Saturday, January 21, 2006

クレオパトラ

数日前の夜中に見始めて、最後まで見終わらなかった『クレオパトラ』のDVDを20日の夜中に見終わった。クレオパトラそのものよりも、シーザーがどんなふうに登場するかが見てみたかったのだが、終わってみると、クレオパトラがとても好きになっていた。

クレオパトラと言えば女神のような(実際生きているうちからもう女神扱いだったのだが)、神々しい、高貴なイメージを持っていた。が、クレオパトラはいき なりどうしようもないあばずれの根性悪女として登場してくるし、クレオパトラ役をやっている女優(レオノア・ヴァレラ)も絶世の美女タイプではないし、こ れははずれたかなと思い始めたので、一気に最後まで見ないで初日は寝てしまったのだった。

ずっと見ていると、クレオパトラの中にある、(1)計算高く、かつ(2)感情的で、嫌な女という二種類の衝突する嫌さが、この映画にはよく描かれている。レオノアは表情の動きからしぐさまで使って、そういう嫌女をあらわすのがとても巧みだった。

しかし、本筋はそんな貧乏臭い私小説みたいなところにあるのではなくて、国家の生存という問題にあったと思う。ローマ帝国という巨大な力の前で属国扱いの エジプトをいかに滅亡させず生存させていくか、しかも奴隷のように生きるのではなく、エジプト人が誇りをもって豊かな生活を維持して生存していけるように するにはどうすればいいのか、そういう大問題がたまたま女王になる血筋に生まれてしまったクレオパトラには課せられていた。

計算高くなろうとしてもなりきれない、感情に身をまかせようとしても国家の命運を考えて計算しなければならない、あるいはどちらになることもあえて捨てて国家を救うために自分の人生すべてを費やす女がクレオパトラだった。

結局、嫌な女を描くのがこの映画の目的ではないし、最後にはそんな嫌さは吹き飛んで、エジプトを守ろうとする---それもあくまでも誇りを持って---ク レオパトラの純粋さに見ている人は打たれてしまう。異なった状況に生まれていたら、きっとクレオパトラはただ可愛い女として幸せな一生を送れただろうにと 思う。あるいは鼻がもう少し低くてブスだったら。

オクタビアヌスがどうしようもなく嫌な男として描かれている。この監督にはオクタビアヌスに対する憎悪があったとしか思えないくらいだ。塩野七生が描くオ クタビアヌスしか知らないのだけど、彼にはどうしても魅力を感じない。結果的には、彼がアウグストゥスとなってシーザーのデザインしたローマ帝国を完成さ せるわけだから、偉大な人なんだろうけど、この映画でもオクタビアヌスは実戦の指揮をとればことごとく負け、そのために指揮官とは名ばかりで自分は後ろで チョロチョロするだけで他人を前に立てて臨戦する姑息な男として描かれている。しかし、シーザーという天才がやりかけた事業をこの魅力のない凡才がやり遂 げるわけだから、世の中には天才も凡才も魅力のある人もない人も必要なのだ。

アントニウスはとてもいい奴として描かれる。彼を見ていると、『悪名』の八尾の朝吉の子分(田宮次郎が演じていた)とか『傷だらけの天使』のオサムちゃん (ショーケン)の子分アキラ(水谷豊)を思い出した。常に二番手としては最高の男というのがいるのだと思うが、彼はそういう男だったのだろう。シーザーの 死でトップに立つはめにいたって壊れてしまう。逆境に入った時のクレオパトラの強さとアントニウスの弱さは対照的だ。逆境で強い女と弱い男の象徴として描 かれたのかもしれない。

戦闘に勝利したオクタビアヌスはクレオパトラをローマに連れて行こうとするが、クレオパトラにそんな気はさらさらない。ローマ人が周りにいない間に、クレ オパトラは毒蛇に自分を咬ませて死んでしまうという有名な話が最後の場面に出てくる。オクタビアヌスはあわててへーこらへーこらとクレオパトラのところに 戻ってくるのだが、侍女二人とともにクレオパトラはもう死んで横たわっている。

オクタビアヌスはその時、とても小者ふうにムカッとしてなんかやり場のないしぐさの後、他のローマ人が誰も見ていないのを確認して、クレオパトラの死体に 向かって、コソッと「You won.」と言う。結局、オクタビアヌスはクレオパトラに勝てなかったのだ、この監督はそう描きたかったのだと思う。クレオパトラに惚れているんだろう。 僕の中でも、歴史上いい女ランキング1位にクレオパトラがのしあがってきた。

* * *
もう寝ればいいのに、全然眠くないので、続けて『Lion of the Desert』(邦題は『砂漠のライオン』か?)を見た。もうずっと前に買っていたのだが、まだ見ていなかったのでした。

これはすごい。それと共に、こんな映画をよく作ってくれましたと素直に感謝したくなる。これは1920~30年代にムッソリーニ政権下のイタリアが今のリ ビアのあたりを植民地化している頃の話なのだけど、ベドウインを相手にイタリアはもうめちゃくちゃする。人権侵害なんてそんな一言でいったりしたらバチが 当たる。実話に基づき、残っている実写フィルムなども使い、武器やら戦車やら人物などなにもかも忠実に再現しようとしているから迫力がある。

ベドウィンのリーダーの一人、オマール・ムクタールになりきったアンソニー・クインの演技がまたすごいです。アンソニー・クインはこの人物をほんとうに尊 敬し、好きになったそうだ。ファシズム下のイタリアは、古代のローマ帝国をお手本にする、というか夢見ていたのだけど、この前モニカにもらった本のハドリ アヌス皇帝が作ったHadrian wall を見習って砂漠に鉄条網を延々と張る話がちゃんと出てきて、へーっ、鉄条網にそういう言い訳するわけって思った。

元教師のムクタールは声を荒立てるというようなことがまったくなく、常に静かだった。強姦・虐殺しまくり、砂漠の民、ベドウインを強制収用所に閉じ込め る、やたらうるさくて下品なグラチアーニ将軍とは対照的だ。ベドウインのためではなく(平和のためでさえなく)、自分の出世と保身のために手打ちを持ちか けるグラチアーニ将軍にムクタールはちょっとキョトンとした感じでそっけなく言う。「--- 勝つか死ぬか、それしかしない。私が死んだら、戦いは次の世代、次の次の世代、次の次の次の・・世代が続けるだけのことだ」

確かに、今は次の次の次の次くらいかもしれないが、まだ続いていますね。それにしても「対テロ戦争」という概念の浅はかさにはめまいがしてくる。

最後にオマール・ムクタールは公開絞首刑となる。さっさと事務的に処理を終えるイタリア軍の兵たちの中で、グラチアーニ将軍は一人立ち尽くしていた。慟哭 しながら行進するベドウインの群れの中でグラチアーニ将軍は痴呆のように呆然としながらとぼとぼと歩いている。最終的には、彼だけがオマール・ムクタール の偉大さを思い知らされたという解釈になっているのだろう。それがほんとうなのかどうか知らないが。

彼は根っからのファシストだっただろうか。単に出世を望む一人の役人に過ぎなかったのかもしれない。グラチアーニ将軍役をやっていたオリバー・リードはインタビューでそんなことを言っていた。こういう点ではアイヒマン裁判を思い出す。

『アルジェの戦い』ではフランスがむちゃくちゃしているし、『アラビアのロレンス』ではイギリスがむちゃくちゃするしているから、『砂漠のライオン』で、 英・仏・伊のむちゃくちゃ三部作が揃う。ポスト9・11でわいわいするのもいいけど、プレ9・11でもわいわいしないとなあ。

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