Friday, January 13, 2006

「すくたれ」と「へらはる」

日本で買ってきた『対訳 葉隠』(山本常朝)を少し読む。なんととっちらかった本だこと。論理的な構成などないのであった。しかし、そういうことに驚くこ とが既にして近代・西洋・合理主義的感覚だということらしい。原文そのまま理解できないところが多いので、現代語訳と英訳をちらちら見るが、どちらも妙な 部分がある。やはりちゃんと原文が読めなければいかんと思う。

主君に対する絶対的忠誠、つまり自己の抹殺だと思うのだが、日露戦争の頃には、まだそういうのがしっかり残っていたのだろう。そうでなければ、ボンクラ将軍の指揮のもとでの、膨大な数の兵士たちのあの凄まじい死に方は理解できない。

『葉隠』は徹頭徹尾この主君への忠誠をとくのだが、これだけは、そしてそれが武士道の肝なのだろうけど、主君のいない人生を送る僕にはどうしても理解し難 い。急募主君!しかし、それ以外の、どちらかというと下世話な注意書きの羅列のような部分には納得できることが多い。しかも、その多くは僕が子供として 育った頃は常識として教えられたり、普通に通用していたものだ。しかし、そうではなく、意外!と思うようなところも少なくないのがまた興味深い。

「人に意見して、その欠点を改めさせるということは大切なことで、大慈悲の現れであり、ご奉公の第一である」と言われても、「大慈悲」と「ご奉公」でひっ かかってしまう。なんのこっちゃ?なのだ。ところが、それに続くところは現代でも、日々の仕事においても、まったく通用する。

「ただし、意見の仕方は、大いに苦心しなければならない。他人の善悪を見出すことは簡単なことである。それを批判するのもたやすい。たいていの人は、人の 嫌がる言いにくいことをいうのを親切のように思い、それを受け入れなければそれ以上どうにもならないことだという。それでは何の役にも立たないし、他人に 恥をかかせ、悪口をいうのと同じである。自分の気晴らしに言うにすぎない。
 人に意見をするには、まずその人が受け入れるか受け入れないか、その気質をよく見極め、心安い間柄になって、平素からこちらの言葉を信頼するように仕向 けておいて、相手の好きな話などから始め、言い方にもいろいろと工夫し、時期を選び、手紙とか別れの挨拶の折などに、自分の失敗談などを聞かせて、忠告せ ずにそれとなく思い当たるようにするとか、相手の長所を褒め上げ、気を引き立てるように工夫して、喉が渇いているときに水を飲むように聞き入らせ、欠点が 直るのが本当の意見である。」(以上、すべて現代語訳)

なんとまあ、細かいところまで書いてあるものだと感心した。天下の『葉隠』といえば、もっと高尚な哲学でも書いてあると思ったのだが、これはお爺ちゃんが孫に教える人生の知恵みたいなものではないか。

欠点やミスの指摘というのは、僕の仕事環境ではとても難しい。日本人にはまだ「言ってくれてありがとう」的な反応もあると思うのだが、異文化が集まった多 文化社会ではとんでもない反応が返ってくることもしばしばある。しかも、日本人であれ外国人であれ、国際機関などには自我の肥大した人が多いので(つま り、自分がエライ人だと勝手に思っている)、そもそも人の意見を聞かない風潮がまかり通っている。こんなところにいつまでもいるものじゃないなあとつくづ く思う。しかし、この『葉隠』の教えは国際機関で使えると思う。

日本的なふるまいや考え方と思わされてきたこととは反対の教えが、『葉隠』には入っている。たとえば、

「すら笑ひする者は、男はすくたれ、女はへらはる。」

というのがある。「すくたれ」という言葉はちょくちょく出てくるのだが、阿呆とかバカとかまぬけとかそういう意味らしい。ここの現代語訳は、「つくり笑いする者は、男なら心が汚く、女なら淫乱である」となっている。

戦後、全世界に巻き散らかされたジャパニーズ・スマイルという近代日本の新しい伝統を知ったら、山本常朝は切腹したんじゃないだろうか。ゲストハウスでい ろんな国の人とみんなでテレビを見ている時に、BBCやCNNに外遊中だかなんだか知らないが日本の政治家がちょろっと映るのを見ると、どうにもこうにも 恥ずかしくてまさに穴があれば入りたくなる。どうしてみんな「すら笑ひ」ばかりして、「へーこら」して、かつ「おどおど」しているのだ。それは全然日本的 じゃないぞと言いたい。ついでに思い出してしまったが、日本人女性はイエローキャブという愛称でしょ。ということは「すくたれ」と「へらはる」の国かあ。 なんだかなあ。

「口上又は物語などにても、物を申し候時は、向ふの目と見合わせて申すべし。禮は初めにしてすむなり、くるぶきて申すは不用心なり。」(公の場で物を申し 述べる場合、また話のときは、相手の目を見て話さなければならない。お辞儀は最初にすればそれでより。俯いてしゃべるのは不用心である。)

えっ?相手と目を合わせずに喋り、お辞儀しまくって俯いて喋るのが日本人だと思っていたが、そうではないわけ?アメリカで出版された日本人との交渉術の本にはそう書いたあったのに。これが日本人の習慣だからって。

明治維新前後に外国へ行った日本人の礼儀正しさに驚いた西洋人の言葉はいっぱい残ってる。それより数世紀前、イエズス会の人たちがやってきて彼らが日本人 に驚いた記録も残っている。それらは英語にさえ一部しか翻訳されていない。こういうことに日本政府はお金をつぎ込んでも決して損はしないと思うのだが、イ エズス会の古文書の多くはまだ眠ったままだ。礼儀正しさだけでなく、日本人の学習能力の高さとか責任感の強さが数世紀に渡って、非西洋人は土人だと思って いた西洋人を驚かせてきたというのは、歴史上かなり特殊なことだと思う。

『葉隠』を読むと、当時の日本人(主に武士なのだけど)のふるまいが少し想像できるし、何よりも現代日本で日本的だと吹聴されているものの多くが、かつて 西洋を驚愕させた日本性とはかけ離れたものだということが分かる。右傾化という現象には政治的な思想性よりも単にそのような現代日本の「すくたれ」とか 「へらはる」ぶりを憂う気持ちが大きな要素になっているのではないかと思う。というよりも、そういう庶民的憂いの気持ちを右傾化という言葉を使うことに よって政治化しているというべきか。

西洋人の前に出ると、突如「すら笑ひ」を開始し、外国人のいる集まりでは、決して誰とも視線が合わないように固く決意し、スピーチでもしようものなら、た だうつむいてモソモソと原稿を読み上げるような日本人の姿はいやおうなく誰の目にも入ってくる時代になった。そんな日本人を嫌悪しつつも、それは実は私な のだ、ということが、明確に意識するによせ、しないによせ、心に沈殿していくのではないか。自分達こそ「すくたれ」だというが現実があり、しかし「すくた れ」である自分は決して許せない。だから、より激しく現在を否定しなければならない。

今の自分は嫌だが、あんな自分がいいと思っている、その「あんな」の部分がとても曖昧なままなので、それは『葉隠』に書いてあるのか、『武士道』に書いて あるのかと探し求める。出版社喜ぶある。これ、アイデンティティの危機あるね。そして、擬似的な「主君への忠誠」の想定がナショナリズムという形で現れ る。しかし、「すら笑ひ」「へーこら」「おどおど」でない、自己を同一化する対象がないままで、ナショナリズムは個々人のアイデンティティ・クライシスを 解消することができるだろうか。

日本の現状には、「これが私」というのものを確立させることが、植民地から独立した国、戦争後の国の自立のキーであることと相似の試練がある。復興支援に まつわる議論が思想をあまりに軽視している、というかほとんご省みないのは大問題だと思うのだが、復興支援メニューはますますマニュアル化する。アフガニ スタンでも、やがてアイデンティティ・クライシスが顕在化するだろう。

外国における、日本男のつくり笑いと日本女のセックスは同じものだ。最初にアイデンティティの危機がある。あるいは、明確な自己の形が見えない。自分はこ の世に、この社会に存在しないのではないか。それは異文化の中ではより鮮烈に意識させられる。そして、その場に受け入れてもらうことが最初の一歩となる。 すら笑いをして受け入れてもらい、セックスによって受け入れてもらう。そうすることによって、自己の存在を確認しようとする。アホでも淫乱でもない。単に 受け入れられる手段としてつくり笑いとセックスが使用されるだけなのだろう。(ホントのアホと淫乱はもちろんいるでしょうが)。

とここまで書いて読み返した。何をぶつぶつ言うてんねん・・・

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