Thursday, January 05, 2006

カレー

今日はランチに近所にある「つちたちこどもクリニック」の医療事務のおねえさんがやってきた。子どもが二人とも、しょっちゅう風邪をひいたり、熱を出した り、かつ下の子がアトピーで喘息気味なので、すぐ近所に小児科があるのはとても助かる。それでも、僕がいない時は日本語の分からない妻一人と小さい子ども 二人になるので、子どもの病気や怪我の時どうなるかがとても心配になる。

「つちたにこどもクリニック」のつちたに先生も看護婦の人たちも医療事務のおねえさんもなんとか英語を駆使して、しばしばかけこむ我が家の三人の世話をほ んとによくしてくれる。一度下の子の喘息の発作が夜中に出て救急病院に行き、その翌日すぐにかかりつけの「つちたにこどもクリニック」に行かなかったこと を妻はつちたに先生に怒られたらしい。

妻は怒られたことよりも、つちたに先生の真剣さに感動していた。「つちたにこどもクリニック」のおねえさんをランチに招いたのはそういう事情であった。但し、妻としてはいろんな人を招いたつもりだったようだが、そこはコミュニケーションがうまく行かなかったようだ。

妻がカレーとカバブを作っている間、このおねえさんの相手をするという役割を授かったのだが、こんな若い女の人といきなり対面で座ったところで、何を話せ ばいいのか分からない。幸い子どもが邪魔をしてくれたので、それに乗じることにした。子どもはお客さんが来るととにかく喜んで遊びたがるので助かる。

今回帰国して一日目に妻が近所の日本人たちがとても親切なことに感動する話をしていたので、僕はちょっとほっとしていた。そもそも日本人の親切や好意とい うのは微妙なところがあり、異文化の人には伝わりにくいし、「外人」や「よそ者」に対する警戒心もあるので、日本は外国人にとって決して住みやすい国では ない。しかし、日本人のマヌケなほどの善良さというのは世界的に見てもトップクラスだと思う。それが伝わるには時間もかかるだろうし、そもそもちょっとし たネジレでまったく伝わらなくなることもあり得る。

我が家は都会から離れた山の麓にあり、昔から住んでいる人も多く、伝統的な人間関係がまだ残っている。狭い世間というものが存在し、そのような場所には夏 目漱石のような近代的自我にとっては不愉快なこともあるだろうが、良いところもあるものだ。少なくとも隣に住んでいる人が誰だか分からない殺伐さというも のはない。

近所の床屋にしろ、薬局にしろ、スーパーにしろ、みんな僕以外の我が家三人を知るようになり、やがてこの伝統的共同体の一員として見なすようになったらし い。そうなると、日本人というのは堅苦しいことを抜きにした親切さを発揮できるようになる。妻はこれにとても驚き、感動していたのだ。バスの運転手が日本 語が読めず乗るバスを間違えた我が家の三人から運賃を取らなかったとか、停留所のないところで降ろしてくれたとか、来る時間が遅くなったタクシーが運賃を 取らなかったとか、そんな話を聞くと僕も驚いてしまう。こんなことは、僕にもなかなか起こらないだろう。

妻は、日本人はどうしてこんなに自信がないのかということを疑問に思っている。何の根拠もなく自信満々の人々に囲まれて辟易としている僕とは対照的な世界に住んでいるのだ。

* * *

『国家の罠-外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤 優(新潮社)を読んだ。話題になったことさえ、全然知らなかったが、どこかでこの書名が言及されているものを読んで買ったのだった。どこでこの書名を見た のかな。まったく思い出せない。この記憶力の衰退にはホントに困ったものだ。脳のどこかが毀損したのではないだろうかと思ってしまう。

ものすごい量の書評が書かれたそうだし、ネットで検索してもドバッと出てくる。賛否両論、話題になった本であることが分かる。しかし、カブールに持って帰る本を減らしたい一心でかなりいいかげんな速読になってしまった。

この本の外務省や検察庁に関する記述がそれほど話題になるというのも妙だなと思った。こういうことはもう延々と言い尽くされてきたことではないか。今さら 感はぬぐえない。それにしても、組織がこういう人を内部に包容できなくなれば、組織は腐っていくとは思う。それこそ、今さらか。もう腐っているってか。

著者は「国際的スタンダード」という言葉を使い、常にそれが念頭にあるせいか、しばしば「国家」とか「政府」という無国籍な概念を使って分析を行うのだ が、著者が絡めとられていくのは、国際的には極めて特殊な日本的「村」社会だ。それを意識した上で、なおかつ日本という「特殊」を認めないという立場なの だろうか。

著者が繰り返し述べる仕事に情を挟まないという姿勢(自分のプライドなんかに判断力を鈍らせないみたいな)と、行間から感じる著者の持つ情(信頼を裏切ら ないみたいな)のギャップが興味深い。明示的には前者を主張し、黙示的に後者を表現するというもくろみを持って書いたのか、たまたま隠し切れないものが現 れてしまったのかは分からないが、このギャップが読者に義憤を感じさせることに貢献していると思う。「忠臣蔵」を思い出す物語構造だ。

著者は同じ構造で罵倒や中傷の言葉を使わずに登場人物の多くのバカさかげんを表すことに成功している。日常において(つまり事件化以前において)冷静な分 析能力に欠け、国家、いや組織レベルの目的さえ見失い、せいぜい所属課レベルの論理で走り回り(つまり、狭い世間の情にからまり尽くす)、いざ自分が事件 の渦中に入ってしまうやいなや、情も信頼もかなぐり捨てて自己保身のため冷酷無比な人間となる人々として描かれている。

A型:日常(表層):利・理、非日常(内面):情・心
B型:日常(表層):情・心、非日常(内面):利・理

という対比が物語の中で使われたら、B型の人はとてつもなくアホで醜く見える。著者が意識して、このような物語構造を採用しているのかどうかは分からな い。もしそうだとして、外務省時代に身につけた情報操作の技術を使っているのか、あるいは個人的にシェークスピアやギリシャ神話に造詣が深く、趣味的にそ んな書き方をしているのか。

この本では当然ムネオ・マキコ抗争にはかなりページが割かれているが、当時からメディアが煽る「ムネオ=悪玉 vs マキコ(+某NGO)=善玉」という構図については、アフガニスタンが少しからんでいたこともあり、いろんな人から異論を聞いた。その後、そういう異論も メディアに出たのだろうと思うが知らない。

マキコを持ち上げるバカさかげんについては多くの人が言及していたし、ムネオの実像についてもまったく反対の話を聞いた。それよりも、当時、体制にとって 良い子であるというポジションに着くNGOには疑問が残ったのを覚えている(NGOが良い子であることに異論はないけど)。それなら、NGOなんて存在す る必要があるのだろうか。大きな日本のNGOの場合は、活動資金における政府からのお金の比率が高くなる傾向があり、その結果、限りなくGOに近くなって しまうという現実が現れていただけとも言えるが。

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