Thursday, January 10, 2008

ソクラテス以前

1月はどうにもこうにも忙しい月ではないか。クライアントに提出する年次財務報告書の締め切りがいっせいにやってくる(1月31日とか2月15日だったりする)。報告書を書くのに忙しいと思われるかもしれないが、書くこと自体にはそんなに時間はかからない。

書く内容が大問題なのだ。すでに使ったお金と、残ったお金の二種類しか世の中にはないように見えるが、実はもっといろんな種類がある。

使うつもりで使途を決めて押さえていたお金、つまりコミットしたお金というものもある。そのコミットしたお金にも当然二種類のカテゴリーが発生する。コミットした分の中でほんとに支払われたものと、まだ支払われていないもの。

そして、コミットしたが、まだ支払われていないお金の中にも何種類かのカテゴリーが発生する。支払う気をなくしたもの(コミットやめたもの)、支払ったはずだがなんらかの理由で受け取られていないもの、支払われたが金額が間違ったもの、あるいは間違った相手に支払われたもの。考え出せばいくらでもある。

入ってくるお金の方も何通りかのカテゴリーがある。約束通りホントに払われたものと、払われなかったもの。前者にもいくつかの種類がある。払われたけど、間違ったプロジェクト口座に振込まれたもの、どの口座に振込まれたか分からないもの、金額が間違ったもの。

後者には、なんらかの理由で意図的に支払われていないもの、官僚主義のどこかでとまって支払い期日に入ってこないもの、どこにミスがあるかわからないがお金が届いていないもの。

これらが全部マニュアルで操作できれば、それなりにでっちあげられるのだろうが、すべてシステムに入っているので、いいかげんな操作はできないようになっている。

年次財務報告書を仕上げて期日通りに提出できなければ、僕の所属するグループだけでも次入ってくる予定の120億円の入金が遅れて、フィールドでの活動をストップさせたくなければ、借金をするはめになる。というわけで、今、トップ・プライオリティの仕事は何が何でも年次財務報告書を全部(何十個にも分かれている)仕上げて提出するということのなのだけど、問題続出で関係者全員の髪の毛が逆立って、オフィスはもう狂人の館と化してきた。

このクソ忙しい時に、論文を一つ書く約束をしてしまったし、本部の慰安旅行というまったくどうでもよいようなことを17・18日という信じ難い時期にやらかすし、本部に全世界の契約を承認する委員会があるのだが、この最悪の時期にその仕事が回されるし、2月3日から1週間NYに行かないといけないし、もう全部投げ出すしかないんではないか。

こんな時に限って、全然関係ない本を読みたくなる。日本で買って読み始めていた木田元の『反哲学入門』を最終章を残して読み終わった。僕が特に興味があったのはニーチェ以前と以後なのだけど、それがものの見事に分かりやすく説明されている。ソクラテス以前と以後で、世界の見方が根本的に変わっているということが、この本では丁寧に説明されていて、ニーチェの存在が腑に落ちるように位置づけられていた。きっとニーチェに突出感を感じる人は少なくないと思うけど、それには理由がやはりあったのですね。

ソクラテス以前・以後というのは、西洋の発生前と発生後と言い換えてもいいかもしれない。僕は日本庭園のことが頭にあって、この『反哲学入門』を読み始めた。デンマークで見るような庭園と日本庭園が根本的に異なった思想を背景にしているのは、どんな素人が見ても一目瞭然だ。自然を徹底的に外部のものとして対象化しているか、自分も自然の一部となっているか、といえばまとめ過ぎかな。この本がおもしろかったのは、実は今西洋と呼ばれている地域でも、ソクラテス以前には、自然を外部化するような超越的な視点は当然のものではなかったという話だ。つまり、現在の西洋的・東洋的という二種類の根本的に異なった思想的基盤はその頃には明白ではなかった。

ニーチェはそれに気がついた人で、かつソクラテス以後、今でいう西洋の哲学の基盤を形成する超越的な存在の想定、それを彼らの思想のボトルネックだと考え、否定しようとした。彼が神を殺さなければいけなかったのはそういうことだったのだ。だから、反哲学とは反ソクラテス以後、つまりソクラテス以前という意味だし、日本に哲学が存在しないというのも、この文脈ではあたりまえの説明になる。

ふーん、なるほどねえ、と思いながらほとんど日本の電車の中で読んだのだが、ちゃんと分かっている人が書いている本というのはなんと分かりやすいものか。分かりにくいものを書いてしまったら、それは自分が分かってないということなのだ。

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