僕はその後、医者に会ってから、その日は次男のクラスのオープン・ハウスだったので、子どもの学校へ行くことにした。

とはいうものの、実はオープン・ハウスが具体的に何を意味するのか僕は分かっていなかった。日本でいう参観日みたいなものだろうと思っていたが、少し違った。親もクラスの活動の一部とみなされているようで、まあ、なんというか、親と子どもがまじってごちゃごちゃと過ごすという感じだった。

学校が終了してから、子ども二人を連れて、病院へ向った。今日はお母さんは家に帰ってこないのだということをどうやって伝えるかをずっと考えていたのだが、結局何も思いつかず、駅へ向う道であっさりと今日はお母さんは病院に泊まるからねと言うと、何も反応がなかった。今から思うと意味が分からなかったのだろう。僕が覚えている限りでは、二人とも生まれてから今までお母さんなしで過ごす夜は一日もなかったと思う。

それから、4歳の次男の方はずっと何か考えている様子で、何も喋らなくなった。8歳の長男の方は具体的にはいつ帰ってくるのかということを何度もきく。実はその時点では僕も分からなかったのだけど、明日か明後日と答えた。

病室に着くと、長男はすぐに母親が横たわっているベッドに駆け寄って行ったが、次男はまるで人見知りをしているような感じで、母親のいるベッドになかなか近寄ろうとしない。なにかいつもと違うという状況は認知しても、それがなんなのか理解できず圧倒されていたのではないだろうか。いつもは長男よりもずっと賑やかな次男が今は黙りこくっている。

母親に促されてやっと母親に抱きついたが、またすぐにベッドの横のイスに腰掛けたまま黙っている。病室に1時間ほどいたが、その間喋っていたのはほとんど長男だった。帰る準備を始めた時に一階の玄関まで送っていくためにベッドから出ようとした母親を見て、今までじっとしていた次男が即座に反応をした。危ないっ!とでもいうように、母親の動きを止めようとしたのだ。

次男は病院のベッドに横たわっている母親を見て、足に何か異常が起こっているのだと考えていたようなのだ。彼なりに懸命に事態を把握しようとしていたのだろう。それで急に起き上がろうとしたものだから、思わず止めようとしたらしい。4歳なりの思考がなんとも言えずおかしいのだが、子どもといっても大人の想像をはるかにこえた思考が存在するのだと思った。

その後、息子二人とスーパーマーケットで買い物をして、家に帰って豚のしょうが焼きを作っていると、次男が一人で泣いていると長男が報告に来た。彼にとっては、お母さんのいない初めての夜なのだ。見に行くと、次男は床にすわってじっとして涙ぐんでいる。明日は帰ってくると言って、三人でごはんを食べた。その日は次男のベッドでいっしょに寝た。

Wednesday, December 05, 2007

どういうこと?

僕の会う外国人はみんなデンマークの医療制度に不平たらたらだし、その片鱗を見始めたところだったので、期待はしていなかったけど、ここまでひどいとは。

先週妻が受けた検査の結果を医者に聞きに行ったのは昨日だった。結果のレポートを見ながら医者と10分くらい話し、その場では医者は抗生剤を出そうと思うが他のことも考えて後で電話するという話で終わった。これだけで、払ったのは約1万円くらいだった。

その後オフィスに言ってから午後になって、その医者から電話がかかってきた。別の検査を緊急にした方がいいので、明日別の大きな病院に朝8時半に行けという。その病院の住所と電話番号を聞いて、電話をきった。

今日、子どもを二人とも学校を休ませて、その大きな病院に行った。まず敷地が大きくてなかなか行くべき建物が見つからない。インフォメーションの小屋のようなものを見つけたので、そこできいてやっと目当ての建物に到着した。しかし、それからが悲惨だった。受付に行っても、全然情報がシステムに入ってない、何もできない、の一点張り。ここに来いというから来たのに、どういうこと?

別の階に行って聞いてみろというから行って見たが、同じこと。システムに情報がないというだけ。また他の場所に行って聞いてみたが、そこでも何も分からない。もうここでテロリストになりたい気分でいっぱいになっていた。

結局、子ども二人は学校に行かず、往復のタクシーに一万円ほど使って、僕は仕事を半日遅れて、妻は医者に会うことも新たな検査とやらを受けることもなく、何一つ得るものもなく家に帰った

今日はオフィスでみんなでランチをもってきて食べる日だったので、僕は一度家に帰ってから、近所の寿司屋で寿司を買ってオフィスに向った。

(↑)寿司とスウェーデンのミートボール。


(↑)オフィスの中にある部屋の白いテーブルに今日だけクリスマスふうの紙を貼り付けてある。

僕が医者に行っていたことはみんな知っているので、どうだった?とみんなきくから、あーもう悲惨とちょっと話をすると、ジェニーがやたらと親切になんとかしようとしてくれる。ランチのあと、結局彼女が二時間くらいかけてあちこちに25回くらい電話をして、ようやく全貌が見え始めた。

要約すると、今日の朝になって、妻についての情報がこの大きな病院のどこかに到着したらしい、少なくとも医者一人はそれについて認識していた、ところがその病院のほかの人はシステムに入ってないの一点張りを続ける、そのために結局医者にたどり着くことは不可能だということになる。

なんて素晴らしいアホさかげんだろう。ジェニーとこれからどうするか対策を考えていると、デンマーク人のミケーラが介入してきた。ジェニーが彼女にこれまでの経緯を説明すると、彼女が自分が明日電話しまくって、話をつけて妻を連れて病院に行って叫んでくると言い出した。どうも自分の国の医療制度だから、という気持ちもあるようだ。

さて、どうなることやら。

(↑)左端がミケーラ、右端がジェニー。感謝、感謝。

Saturday, December 01, 2007

アートな夜

高校の同級生が偶然デンマークに住んでいて、アーティストである彼女の展覧会がなんと僕が住んでいる建物の並びにあるギャラリーで始まったので息子二人と見にいってきた。

この人がどういう人かはこのウェブ(↓)を見るのが早いと思う。

ちいちゃいカメラでカシャカシャと撮っても芸術的な写真には程遠いのだけど、一応こんなものがありましたということで載せておく。

(↑)このくらいのサイズのものを室内で撮るにはしょぼいフラッシュ一つでは光が足りてないですね。

(↑)これもまた暗い。黄色いセーターが4歳の次男(哲也)、赤いジャケットが8歳の長男(凱也)。長髪の子がアーティストの息子、ニコラス、その隣が彼の友達のシモン(だったかな?)。みんな日本の血は半分ずつのよう。彼らはすぐに友達になっていた。

子どもはみんなそうなのだけど、外国にいると、日本の子どもは特に敵対的なところがないように思う。外国にいると、やみくもに攻撃的な子どもたちを見てびっくりすることもある。僕が知らないだけで、日本でもひょっとして同じなのだろうか。

ところで、ニコラスはアーティストの母を「かーちゃん」と呼んでいた。関西から直接外国に引っ越して、非関西語をあまり必要としない生活を送ってきた人の場合は、関西弁の保存状態が非常に高いが、この親子のケースもそうなのだろう。

東京事務所からナオリさんが来ていたので、ギャラリーで会うことにした。ちゃんと時間をとって話ができればよかったのだけど、時間のやりくりがどうにもこうにもいかない。明日はNYに向かうということなので、1週間ほどで世界1週するはめになるのだろう。僕もやったことがあるがこれはとてもきつい。

一泊400ドル以上もするホテルに戻るナオリさんをタクシー乗り場まで息子二人と送っていった。決して贅沢しているわけではなく、単純にすべてのホテルが高く、かつ少しでも安い目の部屋は最低3ヶ月くらい前から予約しないととれないのだ。同じ目にあったのでよーく知ってる。出張費だけでは当然足りなくて赤字で仕事をしている。おかしな話だ。

Friday, November 30, 2007

通勤路

うそみたいだけど、まだ治ってない。全身が痛くて立ち上がれないというようなことはなくなったけど、まだのどの奥が火山のように燃えているのを感じる。ずっと横になっていたいのだが、クソ忙しくてそういうわけにもいかない。ぼーっとした頭で細かいエクセルの表を見ていると、ふと宇宙の空間のどこかに漂っているような気分になる。自分はいったい何をしているのだろう?と思うのだけど、ほんとに何のためにこんなことしているのか全然分からない。フツー仕事というのはそういうことを考えないものなのだろうか。

オフィスのトイレにはもう何度もいっているのに、もやっとした頭で入るとふと妙なものに気がついた。といっても、これまでも視覚には何度も入っているはずのものだ。ウェットティッシュか何かだろうとほとんど無意識に流していたと思う。それが今ぼけた視覚に妙に鮮烈に入ってくる。

手にとってみる。白い紙にオレンジ色でUNFPA。その紙を開いてみた。おー、なんとこれはコンドームではないか。オフィスの人には無料でコンドームが手に入るようになっているのだった。その箱の中にはもう三つしか残っていない。かなりみんな使ったのだ。月にどれくらい減るのだろうか。


* * *

臭い(におい)が写真で撮れないのは残念だとよく思うが、寒さが写真に撮れないのもかなり残念だ。自分の住んでいる場所からオフィスまでの景色を写真にとってみたのだが、あとで見てみると、どうも何か抜けているように感じた。たぶん、それが温度なんだろう。このそこはかとない寒さが写真からは出てこない。もっと高級な腕前になるとそれも出せるようになるのかもしれないが。

(↑)左手にならんでいる建物はだいたい築100年を越える。デンマークは建物の外装にとてもうるさく、全体の風景を壊さないようにきつく規制されている。だから、こういう建物も外見は100年前とほぼいっしょなのだろう。僕が住んでいるアパートもこのような建物の一つなのだが、内部はさすがに100年前と同じというわけにもいかず、近代化されている。
この道の右手は崖になっていて、その底に写真では見えないが線路が走っている。この道を僕は毎朝歩いて、それから線路の上の橋を渡る。

(↑)橋を渡りきって振り向いて撮った写真。さっきの写真で左手に写っていた建物がこの写真では正面に-線路の向こうに-見えるのが分かるだろうか。

(↑)橋を渡りきって、こんどは橋よりも一段低いところにある地上の道路に向う。小さな階段が見えるだろうか。

(↑)この階段ですべってこけないようにかなり用心して降りる。

(↑)いきなり出てきた感じがするだろうが、このビル群はヨットハーバーのいわゆる桟橋に相当する場所に建っている。右手は住居用ビルで、左手が国連などが入っているオフィスビル。どちらも、この写真の外になっている裏側は海なのだ。こういうデザインの新しいビルは、市街地に建てることはおそらく許可されないのではないだろうか。

Thursday, November 29, 2007

クラリスちょうだい

まだ治らん。いや、風邪のことですけど。流感ってやつかね。クラリスがあればなあ。誰か持ってませんか?送ってもらえたらありがたいんですが・・・。

デンマークの医療事情はかわってる。一人一人の市民にホームドクターみたいな人が決まっていて、その人が大げさにいうと一生面倒を見る。専門医へもそのホームドクターみたいな人を通して紹介される。患者が勝手にあっちこっちにいい医者を求めて動くというシステムにはなってない。

アメリカ人の友人はデンマークには資本主義がまだ根付いてないというけど、市場における競争という意識は確かにいろんな面で希薄だと思う。社会福祉国家と言われるけど、アメリカ人や日本人の感覚から言うと、コミュニストかって思うほどに一般人の意識が違うと思う。自分が買い物をした経験からだけ言うと、まずカスタマーサービスという概念は存在しないうように思う。売れようが売れまいがどうでもいいんじゃないだろうか。

失業しても余裕で暮らせるという感覚があると、なかなか仕事にやる気を出すのも難しいかもしれない。まあ、仕事は生活のためだけではないという哲学を持ち出せば、そんなことはないとも言えるけど。

まず、医者にアポイントをとって、何日か待って、当日また何時間か待って、やっと医者にあったら、風邪だからほっとけば治ると言われる経験を繰り返せば、なかなか医者に行かないようになるだろう。手術のための待ち時間は平均8週間だそうだ。まあ、話せば長いが、要は薬がなかなか手に入らないのであった。

Wednesday, November 28, 2007

ゆっくりしようよ

最近、病院に行くのをやめてしまった。
薬をのみ続けても、いっこうによくならない。
会社の上司から「体調が悪いなら休みなさい」と言われた。でも、治る見込みがたたないのに休んでも仕方ない。有給休暇を使い果たして、給料が減らされて、生活が苦しくなるだけだ。

仕事がイヤでイヤで仕方ない。「給料は我慢料だ」「部署が変わればきっと仕事が面白く感じられるようになる」…そう思って今までやってきた。でも、もう限界のような気がする。「自分で限界のラインをつくってしまうからダメなんだ」と言われるかもしれない。「おまえは考えが甘すぎるんだ」って言われるかもしれない。でも・・・

ストレスのせいか、食欲不振と暴食を交互に繰り返し、肌荒れもひどい。タバコの本数も抑えられない。気が滅入って、何も手につかない。気分転換に外出してもイヤなことばかり目について家に帰るころには疲れ果てている。

頭が痛い。。。

しばらくこのブログを書くのをお休みします。

と書いてるのは僕ではなくて、いきなり引用しまくって申し訳ないんですが、
The Afghanistan Journal というサイトを運営されているMami さんのDiaryからとってきました。
他人事とは思えない残酷物語があちこちで展開されているのでしょうか。

もうゆっくり休もうよ。
投げたね、僕は。

Tuesday, November 27, 2007

どこ行ったかな

ふと気がついたら、もう6日間タバコをすっていない。たぶん明日もすわないだろうから、確実に1週間の山はあっさり越える。といっても、山も川もあったもんじゃない。ただ単にタバコがすえるような状態ではないだけで、やめようと努力してるわけでもないし、そんなことを考えたわけでもない。

あまりに健康状態が悪いとタバコはすえないのだ。だから、タバコは健康のバロメータなのだ。みなさん、知ってましたか?あータバコもすえないほど不健康な状態が続く。

The Man Who Would Be King について、yoshilog かyoshilog 2.0 のどこかに書いたと思うのだけど、見つからない。別に見つからなくても何も困るわけではないので、どうでもいいのだけど、どうも気持ち悪い。

どうして、そんなことを今頃思い出したかというと、The Man Who Would Be King のDVDを見たからでした。ずっと前に買っていたのだけど、実は一度も見ていなかった。これはキプリングの原作をショーン・コネリーが主演して映画にしたもので、この映画自体にはあまり期待していなかった。ところが、見てみると意外と引き込まれる。懐かしい風景と人たちを見ていると、またあんなところに行きたいと思い始める。

ところで、僕が読んでのたうちまわったのは、キプリングの原作ではなくて、そのモデルになった人、アフガニスタンに行って王になろうとしたアメリカ人についてのノン・フィクションだった。これについて書いた記憶があるので、何を書いたか読んでみようとしたら、見つからなかったのでした。

* * *

ガンダマクのハジメちゃんが仕事を探している。
カブール在住の皆さん、何かないですかね。流暢な英語と日本語を喋るアフガン人です。
カブール在住でない皆さん、ガンダマクというのはカブールのUNHCRの近所にある地下のバーです。

Monday, November 26, 2007

浮く

お父さんがいるのかいないのか、その決着が子どもたちの間ではついていない。これから家族そろって一緒に生活するというアイデアだけが、他のすべての現実的な困難やバカバカしい忍耐を支えてきた。ところが、いざこっちに来てみると、僕はまったく時間がない。ほぼ3週間に一回アフリカとNYの間を飛び回って、やっと家に戻ってきたら疲れきっている。

子どもたちがお父さんの拠点はここじゃなかったと思い始めたのも不思議ではなかったのだ。ちがうの、お父さんは出張のあと必ずここに帰ってくるでしょ、カブールにいた時はカブールに帰ったでしょ、だから今は違うでしょ・・・という母親の説明を、二人の息子はきょとんとして聞いている。

頭では分かったとしよう、お父さんはこの家の所属であるということも認めよう、
さてそれでも残るものがあるのだ。常に人間関係には。

8歳の長男がUhh So I have to get used to Papa being around here, そして、妻もSo do I, といい、最後に4歳の次男が、Me too !と言った。

そうなんだ。僕は完全に浮いていて、家に帰っても居場所のないオヤジなのであった。しかも、その根は地球を引き裂く程度に大きく成長している。

寝るタイミング、食事をするタイミング、テレビを見るタイミング、本を読むタイミング、掃除をするタイミング、音楽を聞くタイミング、何もせず瞑想にふけるタイミング、ありとあらゆるタイミングが僕の中では一つのシステムとしてほぼ完結していた。これを破壊して作り直す作業が必要になる。理想的には最初に夫婦のそれぞれがそういう作業をすればいいと思うが、もう何にもやらずに過ぎてしまった場合は、あえて柔軟な方が折れるしかないだろう。


4歳の息子のシャワーを浴びさせないといけない。その前に必ず、彼はおしっこをする。
そして、今日の質問は「パパ、トイレはどうやって作ったの?」

・・・・答えられない。分からない。トイレ屋さんに聞いてみればいい・・・

And Papa, what is "used to" ? What does that mean? Papa?

Sunday, November 25, 2007

車のベンチ、もしくは形而上学的なベンチ

これはどうやってできたのか、というのが4歳の息子の最近の関心事だ。
ありとあらゆるものについて、それを確認しようとする。これがなかなか大変なのだ。

例えば、食べ物はどうやって出来たのか?なんて剛球を平気で投げてくる。
とりあえず、いろんな食べ物があるのだから、これは場合分けに進まざるを得ない。
そうすると、じゃがいもはどうやってできたのか?のような質問に入ってくる。
当然、これは農業全体の話をするはめになる。ほとんどない知識を総動員しても、まったく心もとない話しかできない。

しかし、食べ物の話なんてのはむしろ親に気遣った親切な質問ではないかと思う。
自動車はどうやってできたのか?何から出来ているのか?なんて話になると、素材だけで、ガラスについて、ゴムについて、プラスチックについて、鉄について等など途方もない話になるし、何百万というパーツで構成されてる車について説明するのはまったく不可能だ。

結局たいていの回答がいい加減なことになる。しかし、これでもまだ楽な質問の部類なのだ。

ある日、4歳の息子はそのキャンディはどこで買ってきたの?って調子で、

What is the world made of ?
How is the world made?

と何気に訊いた。
僕は自分の耳を一瞬疑って、自分でそれを繰り返してきいたみた。

What is the world made of ?
(世界は何でできているか?)

How is the world made?
(世界はどうやってできたか?)

すると、彼はのんきな声で、Yeah, と言って、
僕の回答をフツーに待っている。

困った。いろんな回答が存在するなんて話は回答にならないし、そもそも僕にはこれぞという回答がないのが決定的だ。自動車のパーツのようにごまかしがきく質問ではない。

「Uhhhn, I don't know. But you can find it when you grow up.(うーん、分からない。それは自分で大きくなってから見つけてくれ)」

と答えるしかなかった。
子どもの頭の中は、大人のように仕切られていないのだろうと思う。例えば、キャンディと神とたわしが同じ領域に共存したりするのだろう。

今日、彼はカラー粘土で作ったベンチと自動車、それとトミカの救急車の三つを持ってきて、説明を始めた。「This is a bench for the car (これは自動車のベンチ)。」と言ってる。聞き間違えたかと思い、A bench for the car ? と確認すると、彼は自信をもって、

「そう、車が疲れた時に座るベンチ」という。
しばらく、僕は頭の中で「車が疲れる」という概念、「車がベンチに座る」という概念をどうにかどこかに落ちつかせようとしていた。ともかく、

あーそうか、車が座るベンチか。
うまくできたね。
きれいな色のベンチだから写真を撮ろう。

と、やっと言えたのだった。

形而上学的なベンチ(↑)


Saturday, November 24, 2007

Crash

V for Vendetta はとても好きだけど、無差別に勧めようとも思わない映画だなと思う。好きそうな人には絶対見ろといいたいかもしれないが。

それにくらべて、Crash は今、この世界に住んでいる人全員が見るべき映画だと思う。
監督はポール・ハギスで、サンドラ・ブロック, ドン・チードル, マット・ディロン, ブレンダン・フレイザー, テレンス・ハワードなどなどが出演していた。

特にこれから大きくなっていく少年少女たち、これから外の世界と否応なく接触していく人たちには必ず見て欲しいと思う。

Crash が、この数年でもっともたくさんの人が見ればいいなと思う映画だとしたら、もっともたくさんの人に読まれたらいいなと思う本は、Reluctant Fundamentalist だ。この二つは自分の好みとか趣味とかとはもう別なのだけど、今世界を表現するもっとも成功した例だと思う。

9・11以降、日本発表現に意味がなくなったように思う。

Friday, November 23, 2007

Street

ノドの腫れがひかない。耳の奥まで痛い。もう二日間まったく外に出ていない。イソジンでうがいをしてるだけではダメだろうか。抗生剤が全部なくなってしまったのがいたい。帰国したら大量に仕入れてかえらないと。

ベッドの中でPCをひざの上に置いて仕事をしている。オフィスに行かなくてもあんまり変わらない。つまり、つまらないことをしているのだなあと思う。こんなことなら、ビーチ沿いの椰子の木陰でやっていてもいいのだ。

昨日の夜、V For Vendetta をまた見た。カブールで見た時は違法海賊版だったけど、今回は10月にNYに行った時に買ったホンモノ版。

やはり全面的にかっこいい。すべての台詞が実におもしろい。言葉の音の隅々まで配慮されている。いいかげんなところが一つもない。

最後にStreet Fighting Man 。ここでよくぞ使ってくれたと思う人も多いだろうな、これは。

ふつうの日常の生活の中でも、ここにはこの曲しかないと思うことが時々ある。自分の中の心象風景と現実が強固に合体してしまってるのだろう。

今はもうどうなったか分からないが、カブールにヘクマティヤールが木っ端微塵に壊した地域があった。そこにあった大きなストリートの両側にならぶ建物はことごとく奇怪な形の妖怪のようになって残っていた。9・11以前の、お祭り騒ぎのような事態が始まる前、そのストリートをランドクルーザーに乗って通るといつも頭の中でストーンズのSympathy For the Devil が流れ始めた。その頃は実際には音楽をかけることはできなかったのだが。

さて、お祭り騒ぎが始まってからのことだけど、2002年になってから数回そこを通ったことがある。頭の中に残っていたそのストリートはモノトーンの世界だったが、実際には趣味の悪い色をなぐりつけたように、その通りは少しずつ変わっていった。それがいいかどうかは別にして、何かが隠蔽されていくような気がした。

僕にとってのそのストリートがなくなってしまう前に、まだあまり人がいない夜明けにそのストリートをゆっくりと車で走って、Sympathy For the Devil を流しながら、ビデオに収めておきたいと思うようになった。そんな話を映像プロのゴトー・ケンジにしたことがあったが、彼は覚えているだろうか。

そんな映像はどこにも存在しないし、あのストリートももはや存在しないだろう。

Tuesday, November 20, 2007

湯気

また風邪ひいた。コペンハーゲンに来てから、もう三回目。寒いからというよりも、抵抗力の低下のせいのような気がする。全然知らない国に住み始めてばかりだから疲れて当然と考えていたが、最近ひょっとしてここは疲れる国なのだろうかって思うこともある。ずっとこんな調子だと早い目に退散した方がよさそうだ。

気候は陰気だし、街行く人々の表情は険しいし、仕事はどこもかしこも糞詰まりのようだし、これでいいのかと思っていたら、最近はオフィスの人たちもだんだん打ち解けてきて、以前は聞かなかったような仕事のグチをちょこちょこと聞くようになってきた。

みんなそれぞれに異なる仕事をしてるのだけど、それぞれの分野でストレスがたまっている。一人がポロッと一言いうと、一気に洪水のように他の人から文句が出てくる。僕がどうにかできる問題は一つもない。みんな仕事をさぼってるわけではないが、常に外を向いて、つまり他の仕事を探しながら今を耐え忍んでいるように見える。これは組織としてはかなり悪い感じではないだろうか。Google のオフィスではこんなことはないだろう。やはりカッコウだけまねしてもダメなのだ。中味がないと。

みんなが楽しいと思ってやってくる職場じゃないと、個々の知恵もわいてこないし、能力も最大限発揮されないし、仕事の効率も低下するだろう。職員を不幸にすると、結局損するのは組織なのだ。最初は楽しそうに出勤してくる新人の顔が最初の1週間は期待と戸惑いに満ち、2週間経つと曇り始め、1ヶ月経つと静かに諦めの境地に達する。自分がリーダーのオフィスだったら、絶対にこんなふうにはしたくないと思うが、流れ作業で進む工場のある一過程をこなす工員のような分際では、そんなこと考えるだけで不遜なのだろう。

フィールドでの切った張ったの仕事、怒鳴りあいをしながらも和気あいあいと付き合い続けなければいけない生活、最後にはみんなの仕事がなんとか目標の一点に収斂していかないといけない仕事環境。そういうのが懐かしい。

今かろうじて力が沸いてくる仕事は、フィールドにいるチームをいかにサポートするかってことくらいだ。いいチーム、弱ってるチーム、いろいろあるけど、彼らが幸せに仕事できるように持って行けば、アウトプットはかなり期待できると思ってる。それが楽しみだ。僕は現地で参加できないが、自分のチームという所属感も少しある。

そういうpositive なvive が僕にあれば、この工場もどきオフィスにも何か貢献できるかもしれないけど、一日中むかついて頭から湯気が出ているので、それも無理だな。

Sunday, November 18, 2007

A Mighty Heart

16NOV 2310 0530+1 KL 566 NAIROBI - AMSTERDAM

ナイロビ空港で本を二冊買った。

"emma's war - Love, Betrayal and Death in the Sudan", Deborah Scroggins.
"The Zanzibar Chest", Aidan Hartley.

どちらも援助関係者の間では有名な本のようだ。僕は全然知らなかったが、The Zanzibar Chest の方はレーコに勧められて読んでみようと思っていた。

飛行機に乗って、The Zanzibar Chest の方を読み始めたが、実に熱く、おもしろい。しかし、眠くて頭に入らないところも出てくる。もったいないので、もっと普通の時に読もうと思って、本を閉じた。でも、ちょっとだけ一節を(↓)。

"At any one time we had six wars, a couple of famines, a coup d'etat, and a natural disaster like a flood or epidemic or a volcanic eruption, all within a radius of three hours' flight from Nairobi.

You could take off at sunrise, commute to witness a battle or hear a starving man breath his last and be back home by nightfall, in time to file a story, take a shower, then hit the Tamarind restaurant downtown for mangrove crab and stellenbosch.

Or you were dropped off, watching the plane roar away in a cloud of red dust, and you were gone for weeks, out of contact and a thousand miles from help. And each time you returned home after a trip like that for a few days you were as mad as Gulliver talking to his horse."(pp.6-7, The Zanzibar Chest)

よく分かる、この感じ。そして、そのナイロビからさらに遠くのコペンハーゲンから僕は通うわけだから、僕の存在そのものが世界の皮肉なのかもしれない。

* * *

それから映画のメニューを見ると、見てみたいと思っていて見ていなかったA Mighty Heart (邦題は「マイティ・ハート/愛と絆」らしい)があったので、それを見ることにした。ダニエル・パールというウォールストリート・ジャーナルの記者がカラチで誘拐され、やがて首を切り落とされ、そのビデオが送られてくるという実話を映画にしたものだ。ダニエル・パールの妻役をアンジェリーナ・ジョリーがやっている。

この事件があった2002年はまだカブールにいたので、事件のことはよく覚えている。映画はパキスタンの内情をかなり正当に描いているように思えた。事件の背景などに関心がなければおもしろくないかもしれないが、退屈はしないのではないだろうか。淡々と事件を追うだけだが、そこにからまっている実情が僕にはなじみ深くおもしろかった。映画が終わってみると、見る前よりもダニエル・パールに興味がわいてきた。

映画の舞台になっているカラチの風景は懐かしい。シェラトン・ホテルのロビーが何度も出てくる。僕が生まれて初めて泊まった第三世界のホテルがカラチのシェラトンホテルだった。あれからもう15年も経ったとは。


17NOV 0745 0910 KL1125 AMSTERDAM - COPENHAGEN

ナイロビの離陸が1時間遅れたので、アムステルダム空港ではまた寿司カウンターに行くことができなかった。行ったとしても朝が早いので閉まっていたかもしれない。コペンハーゲンに着くと、寝不足で意識が朦朧としていた。

Tuesday, November 13, 2007

とっちらかってる

今回出席する会議は14・15・16の三日間なので、13日は自分の担当しているプロジェクトの人たちと一日過ごすことにしていた。飛行機の中でやっていた分析の結果を話して、解決策をいくつか検討していくつもりだったのだけど、やっぱりフィールド・オフィスは忙し、くひっきりなしにスタッフに電話がかかってくるし、訪問者は後を絶たないし、ミーティングが中断されっぱなしで、なかなか進まない。

しかも、ミーティングと並行してコペンハーゲンとナイロビを電話で繋いで、ある職に応募しているアメリカ・カナダ・スーダン・南アフリカ・オーストラリアに散らばる応募者と電話面接をするという無謀な予定になっていたので、ますます混乱する。1時間ほど電話面接をして、その結果を話し合って、そして次の面接までの間にまったく別の仕事のミーティングを続けているので、とっちらかって当然だ。

夕方には疲れきっていたが、5人の面接も終え、今動いている仕事を止めないための対策、これからの仕事のための対策について合意できたので、少し先が見えてきたように思える。そして過去の負の遺産の対策、つまり監査を入れてすべてをクリーンにするという話にもフィールド側がとても乗り気になったので、ほっとした。

ホテルに戻るとカブールから来たアミールに会った。バーに行って少し昔し話をしたが、やっぱり疲れてるので早い目に部屋に戻った。明日のプレゼンの用意を何もしていないと言うと、アミールは驚いていた。他の仕事に時間を取られて、この会議の準備は何にもしていなかったのだ。自分のメインの仕事じゃないので、紙を見て少し話すだけで終わるだろう。

眠いはずだが、また朝3時くらいまで結局眠れなかった。

挙動不審

12NOV07 0625 0755 KL1124 COPENHAGEN - AMSTERDAM

11月12日月曜日の朝3時半に目覚ましを合わせて、4時半にタクシーを予約した。といっても、結局寝なかったので、あまり意味はなかった。外は真っ暗。恐ろしく寒く感じる。眠いし、身体も重い。まったく行く気にならない。これが今年最後の出張になるはずだと言いきかせて外に出た。

コペンハーゲン空港は昔の国鉄の田舎の駅のようなイメージ。こじんまりしている。もっともインテリアーデザインはとてもスタイリッシュだけど。ウッドフロアの空港はここ以外で見たことがない。

アムステルダム空港で寿司を食べようと思ったが、あいにく準備中だった。日本とアンマンの間をよく往復していた2003年、この空港の寿司カウンターにはよく来た。特別おいしいわけでもなんでもないが、ファストフードばかり食べているよりはましかもしれない。

睡眠薬をもってくるのを忘れたので、空港内で薬局を探したら、化粧品売り場の中にほんの少しだけ薬らしきものがあった。ヒースローやガトウィックには本格的な薬局があるのに、アムステルダムにないというのはちょっと不思議だ。

店員にきいて二種類の睡眠薬を買ったが、あとで分かったことだけど全然効かない。なんなんだろう、この薬は。こんどオフィスでオランダ人のスタッフに訊いてみよう。


12NOV07 1020 2010 KL 565 AMSTERDAM - NAIROBI

通路をはさんで隣に座っている人がそわそわとして落ちつかない人だった。特になんか変なことをするわけではないが、挙動不審という印象を与える人だ。

明日のミーティングに必要なデータが整理できてないので、飛行機の中ではずっとある国のプロジェクトの財務諸表を見てメモをつくっていた。見れば見るほどエラーを発見してしまう。怒りがこみ上げてきて、そして落胆して、また怒り、そしてまた失望ということを数字が並ぶだけの無味乾燥な紙を見ながら繰り返していた。どこから手をつければいいのか、もう手のつけようがないのか。監査を頼むべきだと考え始めた。

ナイロビに近づいて何かアナウンスをしているがよく聞こえない。ヴィザがどうのこうのと行っているから、入国の案内をしているのだろう。

挙動不審オトコが急に動き出した。パーサーをつかまえて今のアナウンスが聞こえなかった、何を言ってたのだと追求している。どうやらヴィザを持ってなくて、ナイロビで到着してからヴィザを取る予定で、それが落ちつかない原因のようだった。

それは僕も同じだった。国連旅券(UNLP)の場合はナイロビではヴィザは必要ないけど、日本のパスポートだとヴィザがいる。僕のUNLPは今書き換えのためにニューヨークにいったままなので、今回は日本のパスポートしか持っていない。そしてヴィザもない。申請する時間がなかったというのが言い訳だ。

ナイロビに到着したらなんとかしないといけないので、それはちょっと心の重荷のようになっていたが、最悪のケースを考えても、入国できず送還されるだけのことなので、もうどうでもよかった。仕事的には大打撃だけど、それがいったいどうしたっていうのだろう。人が死ぬわけでもあるまいし、心配するだけバカバカしいと思って、飛行機に乗った以上考えないことにしていたのだった。コペンハーゲンを出国する時にケニアのヴィザは?と訊かれたが、「必要ない」と答えて出てきた。

挙動不審オトコはパーサーに黄色い紙をもらって記入を始めた。それは何?って訊くとヴィザ申請用紙と言うので、僕もパーサーに一枚もらって記入することにした。

ケニア空港に着いてヴィザ申請用紙を入国審査官に渡すと、彼はその紙をほとんと見もせず、うしろの方にほり投げて一言「50ドル」と言うだけだった。50 ドル払うとスタンプをバーンと音がするほど強く押して、終わりだった。ウェブサイトには申請してから数週間かかると書いてあったが、申請する意味があるのだろうかと思ってしまう。

空港の外に出るとマリーにばったり会った。彼女はNYから一日早くきて会議の準備をしていたのだ。まさか僕を向えに空港に来るわけはない。何してんの?って聞くとロズウィータを向えに来たとのことだった。ロズウィータはNYから来る大ボスなのだ。僕はマリーを残してHoliday Inn に向った。40人ほどがそこで三日間缶詰になるのだ。

チェックインして部屋で書類の整理をしているとマリーから電話がかかってきた。今からロズウィータやコンゴから来たタニヤとプールサイドのバーに行くので来ないかという誘いだった。僕はもう眠さの極地だったし、まだ明日の準備も終わってないし、行かないといって断った。後で大ボスの誘いを断ったってことに気がついてまずいなと思ったが、もう遅い。これで誰かが死ぬわけじゃないし・・・

アムステルダムで買った睡眠薬は効かず、結局朝5時くらいまでもだえ続けて2時間ほど眠って、プールサイドのレストランに朝ごはんを食べに行くと、ロズウィータがいた。彼女は陽気にアハハハと笑って、やっと会えたわねと言った。昨夜行かなかったことはやはりまずかったようだ。

Sunday, November 11, 2007

パスワード

コペンハーゲンに引越してから、よく「おしん」を思い出す。街全体がおしんの色をしてる。人の表情もおしんっぽい。といっても、実は僕はおしんを一度も見たことがない。いつ頃やってたのだろうか、とちょっと考えてみたが、さっぱり分からない。知っているのはNHKの朝の連続ドラマだったということだけだ。貧乏で不幸な境遇の女の子が成長していく物語という程度の認識しかない。それだけで、おしんを語るのは不遜なことかもしれない。

でも、コペンハーゲンを表すのにおしんのイメージは僕の頭の中ではぴったりなのだ。一年のほとんどの間ひどい気候の中で文句も言わずじっと耐えている人たち。街の中で見かける顔はみんな懸命に何かに耐えているように見える。僕はそんな表情を見て、おしん、おしんと思いながら歩いている。

ここはいつも風が吹いている街だ。そのせいで気温以上にものすごく寒く感じさせる。特にオフィスのあるヨットハーバーは風がすごい。誇張でなく、ほんとに風でふわっと身体が浮きそうになる。そう言えば、この2ヶ月ほどで11キロ痩せた。もちろんダイエットなんてするわけもなく、ジムに通うわけでもないが、勝手に痩せた。全身に余計な油がついていたので、それが溶けてなくなったような感じがする。痩せたというより、風船が縮んだようなものだ。

考えられる原因は毎日通勤で片道20分歩くということと、間食をまったくしないということだ。胃に入る固形物は昼のサンドウィッチと夕食だけで、カブールにいる時のように、仕事をしながらジャンクフードを食べることがない。次回、日本に帰った時に、痩せないと死ぬぞと脅していたいつもの医者に会うのが楽しみだ。

今日、オフィスに入って20歩くらい歩くと案の定警報が鳴り始めた。オフィスビルに入る時はいつも個々のスタッフに配給されている小さいコインのようなマグネットをドアについているキーボードのようなものにあてて、その上で個々のスタッフ専用のパスワードを入力して入る。それから自分のオフィスの部屋に入る時はまた別のカードキーをスライドさせて、またパスワードを入力する。そこまではいつも同じなのだけど、勤務時間外にオフィスに入る時はさらに部屋に入ってから、アラームを解除しなければいけない。それにもまた別のパスワードの入力が必要になる。

今日は日曜だけど部屋に入ってもアラームがならないので、なんだ壊れてるんだと思って歩き始めたら、やっぱり鳴り始めた。あわててアラームコントロール機まで走っていって、パスワードを入力したが、間違えたみたいだ。まだ鳴り続けてる。これが続くと、警備会社がやってきて、えらい騒ぎになってしまう。もう一度落ち着いて入力し直すと、鳴り止んだ。面倒くさい話だ。人を全然信用しないと社会は実に効率が悪くなる。子どもの学校も同じように入り口でパスワードを入力しないとドアが開かない。それも週日と週末(日本語学校)で同じ校舎だけど、パスワードが異なる。

毎日必要なイントラネット、eメール、プロジェクト予算システム、支出報告システム、人事管理システム、銀行ATM、携帯電話用SIM、携帯電話器そのもの、インターネットバンク4種類等などが日常的にパスワードが必要なものだけど、頭の中がパスワードだらけで、もう覚えられない。ワイヤレスネットワークや、インターネットで使ういろんなサービスのパスワードなんかを数え始めるともうきりがない。全部同じパスワードにしようとしているのだけど、変更できないものや、異なったルールを要求するのがあって、ちょっと変えるだけで、もうこんがらがってしまう。

サインや印鑑がパスワードになっただけの話だろうが、生体認証システムがもっと進んで、個々のアイデンティティを証明するものが自分の身体以外何も必要なくなるようになった方がもう楽だと思う。そんなことを言うと、完全管理社会を警戒する人たちにボコボコにされるだろうし、そういう警戒感はよく分かるけど、今さらそんなこと言っても、もう遅いではないかと思う。パスワードに人格を乗っ取られているような気分ではそんな議論をする気にもならない。

オフィスを出ると、雪が降っていた。強い風に流されて、雪が正面から顔に当たる。なんて冷たいんだろう。おしん、おしんとつぶやきながら、暗く冷たい道を家まで歩いて帰った。明日の夜明けナイロビに向う。

Friday, November 09, 2007

葡萄

朝、子どもを学校まで送っていって、それからオフィスに行って、そして2時半にもう一度学校まで子どもを迎えに行って家まで送り届けると、もうオフィスに戻る気力がなくなってしまった。よくよく考えれば、オフィスに行っても結局コンピュータに向かって仕事してるだけなのだから、家でやっていても何も変わらない。それなら、そもそもなんでこんなところにいるんだという根本的な疑問も出てくる。世界中のどこにいても同じことではないかと。そんな話は日常的に繰り返し出てくるが納得のいく回答はITの発展と共にますます減っていく。

毎週金曜日はFriday Breakfast という催しものがある。各フロアの半分ずつくらいがグループになってオフィスでいっしょに朝ごはんを食べるのだ。当番になった人がパン、ハム、チーズ、フルーツ、ジュースなんかを買ってもってくる。

明日は、僕とJ の当番の日なので、今日は昼休みにスーパーマーケットまでいっしょに買い物に行った。このクソ忙しい時にっ、という思いもあったが、頭の熱を下げるためにもよいことだと思い直して寒風吹きすさぶ波止場に出て行った。

意外なことに、才気煥発かつ天真爛漫だと思っていたJ にも相当ストレスがたまっているらしかった。延々と明るく喋り続けることに変わりはなかったが、仕事の重圧は相当きついらしく、僕と同じようにオフィスの外の空気をただ吸うということに救いを求めて買い物に出てきたのだった。

スーパーマーケットに入ると、J はいきなり大きな葡萄のパックやメロンをまったく品定めもせず、値段も見ず、パッパとかごに入れていく。朝ごはんにこんなものいるだろうかとふと思ったが、これもストレス故のことかもしれないと思ってだまっておくことにした。明日の朝の焼きたてのパンを予約して、全部で合計すると、300クローネくらいだった。日本円だと6500円くらいだろうか。ちょっと買い過ぎではないだろうかと口に出してみたが、「いつも何人くるか分からないっ」というJ のきっぱりした言葉でこの会話は終った。

オフィスに戻って、また直ぐにソマリアのプログラムと電話会議。なかなか繋がらず、繋がったと思ったらすぐ切れる。それだけで、相当にイライラするが、話の中身はもっと深いフラストレーションを発生させる。1時間15分でエネルギーを消耗し尽してしまった。

来週はまた一週間ナイロビに出張だ。あと一日しかないのに、膨大な仕事がたまってる。お先真っ暗。机ごとひっくりかえして、投げ出したい。一生に一回でいいから、いつかそういう機会を設けてみたい。

Thursday, November 08, 2007

南海の孤島

家族全体に疲労が蓄積してる。遠い国へ引っ越してきて、まったく何も分からず、ホテル住まいを始めて、住む場所を探して、契約して、引越しして、家具やら生活道具を手に入れて、新しい学校に入学して、学校に必要なものを買い揃えて、銀行口座を開いて、テレビをつないで、インターネットを契約して、電気・ガスなどをつないで、切符の買い方の分からない電車やバスにのって、言葉が分からず品物の内容が分からないお店で買い物して、まったく知らない人たちと次々に知り合いになり、ぎこちない付き合いを始めて、迫り来る寒さに準備をして、毎日とりあえず何かを食べて、おしっこもうんこもして、寝て、シャワーを浴びて、なんとか生存していくというのは、ストレスのたまるものだ。それに加えて、まったく訳の分からない仕事で頭がおかしくなりそうになりながら、出張ばかりで、僕はもうそれだけで疲れきっていたが、今や家族全体の疲労のピークに来ている。

人事の会議をやっていたら、家から電話がかかってきた。明らかに声がおかしい。インフルエンザにかかったようだ。晩御飯を作る気力がないので、早く帰ってきて何か作って欲しいとのことだった。もう5時前だし、4時を過ぎると帰宅してしまう人も多いので、すぐに帰ろうかと思ったが、フィールドで待っている案件が山積みで動けない。ある国のプログラムで10月分のローカルスタッフの給料が払えず困っているケースが途方もなくもつれていて、なんとかそれだけを処理したかった。即効でキーボードを叩きまくって、一度も読み返さず本部と地域事務所のFinance に送って、やっとオフィスから出てきたら、5時半だった。記録的に早い帰宅だ。

急いで駅前のスーパーマーケットで買い物をしてぜいぜいいいながら家に帰ったら、上の階に住むクリスが家に来ていた。うちにあるヒーターの調子がおかしいので、それを直してくれていたのだ。イギリス人の彼は何かと助けに来てくれる。ここに入居して初めて知り合った日、夜の食事(その頃は外食ばかりだった)から戻ると、ドアのノブにビニール袋がかかっていて、ワインが二本。Welcome to my neighbor !と書いたカードとともに入っていた。それがクリスだった。それ以来、うちの息子二人におもちゃを買ってきてくれたり、DVDをダウンロードしてもってきてくれたりする。彼はイギリス人だが、ノルウェー人の彼女もたまにノルウェーからやってくる。彼女はこっちにくると、毎日うちに遊びに来て妻とお茶を飲みながら話をしているそうだ。

クリスにやーっと言って、ドアを閉めようとすると、隣のドアからマイケルが出てきた。彼は有名な弁護士さんらしく、そこを事務所にしている。僕の部屋も彼の所有らしく、マイケルはつまり僕にとっては大家でもある。彼とは細かいことでいろいろ行き違いもあって、一時険悪な仲になったが、いつまでもそんなことしてられない。今は普通につきあってる。しかし、まだ続いている契約の話を少ししていたら、下からMさんと二人の娘さんが上がってきた。Mさんはデンマーク人の男性と結婚した日本人で、クリスと同じように、うちの上の階に住んでいる。このビルの知り合いはこれで全部なのでその全員と一度に会ったことになる。珍しい瞬間だった。

Mさんの娘さんは土曜日の日本語補習学校に行っていて、うちの上の子も学年を一つ下げてそこに行くようになったので、Mさんが時々宿題を一緒にみてくれてほんとに助かってる。うちの上の子はインターナショナルスクールでは三年生だが、日本式の4月から始まるサイクルだとまだ二年生ということになる。そして、彼には二年生の日本語は難しいので、日本語補習校では一年生に入れてもらった。だから、英語で三年生と日本語で一年生を同時にやるという妙なことになってるが、僕はできるだけ彼の負担の少ないようになればいいと思っている。

家族はみんな一日10時間は寝ないとつらいようだ。僕は平均すると一日5時間くらいなので、生活のパターンがかなり違う。この5時間の時差の間に僕は自分のしたいことをおさめるべきだと思っているが、それがオーバーフローすることもある。簡単に言えば、家族が起きている間は僕は一切自分のことに手をつけず、家族が必要なことに専念するべきだと思うのだが、なかなかそれができない。家族といっしょに生活することに慣れていないので、まだパターンが出来上がっていないのだ。出張で僕の生活が細切れにされるのも不利に働いている。

今の仕事上のストレスのたまり方もちょっと異様なものがある。不健全というか、本部の性格上しかたないのかもしれないが、他の人たちのストレスのたまり方を見ていても、フィールドのストレスとかなり種類が違うのが分かる。にっちもさっちもいかないという言葉がぴったしなのだが、それがもしにっちもさっちも行ったら、どうなんだってことが誰にも具体的な像としてあるわけでない。それがフィールドとの大きな違いだ。こうあるべきものとか、達成すべきものみたいなものがフィールドでは比較的同僚たちの間で共有されやすい。それに向かって、にっちもさっちもいかない状況があれば、クリアしていくことには自然と motivation も上がってくる。

本部にmotivation のある雰囲気は全然ない。もちろん、数人のトップレベルの人はいつもそれを鼓舞するような話をするが、聞いているスタッフはまるで選挙演説を聞いているような顔でボーっとそれを見ている。どうもおかしい。

人生はもう終りかけてる。あと一種類くらい全然別の仕事もやってから、終りたいと最近つくづく思う。南海の孤島のリゾートホテルのマネージャーとか、そういう仕事どこかにないもんだろうか。

Tuesday, November 06, 2007

ちょちょ切れる

数日前、外科医の友人が自分で書いた小説を送ってきてくれた。さっそく読んでみたが、おもしろいストーリーだった。"Reluctant Fundamentalist" (Mohsin Hamid) を読んで以来、もう日本では小説は書けないだろうと思っていたが、こういうパターンがあるかとちょっと感心した。なんのことか全然分からないだろうな。興味のある人は"Reluctant Fundamentalist" (Mohsin Hamid) をグーグルしてみてください。それでもっと興味がでれば読んでみてください。

なんて書けば、面倒くさい話に見えるかもしれないが、日本のテレビドラマに使えそうな気もするようなストーリーだった。もっとも日本のテレビドラマをほとんど知らない僕がそんなこと言っても、全然あてにならないと思う。僕にとっては日本の雰囲気を思い出す懐かしい気分にさせてくれる話だったという方が正確かもしれない。

小説の中に僕をモデルにしたという登場人物も出てくるのだが、ずっと若い頃の僕がモデルになっているのが分かる。今の僕とは相当イメージが違う、と僕は思った。作者の彼と頻繁にあっていたのはかなり前のことなので、そういうズレはしょうがない。

読んだ後に知ったのだが、小説の中に登場する女子大生のモデルは彼の娘さんだった。この小説を彼は娘さんの誕生日にプレゼントするそうだ。こうやって書いてみると、カッコよすぎて涙ちょちょ切れる話だな。

映画かテレビのシナリオのように構成されていたが、Rewrite してみたい気にさせるストーリーだった。そんな時間はいつかできるのだろうか、とナイロビとコペンハーゲンを繋いでソマリアのこんがらがったケースの解決策を探るために始めたが、肝心の担当者がキンシャサに行ってしまったことが発覚してまったくにっちもさっちもいかない話で途方にくれる電話会議と、音が割れてほとんど聞き取れないが和気あいあいと談笑する声だけがNYから聞こえてくる電話会議と、議長が何度修正しても横道にそれてしまうNYとコペンハーゲンのビデオ会議の合間に吐き気をもよおしながら、ふと思った。

こんなことしているくらいなら、小説を書く方が世のためになるのではないだろうか、と思いながら、i-Pod でBlue Grey を聞いて、雹の叩きつける暗く寒い波止場を歩いてサンドウィッチ屋に着くと、W とF がいた。顔をあわせて、なぜか三人で爆笑した。

未来への言葉:Do whatever you want あるいは、勝手にしたら

カブールではずっと絶え間なく微熱が続くような忙しさだったけど、ここにいるとラジエターの壊れた車になったような気分だ。今から思えばの話だけど、フィールドは詩的だと思う。よく考えれば、ずっと一点を見つめる生活ではないか。

ここはとても無機質だ。常に頭の中が四方八方に散乱して、すぐに過熱状態になって何度も部屋を出て頭を冷やしにいく。といっても、同僚と論争するわけでもなんでない。自分のPCと二人きりの会話なのだ。フィールドで時々経験するような怒りがわくわけでもない。ただ単純にタコメーターがレッドゾーンに入ったまま運転し続けてるようなものだ。あまりこの状態を続けていると吐き気に襲われるので面倒くさいが適当に間をあけなければいけない。それがまた時間の浪費だという思いが離れず、また熱くなる。

このオフィスは若い人が多い。まだ開店して一年ほどなので、近所のヨーロッパの若い人がいっぱい応募して入ってきたのだ。周りにいるのは僕より15~20 歳くらい若いスタッフばかりだ。オランダ人のWはまだ大学院生のインターンだが、とてもしっかりしていて礼儀正しく頭のよさが端々ににじみ出ている。

スウェーデン人 F はとても温厚でまじめな男だ。F は、フラストレーションの爆発を抑えて黙々と仕事をしている。時々、彼は正論をボスにぶつけている。彼は自分でお弁当を作って持ってくる。オフィスビル内のカフェテリアがあまり好きになれない僕は一人でヨットハーバーの(というかオフィスビル全体がヨットハーバー内にあるのだけど)、サンドウィッチ屋に行くことが多いのだけど、彼は自分のお弁当を持ってついてくる。外で海を見ながら食べるのがいいらしい。

J もスウェーデン人だが、才気煥発という言葉がぴったしの、未来とか夢とか希望とかそんな言葉をはにかまずに普通に言えるような、かつスカンジナビアのイメージを絵に描いたような金髪の可愛い女の子だ。たまに僕がが国連の深い闇を口からもらしても、彼女はきっぱりと「私はまだ希望を捨てない」なんて言葉を発するのでたじろいでしまう。

J はよくコーヒーを飲みに行こうと誘いにくるのだが、最初は忙しいのでと断っていた。断ると机まで持ってきてくれると言う。それもなんか悪いので断ると、だんだん感じが悪くなってしまう。最近はJ が誘いに来る時間がいつもかなり正確に朝10時だということにも気がつき、10時を頭の冷却時間にすることにして、自分も快くいっしょにコーヒーを飲みに行くことにした。

コーヒーを飲みに行くといっても、やはりオフィスビルの一番上にあるカフェテリアなのだ。すぐ近くには店らしいものがサンドウィッチ屋以外にないのでしかたない。どういう仕組みか分からないが、挽きたての豆で作るコーヒー(カフェラテ・カプチーノ・エスプレッソもある)はいつでも無料だ。

オフィスフロアにはイノベーション・カフェとかいう変な名前のガラス張りの部屋があって、そこでもコーヒーが無料だ。そこで呆然とテレビを見ている人や、子どもを連れてきて遊ばしている人もいる。家具類はすべていわゆるデザイナーブランドで、かつ遊びの空間をふんだんに取り入れたフロアープランになっている。ホッケーゲームに熱中している人や、チェスをしている人もいる。グーグルのオフィスもかなりすごいらしいが、これが最近のオフィスのトレンドなのかもしれない。その哲学について書かれたものを着任した時にもらって読んだけど、それなりに一貫したものはあった。ただ最大の欠点は音だろう。空間デザイナーが音デザイナーを雇わなかったばかりに、声があちこちに反響して、仕事に集中するのはかなり難しく、僕はi-Pod を聞きながら頭から湯気を噴いている。

しかし、この組織は国連の中では珍しく自分で利潤を出して運営することになっているので(ドナー国から直接拠出金をもらうことができない)、それなりに言い訳ができるのかもしれない。今はどうか知らないが、たぶん20年くらい前、世銀の職員がどこへ行くのもファーストクラスで行くことを非難された時、世銀は自分たちで利潤をあげている(金を貸して利子を取ること)のだがら、文句を言われる筋合いはないというような返答をした、という記事を読んだことを覚えている。それが妥当な返答なのかどうか、知ったこっちゃないが、少し似ているかもしれない。といっても、僕のような下っ端に適用される国連のルールは、9 時間未満のフライトはエコノミー、9時間以上のフライトはビジネスと決まってる。ファーストクラスとかそういうのは知らないけど、例えば、国連事務総長などは当然ファーストクラスなんだろう。

W も F も J も未来についてよく話す。30歳前後なのだから当然かもしれない。誰も今やっていることを永久の職などとは考えていない。これをいかに利用するか、これをいかに不利に作用しないようにするか、緻密な計算をしようとする。どうせ、そんなことしても無駄だよ、なんて言える雰囲気ではない。彼らは僕を引退した老人か何かのイメージでとらえているのだろう。フィールドの生活から、応募書類の書き方までいろんなことを訊かれる。彼らのような上質な部類には本来何の助けもいらないはずだが、下等支配制がまだまだはびこるこの業界では、苦労もするだろう。しかし、残念ながらそういうことに関しては僕には何の力もない。

こういう未来の潜在力に対して僕にできることはなんなのだろうかと考え込んでしまう。僕が今から国連トンデモ話をたくさんしておけば、彼らが将来発狂しそうなくらいバカ気た事態に出くわした時のショックを若干和らげることはできるかもしれない。しかし、どうもそれは建設的でない。

彼らが未来の夢と希望を持続させ、それを実現してしまえばいいだけの話だ。そして、彼らの前にはまったく想像力を超えた困難でかつアホらしい壁の連続があることは彼らも感じているようだ。したいようにすればいいさ、それで困難に当たれば、解決する、そしてまたしたいようにすればいい。Do whatever you want. それくらいのことしか言うことはない。グレードがどうのこうの、採用プロセスがどうのこうの、ごまかし、ウソ、陰口、足のひっぱりやい、出世のためには手段を選ばない人々、全部そのとおりだけど、それをいっさい無視しても、まだ道はあるだろう。やりたいことをやればいい。勝手にすれば。

結局、それ以外に僕には言葉がない。

------------------------------------------------------
ところで業務連絡:yoshilog とyoshilog 2.0 の間の行き来を簡単にできるようにしました。下のリンクを使ってください。

Sunday, November 04, 2007

ゴミ

NYに行っている間に日本から船便で送った荷物が届いていた。大きなものはほとんど置き去りにしてきたので、コペンハーゲンに来るのは本と服ぐらいだと思っていたが、相当のゴミを送ったらしい。運送会社には本の箱以外は全部開けて空箱を持ってかえるように頼んでおいた。それでも全部で130個くらいあった段ボール箱が、40個くらいは手付かずで残っている。

昨日やっと自分の箱に手をつけ始めたが、箱をあけて本を出すという単調な作業だけで腰が折れそうになる。しかも、借りたアパートには元々本棚がなく、大家に二つ付けてもらったが、それでは圧倒的に足りない。結局、本を床の上に積み上げるはめになる。しかも、悲しいことに捨ててもよい本が半分くらいはあるだろう。日本ではそんな整理をする時間もなかったので、なにもかもコペンハーゲンにやってきてしまった。

日本のアパートは居住空間だけを計算すれば、130平方メートルくらいで、ここは170平方メートルくらいなので、問題はないはずなのだけど、どうも収まりが悪い。日本の住居は狭い場所をうまく使うようにできているのだと思う。日本では各部屋に備え付けのクロゼットがあったので、タンスのような家具を買う必要もなかった。

しかし、このアパートの部屋はどれもただの空間。大人用と子ども用のベッドルームにはそれぞれクロゼットをつけてもらったのだが、それでも足りない。こっちの方が広いはずなのにどうも変だなあと思って考えてみたら、廊下というものが相当に空間を食っていることに気づいた。日本ではあまり見ないような廊下がずどんとアパートの真ん中に一直線で通っているのだ。いつか写真を撮ってみようと思うが、広角レンズでも使わないと収まらないかもしれない。

自分の机だけは気に入っていたので、日本から送ったのだが、昨日これを組み立てている時に嫌なものを見てしまった。Made in Denmark と書いてあるではないか。僕は日本でデンマーク製の机を買って、それをデンマークに送って使っているということだ。かなりアホくさい。

普通は子どもの部屋だけはなんとか先に整えようとするだろう。そして生活に即影響を与えるベッドルームやキッチンというように優先順位がつけられる。そうやっていくと、必然的に僕の部屋が最後に残る。

というわけで、今僕はゴミの中でこれを書いている。

Wednesday, October 31, 2007

慰安旅行

かなり小さい頃、小学校の低学年の頃だったと思うが、父の会社の慰安旅行というものに1回か2回くらいついていったことがある。日本が先進国になる前の時代、会社が村落共同体であった頃の話だ。今はもうそんなものはなくなっただろう。

観光バスに乗って缶ビールを飲む大人の男の人たち、日本海側のどこかの民宿の畳、ほんの少ししか記憶に残っていないが、僕と同じように父親の慰安旅行についてきた、ちょっと年上の数人の少年達がヤドカリをたくさんとってくれたのは非常に鮮明に覚えている。ヤドカリというものを見たのはその時が初めてだった。

国連はよくRetreat というものをやる。文字通り解釈すれば、日々の喧騒からちょっと後ろへ下がってみて、頭を冷やして考え直す会みたいなことだと思うが、同業者が集まってしまえば、そういうのは現実的でないように思う。頭を冷やすどころか、カッカしてしまう論争になるか、もう遊ぶ場だと諦めてしまうかどちらかではないだろうか。

ロングアイランドにあるMontauk Yacht Club というところで、二泊三日のRetreat があった。マンハッタンから同業者みんなで観光バスにのって3時間ほどかけてやってきたのだが、なんでこの場所にしたのか、何をしに来たのか、みんなよく分からない。これはRetreat ということだけはみんな知っている。

Facilitator の人が外部から雇われて、いろんな話をする、というか参加者にさせる。まだ数日しか経っていないが、覚えてるのはemotional space の話だけだ。同業者といえども、ふだんはほとんど話もしない人たちはたくさんいる。そういう人たちと話す機会になったのは、それなりによかったと思う。しかし、みんな仕事のことが気になってしかたない。90分くらいのセッションの合間に15分くらいの休憩があるのだけど、その間にもラップトップにかじりつく人が多い。そういう気持ちはよく分かる。どうしても、追いかけておかないといけないケースがあるのだろう。

意外なことに、あまり知らない人たちの話を聞いているのはそれほど退屈ではなかった。それよりも、退屈を通り越して苦痛だったのは、夜の飲み会だった。夕食からだらだらと飲み続けるのだが、同じ種類のジョーク、同じ世界の話、それだけがぐるぐる回り続けている。何がおもしろいのか全然分からない。その時に、これは慰安旅行なんだなと思った。こういう飲み会も仲間であることを確認し合う儀式なのだろう。村落共同体はこうやって形を変えていろんなところに残っているのだと思う。

* * *

慰安旅行最後の日、夜8時35分発の便でロンドンまで飛んで、そこからコペンハーゲンへ戻る予定だった。JFKに着いたのは7時半くらいだった。やっと間に合ったと思ったら、出発が3時間も遅れた。

ロンドンでの乗り継ぎの時間は2時間しかなかったので、もうJFKを発つ時点でコペンハーゲンへ行く便には乗り遅れることが分かってしまった。中途半端にぎりぎりに着いてヒースロー空港で走り回るはめになるよりも、気が楽になった。

ヒースローに着いて、British Airways のカウンターに行き、乗り遅れた!と宣言すると、カウンターのおばさんが「American Airlines が次の便にあなたの席を予約している」と言って、すぐに新しい搭乗券を用意してくれた。American Airlines のせいで遅れたのだから、そんなことをするのは当たり前かもしれないけど、全然期待しない習慣が深く身についているのでちょっと感心した。

コペンハーゲンに着くと、ほぼ100%あきらめていたバッグまでちゃんと出てきたので、幸運に恵まれている気がした。旅行者や関係者の投票でヒースロー空港は世界最悪の空港として君臨している。チェックインした荷物が行方不明になる確率はチューリッヒと同じくらい高い。ましてや、土壇場で乗り継ぎ便が変わったらほぼ絶望するのが正気というものだろう。

コペンハーゲンの空港ビルの外に出てタバコを吸うとふらっとして倒れそうになった。近くのベンチに腰かけて、ひんやりした空気の中でblue grey の空を見ていると、home という気分がした。

------------------------------

30 OCT 07 AA 104: 20:35-07:40 JFK LHR+1
31 OCT 07 BA 815: 09:40-12:30 LHR-CPH → BA 816: 12:00-14:50 LHR-CPH

Monday, October 29, 2007

秋刀魚の棒寿司

朝・昼・晩とか週日・週末とか、そんな区切りのない生活を延々と続けていたので、「あー、やっと土曜日っ♪」なんて感慨を持つことはなかったものだけど、昨日はそれを感じた。それを感じたことに少し驚いた。

今週(10月21日-28日)はマンハッタンのホテルがことこどく満室で、到着日の一泊しかホテルが取れなかった。翌日からは僕がNYに来るのと入れ替わりにバンコクに出張に行くカレンの部屋を借りることになった。それが分かったのも、自分が乗る飛行機が分かったのも、コペンハーゲンを出る直前の金曜日(10月19日)だった。こういうことをするために雇われている人がいるのに、相変わらずどうにもこうにもかったるい。

カレンの部屋はルーズベルト島の素敵なコンドミニアムだった。カレンらしく、きれいに整理整頓されている。ルーズベルト島にはマンハッタンからケーブルカー(ここの人はトラムと呼ぶけど)に乗って渡る。最初はいちいち面倒くさいなあと思ったが、乗ってみるとあっという間に着いてしまうし、イーストリバーの上を渡るケーブルカーからの夜景がとてもきれいなことに気づいた。一瞬だけ、観光旅行をしている気分になる。

今日は昼くらいまでだるくてベッドの上でごろごろしていた。立ち上がる力がなかなか出てこない。やっと休みなんだから、このままずっとボーッとしていたいと思うが、夜中にカレンがバンコクから帰ってくるので、部屋を出なければならない。今日だけ8月に2週間止まっていた42丁目のHelmsley Hotel に泊まる。メアリーがマンハッタン中のありとあらゆるホテルに電話してやっと土曜日の一泊分をここに確保してくれた。値段は8月の約2倍だった。出張費より100ドルほど高い。アメリカ人のメアリーはNYのホテル事情をcrazy, madness と何度も口走っていたがどうしようもない。

* * * 

ホテルにチェックインしたら、もう午後3時くらいだった。一日が早く終わってしまう。フロントの女性が8月にチェックインした時と同じ女性だった。この人は日本でも2年ほど仕事をしていたことがあると言っていたのを思い出した。日本語を少し喋るので重宝されてそうだ。日本人のお客さんが次から次にチェックインしにくる。

登録されている住所をデンマークに変えてもらったら、デンマークにも仕事で行ったことがあるらしく、しばらくたわいのない話を続けていた。これはいい部屋よと言ってカードキーを渡してくれた。前回、喫煙の部屋が一階のあまりよくない部屋にしかなくて、どうするか迷っていたことを彼女は覚えていた。今回は 38階の部屋だった。

その日はまだ何も食べていなかったので、チェックインしてすぐに、めんちゃんこ亭に遅い朝兼昼ごはんを食べに行った。ここの皿うどん(硬焼きソバ)がおいしいので、NYにいる間に何度も食べる。それから、Best Buy に行ってMS Office Standard 07 を買った。先月アフリカからの帰りにアムステルダムの空港で家族用にVaio を買ってかえったのだが、それに入っていたお試し版のOffice が変な動きをするので、NYでまともなのを買おうと思っていたのだった。

それだけですぐに帰ろうと思っていたが、DVDが安いのでぶらぶらと見て歩いたら、「ROME」というDVDを見つけた。エミー賞の8部門にノミネートされたとかいてある。テレビのシリーズだったのだろうか。全部で11枚ある。塩野七生の『ローマ人の物語』の映像版みたいなことを想像して、全部買うことにした。それから、永久保存版にしておきたいと思っていた「V For Vendetta」と「crash」も買った。

その後で、Barnes & Noble に子どもの本を買いに行った。二人とも本が好きなので、いつも本をおもちゃと同じように持ち歩いてる。8歳の長男は絶対読めないような難しい本を学校から借りてくる。4歳の次男は僕が長男の宿題を見ている間ずっと自分の本を脇にかかえて自分の番が来るのを待っている。同じ本を何度も何度も読んでいる。なんかかわいそうなので新しい本を買って帰ろうと思っていた。それにしても、長男の勉強を見ていると学校の勉強のシステムにちゃんとのってないのがよく分かる。そんなものどうせすぐにできるようになるから心配しなくていいと思うのだけど、宿題くらいはできないと学校で片身が狭いだろう。やり方くらいは家で見ないといけないのかもしれないと思う。

Barnes & Noble は、本屋さんというコンセプト、そこで一日中を本を見て回る、そんな時代の化石のような本屋さんだ。時間があれば、自分の興味のある本を見て回りたいが、もう疲れていたのでホテルに戻った。またうとうとし始めた。寝れる時に寝ようと思って、まだ夕方だったがそのまま寝た。

* * *

当然、妙な時間に目がさめた。当然、お腹もすいていた。せっかくの休みなので、このままボーとしていたいが、やがて空腹に耐え切れなくなるだろう。ZENGO のタクさんに前の日連れてきてもらった蘭(LAN)というお店がとても気に入っていたので、そこに一人で行くことにした。店員の人たちも板前さんもとても感じいい。肉料理がおいしくて、寿司もおいしいので、便利な店だと思う。

問題は客だけかもしれない。寿司のカウンターに座ったのだけど、すぐに隣の席に日本人女とアメリカン人(らしい)男のカップルが入ってきた。この男は日本語を流暢に話す。しかし、この女の日本語はいったいどこで習ったのだろう?突拍子もない抑揚であまりにまぬけなやりとりを右耳のすぐ横でやられて、頭がガンガンしてきた。こういう会話はメモしておいて、ライバル店でサクラ客にやらせたら営業妨害に使えるだろう。アメリカン人(らしい)男の方は懸命に爆発を抑えようとしているように見える。ちらっと横を見ると、この男と目が合ってしまった。ご愁傷さまですと、目で合図を送ったら、彼も、これが地球の最後ですと目で合図を返してきた。

焼酎を二杯飲んだら、もう酔っ払ってしまった。なんとなく明け方にまた目が覚めてお腹がすくような気がしたので、秋刀魚の棒寿司をお土産に頼んだ。店員の人が感じいいので、棒寿司を待っている間に焼酎をまた一杯頼んでしまった。

店を出ると、マンハッタンはもうハロウィーン騒ぎの真っ最中だった。

Sunday, October 21, 2007

NYへ

21 OCT 07 AA 6532: 0750 0900 CPH LHR
21 OCT 07 AA 105: 1155 1435 LHR JFK

Saturday, October 06, 2007

帰ってきた

昨日の夜中に帰ってきた。
エチオピアとエリトリアの国境紛争はもう終わったものだと思っていたら、全然終わってなかった。なんか元の木阿弥になりそうな気配があるではないか。なかなか険悪であった。

ソマリアは「ブラック・ホーク・ダウン」以上のことは知らなかったけど、なんとこれもまたえらいことになってる。いったい誰と誰がもめているのかなかなか把握できない。いろんなドキュメントを読んだけど、結局エチオピア・エリトリアの停戦監視団のおっさんに話を聞くのが一番早かった。彼は全体像を把握していた。

そもそも一国ずつ理解しようとするのが間違っていた。スーダン・ケニア・エチオピア・ソマリア・ジブチ・エリトリア、それぞれが微妙にからまりあっているのがようやく見えてきた。知れば知るほど実にややこしい。

これが世に言う Horn of Africa の問題なのかと、エリトリアからエチオピアに向う国連機の窓から美しい海岸線を見ながら考えていた。エリトリアの首都アスマラからエチオピアの首都アディズ・アベバまでは国境を越えてまっすぐ行けば50分もかからない。

ところが国連の飛行機・ヘリコプターが国境地域を飛ぶことをエリトリアが禁止してしまっているので、アスマラからいったん東へとんでジブチのあたりからソマリアまでの海岸線にそって南下していかなければならない。そして、エリトリアの国境より南部になったら、エチオピア国内に入ってくる。ものすごい遠回りだ。4時間半はたっぷりかかる。

飛行機からでも判別できような透明で美しい、エンドレスと思えるようなビーチを見て、エチオピアの緑の生い茂るプラトー(高台になった平地)を見ながらのフライトは僕のような Horn of Africa の素人にはとても勉強になるし、興味深くてよいのだが、これはオペレーションにとっては最悪だ。国境線で仕事をしている人が負傷したりした時の evacuation を考えると、アスマラに負傷者を車で4時間かけていったん運んでから、そこからまた大迂回のフライトに乗せることになる。これはなんかしないといけないでしょ。

だんだん理解してくると、その背後に Yemen や Saudi Arabia の影がちらほら見えてくる。そして、当然アメリカ。これもまた、9・11以降始まったアメリカのGlobal War on Terror の枠組みの中のepisode の一つに過ぎないようだ。

いやはや、どこまで GWOT は世間をひっくり返し続けるのだろう。
次回、といっても11月だけど、その時までは、もう少し書類を読んで理解していきたい。

ほな、

引越し先のリンクがおかしいらしいので書き換えたけど、どうかな。

Thursday, September 20, 2007

そうそう

コペンハーゲンに引っ越しました。
お祝いは以下の住所で受け付けてます。
ここ

でも、金曜日の夜中にコペンハーゲンと発って、アフリカ大名旅行に出かけます。
疲れた。

Sunday, July 29, 2007

眩暈

もう止めようかな、
と雨に濡れたホテルの部屋の窓から 3rd Avenue と42nd Street の交差点を見おろして考えていた。

雨はそんなにひどくないようだけど、窓から見える街は全体が淡いグレーに霞んでいる。
ほんとにそうなのだろうか、とふと考える。
疲れると視力が下がる。今はよく見えてないのは分かっている。
それ以上に、頭の中そのものが霞んでいる。
寝たのか寝なかったのか分からなかった朝によくある状態だ。

ホントは今快晴で街はキラキラと輝いているのに、
僕の頭のせいでこんなに薄暗く見えるだけなのかもしれない。

今は朝のはずだけど、何時だろう?
ここに何しに来たんだったかな・・・。
とにかく寝ないと・・・。
明日することは?何か急ぎの件は?と、
寝ようと思うと同時にそんなことが頭に出てくる。
そういうのが寝る前の習慣になってしまってる。

そして、「あっ、もういいんだ。少なくともしばらくは」と気がつく。

もう考えなくてもいい、と思うのはとても不思議な気分だ。
2年7ヶ月、休みなんて結局一瞬もなかった。
もう休みなんてものはこの世に存在しなくなったと思う。
これだけ通信手段が発達してしまうと、地球上のどこにいたって常に連絡は入ってくる。
そして、入ってこないと心配になる。何かがおかしいと考え始める。

* * *

カブールを発ってから、何時間経ったのかよく分からない。
もう何日も前のような気がする。
7月28日午前5時半にピックアップというのが、この旅程の開始だった。
そして6時にカブール空港にチェックイン。
7時半に搭乗した。
飛行機は8時ちょっと前に離陸した。

カブールはこれが最後かもしれない。
と思いながら、飛行機の窓から外をちらっと見てみた。
窓側に座っているディッテが、
「これが自分の国以外でもっとも長く住んだ国」と言いながら、窓の外を見ている。
「またカブールに帰ってくることある?」と訊くので、
「当分はないと思う。でも、5年くらいしたら帰ってきてみたい」と答えた。
まったくウソでもない。

* * *

Moevenpick Hotel at Dubai on 28 July 2007
国連機のパイロットはドバイには2時間半で着くと豪語していた。そんなに速いかな。
しかし、カブール時間では10時、ドバイ時間では9時半にちゃんとドバイに着陸した。
夜中までドバイの街でブラブラするなんて気力も体力も精力もないので、ホテルにチェックインした。
それが10時(カブール時間の10時半)だったので、カブールの宿からドバイの宿までちょうど5時間かかったということだ。

シャワーを浴びて、ルームサービスでサラダとハンバーガーを頼んだ。
夜中まで時間はたっぷりあるので、食後に軽い精神安定剤のようなものをのんだ。
この一週間はほとんど寝た気がしない。疲れていた。

目が覚めたら、7時間経っていた。その間一度も目覚めなかった。
こんなことはほんとに珍しい。3年に一回くらいしかない一大事だ。

ルームサービスを運んできたトロリーがなくなっている。どういうこと?
僕が寝ている間に入って来て、下げたということだろうけど、
宿泊客が寝ているのに入ってくるかな、ふつー。
しかし、どうやって入ったんだ?半ドアになっていたのかもしれない。
さすがインド人。やるねぇ、かる~く。
ドバイはインド人、パキスタン人、バングラデシュ人等など、南アジア人の宝庫。

* * *

Emirates 航空には Chauffeur サービスがあるということをセレブ事情に詳しいユカリ嬢が教えてくれたので、
頼んでもらっていたが、念のためホテルにチェックインした時に確認してほしいと言ったら、
フィリピン人らしい、可愛く感じの良いホテルウーマンは大丈夫、と豪語していた。
近頃豪語する人が多いような気がする。
いや、そんなことはないか。
全然、人の言葉をあてにしない習慣が自分の中に深く根付いてしまっているので、
豪語にはことごとく予めカチンと来るだけなのか。
ものごとが想定通り進んでしまうとそわそわしてしまうのだ。
そんなはずはない、何かはめられているに違いない、どこかでどんでん返しが待っているはず・・・。
どうせ来るなら、早く来てくれと焦り始める。
そして、ようやく問題が発生するとホッとする。
さあ、解決しよう・・・
頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

午後11時半にChauffeur さんはホテルに来て待っていたらしい。
部屋に荷物を取りに来たベルボーイが車がもう来てるから先に車にのせて置くと言ってあくせくと出て行った。
午前0時ちょうどに車に乗って空港に向ったけど、出発が午前2時なのでちょっと遅かったかもしれない。

空港とホテルの間の送り迎えは、各航空会社間のサービス競争であるだけでなく、
航空会社業界とホテル業界の業界間の競争になっているような気がする。
ホテル・空港間を無料で送迎する航空会社がある一方で、
送迎に課金するホテルもあるのはおかしな話だ。
そういうホテルはやがて絶滅の危機に瀕するのではないだろうか。

ドバイ空港はDeparture のビルがクラス別に完全に分離されているけど、
さらにNew York へ向う便だけ恒久的に分離されている。
なぜだろう?
アラブからNew York へ一直線ということを考えると、テロ対策と関係あるのだろうかと思ってしまうが、そうでもないかもしれない。
New York へ行く便はOnline Check-in ができないというのもむずむずさせる。
考えてもしょうがない、世界はもうこうなってしまったのだと思う。

イラク戦争のあった年、つまり2003年はEmirates の飛行機によく乗ったが、今回は久しぶりだ。
Emirates のマイレージカード(Skyward)の個人情報が古くなっているのでアップデートしようと思ってウェブサイトに行ったが、パスワードを忘れてしまって入れない。
なんどかごちゃごちゃ触っているうちにめちゃくちゃにしてしまった。

ドバイ空港のSkyward Office に行って調べてもらったら、案の定収拾がつかない状態になっていた。
しかたないので新しい番号をもらって一からSkayward の人生をやり直すことにした。
意気消沈した僕に同情したSkyward Office のインド人は、
普通は6週間から8週間かかるが、24時間ですべてやってあげると豪語した。
また豪語しやがったと思ったが、素直に、ありがとう、期待している、と言って撤退した。

搭乗時刻が1時15分なのに空港に着いたのは12時半で、こんなことしてると、空港ではほとんど時間がなかった。
Duty Free Shop でMarlboro Light Menthol を2カートン買って搭乗ゲートに向った。

* * *

EK 203 DXB JFK 02:00-07:50 29JUL07
「日本人の方珍しいですねえぇ~」、と一人だけいた日本人のスチュワーデスさんが言う。
外国の航空会社のスチュワーデスはJALやANAに比べると異様に気さくに見える。
ドバイ・ニューヨーク便にはほとんど日本人が乗ることはないと彼女は言っていた。
日本からいらしたんですか、って訊くから、「いえ、カブールからです」と言うと話はそこで終わった。

14時間は長い。実に長い。睡眠薬をのんで一度熟睡しても良かったかもしれない。
でも、なぜか飛行機ではのむ気になれない。
統計的には飛行機の非常事態が起きる確率はどんな移動手段よりも小さいと思っていても、
かついったん何かが起こったらほぼ生存の望みはないのだから同じことだと思っていても、
それでも万が一何かが起こった時に睡眠薬が効いていた状態ではまずいと思ってしまうからだ。

On-demand のビデオやマッサージ機で遊ぶのも限界がある。
ラップトップでインターネットに繋ぐことも可能になっていたけど、
使えるのはメールだけらしいので、いまさら仕事のメールを読む気にもならない。
読みかけの"Twice As Good" を開いたが、頭に入らない。
結局、いろんなことを考えることに14時間のほぼすべてを費やしていた。

カブールで起こったこと、話したこと、いろんな場面を頭の中で再現していた。
自分のセクションのことがやはりどうしても一番気にかかってくる。
サジアが泣いていた情景が何度も頭に出てくる。
彼女はブルーのシャツとそれに合うネクタイのセットをくれた。
聡明で美人で性格が良い女の子だった。
こういうアフガン人女性が幸せになれる場所にはアフガニスタンはまだなってない。
あと、数百年のスパンで考えるべきだろう。
サジアの時代には何も変わらない。とすれば、彼女は外に出るのが最善策なのだけど、
まっとうな家庭の独身女性が外国に一人で出るというのはアフガン的にはあり得ない話だ。
もったいない。もったいなさ過ぎる。

JFKに着く直前に、あの日本人のスチュワーデスがまたやってきた。
「日本人のお客さん、珍しいのでこれをあげます」と言って、
Godiva のチョコレートを一箱くれた。なんのこっちゃ?と思ったが、
ものすごく人恋しかったのかもしれない。
もっとちゃんと話すべきだったと思った。
降りる時に名刺をあげようかとも思ったが、よく考えると、
もう使わない電話番号とEmail アドレスしか載っていない名刺をあげても意味がないのでやめた。

* * *

The New York Helmsley Hotel on 29 July 07
空港ビルの外へ出ると、ここでもEmirates 航空のChauffeur が待っていた。
黒いスーツを着たちょっと長い目の金髪の男だった。
黒塗りの、いかにも"アメ車"っぽい車なので、マフィアの出迎えの一場面のような気もする。
タバコをすいたいのでちょっと待ってもらえるかと訊いたら、
もちろんどうぞと答える。New York なのに英語が分かるらしい。

一服すると、くらっとした。こんなところで倒れると恥ずかしいので、
今でてきたばかりの空港ビルの壁にもたれて、めまいが去るのを待った。
14時間経ってすうとこんな効き目があるのか。
こんなものを立て続けに何本もすっていたとは恐ろしい。

黒いスーツの男は実はmusician だと言っていた。
ふだんはドライバーをやって働き、週末はどこかでライブをやってるのだそうだ。
いかにもNY っぽい話だ。
高校生の頃は僕もそんなことしてたよと言うと、
Steve Vai はどうだ?Stevie Ray Vaughan はどうだ?Jimi Hendrix はどうだ?
と延々とギタリストの名前を列挙し始めた。
全部好きだと言った。

* * *

そんな話をしていると、マンハッタンまではすぐに着いた。
Smoking room は空いてないというので、しかたなく入った部屋だったけど、
14時間に一回だけすって、毎回あのめまいを感じるというのもいいかもしれない。
毎日14時間の禁煙をして快楽は大幅増。
一挙両得ではないか。
窓から 雨のNew York を見ながら、そんなことを考えていた。
もう止めようかな、タバコ。

Wednesday, July 04, 2007

迎合

イスラマバードからバンコクに来る飛行機の中では、いつも日本語の新聞と日本語の週刊誌をパーッと見る。日本語活字欠乏症の発作みたいなものだ。読んでる内容はろくに頭に入ってこないし、実際ちゃんと一つの記事を読み通さないことも多い。

いつもの飛行機の中にある週刊誌に"ちょいわるオヤジ"とかに関する連載があるのは知っていた。が、ちゃんと読んだことはなかった。書いている人はきっと有名人なのだと思うけど、全然知らない人だ。"ちょいわるオヤジ"という言葉自体はこの1年か2年の間に聞くようになっていたけど、いったいそれが何なのか深く考えたこともなかった。なぜか今回ふと読んでみた。

本気・・・?

というのが読後に頭の中に出てきた唯一の言葉だった。
しばし、呆然。
いくらなんでも、こういうことが世間で語られている?まじで?
ちょっとだけ、わるぶってみる?で、こういうおやじ達はちょっと自分のことをカッコイイって思ってるわけですね?
まず、アホでしょ。確実に。

クラリーノの全天候型シューズを履いて、2年に一回しか買わないサバとかアジみたいな色の背広着て、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ半世紀にちょっと足りないくらいの期間会社に通い続けて、最後に年金がなくなってしまったお父さんたちをどうしてくれるんだ?えっ?叛乱起こすぞ、こらっ!人数だけは一番多いんだからな。

"ちょい"っていうのがまたせこいじゃないか。ちゃんとわるになれないんなら、潔くクラリーノ履けって。そのままプールに飛び込んでも大丈夫なアクリル100%のスーツ着ろっちゅうに。

でも、アクリルのサバ着てるオヤジは"ちょいわる"にちょっと憧れて、こんな週刊誌の記事を毎週、会社でこっそりコピーしてファイルしたりしてるんだろうか?

そうやって、社会全体が若くてバカな女に迎合していくと、こんな国ができあがります、ってこと?

* * *

こんなことを書く予定ではなかった。うっかり指がすべってしまった。
ロビーでメールの返事を書きながら、一人でBlack Russian をがぶ飲みしていたら、えーっと、何を書こうとしてたのか忘れた。明日にしよっと。

(↑)今日は柱の向こうでジャズ・ピアニストがポップスを弾いていた。


Monday, June 25, 2007

A revolution without dancing is a revolution not worth having.

昨日の夜、"V for Vendetta" を見た。

Vの部屋のジュークボックスから、"Cry Me a River" が流れている。


Evey: I missed this song.

V: I didn't think you would come.

Evey: I said I would.

V: Ahh.....You look well.

Evey: Thank you.

V: May I inquire as to how you've avoided detection ?

Evey: A fake ID works better than a Guy Fawkes mask.

V: Ah...I must confess, every time I heard a siren, I worried about you.

Evey: I worried about myself for a while.
But then, one day, I was at a market.
...and a friend, someone I had worked with at the BTN, got in line behind me.
I was so nervous that when the cashier asked me for my money, I dropped it.
My friend picked it up...
...and handed it to me.
She looked at me right in the eyes...
...didn't recognize me.

I guess whatever you did to me worked better than I'd have imagined.

V: ....I have a gift for you, Evey...
...but before I give it to you, I'd like to ask you something.

Would you dance with me?

Evey: Now? On the eve of your revolution?

V: A revolution without dancing is a revolution not worth having.

Evey: I'd love to.


「ダンスをしない革命なんてする意味がない」か。かっこいいなあ。ホントそうだよなあ・・・えっ?
今日は朝から、ずっとViktor Lazlo の"Pleurer Des Rivieres" を聞いてる。

--------------------------------------------------------------------------------
エヴィ:この曲を聴きたかったわ。

ヴィ:君が戻ってくるとは思わなかった。

エヴィ:戻ってくるって言ったわ。

ヴィ:う・・・きれいだ、君・・・。

エヴィ:ありがとう。

ヴィ:訊いても良いかな、どうやって拘束を免れたんだい?

エヴィ:偽造IDの方がGuy Fawkes のマスクをするよりましよ。

ヴィ:白状すると、サイレンの音を聞くたびに、僕は君のことが心配になった。

エヴィ:私もしばらくは自分のことが心配だったわ。でも、ある日、私はお店で買い物をしていて、友達が、BTNに勤めていた時の友達なんだけど、彼女が私のうしろにならんでいたの。
私はとても緊張してキャッシャーにお金を渡す時に、落としてしまって・・・
そしたら、その友達がそれを拾って私に渡してくれたの。彼女は私の目をじっと見たわ。・・・でも私だと気がつかなかった。
あなたが私にしたことがなんであれ、私が想像した以上にうまく私を隠してくれたのね。

ヴィ:・・・君に贈るものがあるんだ、エヴィ・・・
でも、それを渡す前に、一つ頼みたいことがある・・・

私と踊ってくれないだろうか?

エヴィ:今? あなたの革命前夜に?

ヴィ:ダンスをしない革命なんてする意味がない。

エヴィ:いいわ、喜んで。
---------------------------------------------------------------------------

Monday, May 14, 2007

知的で素敵な女性 第1位

International Herald Tribune (14 May 2007) を見ていたら、Japanese film of kamikazes sparks antiwar feelings という見出しが目に止まった。どの映画だろうと思って記事を読み始めた。見出しだけ見ると、とんでもない戦争賛歌の映画があって、それに反戦運動が盛り上がる、みたいなお決まりの構図を思い浮かべてしまうけど、どうやらそうではないらしい。なんか妙な出だしだった。

Tokyo: A film celebrating World War II kamikaze pilots and written by the nationalist governor of Tokyo has opened in theaters, sparking more of a pacifist than a patriotic response from audiences.

この映画はカミカゼ特攻隊をcelebrate した映画?
でも、見た人は愛国主義的というより平和主義的に反応する?

で、なんとShintaro Ishihara が原作者で、Shinjo Taku という人が監督らしい。"For Those We Love" が映画のタイトルらしいが、邦題はきっとかなり違うものになってるだろう。IshiharaさんとShinjoさんは、カミカゼと現在の自爆攻撃の違いを主張しているらしいが、共通点を主張する人の意見も載っている。

"The similarities in the selection of young men to carry out these one-way missions and the methods used to convince them cannot be ignored," said Linda Hoaglund, one of the makers of "Wings of Defeat," a documentary film about the kamikaze set to be screened in Japan later this year.

"Wings of Defeat" もまたかなり異なった邦題になるのかもしれないが、両方の映画を見てみたいものだ。

* * *

今日のIHTの一面トップはアフガニスタンのカラー写真だったので、当然、現タリバンというかネオ・タリバンの実質的なトップコマンダーであるDadullah の死亡記事だろうと思ったら、なんと違っていた。一面トップの見出しは、

Civilian deaths turn Afghans agaisnt NATO

カブールに住んでいる人間にとっては、今さらとしか思えない話だが、まさに今さらこういうことがやっとちょろちょろと記事として出てくること自体がもう大失敗の一部であるのだろう。

ZERKOH, Afghanistan: Scores of civilian deaths over the past months from the heavy U.S. and allied reliance on airstrikes to battle Taliban insurgents are threatening popular support for the Afghan government and creating severe strains within the NATO alliance.

Afghan, U.S. and other officials say they worry about the political toll the civilian deaths are exacting on the Afghan president, Hamid Karzai, who the week before last issued another harsh condemnation of the NATO tactics, and even of the entire international effort here.

What angers Afghans are not just the bombings but also the raids of homes, the shootings of civilians in the streets and at checkpoints and the failure to address those issues over the five years of war. Afghan patience is wearing dangerously thin, officials warn.

ここまでは、5年前に予測されていたこと。問題はこれに対して真剣な検討も改善策もないまま5年間経ってしまったってことでしょ。

そして、別の問題は、軍隊を出している国々の間での意見の不一致。
The civilian deaths are also exposing tensions between U.S. commanders and commanders from other NATO countries, who have never fully agreed on the strategy to fight the war here, in a country where there are no clear battle lines between civilians and Taliban insurgents.

さらに「現地」と「本部」の間の温度差でとどめを刺される。
At NATO headquarters in Brussels, military commanders and diplomats fear that divisions within the alliance and the loss of support among Afghans could undermine what until now was considered a successful spring one in which NATO began a broad offensive, but the Taliban did not.

そして、なんの関係もない一般市民が米国とNATOにボコボコにされて(虐殺の定義に入ると思うのだけど)、フツーの村人が立ち上がり、そして立ち上がったばかりにアメリカ同盟軍やNATO指揮下の国際治安支援軍に殺されるまでの構図がよく描かれている。

The accounts of villagers bore little resemblance to those of NATO officials --- and suggested just how badly things could go astray in an unfamiliar land where cultural misunderstanding quickly turn violent.
The U.S. military says it came under heavy fire from insurgents as troops searched fro a local tribal commander and weapons caches. The troops called in airstrikes, killing 136 Taliban fighters, the U.S. military said.
The villagers say there were never any Taliban in the area. Instead, they said, they rose up and fought the Americans after the soldiers raided several houses, arrested two men and shot and killed two old men on a village road.
After burying the dead, the tribe's elders met with their chief, Haji Arbab Daulat Khan, and resolved to fight U.S. forces if they returned.
"If they come again, we will stand against them, and we will raise the whole area against them, " he warned.

こうやって殺されていく普通のアフガン人をアメリカはタリバンとしてカウントする。
これに続く段落にそのバカさかげんを示す、あるアフガニスタン在住外交官の言葉が引用されている。

In the words of one foreign officials in Afghanistan, the Americans went after one guerrilla commander and created hundred more.



そして、Dadullahの記事は第6面に回されていた。こういう記事の配列にすでに編集者の識見が出ている。日本の新聞は、こういう質の面ではすでに比較にもならないほど引き離されてしまっている。あるいは最初からそうだったのか。商品のディスプレイ一つにそのお店の思想が現れるものだが、日本の新聞にはセンスの悪い雑貨屋のような印象しか受けない。まあ、そんなことはみんな思ってるだろうから、あえて追求しないが。

さて、最初の記事を読めば、すでに何故Dadullah 一人の死が後に回されるのかは明らかだろう。この記事に中ではMustafa Alani という人のコメントが上の記事との繋がりをよく示している。Mustafa Alani はDirector of Security and Terrorism Studies at the Dubai-based Gulf Research Center。彼は次のように言っている。

"The death (of Dadullah) would have little long-term impact. In this sort of organization, people are replaceable, and always there is a second layer, third layer. They will graduate to the leadership"

* * *

『週間朝日』(5月4日11日合併号2007年)を開くと、林真理子の対談相手が岸恵子。なんと岸恵子さんが、あの映画の主演をしているではないか。邦題は『俺は、君のためにこそ死ににいく』だって。

岸「実は私、この映画に出るの、最初はすごく躊躇したんです。脚本が石原(慎太郎)さんだし。」だって。
岸「第一稿は、特攻で散ってゆく若者が少し美々しく描かれすぎているように思いました。私、戦争を知らない日本の若い人にこういう映画を見てほしいし、世界の人、特に東洋の人たちに見てほしいけど、外国人が見て、特攻隊員がみんな喜んで死んでいったんだと錯覚されるのは危険だと思ったんです・・・・・
岸「私、「石原さんにお会いして、直接お話したい」と言ったんです。
岸「じゃ、都庁に来てほしいと言われたので、「政治家の石原さんにはお会いしたくないので、都庁にはうかがいません。ホテルの会議室をとってください」と言ったら、とってくださったんです。

で、結局2時間みっちり話されたそうだ。石原さんの「この映画は戦争賛歌ではない。戦争反対でもない。ただ、史実としてこういうことがあったということを伝えたい」という言葉を引き出したらしい。そして、本人としては「でもこの映画に、私は戦争反対の気持ちで出たんです。」と岸恵子さんは言う。

話はあちらこちらに行くけれど、岸恵子さんの明晰で美しい言葉の連発に、ほとんど枯山水状態になって久しい情欲が火照ってくるのに気がつく。なんて素敵な女性なんだろう・・・

林「・・・・戦争に対する今の日本の考え方は、ちょっと違ってるんじゃないかと思いませんか。」
岸「戦争に対するきちっとした考え方を誰も持ってないと思いますね。アメリカ追随が生んだ、戦争に対するある種の安堵感、アメリカが守ってくれるみたいな気分があるんじゃないでしょうか。のんきだと思いますね。いざとなったら、守ってなんてくれないと思いますよ。小泉さんにしても安部総理にしても、一般の日本の人も、みんな目線が国内に向いているように思えるんです。もっと日本の外に向ってアピールしないと、わかってもらえないことはたくさんあると思う。私は、そのために、この映画に出たんですけどね。

何十年も前に緒方貞子さんが書いた論文にも同じ趣旨のことが書いてあった。もちろんもっと学術的にだけど。
日本が国内事情主義から脱出する時は来るのだろうか?

岸「本は書き続けていきたいですけど、私が書くと、皆さんが想像してくださる岸恵子とは、全然違う別の世界になっちゃうでしょう?たとえば『砂の界へ』(文藝春秋)ではイスラムの世界のことを書きましたし、『ベラルーシの林檎』(朝日新聞社)はユダヤ問題だったし。

えーーーーー、そんなの書いてたんだっ?!読まなきゃ!!!

そして、最後のページに来て、のーてんチョップ。

岸「本当にもうちょっと日本人は、世界に目を向けたほうがいいと思うんです。なぜアフガニスタンが、今日のような問題を抱えたのか、なぜアルカイダが生まれたのか、なぜオサマ・ビン・ラディンのような人が生まれたのか。袋だたきの目にあうかもしれないけど、誤解を恐れずに言えば、ブッシュとオサマ・ビンラディンを並べたら、ビンラディンのほうが、ずっといい顔してると思う。
林「おお・・・・・・。」
岸「ゆえない蔑視や屈辱に耐え、辛酸をなめた人の、深くものを考える顔をしていますよ。結果、やっていることは人類にとって最悪の事態になっちゃったけれど。誇り高い人が、憤りに燃えるのは、他者から無視され、ばかにされるからでしょう?イスラム教があったからこそ、地中海文明も世界中に広まったわけだし、そういうことをすっ飛ばしちゃって、あるいは知らん顔をしてるのかもしれないけど、ブッシュは「アフガニスタンのあとはイラクだ」と前から言ってましたね。まさかと思ってたんです。だから、国の指導者を選ぶって大事ですよね。

5年前、ブッシュとオサマ・ビンラディンの顔について、まったく同じようなことを言ったことがある。僕にはあの顔の違いは圧倒的だった。一方が日本猿そっくりなのに、他方は哲学者のようではないか。それを聞きつけたある編集者が是非それを書いてほしいと言って来た。しかし、僕はとうとう書かなかった。すでに誤解の渦の中で十分うんざりしていたというのが直接的理由だったけど、もっと本質的には書く勇気がなかった。

それを岸恵子さんはあっさりやってのけている。素晴らし過ぎる。
岸恵子さんになんとか一度お会いしたい。話をしたい。100年くらい続くかもしれない。あぁ、いいなあ。

* * *

なーんて、恋心でボーっとして飛行機をおりて、タクシーに乗って宿について、2時間くらいして午前2時になった。そして、ハッと気がついた。

ギャー!パスポートを入れたバッグを失くした!もうーっ!アホ。

Monday, April 30, 2007

誤算

5月1日:朝早く日本に着くと、寒かった。身に着けているのはTシャツ、ジーンズ、パンツ、そしてサンダルの計4ヶ。日本はまだそういう季節ではなかった。さむっ。
がまんしようかと思ったが、リムジン・バスを待っている間に凍りそうになったので、バッグをあけてしわしわになったジャケットを取り出した。

飛行機の中でずっと仕事をしていたので、眠くてしょうがない。
家に着いてすぐに寝ようと思ったが、そんなに簡単にはいかない。2時間くらいは3歳の次男と遊んで、やっとベッドに入った。
それから2時間くらいしたら、7歳の長男が学校から帰ってきた。
「したいことリスト」を作っていたらしい。それを持ってきたので、カレンダーを持ってきてスケジュールを作ることにした。
計画を立てるということはまだ学校で習ってないようだった。有限の時間と無限の欲望の間で苦闘している。
世間の約半分くらいは恐ろしくだんどりが悪いし、4分の3くらいはプライオリティがつけられないし、5分の4くらいは人生を最適化していないことに気がついてないように見える。
子どもの頃に真剣に遊ばなかったせいではないだろうか。

夜、こどものご飯がおわってから、大阪の街に出てみた。
中学・高校が同じという、ほんの数人しかいない友人と魚専門の居酒屋に行った。
居酒屋の風景があまりに変わっていないのには、ちょっと驚いた。
きっと会話の中味もまったく同じなんだろう。

居酒屋を出た後、郊外まで戻って、以前一度だけ行ったことのあるバーに行った。
そのバーをやっているバツ一のおにーさんはウィンドサーフィンでオリンピックをめざしているらしい。
昼は毎日海に行って、夜はバーをする。なかなかいい感じではないか。
一度行っただけだけど、ぼくの音楽の趣味を覚えていたらしく、おもしろい曲の選択をする。

ふと時計を見ると、もう午前3時を過ぎていた。やばいっ!と思ったが当然遅すぎる。
帰るまでにカップルが3組と一人で来た男が3人いた。男二人で来たのはぼく達だけだった。
バーのおにいさんは今日はお客さんがたくさん来たので、もう明日は休んでもいいとか言っていた。
そんなこと言う店にはまた行きたくなる。

途中、近所のオミズ商売のおねーさんらしき人が「あらっ?」とか言いながら、ひょこっと客席側ではなくバーの内側に顔を突っ込んできた。店の入り口からバーの中へ直行したのだ。
全然知らない人だが、あきらかに間違えたふりをしてるように見えた。
バーのおにいさんはそのおねーさんの方を振り返りもしない。
全然関係ないのだが、いいのかな、いいのかなと少し焦りを感じ始めた。
しかし、その時店内にいた一組のカップルも一人もんの男たち二人も全然関心を示さない。
結局、そのおねーさんは誰の注目も得られず撤退した。
バーのおにいさんは間違ったふりして入ってきて注目を浴びたかったおねーさんを最初から最後まで完全に無視し尽した、という解釈でいいのだろうか。
そういうわけだったんですかって訊いてみると、くせになりますからね、とおにーさんは一言。
ぼくは一人で笑ってしまった。この人はいい人だと思った。

家に着いてから、仕事の続きをした。子どもが起きだす少し前にベッドに入った。

* * *
5月2日:さっき寝たと思ったら、あっという間にベッドから引きずり出された。
急がないといけないらしい。どんな計画だったか思いだ出せない。
そうか今日は、ブラジル人家族の家にやってくるブラジル人のトラックの行商に行く予定だったのだ。
頭にまだアルコールが残っていたが、スケジュールを立てる見本をみせた手前行かないわけにはいかない。

行ってみると、トラックの中にブラジルの食品がいっぱいつまっている。大阪にもブラジル人がいっぱい住んでいるのだろうか。
二日後にどこかでBBQをするということなので、ブラジルの牛肉と鶏肉を買った。何か違うんだろうか?

買い物が終わって、やっと帰って眠れると思ったが、長男を迎えに学校へ行くと、なぜかいきなりスポーツ大会が始まってる。
ここまで来て、これは何ですか、と訊くのもかなりアホっぽいが一応その辺に歩いている父兄らしき人に訊いてみた。
どこかの企業がグラウンド全面を覆う人口芝を寄付して、それの貼り付けが完了した記念の大会なのだそうだ。
これはスケジュールもれだ。それならそうと予め分かっていたら、カメラくらいもってきたのに、と思ったが、もう遅い。
後で長男には計画というのは常に破綻する可能性があるものだということを言っておこうと思った。

Friday, April 27, 2007

別にいいけど

みんな笑ってる。カメラを持ってる人も、インタビューをしてる人も、ユカリ嬢もカメラさんのうしろで笑ってる。なんか変なこと言ってしまったらしい、と思ったがもう遅い。

とてーも久しぶりにTVカメラの前で、それも地雷原のど真ん中で、強いアフガニスタンの日差しを浴びて、ヘルメットの下に汗をかいて、頭が痒くて、ヘルメットも身体につけてる防弾チョッキのエプロンみたいなものもだんだん重さが効いてきて、だるくてだるくて、のどが渇いて、みぞれシャーベットが食べたいなって時に、しゃべったらとんでもないことになったらしい。

こまかい言葉はもうあんまり覚えてないんだけど(それくらいフツーに喋ってしまった)、僕の回答はことごとく、日本世間的には「そんなこと思ってても言わないでしょー」ってカテゴリーに入ってたらしい。

「みんな結局、失敗したでしょ」とか、
「別に好きでやってるわけじゃないし」とか、
「邪魔でしょー」とかって
あんまり良くないようだ。

後で、ユカリ嬢がインタビューのやりとりを英語になおしてアフガン人の同僚に伝えると、やはり笑い転げていた。でも、アフガン人はみんなそう思ってるって、清く正しいアフガン人同僚は爆笑しながらも言ってのけた。ほらっ!でしょ。
ホントのこと言おうよ、みんな。

「英国もソ連も隣国もアメリカも国連も外部からやってきて、意図はなんであれ、アフガニスタンに干渉して、みんな結局、失敗したでしょ。もう全部失敗しちゃって、とうとうアフガニスタンはアフガン人が自分で作り直さないといけないとアフガン人自身が思わざるを得ないところに追い込まれてると思う。結局、やってることは国造りなんだから、それはいいことじゃないですか」

「アフガニスタンは好きですけど、別に好きでやってるわけじゃないし。仕事だからやってるだけ。別にどこで仕事してもいいし」

「うーん、若い日本人?国連で仕事したい?なんらかのプロフェッショナルとして生きてるいけるように、企業でも役所でもいいから経験を積んでから入った方がいいんじゃないですか?なんにもなくてひょっこり来ても、邪魔でしょー」

これ、全国ネットで流れるのかなあ。こわー。もう一生日本に帰れないな。別にいいけど。

Saturday, April 21, 2007

バビロン返せ、このっ!

私的前近代の清算に忙しい(?)とかいうマキにブラヒミさんが最近やったスピーチの原稿をもらった。

Afghanistan and Iraq: Failed States or Failed Wars?
Lakhdar Brahimi, Director’s Visitor
Lecture on Public Policy presented at the Institute for Advanced Study
March 28, 2007

スピーチの中で、権威と交換に自由を得てからの発言なんてことを本人がちょろっと言ってるけど、確かに国連職員が原稿を作るような、スローガンだらけで中味ゼロのスピーチとは全然違う。

すごくカジュアルで、でもブラヒミさんの情緒が現れてくるので、読みがいがあった。Milton Bearden なんて人の発言も引用されていて、おっ、さすがに色々読むんだなと思うと、ブラヒミさんの私生活がちょっと見えるような気もする。Milton Bearden はカブール・ノートかイスラム・コラムかなんかで引用したことがあると思うけど、忘れた。日本では未来永劫読まれないのかもしれない。

しかし、引用といえば、もうこれ(↓)に尽きる。これを読んで目噛んで死のうと思わない人は全世界に一人もいないんじゃないだろうか。ムカついて、胃腸がハチの巣になりそうだ。一人ではとうてい悶え切れないので、もっと衝撃度が高そうな、世界遺産の保存に日夜、血と汗を流して走り回っているUNESCOの Aさんに原稿を送ってあげた。今頃、胃から血が噴出して入院してるかもしれない。

Another residue of the war of occupation is the intrusion of military facilities on Iraqi cultural sites. Some American facilities have done enormous – occasionally irreparable – damage. In one of the tragedies of the American occupation, one of these bases was built on top of the Babylon World Heritage archaeological site. When they entered Babylon, American troops turned the site into a base camp, flattening and compressing tracts of ruins as they built a helicopter pad and fuel stations. The soldiers filled sandbags with archaeological fragments and dug trenches through unexcavated areas, while tanks crushed slabs of original 2,600-year-old pavings… Babylon was not the only casualty. The five-thousand-year-old site of Kish is perhaps the next most damaged”. (George McGovern and William R. Polk, Out of Iraq, p.110, 111).

アマゾンでOut of Iraq を注文した。1,672円。

Thursday, April 12, 2007

退屈でないスピーチ

「退屈でないスピーチ」なんて経験的にはすでに語義矛盾だけど、この前(といっても、もう2週間も前かあ・・・)、退屈で死にかけたディナーの場でそんなスピーチに出会った。

アフガニスタンの外務省の大きな会議場のようなところに円卓がたくさん散らばって、ちゃんとフォーマルな格好をした人たちが円卓の席のついていた。200 人くらいかな。絶対にネクタイだけはしてこいと渉外担当のリサがうるさく言うのだけど、カブールにはそもそもスーツみたいなものを持って来ていないので、よれよれのコットンパンツに、砂がしみこんで真っ白に見える元茶色の靴を履いてネクタイをして軍服みたいな色のジャケットを着ていったが、色も素材も何もあってない。ひどい格好だとは思ったが、歳をとるとそういうのがどうでもよくなるのがまた怖い。アミールは無謀にも裏地が花柄の派手なスーツの下に黒いシャツを着てネクタイどころかボタンを三つくらい外して平気な顔していた。ほとんどチンピラにしか見えない。

次から次にエラーい人たちが恐ろしくつまらないスピーチを続けるもんだから、なかなかディナーが始まらない。しかもアルコールはないから、水だけを延々と飲んで、全然知らない人たちと同じテーブルでじっとしているしかない。誰だか知らないがエライ人のスピーチ中なので、隣にたまたま座った女の人がどんなに可愛くても、電話番号の交換とかやってる場合でもない。誰にも気づかれないように静かに切腹でもするしかないような状況に追い込まれてしまった。ほんとに退屈ほど恐ろしいものはない。

こんなところで思いっきり鼻くそをほじくったりしたら、結構イベントになるかもしれないとか、こういう時にアルコールが出たら、すぐにタコみたいに顔を真っ赤にして状況に全然関係ないことを大声で話しまくるオッサンとかが必ず登場しておもしろいのになあ、とか妄想にふけっていると、なんと同僚のモハメッド・シディクがスピーチを始めたではないか。よっ!頑張れ!ここらで一発かましてやれっ!とか心の中で一応叫んでみた。

シディクの話が始まると、大ホールが完全に静まり返ってしまった。恐ろしいことにみんな聞き始めたのだ。それまではあちこちのテーブルから聞こえていたヒソヒソ話の声がぴたっと止まった。大ホールが真空になってしまったようだ。僕もいつのまにか最後まで一語も聞き逃さないように聞いていた。

終わった。誰も何も言わない。これまでの誰かのスピーチの後のようにパラン、パランという義理堅い拍手の音もない。完全な静寂。その真空の一瞬の後、はっと気がついたように誰かが立ち上がって、拍手をし始めた。それを見て他の人たちもやっと今、目が覚めたように立ち上がりながら拍手を始めた。大ホールがものすごい拍手の渦になった。なかなか止まない。目頭を押さえてる人たちがあちこちにいる。僕も今喋ったら泣いてしまうので絶対に喋れないと思った。これまでのエライさん達のスピーチはなんだったんだとふと思ったが、もうどうでもいいではないか。

翌日シディクに、日本語に翻訳して日本全国に公表したいからとウソをついて、原稿をもらった。


Mr. Mohammad Sediq
Chief of Operations
United Nations Mine Action Center for Afghanistan (UNMACA)
Dinner on 29 March 2007
Ministry of Foreign Affairs
Kabul, Afghanistan


Excellencies, Ladies and Gentlemen,

It is my great honor to be here with you this evening.

I want to tell you a little bit about myself, and how I come to be speaking to you this evening. It has been quite a long journey.

I became the Chief of Operations at UNMACA in November of last year. This was the first senior management post ever to be nationalized at UNMACA and I’m sure is the start of many more to come.

Although I received a new title just a few months ago, I am not a newcomer to mine action. I have been with the Mine Action Programme for Afghanistan since its very beginning. I started out as a surveyor/deminer with the Afghan mine action NGO called the Mine Clearance and Planning Agency, MCPA, in 1990 when I was just 20 years old. Throughout all of my adult life, I have worked in various positions in mine action, including team leader, operations assistant and area manager, in various regions of Afghanistan.

Remarkably, I am not alone. There are many men like me, who have been a part of mine action for almost two decades, who have devoted their lives to the cause, who have risked their lives to clear Afghanistan. It’s because of this loyalty and dedication that the Mine Action Programme for Afghanistan is not just an organization, but a family that extends to the far reaches of Afghanistan.

I have known many of the people at UNMACA and the implementing partners for years now. These men have become some of the best experts in mine action in the world and some of the world’s most passionate advocates of mine action. It’s directly due to the courage and the exhausting work of these men that 60 percent of all the contaminated land that existed in Afghanistan has been cleared to date.

When I began in 1990, the field of mine action was still in its dawn. Deminers wore no PPE, the Personal Protective Equipment that today includes a Kevlar helmet, chest armour and apron armour that altogether can weigh up to 14 kilograms. The deminers then had very little training and had only most basic of equipment. Thanks to the support of the international community, deminers today no longer have to go out into the field with just the shirt on their back. They have some of the most advanced equipment to protect themselves and clear their country.

Sadly, demining will never be a risk-free job. I was part of a group of 21 young Afghan Refugees who were deployed into the field for doing technical survey of the mined areas 17 years ago. Only 5 of them are not killed or injured by mines. Many of those men I worked with paid the ultimate price to clear their country, and deminers are still sacrificing their lives. In 2006 alone, three deminers were killed and 33 were injured while they cleared Afghanistan of mines and unexploded ordnance.

Deminers these days encounter other threats besides those lurking in the ground. Astonishingly, deminers who are willing to lay down their lives for the future of Afghanistan have increasingly become the victim of insurgent attacks over the past years. Last year, four deminers were killed and six were injured due to insurgent attacks.

Demining is incredibly dangerous. Demining is incredibly difficult. Why do these people that I have worked with closely since 1990 do it? They do it for the simplest and best of reasons. They want a better Afghanistan. They want an Afghanistan that is safe for their children, an Afghanistan where farmers can plant crops without fear, an Afghanistan that is primed for development and an Afghanistan that is completely free from the scars of war, an Afghanistan that can provide another work to them.

I remember the last words from one of our colleagues Mr. Eng Nazar Gul? who was very deeply injured by the blast of an Anti personnel mine while we were working in a minefield in Sarde Dam of Ghazni, he was without both hands, both eyes and had a deep injury in his thigh and numerous other injuries on his body. While he had only a couple of more hours to live due to the lack of medical facility while his eyes were fastened and was shaking due to pain he was feeling told us: Continue your struggle until the last mine – the enemy of humanity in Afghanistan is destroyed. I will never forget this.

Unfortunately, the vast majority of men that are out in the field every day risking their lives for Afghanistan are not here tonight. As you well know, they are the true heroes of this night. But they are humble people, and I know that if they were here they would thank you for your support over the years. And they would hope that you will stay with them through the end – until their mission is accomplished and Afghanistan is finally free of the threat of mines and unexploded ordnance.

As I’m standing here, before of you, Ministers, Excellencies, Ladies and Gentlemen, I know that Afghans can make it, as I did. In 1990, I was on the ground searching the dirt of my country for mines, and, today, I am speaking to you at the Ministry of Foreign Affairs as the chief of operations for the entire mine action programme.

Hard work and dedication has its rewards: I am optimistic that my country will prove that to the world, one day. Hard work and dedication have removed more than half the mine problem in Afghanistan already, and there will come a day very soon with the continued hard work and dedication of all of us here tonight and all those in the field, that the very last mine will be removed from Afghanistan.

This short movie is to pay a tribute to the men of the mine action programme for Afghanistan who have contributed to a safer environment for all of us, and to honour to all the donors who have made this possible.

Thank you very much.

Sunday, April 01, 2007

blue grey

もう4月1日かあ。ぎりぎりでなんとかすべてのIP契約書が発効した。終わってみると、この三週間は一瞬の夢だったような気がする。でも、今回は大幅にスタッフに任せたので、彼らに比べたら僕はそんなに疲れてないだろう。みんなよくやったもんだと思う。もう全部任せても大丈夫だろう。撤退の時期を逸すると良くないなあ。
週末にNYからエライ人が来たので、ドナー国大使やらアフガン政府の大臣さんやらのミーティングがあった。今日は所内の会議。順序が逆だけど、エライ人達の日程の都合でこんなことになる。どちらでも去年度と新年度(今日から)の財務状況のブリーフィングをしたけど、一生自分では触ることも見ることもないだろう何十億円という金額の話を続けていると、だんだん何を言ってるのか分からなくなってきた。史上最低のウソつきになったような気分がする。疲れた。

久しぶりに自分の作った blue grey という名のPlaylist をボーっと聞きながら iTunes をさわっていたら、曲名が書き出せることを発見した。blue grey に合う曲を集めて選んだつもりだったけど、今聞いてみると、ただ単に好きな曲が入ってるだけだった。

Song title, Artist
7 Seconds, Youssou N'Dour
Fly Away From Here, Aerosmith
See The Sky About To Rain, The Byrds
Bad Day, Daniel Powter
Sacrifice, Elton John
Little Wing, Jimi Hendrix
Since I've Been Loving You, Led Zeppelin
Illegal (Album Version), Shakira Feat. Carlos Santana
Everything's Gonna Be Alright, Sweetbox
Everybody's Stoned, Wet Willie
The Man Who Sold The World, Jordis Unga
Baby, I Love Your Way, Mig Ayesa
Amanda, Boston
More Than Words, Extreme
Hold Me, Charlie Sexton
WINTER SONG ("雪のクリスマス" Worldwide Version), DREAMS COME TRUE
Don't Dream It's Over, Crowded House
Leader Of The Band, Dan Fogelberg
Without You, Janis Ian
Your Song, Elton John
Imagine, John Lennon
Confide In Me, Kylie Minogue
No Secrets, Rob Mullins
Lay Your Hands, Simon Webbe
Shape Of My Heart, Sting
Tom's Diner, Suzanne Vega
Workin' On A Groove, Jody Watley
Backdoor Man, Viktor Lazlo
Heal The World, Michael Jackson
Open Your Eyes, Bill LaBounty
Sonny Say You Will, Alannah Myles
Wonderful Tonight, Eric Clapton
One More Try, George Michael
I Wish It Would Rain Down, Phil Collins
You're Only Lonely, J.D. Souther
Nothing Compares 2 U, Sinéad O'Connor
Wild World, Mr. Big
One Of Us, Joan Osborne
Too Much Love Will Kill You, Queen
Let It Grow, Eric Clapton
Cause We've Ended As Lovers, Jeff Beck
While My Guitar Gently Weeps, The Beatles
It's So Easy, Sheryl Crow
Who'll Stop The Rain, Creedence Clearwater Revival
Love Profusion, Madonna
No Woman, No Cry ( Trenchtown Dub ), Bob Marley
Angie, The Rolling Stones
罪と罰, 椎名林檎
Wish You Were Here, Pink Floyd
Losing My Religion, R.E.M.
ノンノン人形, Saint Etienne
Run, Baby, Run, Sheryl Crow
America, Simon & Garfunkel
雨の街を, 荒井由実
Sunday Morning, The Velvet Underground
Space Oddity, David Bowie
Don't Speak, No Doubt
Woman, John Lennon & Yoko Ono
A Whiter Shade Of Pale, Procol Harum
Head Over Feet, Alanis Morissette
Love Is, Alannah Myles
Lover Of Mine, Alannah Myles
a piece of memory, 相川七瀬
Tears In Heaven, Eric Clapton
Maggie May, Rod Stewart
Get Here, Oleta Adams
Some Kind Of Bliss, Kylie Minogue
Reason Why, Rachael Yamagata
Be Mine, R.E.M.
All 'bout The Money, Meja

Sunday, February 25, 2007

Fairy-tale country

とうとうブータンにやってきた。
ここに着いてから、「なんて素敵な国なんだろう!」というセンテンスが一日に何度も頭の中に浮かんでくる。

初めて来た国なのに、懐かしさにハッとすることが何度もある。駄菓子屋さんの古い木戸の前にたたずんで静かに話しをしている、着物のような制服を着た女学生たち。その前を赤ん坊を背負った、やはり着物姿の女の人が通り過ぎていく。こんな場面に出会ったことがある、と思う。それが自分の記憶なのかどうかさえ怪しいのだが、確かに郷愁が胸の中いっぱいにわいてくる。



広場の中に立つ時計塔と広場を囲む、コンクリートではない建物。こんな場所が40年くらい前にはどこかに確かにあったとまた思う。ただそれがどこだったのか思い出せない。だから余計に郷愁が強くなるのかもしれない。

日本の着物とそっくりの服を来た人々が通りを行きかう。僕はその中をジーンズをはいて歩いているのだが、どんなに慣れている国にいても、外国の街を歩く時に感じる無言の圧迫のようなものを微塵も感じない。まるで何十年も住んでいた街にいるようだ。





自然破壊を未然に防ぎ、伝統文化を維持しながら、少しずつ着実に普通の人々の生活を豊かにしようとしている国。開発・近代・民主主義という悪魔の囁きにあっさり溺れることのない賢い人々の国。地球上にたった一つだけだろう、こんな国。

出国の前日、首都のティンプーから空港のあるパロに移動した。川に沿った道を17年前LAで同級生だったブータン人の友人が運転する車で走っていく。途中で通行止めにあった。道が細いので一方通行にしていたのだ。一時間待てばこっちから向こうへ走る車の番になるという。のんびりしたものだ。

車を運転している人も誰もあわてない。イライラしている人も一人もいない。道端にお菓子や飲み物を置いて売っている人がいる。車の中でぼんやりしていると、一人のおばあさんが干した赤唐辛子を売りに来た。ソナムがカブールでいつも使ってるやつだ。いくらか聞くと1キロ分くらいの大きな袋にいっぱいで 200円くらいだという。全部使うのに2年くらいかかりそうだと思ったが、一袋買った。


車の中に座っていても退屈なので、外に出て川のある崖下に向って歩いてみた。川の水が透き通っている。どこにも車が走っていないので聞こえる音は水の音だけだ。きれいな空気に澄んだ水。人間はこの自然に何をやらかしたんだろう、と思う。

オシッコがしたくなったが、どこにしてもいいってものでもないだろう。それなりの決まりがあるかもしれない。崖の上の方で心配そうに僕を見ている友達に「オシッコがしたいんだけど、どこですればいい?」って怒鳴ってみた。手振りで「その辺」と言ってる。

オシッコをしながら、渓谷を流れる川から少し視線を上げれば、遠くの方には頂が白くなった高い山の連なりが見えた。ヒマラヤ山脈の一部なのだろう。その上の空はとても青い。

崖の上にむかって歩き始めると、崖と思っていたものが段々畑状になっているのに気がついた。とてーも細い段々。そこに梅の花が咲いていた。素敵な国だ。

江戸?(↑)