Tuesday, January 10, 2006

書後感

(1/7、1/8、1/9、1/10をまとめてアップ)

今日、アフガニスタンは全国的に休みだ。イード休みなのだ。イードとは何なのか?それはインターネットで調べましょう。

10・11日が休みで12日が出勤、そして13・14日が週末でまた休み。正気の人間は当然12日に休暇をとって5連休にして、アフガニスタンを脱出するのだが、僕は戻ったばかりでタイミングが悪い。それでも、一応イスラマバードへ出る便をチェックしたが満席。

午後、オフィスに行ってメールをチェックする。昨夜送った『フォーサイト』の原稿の返事がショーコさんから来ている。なんかお叱りのメールが来ているので はないかと思ったが、そうでもなかったのでほっとした。僕が気分を壊さないようにいつも細心の注意を払ってくれているようだ。

前も書いたような気がするが、編集者の仕事というのはカウンセラーのようなところがあると思う。僕はむしろ仕事上の情報のやりとりはできるだけ簡潔に明確 に、できれば数式のようにすればよいと思っているし、一番最初にショーコさんにもそうしてもらった方がやりやすいというようなことを言ったのだが、情報と いうより「情」がいっぱいつまった生ものを扱う職種ではそうもいかないのだろう。ちまたに溢れかえる膨大な量の書物のほとんどはとても正気の沙汰のしろも のとは思えないが、それを書く人が必ずいるわけだから、そういう人をあやす技術を身につけなければとても編集者なんてやってられないだろう。

読後感という言葉はあるのに、書後感という言葉がないのはなんでかね?他にそれに相当する言葉があるのかもしれない。後記とはちょっと違うような気がする。

今回、その書後感がちょっと変わっている。原稿を書いたという気が全然しないのだ。書いたという事実が記憶として残っていないとでも言うか。これはどうし たことだろう?脳の使い方が違ったのか、脳の違う部分を使ったのか?僕の記憶には「書く」という行為とは別の作業として分類されているように思われる。

今回は情報の伝達が主たる目的だった。キーだけを伝える要約というような作業はまさに仕事中に年がら年中やることだけど、その時には、いくら文字を書き倒しても「書く」なんて毛頭思っていないから、今回の原稿は脳の中でその種の作業として分類されたのではないか。

以前、ショーコさんに僕の原稿には「オレオレオレ」なものが出ていると言われて驚いたことがある。オレオレ詐欺みたいな文章か、とは思わなかったが、勝手 気ままに心を紙に映すなんて作業ではなく、初めにテーマありきで、それに従って書いていたので、そこに「オレオレオレ」が出ているとはなんたる不覚かとは 思った。

しかし、よくよく考えてみると、どんなテーマであれ、自分の中の心象風景と繋がるものを探して書いていたではないか。むしろ、自分の中のなんらかの emotion とまったく繋がりのないものを書くのはイヤ、イヤとごねてショーコさんを困らせていたではないか。そういう書き方をしていると、それが文章中に個々の具体 的な表現・単語としては存在しなくても、読み手が全体から「オレオレオレ」を嗅ぎ取ったとしても不思議ではない。

僕にとっての「書く」というのはきっとその「オレオレオレ」的なものと繋がっているのだと思う。どんなものを「書く」時も、自分の中のemotion と関連付けている。そして、それができた時に「書く」という実感があるのだろう。読む人にとっては、それが「オレオレオレ」臭として現れる。

だから、今回のように僕の心象風景などかけらも現れない原稿の場合、「書いた」感がまったく残らない。小説や詩を書いているわけではないので、それでも問題はないと思う。しかし、ショーコさんの鼻は利く。何か足りないことを嗅ぎ取っていたではないか!キャーッ!

編集者ショーコは、「編集長に言われたわけではないのだけど・・・」とまず軽くジャブを出す。ここで、書き手はちょっと肩で風を切り、立ち去るふりをする。「ふん、じゃあ、いいではないか・・・」。

夕日に向かって消えていく書き手の後姿に、編集者ショーコはキメの一言をかける。「ただもっと、あなたふうにできないかと。それが、私の望み。今のなら、他の人でも・・・。」

書き手はそこで足を止める。私の望み、などと言われては・・・うっうっう(嗚咽の音)。そうまで言われたら、相当つわもの の共産党員でも転んだであろうと自分を慰め、書き手は再び筆を手にするのであった・・・。

てなほど劇的展開はないのだけど、最後の修正で「書いた感」を奪還すべく、文末の7文字に全 emotion をこめた。あ~長い書後感。

* * *
ずっと気になっていた個人メールの返事を書き始めることにした。年賀状を出さなくなってからもう30年ほど経つ。飲み屋や散髪屋以外の年賀状は一通も来な くなった。しかし、最近、年賀e-メールが少しずつ増えている。メールならハガキよりもたくさん書きやすいのか、めったに会わない人の近況が書いてあっ て、たまにはおもしろいものだと思う。

儀式性のみが残っていて気がつかなかっただけで、年賀状とはそもそもそういうものだったのかなと思う。形式だけというのが僕はどうも苦手なので毛嫌いしていたが、年賀状も見直した方が良いかもしれない。

ブータンのYogeshはロサンゼルスに住んでいた時の友人だ。ブータン政府の役人だったが、官僚を辞めてフリーのコンサルをやっているという。ロスの頃から、いずれそうなるだろうと思わせるものがあった。

ボストンのErieはハーバード大学に公衆衛生学のリサーチ・フェローとして派遣されているそうだ。なんか知らんけど、エラクなったんだろうなあ。

ボルチモアのChihoは、ニューオーリンズのチューレーン大学で公衆衛生学のPh.D論文を書いているところでハリケーン・カトリーナが来たので一時は どうなったかと心配したが、ちゃんと生存していた。チューレーン大学が水没したので、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学に席を移してPh.D論文を終 えるように教授が手配してくれたそうだ。そういう融通の利くところはまだまだアメリカの良いところなんだろう。今月からスーダンに短期コンサルタントに行 くらしいが、論文大丈夫なのかな。

アンゴラのChizuは僕がアンマンをちょろちょろしていた時に、アンマンのUNHCRにいた。和食を作ってくれたことだけ鮮烈な出来事として覚えてい る。が、何を食べたか思い出せない。それからザンビアに行ってスリランカに行ってアンゴラに行った。彼女の My Little Corner Of The World を見ると、知らない国の様子がで分かっておもしろい。

グルジアのYukaは、カブールのUNHCR時代に艱難辛苦を共にした、というより一番趣味の合う友人だった。カブールの後、ブラッドフォード大学に Ph.D を取りに戻った。ちゃんと博士になってグルジアのUNHCRに赴任したところだ。知り合いでもいなければ絶対行きそうにない国なので、彼女のいる間にグル ジアというところにも一度行きたいものだ。

NY のTakuはNHKのETV でNY ロケをした時の現地ディレクターだ。男前だし、英語はうまいし、メディア系だけど大樹に寄りかからず独立独歩。カッコよ過ぎ。

ワシントンDCのMioと会ったのは、僕が日本・アンマン・バグダッドの間を行ったり来たりしていた2003年のある日、飛行機が遅れてドバイの乗り継ぎ ができなかった時に彼女も同じ目に会っていて、なんとなく話をした時と、その何ヶ月か後、アンマンからイラクの国境まで向かう道中の砂漠の中の最後の街、 ルワシェッドでイラクから退避してアンマンに向かう彼女にバッタリ会った時の二回だけではないだろうか。その時は国連職員だったが、数ヶ月前、世銀に勤め ることになってワシントンDCに行った。仕事できそ。

NY のMarie-Anne はたまたま現在NYでの僕のカウンターパートの一人だけど、彼女とはずっと前、タリバン時代のカブールを一緒に過ごしたので旧友という感じがする。 Marie-Anne は時々ぽつんと仕事とは関係ないメールを送ってくる。仕事上のメールとはまったく異なった文体で書くところが見事だ。フランス的情緒みたいなものかどうか 知らないけど、カブールがぐちゃぐちゃでてんてこまいで、すわ玉砕かって時に、

"thinking of you in this early morning in NY..."

なんて書き出しのふわふわぁ~っとしたメール。カッカしていた頭も静まるってものだ。とてもありがたい友人なのだが、いざ返事を書く段になると、指が凍 る。「NYにいるフランス人の恋人に送るメール」という設定なら簡単なのだが、現実はそうではなく、彼女には三人の息子がいて、僕には二人の息子がいて、 うっかり設定を間違えたメールを書くと頭のおかしいエロオヤジになりかねない。調子に乗りすぎず、かつフランス的情緒に対抗する日本的情緒で勝負したいの だが、そうなるともう俳句でも書くしかなくなるではないか。

今日は年賀返事メール、何通書いたかな。

(トラックバックに変なものがついている。なんなんのかねえ、これ(↓)。
どなたか解明してくれません?で、トラックバックって何だったかな。)

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